【甲操】Walk With Me!

 ヒトの姿形を取り戻してからしばらく。ヒトとして動く感覚、そしてヒトらしい感情を少しずつ取り戻し、ヒトの感覚とフェストゥムの感覚を両立することを覚えた頃。

「なあ甲洋、俺の思い違いだったら悪いんだけどさ。もしかして歩くのめんどくさいとか思ってねえ……?」

 ひと月に一度の定期検診。検査を全て終えて検査着から着替え(今日は検査のみが目的なのでアルヴィス制服には着替えず私服だ)、その最後に。俺はメディカルルームで向かい合った剣司に面と向かってそう言われた。
「そんなことは……ないけど」
「いや、それなら別にいいんだけどよ……この前の出前も空間跳躍で来ただろ。それはまあカレーは冷めてないしサラダも冷たくて美味しかったからいい、でも今日メディカルルーム (ここ)までワープしてきたのはちょっとびっくりしたぞ。美羽ちゃんが先に言ってくれたからよかったけど」
「ああ、それは……ごめん……」
 剣司の言う通り、俺はついさっき自宅からアルヴィスのメディカルルームまで空間跳躍で出向いた。そこには俺と同じくひと月に一度検診を受ける対象になっている美羽がいて、剣司と遠見先生がいて、そして美羽の付き添いで来ていた遠見がいて、全員がどこからともなく現れた俺を見ていた。
『ね?甲洋お兄ちゃん来たでしょ?』
 唖然としている大人たちとは対照的に、美羽だけがあっけからんとした笑顔でそう言ったのだった。
「検査終わった後だったからいいけどよ……」
「本当にごめん……ちょっと気が抜けてた」
「前回言ってたよな、ヒトの感覚に慣れ直すのが大変って。あれは大丈夫なのか?」
「それは、まあ。うっかりコップ握り潰したりとかはしなくなったし」
「それが今度は、気を抜いたら空間跳躍しちまうようになったと。前にもこういうことあったのか?」
「出前の時とか」
「え、あれもかよ?!」
 剣司は寝耳に水といった風だ。俺の事だから効率を重視して空間跳躍したのだと思っていたのだろう。あながち間違いではないのだけど。
「ショコラと散歩してる時は大丈夫なんだけど……」
 剣司は「なるほど」とポンと手を打った。
「それは多分、ショコラと一緒にいる時は『ショコラと一緒に歩く』ことがお前にとって一番重要だからだろ」
「それはいつもの直感?」
「おう」
 剣司の直感が導く答えは昔からだいたい正しい。そして、問から答までの間を埋めるだけの思考をすることが今の剣司には可能だった。
「そうだな……今回の場合、目的が『アルヴィスのメディカルルームに行くこと』、それで今回用いた手段が『空間跳躍』。お前の無意識下で目的の遂行のための手段を選択するにあたり、ヒトの移動手段である『歩行』よりフェストゥムの移動手段である『空間跳躍』が優先して処理されちまったのかもな。竜宮島でも海神島 (こっち)でも、島にいる時の甲洋は基本的にショコラと一緒だから、仕事中かこういう時でもないとそれはなかなか起こらないと」
「……ショコラがいない時は意識して歩こうとしないと歩けない、ってこと?」
「多分な」
「それは、少し……大変だな」
「甲洋はどうしたい?別に歩く代わりに空間跳躍するのでも俺なんかは一向に気にしないぜ」
「島で過ごす時はそうもいかないだろ。それに、なるべくヒトとしての感覚は忘れたくないんだ」
 どんなに緻密にヒトの姿形を構成したとしても、自分の肉体はもう厳密にはヒトのものとは言えない。それでも改めてヒトの形を与えられたのなら、ヒトらしく生きることを忘れたくなかった。
 フェストゥムでありながらも、戦いの外ではヒトとして生きたい。
 それは、ヒトらしい感情を取り戻した頃にようやく芽生えた思いだった。
「……そっか。じゃあしばらく自分の足で歩くことを意識してみろ。それが難しいようならどうすりゃいいか一緒に考えようぜ」
 タブレットからカルテにすらすらと書き込み、剣司は昔と変わらない……けど少しふっくらして来た笑顔でこう言ったのだった。
「お前がそうしたいなら、とことん付き合ってやるよ」
 そうして検診が終わってメディカルルームを出ると、遠見と美羽が廊下に立っていた。
「あれ、まだ帰ってなかったのか」
 剣司の言葉に、遠見は頷く。
「ほら美羽ちゃん」
 遠見に促され、美羽が俺を見上げた。
「あのね、甲洋お兄ちゃんは、まだ新しい足での歩き方と飛び方をちゃんと知らないだけだよ」
 美羽は真っ直ぐに俺を見ていた。ああ見透かされているのだな、と、俺は美羽を見つめ返す。
「新しい足での歩き方と飛び方?」
「うん。美羽は飛べないから……操なら、甲洋お兄ちゃんのこと助けてあげられるよ?」
「え」
 なんでそこであいつの名前が。顔に出てしまったらしく、遠見が「春日井君」と呆れながら窘めてくれた。
「……なんで来主?」
「だって操は、甲洋お兄ちゃんと似てるけど、飛ぶのも歩くのも大好きだから」
 来主は俺と同じくヒトの姿形と個としての心を持ったフェストゥムである。その成立経緯は大きく異なるが、確かに似ていると言えないこともない……かもしれない。
