「……これで結界は完成と見て良いだろう。定期的に検査の必要はあるので、しばらくは二日に一回を目処に私のところに来てもらう」
結界の作成に着手してからおよそ二ヶ月。
朦朧とした意識の中で、雨竜は竜弦のその言葉を聞いていた。
それを聞いて、安堵と落胆が同時にじんわりと胸中に広がっていく。
今日で最後。つまり今後、もう父に抱かれることで自分の異常性を自覚しなくて済むし、父に抱かれて満たされることは出来ないのだ。
(ならいっそ、全てぶち撒けてしまおうか)
揺蕩うような意識の片隅に、その思い付きは悪魔の囁きのように現れた。
意識がクリアになるに連れて、それは少しずつ膨らんで存在感を増していく。
(僕がどうかしてるからなんだ。僕が何を言ったところで、竜弦は僕の存在を拒めない)
自分が卑怯なことを考えているという自覚はある。だが、同時にこうも思うのだ。
(やっぱり今回に関しては、竜弦だけが罪悪感を抱える必要はないって伝えないといけない)
とは言え、正直に全てを告白したところで竜弦にそれが伝わるかどうかは賭けになるが。
浴室の方から竜弦が戻って来るのをぼやけた視界の中で見ながら体を起こし、体を引きずってサイドボードの方に手を伸ばして眼鏡を掛けて水を飲んでいると、ちょうど竜弦がバスタオルを持って来た。
受け取って、バスタオルで全身を覆い隠しながらバスローブを脱いでのろのろと汗や体液を拭う。この後すぐ入浴するとは言え、風呂の湯が湧くまでの僅かな時間でも体が汚れたままなのはどうにも我慢が出来なかった。
全身を拭き終えてから、バスタオルで全身を隠したまま竜弦の方を見る。
竜弦は雨竜から少し離れた位置に座りながら水を飲み始めた。飲み終えるのを待ってから口を開く。
「……なあ、竜弦」
「なんだ」
流石に緊張で鼓動が早くなる。それをなんとか押し隠し、努めて落ち着いた声で、たった今用意した言葉を告げる。
「僕、あんたのこと好きみたいなんだ」
「…………」
ぎぎ、と音がしそうなほどぎこちない動きで、竜弦が雨竜の方を振り向いた。
目を見開き、信じられない言葉を聞いた、とでも言いたげな顔をしている。竜弦がここまで何を考えているのか分かりやすい顔を見せるのは珍しい。
「……今、なんと」
声も震えている。
「多分好きなんだよ、あんたのこと」
言っているうちに後悔が怒涛のように押し寄せて来た。こちらだって言っていることの異常性は理解しているんだから何度も言わせるな、と叫びたくなる。
「……お父さん大好き、という意味ではなく?」
そう聞いてくる竜弦の混乱も察するに余りあるが、
「あんたの中の僕はそういうこと言うのか……?」
あれだけ嫌われるような言動をしておいて、もうすぐ十八になる息子を何だと思っているのか、と呆れてしまう。百歩譲って未就学児の頃なら言ったかもしれないが。
「今の僕にそういう愛嬌は期待しないでくれないか……いやそこはどうでもいい、そういう意味で言ったんじゃないんだから」
真っ直ぐに竜弦を見て言う。
「……つまりお前は」
「うん」
「私と親子ではない関係になりたいと?」
「それは……」
思わず言葉に詰まり、必死で頭を回転させる。
違うのかもしれないという気がするが、そうかもしれないという気もする。
子としての父への愛情が無いわけではなく、親子であることをやめたいわけではない。それは雨竜にも分かる。ただ、親子ではない関係になりたいのかと問われると。
(僕が望む竜弦との関係性の形とは、何なのだろうか)
雨竜の中に芽生えた竜弦への愛情は、抱かれたいと触れられたいと、共に眠りたいと願うその思いの正体は、子としての親への愛情ではない。ただ、一人の人間として……
(ああ、そうか)
初めての心の動きの正体に、ようやく気付く。