 剣司が「なるほど」と頷いた。
「確かに来主は、身体機能の感覚は甲洋に一番近いかもしれない。ヒトの感覚もフェストゥムの感覚も使い分けられているなら、甲洋の助けになれるかも……」
「それは大丈夫じゃないかな、来主君よくうちの玄関前までワープして遊びに来るし、海岸走り回ってるのもよく見るから」
「あいつコアなのに暇なの?」
「春日井君、来主君にだけは当たり強いね……」
 遠見は呆れ半分おかしさ半分といったふうに笑っている。
「操は飛びたいと思ったら飛んで、歩きたいと思ったら歩いてるよ。操に出来るなら、甲洋お兄ちゃんにもきっと出来るよ」
「……そうか……」
 美羽の言葉が正しいのであろうことは分かる。だが正直、大変に気が進まない。何しろ来主は、一緒にいるだけで振り回されるので疲れるのだ。先代の来主に殺され掛けた時の記憶もあるし、二代目はと言えば何かにつけてきゃんきゃんうるさいしショコラを怖がるし店の冷蔵庫の物勝手に食べるし常識はないし外見に反して中身はただの子供だし、
「なになに美羽ー! 呼んだ?!」
 ほら。
 こうやってこちらの気も一切読まずに(読めるくせに)唐突に現れる。遠見はもう来主の神出鬼没は慣れたものらしく、腰に手を当てて一つため息をついた。来主を呼んだ美羽は、来主の服を引っ張った。
「あのね操、甲洋お兄ちゃんのこと助けてあげて。甲洋お兄ちゃん困ってるの」
「甲洋困ってるの?なんで?」
「うーん……『おはなし』していい?」
「いいよ!」
 来主はしゃがむと、美羽と額をくっつき合わせた。子供同士の戯れに見える何気ない仕草だが、二人の間ではヒトの脳のキャパシティを優に超えた膨大な情報がやり取りされているはずだ。ほんの数秒で美羽から額を離した来主は、しゃがんだまま俺を見上げた。心なしか悪戯っぽく目が輝いている。
「甲洋は今俺がいないと歩けないんだ〜、ふーん」
「操は、飛び方も歩き方も分かるでしょ。だから、甲洋お兄ちゃんに教えてあげて」
「美羽が言うならやってあげてもいいかなー」
 このままでは二人のペースで話がどんどん進んでしまう。
「あの……俺は大丈夫だから」
「いや美羽ちゃんそして来主、甲洋はこう言ってるけどこいつが困ってるのはマジだ」
「剣司?」
「……私からもお願い来主君、春日井君のこと助けてあげて」
「遠見?」
「だって春日井君、こうでもしないと来主君の助け借りようとしないでしょ。意地張ってる場合じゃないよ」
「美羽ちゃんにもバレてるんだぞ。諦めろ」
 幼馴染二人のじっとりとした視線が痛い。
「……剣司、付き合ってくれるんじゃなかったのか」
「いや、俺はこの場合美羽ちゃんの判断が一番正しいと、医者としてそう思う」
 最後の悪あがきはあっさり跳ね返されてしまった。
 横目で来主を見る。俺を見上げている目は、それはもうとんでもなく輝いていた。大方、普段は強く出られない俺相手に優位を取るチャンスが来たのが嬉しくて堪らないのだろう。そういう所が子供だっていうんだ。
 だけど、こうなってしまっては仕方がない。ヒトとしての感覚を忘れたくないとついさっき剣司に言ったのは俺なのだから。
「……分かったよ」
「それじゃ、今日から俺が甲洋の『先生』ね!」
「はいはい……」
 ふふん、と胸を張る来主。もうそれを見るだけで今日のこの後が不安になる。
 ただでさえ一緒に行動する機会が多いと言うのに今からこの恐ろしいハイテンションに丸一日付き合わされる身にもなって欲しい。嫌な顔ひとつしない一騎は聖人なのではないか。
「それじゃ甲洋」
 来主は俺に向けて、元気よく右手を差し出した。
「手繋ご!」
「は?」
 嫌だ。
「ちゃんと口で言ってよ!」
「嫌だ」
「おんなじじゃん!」
「口で言えって言ったのはそっちだけど?」
「あのね甲洋お兄ちゃん、操は甲洋お兄ちゃんが飛ぼうとしたら分かるよ。だから操の手を握って、今日は操と手を繋いで歩いてみて」
 美羽にフォローを入れられてしまい、遠見の目が冷たくなった。五歳の女の子にフォローされて恥ずかしくないの、とその目が何より雄弁に語っている。
 渋々、来主に向けて左手を差し出す。
 来主はすぐに俺の手を取った。思いの外体温が高く柔らかい手が、俺の手のひらをぎゅうと握り込む。
 誰かと手を繋ぐのなんて、いつぶりなのか。
 そう思うと、どういう訳か胸が小さく締め付けられた。相手は来主だけど。
「……甲洋?」
「なんでもないよ」
「それじゃ、どこ行く? どこ行く?」
「どこでもいいし、さっさと慣れて手を離したい」
「なにそれー!」
 来主が頬を膨らませる。すると剣司が「それじゃ」と手を叩いた。
「ちょっとお使い頼まれてくんね?」
「お使い?」
 その言葉を聞いた来主が大きな目を輝かせた。「お使い」。来主が一騎に言われて喜ぶ言葉第三位くらいに入る。ちなみに第二位は「お願い」、第一位は「ご飯」及び「おやつ」である。
「そ、お使い。咲良が妊娠中だから、うちの買い物頼まれて欲しいんだよ。ほんとは今日俺が帰りにやるつもりだったんだけど……」
 剣司は白衣のポケットから折り畳まれた紙片を取り出して広げると、俺に渡してきた。消耗品に野菜、お菓子、魚が咲良の字で書き連ねてある。
「わかった。直接家まで届ければいい?」
「おう、出来れば生ものを冷蔵庫にしまうところまで頼む。咲良には俺から伝えとくから」
 買い物メモを見ながら、最短ルートを頭の中でなぞる。最初に買うとしたら傷まない消耗品から、
「あっ、ダメだよ甲洋」
 ぎゅ、と来主が俺の手を強く握った。
「え?」
「今飛ぼうとしたでしょ?」
「え……本当に?」
「うん」
 剣司が俺を見る目を細めた。
「甲洋、今空間跳躍しようとしたか?」
「いいや、全く……」
 俺はただ消耗品を買える店を思い浮かべようとした、それだけ。ワープしようという意識はどこにもなかった。俺すら気付いていないそれを来主は感知して、来主の力で干渉して抑え込んだのだ、美羽がああ言った意味がよく分かった。
 今の俺には、来主が必要らしい。
「あっ甲洋今俺の事褒めた!褒めたでしょ!」
 うるさいよ。
「あー、なるほど。直に見れてよかったぜ。やっぱ感覚掴めるようになるまでは来主と一緒にいた方がいいかもな。頼んだぞ来主」
「うん! まっかせて!」
 来主が俺と握っている方の手をブンブンと振った。勢いが強すぎて若干肩が痛い。
「真矢お姉ちゃん、美羽も操と甲洋お兄ちゃんと一緒に行きたいよー」
「だーめ。美羽ちゃんはこれから学校でしょ」
「はーい……」
「また今度遊ぼうね、美羽!」
「うん!」
「それじゃ、私と美羽ちゃんはもう帰るから」
 遠見が美羽の手を握った。そして俺達を見て、くすりと笑う。
 やっぱり来主君と一緒にいる時の春日井君、楽しそう。
 遠見の声が、はっきりと聞こえた。
「二人とも頑張ってね」
「じゃあね操、甲洋お兄ちゃん!」
 遠見と美羽は、一足先に帰っていった。廊下の曲がり角で見えなくなる前に美羽が手を振ったので、来主が俺の手ごと手を振り返した。だからどうしてそっちを振る。
「それじゃ二人とも、買い物頼んだぜ」
 剣司が俺達の方を振り向いた時、ふと気付いてしまう。
「……待って、ここの中ならともかく……手を繋いだまま歩くの? 地上を?」
「気付くのおせえぞー」
「ほら行こうよ甲洋!」
「…………」
「あっそれと買い物用のバッグとお金な! 取ってくるからちょっと待っててくれ」
 剣司はメディカルルームとは反対方向の、恐らくロッカールームへと小走りで行ってしまった。
 剣司の戻りを待つまでの間、広い廊下に取り残されたのは手を繋いだ俺と来主の二人きり。
 ……もうどうにでもなれ。

 ***

「……いらっしゃいま、せ……?」
「こんにちは……」
「こんにちはー! 栗羊羹くーださーいなー!」
 なぜ買い物ルート内によりによって後輩の実家である和菓子屋が含まれているのか。そして、後輩が店番をしているのか。
 菓子箱の並んだケースの向こうに立っている零央が「俺はどんな顔で接客すればいいんだ?」とでも言いたげな顔をしていた。気持ちは分かるよ。
「……えっと、なぜ先輩と来主さんは……」
「零央、今日平日なのに店番なんだ?」
 見なかったことにしてくれると嬉しいかな。
「あっはい……あ、今日は高等部は授業ないんですよ」
「そうなんだ」
 俺と来主のこれはやむにやまれぬ事情があるからまかり間違ってもデートじゃないけどもし理奈と錘がデートで店に来た時はあんまり驚くとかわいそうだからやめてやりなね。あと栗羊羹を一本ください。
「は、はい! すみません! 栗羊羹ですね!」
「もー甲洋、零央にまで心に話しかけちゃダメだよー。零央ももっとビシッと言ってやっていいからね、甲洋にこにこ笑ってるように見えるけど意地悪ばっかりなんだからさー」
 来主が何やら言っている間に一旦手を離し、剣司から預かった財布から支払いを済ませる。零央はいそいそと栗羊羹を紙袋に入れてくれた。
「そんなことないですよ、先輩は優しいので。まあびっくりはしましたけど……」
 零央は紙袋をまだ手が空いている来主に手渡した。来主は「ありがとー」とにこにこ笑って袋を受け取った。ちなみに俺の手は買ったばかりのキッチンペーパーとアルミホイルが入った買い物バッグで埋まっている。これから野菜と魚がこの中に入る。
「甲洋、次どこー?」
「八百屋。トマト二個とキュウリ二本玉ねぎ三玉」
「お買い物ですか?」
「剣司と咲良のお手伝いだよー」
「なるほど、近藤先生の」
 しかしなぜ手を繋いでお手伝いを……? と零央は聞きたがっているようだったが、何も言わないでくれた。いい子だ……。
「先生に、よろしく言っておいてください。ご来店ありがとうございました」
「うん、それじゃあ」
「じゃーね零央! あっほら甲洋! 手!」
「はあーっ……」
「もう、すぐワープしようとしちゃダメ!」
 ぎゅっと握られた手と手の間が奇妙に温かく感じて、ひどく調子が狂う。
 先輩達仲いいなあ。