「……僕は、僕のために父親として苦しむことを選んだあんたに、恋をしてしまったんだと思う」
物語の中で、あるいはとある男に恋をしている友達を通してしか触れたことのなかったその感情の名前を付けてみると、ひどく腑に落ちた。
「だから、親子であることをやめたいわけじゃない。けど、親子では本来なり得ない関係にもなりたいのは、事実かもしれない」
全て言葉にした時、胸の中につかえていたものが雪のように融けていくような心地がした。そして同時に猛烈な恥ずかしさも込み上げてきた。これを本当に言うべきだったのか、言ってから自信が急速に萎んでいく。
意識的に自分と距離を取っている節のあるこの父親が、このような告白をされて混乱しない筈がない……雨竜がそう考える一方で、雨竜の答えを聞いた竜弦は黙り込み、そしてベッドの縁に腰掛けたまま深々と項垂れた。
「……少し待て。考える」
くぐもった呻くような声を最後に、しばし沈黙が続いた。
竜弦の丸まった背中を見て、父が自分の前でここまで深く悩み込んでいることを少し意外に思う。この父のことだから、混乱していようとほとんど反射的に拒絶の態度を示すであろうと思っていた。
だが竜弦が真剣に悩んでいること自体は自分には喜ばしいことの筈だ、と。雨竜は黙って竜弦の言葉を待つことにした。
やがて竜弦はこう言った。
「……二年だ」
「?」
竜弦は頭を垂れたまま、深々とため息を一つ吐き出した。
「二年待て。お前が成人しても思いに変わりがないようなら、……考えてやらんでもない」
「竜弦」
「……なんだ」
「もう法律上では十八歳から成人なんだけど」
軽く重箱の隅をつついてやると竜弦は顔を上げ、じろりと雨竜を睨んだ。
「黙れ、二十年も生きていない若造がにこれ以上この件についてに私に意見しようとするな」
「…………」
つまり逃げたんだな、と雨竜は竜弦を睨み返す。
雨竜自身の命のために必要な行為だったとは言え、「肉体関係を結んだ父親と未成年の息子」というどこをどう切り取っても倫理の外である件をこれ以上進展させたくないという気持ちは雨竜の立場からでも汲み取れないこともない。それに最も傷付いているのが竜弦本人であることも無論理解している、ものの。
父のこの逃げ癖のようなものはどうにかならないのかと、流石に思ってしまう。
だがそれを正直に口に出してしまえば双方売り言葉に買い言葉で話が拗れる羽目になるのは経験上目に見えている。それに今回ばかりは父の心境を斟酌してやるべきだろうと理性が訴えていた。
「……分かった。ニ年後の僕の誕生日だな」
明確に期限を設定してしまえば、父は逃げられなくなる。こちらとてもう退くに退けないないのだ。
一方で竜弦の表情は微かに緩んだ。雨竜が条件を呑んだことに安堵したらしい。
「分かったなら二年の間によく考えておけ。それが単なる勘違いである可能性があることを」
「仮に勘違いだったら、あんたはどうするんだ」
「全て忘れてやる。……お前も全て忘れろ、これ以外の手段を取れなかった私に非があるということで私を責めても構わん」
口調こそ普段とそう変わりないものの、忘れろと言った時の竜弦の顔は僅かに強張っていた。雨竜はそれには見なかった振りをしてやりながら肩をすくめる。
「ならそうする。でも責める気はない」
施術の前に根拠となる文献を雨竜の目の前に投げ出し、代替となる手段が見付からない故にこの方法しかないことを無表情で淡々と説明していた時から、竜弦は施術の実行を恐れていた。雨竜はそんな竜弦を責めたくはなかった。たとえ本人が責められることを望んでいるとしても。
「あんたは僕のために出来ることをしただけだ。僕だって最初に全部聞いた上で同意しただろ。何年経とうと、僕があんたに護られた事実に変わりはないさ」