 店を出る時、零央の心の声がはっきり聞こえてきた。別に仲良くはないってば。
「ねー甲洋、零央には俺達が仲良しに見えてるよ」
「はいはい、そうだね」
「俺も最近甲洋と遊ぶの結構楽しいよ!」
「遊んでやった覚えはない」
 早く一人で歩けるようになろう。
 それから俺達は、野菜と魚を求めて商店街の中心部の方へと足を進めた。そして困ったことがひとつ判明した。
 来主は、商店街の人達にとんでもなく可愛がられていた。
 歩くだけであちこちの店から声を掛けられる。操君今日は甲洋君とお買い物かい、羽佐間先生はお元気ですか、などなど。そして来主は満面の笑顔でその全部に応えていた。
 幸いにも来主と俺が手を繋いでいることは、まあ操君だしな、とか、羽佐間さんに頼まれたんだろうなとか、そういう理由で納得されていた。商店街の人達は来主の中身が未就学児も同然であることをよく分かっている。
 来主は先代の時点で総士の知識をほとんど全て引き継いでおり、今の来主は先代の記憶と知識を受け継いだ上にボレアリオスのコアとして活動している故に知能も高い。かつて竜宮島をフェストゥムの使者として訪れた者であるが(厳密にはその生まれ変わりなのだがそこまで知る者はアルヴィス外部ではそう多くない)、現在では島を守るファフナーパイロットの一人である事も島民には知られている。それでも性格はどこまでも子供らしく幼く、だがそれらのアンバランスも「そういうもの」として自然に受け入れられているようだった。
 ただそこにいて無邪気に振る舞うだけで、誰からも愛される。それは昔の俺ならひどく羨んだであろう一つの才能とも思えた。
「ここには羽佐間先生とよく来るの?」
「うん!」
「……そう」
 羽佐間先生の人柄もあるだろうけど、来主と羽佐間先生は仲良くやっていることが伺えて少しほっとした。来主が羽佐間先生をお母さんと慕い始めた頃はどうなるかと思ったけど。
 ……羨ましい。
 そう思った瞬間、心臓を起点に体のうちが急激に冷えていく心地がした。凍り付いた体のうちの温度はあっという間に体表面をも冷たくしていく。
 来主が俺を見上げた。
「甲洋、今手がひんやりした。どこか痛いの?」
 羨ましい。誰が? 来主が。
 どうして? ただそこにいるだけで誰からでも愛される才能を持つ上に、優しい『お母さん』と出会って──ヒトだった頃の自分が望んでも得られなかった物を無邪気に無自覚に享受しているから。
 ああそうか、と腑に落ちる。
 ようやく戻ってきたのか。羨望と嫉妬、そんなどうしようもない感情が。
「……なんでもないよ」
 少しだけ、来主の手を握る力が強くなってしまった。
 羨ましい。羨ましいんだよ、お前のこと。
 でもそんな事考えるな、考えてもどうしようもない。
 来主に言ったところでどうにかなるようなことじゃないし、来主を羨んで何かが変わるわけでもない。これは俺の心の持ちようの問題だ。
 自分にそう言い聞かせながらも、来主を羨ましいと思う程には俺にもまだ親への未練が、親に愛されたかったという思いが残っていたのかと、少し驚いてしまう。
「ねえ甲洋、大丈夫?」
「何が」
「さっきから痛そう……でも俺には甲洋がなんで痛いのか分からない、甲洋が隠すから」
「……平気だよ」
 なんで隠すの、と僅かに棘を含ませながらも、来主は心の底から俺を心配していた。来主の顔も心も、物語るものは全く同じ。その顔を見ていると、冷えた胸の内の温度が緩んできた。
「んん〜……そうだ甲洋、お使い終わったら、里奈のお店行っておやつ買って食べよーよ!」
 こういう慰め方(?)をしてくる辺り、来主が日頃どうやってメンタルコントロールをしているのかがよく伺えた。
 その気持ちが嬉しくないと言えば嘘になる。だが来主の言う行先は問題だった。
「やめて。この状態で後輩の店に行きたくない」
「なーんでー!」
 ぎゃんぎゃん言う来主を適当にあしらいながら、八百屋や魚屋を周る。商店街の人達の目はどこまでも温かく、操くんに男の子の友達が出来てよかったなあ、なんて心の声がよく聞こえてきた。まさか本当に日頃美羽としか遊んでないのかこいつは。
 春日井君と手を繋いでいるあの子何……?! 羨ましい……春日井君と手を繋ぐなんて……! なんて心の声も聞こえてきた。聞こえて欲しくはなかった。
 頼まれていた全ての買い物を終えて、来主の手を握り直す。
「早く剣司と咲良の家まで行くよ」
「はーい! あっほら甲洋だーめ!」
 来主の手を握ったまま商店街から少し歩けば、剣司と咲良の家に辿り着く。
 『近藤』と表札の掲げられた家の門をくぐる。来主が元気よく声をあげた。
「ただーいまー!」
「お前の家じゃないけどね」
「はいはい、お帰り。無事帰ってきたな」
 玄関の扉を開けてくれたのは、剣司だった。先回りでもしていたのだろう。そんなところだろうとは思っていた。
「零央がよろしくって」
「ああ、そういや今日は高等部休みだったな……とりあえず冷蔵庫に入れるのは俺がやるから、アイスでも食ってけ。あーそれとアイスの前に手洗えよー」
「アイスあるの?! 食べる!」
 はしゃぐ来主の手が俺から離れた。離れていく体温がほんの少し惜しい。なぜそんなことを思ってしまうのかは分からない。
 剣司の案内で台所まで直行して、荷物を下ろす。
「アイスはイチゴ、バニラ、クッキーアンドクリーム、チョコがあるけどどうする?」
「俺イチゴね!」
「俺は、……クッキーアンドクリームで」
「はいよ」
 手を洗って、剣司から渡された個包装のアイスキャンディーを手に居間に足を踏み入れる。大きくなり始めたお腹をさすっている咲良が縁側に腰掛けていた。
「こんにちは、さーくら!」
「お邪魔してるよ」
「はい、いらっしゃい。こっち座りなよ」
 勧められるまま、咲良の隣に腰掛ける。来主は俺の隣に座った。来主が嬉々として棒アイスを頬張りはじめている間に、咲良に声を掛ける。
「調子はどう?」
「全然元気。ありがとうね、手伝わせちゃって」
「いいよ、俺のためでもあるから」
 俺もアイスの包装を剥がして口に運ぶ。冷たい。それと、甘い。
「あんたの方こそ、調子はどうなの?大体のことは剣司から聞いたけど」
「そのうち慣れると思う」
「ふぇふぇふぇー、ふぉえのふぉふぉふぉっふぉほふぇへふぃいんふぁお!」
「はいはいすごいすごい」
 言葉で話したいなら口に物を入れながら話すのやめな。
「甲洋、今なんて言ったのこの子」
「俺のこともっと褒めていいんだよって言ってた」
「うん、それは本当にすごいよ操、偉い偉い」
「むぐ……さっすが咲良、わかってるー!」
 口の回りをアイスでべたべたにしながら、来主はにこにこ笑っている。
「あのさ来主、口の周り凄いことになってる」
 俺が指摘してやると、咲良が呆れ笑いと共に居間の方を指した。
「ティッシュならあっち」
「借りるよ」
 立ち上がって、食卓の上に置いてある箱のティッシュを手に取る。
「ほら来主、こっち向いて」
「む~」
 ティッシュで来主の口の周りを拭ってやっていると、咲良の心の声がはっきり聞こえてきた。
「……なんかあんた達、兄弟みたいだねえ」
 口にした言葉はそっくり同じ。
「剣司もそう思うでしょ?」
「まあなあ」
 片付けを終えた剣司が咲良の隣に腰を下ろした。
「来主といる時の甲洋、なんか楽しそうだもんな」
「……遠見も言ってたし、一騎にもよく言われる」
「そりゃ言うさ。来主と話してる時の甲洋、やけに生き生きしてるっつーか」
「おまけに昔から一緒に遊んでたあたし達も見たことないような顔してる」
「気のせいだよ」
「気のせいじゃないよ、あんたが一番分かってると思うけど」
「認めたら来主が余計調子に乗るから」
「ほら、そういうこと言う辺り」
 あんたが一番分かってるんでしょ?
 お前が一番分かってるだろ?
 二人の目は、そう言っていた。
 そう、分かってる。分かっては、いる。
 来主と一緒にいると、感情の思いがけない部分が動かされる。ヒトの体を改めて得たばかりの、島を仲間を守るという意志を何よりも優先してヒトらしい感情がほとんど戻って来ていなかった頃の俺の感情を、どういう訳か来主は簡単に揺さぶってのけた。今だってそうだ。来主がいなければ、嫉妬や羨望なんて感情思い出せたかどうか。来主がいなければ俺が感情を取り戻すのはもう少し遅かったかもしれない。
 ただそれを認めるのはなんだか胸の内がもやもやする。率直に言って少し気に食わない。
 好きになれないから別の場所へ行けと言われたことに若干苛立ったのが最初だったからだろうか。
「……退屈ではないよ。目を離すと何しでかすか分からないし」
 自分で認められるのは、今の所ここまでが限度だった。そしてそれは剣司も咲良も察しているようで、帰ってきたのはからりとした笑い声。
「ま、甲洋がそう言うならそれでいいんじゃない?」
「俺達も割と楽しいしな、お前達見てるの」
「ねえー、三人とも何の話してるのー?」
 蚊帳の外に置かれていた来主が唇を尖らせた。いつの間にかアイスを食べ尽くしたらしく、手には棒だけが握られていた。
「来主は聞かなくていい話」
「何それえ」
 来主が頬を膨らませる。
「甲洋、アイス溶けてる」
「えっ」
 咲良に言われて、一口食べてからそのままだった自分のアイスが溶け始めている事に気が付いた。急いで舐め取りながら口に運ぶ。棒を伝って指まで垂れてきたアイスも慌てて舐める。こういう時同化で一息に「食べて」しまえれば楽なんだろうけど。いや友達の家でそれは駄目だろう。そもそも俺は同化能力は捨てたんだから。
 ふと、心の内に来主の声が響いた。
 ──どうしよう、甲洋がかっこいい。
 その声はまるで済んだ水槽に投げ込まれたシーグラスに陽の光を当てた時のように、きらきらと輝いていて。
「……はい?」
 読心を使うまでもなくはっきりと心に届いてきた言葉に、思わず来主を見る。来主は慌てた風にぷいとそっぽを向いた。
「な、なんでもないよーだ」
「……?」
 かっこいい。かっこいいって言った、今? なんで?