(そこまでされてしまっているのだから案外、竜弦に恋をしているという勘違いをしてしまっても已む無し、なのかもしれない)
無論、雨竜の方に勘違いのつもりはないのだが。
雨竜の言葉を聞いた竜弦は溜息と共に「そうか」と呟くと、また一口水を飲んだ。
そこでタイミングよく、浴室からバスタブの湯が沸いたことを知らせるチャイムが響く。
「この話はここまでだ、さっさと風呂に入って寝ろ。それだけ元気ならもう立てるだろう」
「そうするさ」
ベッドから立ち上がったところで、ふと思い出したことがあった。
「……そうだ、竜弦」
「まだ何かあるのか」
「いや……」
言ってもいいものか少し迷って口ごもるが、言う機会があるとしたらこれきりだろうと、言ってしまうことにする。
「今を逃したら二度と言えそうにないから今言うけど。最初の施術の後、立てるって言ったし実際あれくらいなら立って歩けたのに、あんたわざわざお風呂まで僕を抱えて行ったことあっただろ。……あれは結構、嬉しかったよ」
その時の竜弦の顔を、雨竜は当分忘れられないであろう。そんな顔出来るんだな、とその場でからかってやっても良かったのだがやめておく。
「それじゃあ……うわっ?!」
今度こそ浴室に向かおうとしたところで、体が宙に浮いた。胃の浮遊感が落ち着いたところで気が付くと、背中と足の裏を支える形で竜弦の腕の中に抱えられていた。
「おいいきなり何、」
「余計なことは言わずに体が冷える前にさっさと風呂に入れ」
そのままずかずかと浴室に運ばれる。
雨竜は腕の中で揺られながら竜弦の顔を見上げてみるが、その表情は陰になって窺い知ることは出来なかった。
それから、自分より広い肩幅に程よく筋肉の付いた胸板や腕を改めて目の当たりにする。竜弦と身長は大して変わらない上に親子だというのに何故自分とこんなに差があるのか、と思わず嫉妬すると同時に、ベッドで抱き締められた時に覚えた強い安堵を思い出して頬が熱くなる。
あっと言う間に風呂椅子に座らされ、眼鏡もバスタオルも剥ぎ取られている。あとは雨竜の手でシャワーの栓を捻るだけ。状況としては最初の施術の後の入浴と全く同じであった。
「なあ竜弦」
浴室から出て行こうとする竜弦を呼び止めると、竜弦は足を止めた。だが振り向こうとしないので、雨竜はその背中に向かって言葉を重ねる。
「そういうことするから『勘違い』されるんだぞ」
「っ……良いからさっさと体を温めて寝ろ」
竜弦はそう言い捨てて、浴室の扉を閉めて出て行ってしまった。
あれは照れている。
父の初めて聞いた声色に、そう確信する。
竜弦は存外ストレートに寄せられる好意に弱いのではないか……雨竜はそんな事を思いながらシャワーの栓を捻った。給湯器が動いていたお陰か、すぐに温かなお湯がシャワーヘッドから流れ出て来た。
体を洗ってから、バスタブに張られた湯に身を浸す。体温より僅かに高い湯の心地良さに目を閉じそうになるのを堪えながら足を伸ばし、深呼吸をひとつ。
今までにここで湯に浸かっていた時と比べると、驚くほど気分は晴れやかであった。
不安要素が無いわけではない。だが、思いを伝えた結果一時的に逃げられはしても拒絶されなかったという一点に雨竜は安堵していた。
(そう、後は二年待てばいい)
結局勘違いだったところで何だ、今の自分は間違いなく父に恋をしてしまっていて、そして父も自分に対して親子の域を越えた感情を抱えている。
だから、二年待てば勝てる──雨竜はそう確信していた。
どの道、父は唯一の生きる意味である自分を愛するのをやめることなど出来ないし。
そんな父に恋をするだけの理由は、確かにあるのだから。
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