 訳が分からないまま、棒に残った最後の一口のアイスを舌で掬い取る。
 来主はそっぽを向きながらもこちらをちらちらと見ていた。意味が分からない。
「……ん。アイスごちそうさま」
「どういたしまして。ほれ、ごみ箱」
 剣司がごみ箱を持って来てくれたので、その中にアイスの棒を捨てた。それから少し手が汚れてしまったので、洗面所を借りて手を洗う。
「あまり居座ってても悪いからそろそろ帰るよ」
「ええー、もう帰るのー」
 来主はまだここにいたいようだった。きっと好きなんだろう、この家が。二人が住み始めて間もないのに、この家は剣司と咲良の優しい記憶が溢れているから。
 俺もこの家は好きだが、友達の家と言えど長居しては悪い。
「帰るよ、夜は店開けるんだから。一騎だけに開店準備させるの悪いだろ」
「はーい」
 来主は不服そうだったが、一騎の名前を出せば来主は素直に言うことを聞いてくれる。
 咲良がにこりと笑った。
「いつでも遊びに来な。この子が生まれたら一緒に遊んであげて」
「うん!」
 縁側から立ち上がって、咲良に手を振る。
「それじゃあ、体に気を付けて」
「あんたもね」
「じゃあね咲良!」
 まず咲良に別れを告げ、玄関へ。玄関からは剣司が見送ってくれた。
「じゃあな、気を付けて帰れよ」
「色々ありがとう、剣司」
「気にすんなって」
「じゃあね!」
 玄関に立つ剣司に向けて来主は大きく、俺は控えめに手を振った。そして近藤家に背を向けてすぐに、来主は俺の手を掴んだ。初めはあんなに落ち着かなかった筈の来主の手の感触が、今となってはやけに手に馴染んでいた。
 「楽園」へと足を向けながら、来主が俺の顔を覗き込む。
「ねー甲洋」
「何」
「俺結構楽しかったよ、甲洋と歩くの」
「そう」
「甲洋は楽しかった?」
「……助かったよ」
「俺は『楽しかった』か『楽しくなかった』かを聞いてるのー」
「退屈はしなかったかな」
「うーん……あっ! それ、総士が、楽しかったけどそれを素直に言いたくない時に使う言い回しだ。つまり、楽しかったって事だよね!」
「そういうことでいいよ、もう……」
 俺しかいないからまだいいものの。来主を介して総士の思考回路が白日の下に晒されていることに、俺は若干同情した。
 それにしても来主は「言い回し」の概念を習得したのか。言葉の表面だけでなくそこに含まれる意味を汲み取る事を覚え始めたと。あくまで総士の思考回路をマニュアルとしているから、それに従うパターン的な物ではあるようだけど。
 ついでに、総士みたいな若干面倒くさい思考回路をするのなんてそれこそ総士しかいないから、それを来主が果たして実用的に応用出来るのかは怪しいところではあるけど。
「明日も俺と歩くよね?」
「そうなるのかな……」
 ショコラには悪いけど、朝夕の散歩以外の時間は家でお留守番してもらうか羽佐間先生に預かってもらうしかないだろう。
「そしたら明日はどこに行くっ?美羽の家でもいいし、あっそうだ、釣りとかお買い物とかー」
「……来主は随分楽しそうだね」
「うん、楽しいよ!だって俺、甲洋と手を繋いで歩くの初めてだからね」
「ああそう……」
「甲洋の手は大きいね」
「それはどうも」
「だからきっと君の手を握ると安心するんだ、一人の俺が、一人じゃなくなるみたいで」
「来主は一人じゃないだろう」
 俺の知る来主操は、いつでも誰かと一緒にいる。異質ずくめの存在でありながら、それもこの島ではなんとなく受け入れられて、いつでも楽しそうに笑っている。
 だが来主は、「そうじゃないよ」と首を横に振った。
「俺という個は、存在している限り一人だよ。本来の俺達は、俺達が俺で、俺が俺達でしょ?」
「……そうだね」
 フェストゥムとは本来、全体が統一思考の下で動いている。複数の個体がいるように見えても、結局は統率された思考の下で動く群れ。それはどこか、女王蜂を生かすために一つのコロニーを形成してその意思の下でしか生きられない蜂の生態に似ている。俺達のような存在はとびきりのイレギュラーだ。
「その中で初めて空が綺麗だって、俺はここにいるんだって思ったのが、前の『来主操』。でもね、俺も覚えてるんだ。急に皆と違う何かになるのって、すごく怖いんだよ。それが前の存在が持っていた、生まれる恐怖。だから前の存在は、俺と同じように空が綺麗だって思ってくれる総士の存在を守って、竜宮島の人達を理解しようと思った。理解すれば、自分は一人じゃないって思えるからね」
「……寂しかった、ってこと?」
「寂しかったのかなあ。そんな感情、前の存在は持ってなかったと思うよ。前の存在にはずっとミールっていう神様がいたから。それでもミールには前の存在が考えてることは理解してもらえないから、前の存在はそう思い込んでいたから、どこまでも絶対的な一人だよ。だから、一人でいるのが怖いって不安はあった」
 ヒトらしい自我を得た事で、本来いるべき場所から切り離される、誰とも共有することの叶わない孤独。フェストゥムとは言え元々ヒトである俺には想像の及ばない恐怖だ。先代の来主が抱えていたというそれを今の来主は淡々と、何でもないことのように語る。
「それは、生まれることへの恐怖。俺は、前の存在に望まれて生まれたことが嬉しいけど、前の存在がずっと持ってた、一人でいるのが怖いっていう気持ちはなんとなく分かる。だけど、どうしても俺は一人なんだって思うし、だからこの島で誰かとお話してる時は楽しいし、今みたいに手を繋いでると安心するんだ。ね、ヒトって、一人だから別の存在を理解して、別の存在と調和できる生き物でしょ? 俺はそれがとっても不思議で、だから楽しいんだ」
 来主の語るそれは、寂しさとよく似た、けれど全く違う何か。
 言うなれば、個であることに対する好奇心だ。
「ね、甲洋。君は、一人が怖くないの?」
 一人になることへの恐怖。それは、昔の俺に付きまとい続けていたものではある。一人になることが怖くて、俺は誰からも嫌われまいとしていた。そのために、子供なりに出来ることはなんでもやった。嫌われないための笑い方も立ち居振る舞いも、全て計算づくで身に着けた。言わばそれが俺の生存戦略だったのだ。それで親に俺を見てもらえるなんてことは、なかったけど。
 そして今の、島に改めてヒトの姿形を与えられた俺を、仲間や島の皆は喜んで迎えてくれた。嫌われない努力などしなくても、島には俺の居場所があって、俺は一人じゃない。そう思わせてくれた。
 だけど。もし、本当に一人になる時が来たとして。俺はきっと、一人になろうと構うことなく島と仲間を守るために戦い続けるだろう。そう確信があった。そのための力だ、自分の感情に構う余地などない。それでも、友達も仲間も誰もいなくなって、己の意思だけで島のために戦い続けるのは、きっと。
「……怖くはないよ。寂しいだろうなとは、思うけど」
 でもその寂しさはきっと、俺が戦うことを止める理由にはなり得ない。寂しさが戦いの手を止めるようなら、俺はきっと自分から感情そのものを削ぎ落とす。
「怖くないけど寂しい……前の存在と逆だね。俺は怖いし寂しいよ」
「寂しいとは思うんだ」
「うん。美羽とお母さんに教えてもらったんだ。夜になったら皆寝ちゃって、そんな時は誰も俺と一緒にいてくれないから胸がしくしくするんだけど、それが寂しいって感情なんだって。言葉としては知っていたけど、自分でその意味を実感したのは初めてだったから、びっくりした! それで俺は、一人が寂しいんだって理解したんだ」
 個であることに対する好奇心と、個であることに対する寂しさは、来主の中では当たり前に共存しているものだという。
「でも一人だから、俺は毎日お母さんと一緒にいられるし、美羽やそうしと遊べるし、一騎カレーも食べられるし、甲洋と手を繋げるし、空を綺麗だと思う。そう思ったら、一人って悪いことじゃない。夜の間寂しいのも、ちょっと我慢して朝になれば、また皆に会えるしね! それにほら、夜の空も綺麗だし、島の猫達と遊べるんだ!」
「……そう」
 一人である事は、今の来主にはさして大きな問題ではないようだった。来主は来主なりに今の生活を楽しんでいる。
 それにしても、ショコラは苦手なのに羽佐間先生の家のクーをはじめとする島の猫達は大丈夫だって言うんだから。ショコラが苦手なのはいよいよ総士譲りなんじゃないのか、こいつ……。
 ふと、先の会話の中で引っかかった事を尋ねてみる。
「来主、夜は寝てないんだ」
「うん。俺には睡眠の習慣はないし、ヒトの人体構造を限りなく正確に模してるけど構成物質はあくまで珪素だから、寝なくても食べなくても問題ない、って千鶴にも言われたよ」
 確かに、ヒトの精巧なレプリカと言えど純粋なフェストゥムである来主に睡眠や食事は必要ないものだ。俺のように元々その習慣があったわけでもない。
「でも食べるのは好き!」
「それは見てれば分かる」
 来主は必要もないはずの食事を好き好んで三食きっちり摂っている。おやつを食べているところもよく見る。食事という行為が趣味なのかもしれない。
「睡眠は、よく分かんないや。眠ったことがないし眠り方も分からないし、甲洋みたいにSDPの副作用で眠くなったりもしないから。眠くなるっていうのがどういうことか、総士の知識や甲洋達を見て知ってはいるけど、理解は出来ない」
「夜が寂しいなら、いっそ眠り方を覚えてみるのもいいかもよ。来主の体は人体を限りなく正確に模して出来ているから、眠ることも出来るはずだ」
「甲洋は普段寝てるの?」
「余裕がある時はね」
「ええーっ!」
 ヒトの習慣の延長で、眠るだけの余裕がある時はなんとなく眠るようにしている。眠れば翌朝の脳のコンディションもすっきりする気がする。気の所為なのかもしれないが、暗示というものは存外よく効く。
「眠る習慣のない来主は、そこまでする必要はないかもしれないけど。ヒトをもっと理解したいなら、ヒトと同じように生活してみることも一つのやり方だよ」
「……それじゃ甲洋、俺に眠り方を教えてくれる?」
「教え……それは……」
 来主の思いがけない問いに、口ごもってしまう。
 眠り方など、そう簡単に教えられるものなのだろうか。
 ヒトの本能として眠ることを最初から知っている俺と来主では、睡眠に対するアドバンテージの差がありすぎる。それ以前に睡眠に対するアドバンテージってなんだ。
 でも言い出したのは俺だ。そして来主は、非常に好奇心が旺盛なのだ。ヒトの行いに対して抱いた好奇心であれば、それはいくらでも持続する。
「ねえねえ、俺にも眠り方を教えてよー! えーっと……ほら、俺は今、甲洋がちゃんと歩けるように助けてあげてるんだから、その代わり俺が眠れるようになるよう、甲洋が助けてくれてもいいよねっ?」
 交換条件。そう来たか。
「……考えておく」
「わーい! ありがと、甲洋!」
 来主は俺と手を握り合っている方の腕に抱きついてきた。急に片側が重くなったものだからバランスが崩れて、慌てて自分の体を元の場所へと引っ張り上げた。腕全体に来主の服越しの体温が伝わってくる。
「危ないからやめて」
 なんて言いながらも、どういうわけか頬が緩んでしまう。
 ああ、これじゃまるで、本当のデートかなにかみたいじゃないか。そんなつもりはまるでなかったのに。
 来主から向けられる好意はあまりに真っ直ぐで、それが俺の表面上ではなく中身もよく見た上で向けてくるものだと分かってしまう分、心の芯にあっさり届いて心臓を蕩かすように締め付ける。
 そうだった。俺は昔からこうやって、俺の取り繕った上っ面をろくに見ないようなやつに弱いんだった。だからあの頃一騎達と一緒にいて楽しかったんだ。まあ、来主には文字通りに中身を見られているわけだけど。
 じゃあ少しくらい、来主に応えてみるのもいいのかもしれない。そう思った時、来主の大きな目が、俺を見上げてにっこりと笑った。
「勝手に心を読まないで」
「ええー、だって今の甲洋心に壁作ってないよー」
「心を読まないで言葉で話そうって最初に言ったのはそっちだよ」
「だーってえ、あの頃の甲洋はすぐに心を読んできたでしょ」
「じゃあなんで今は俺の心を読んでくるわけ」
「甲洋だしいいかなーって」
 これは同族として心を許されているということなのか、単純に舐められているのか。前者だろうな。
 俺の自宅でもある喫茶「楽園」海神島店の前まで辿り着いた。店内の明かりはついている。一騎が仕込みを始めているのだろう。
「俺はもう開店準備に入るけど。来主は一回帰らなくていいの?」
「そうだった! お母さんに行ってきますって言ってくる!」
 来主が俺から手を離した。今度こそ、来主の体温が離れていく。二人だったのが、一人になる。一人が怖くて寂しい、と来主が語っていた事を思い出す。
「それじゃ後でね、甲洋!」
「うん、また」
 来主は空間跳躍は使わずに、走って行ってしまった。
 その背中を見送りながら、「楽園」と家(この場合は港に停泊している空母ボレアリオスではなく羽佐間家邸を指す)を結ぶ道が好き、と来主が以前に語っていた事を思い出す。来主の背中が見えなくなっても、俺はしばらく来主の言葉を反芻していた。
 道が好きだから自分の足を使って行き来する、か。海神島に来てから無意識に空間跳躍するようになったのは、この島がまだ俺にとって異邦の土地であるということもあるからなのかもしれない。島の道は全て覚えたが、生まれ育った島と比べてしまえばまだ馴染みは無い。
 なら明日は、来主と一緒に島を一周してみるのがいいかもしれない。いずれ竜宮島に戻るのだとしても、しばらくこの島で生活することに変わりはないのだから。
 道路に背を向けて、店に続く石段を踏み締めた。歩くことを意識しながら、一段、もう一段と。
 石段を上り切って、もう一度来た道を振り返る。ほどなくして、この道を来主が走って戻ってくるのだろう。誰もいない道を海風が通り抜けて、潮の香りは俺の元にも届いた。
 この後またすぐに会うことになる来主に明日の予定を告げるのを、ほんの少しだけ楽しみにしている自分がいた。

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ファフナーのキャラみんな好きなので隙あらば誰か出したくなります。