※竜叶が大前提ですが竜弦が触手に凌辱される話です
※首絞め・拘束などの痛々しい描写があります
※嘔吐もあります
全身がひどく熱い。
冷たい冬の空気とは対象的に茹だるような体を引きずりながら、竜弦は家路を歩く。普段であればどうということもない参考書とノートの詰まった鞄が大きな重石のように思えた。
事の始まりは図書館からの帰宅途中に出くわした虚だった。襲われそうになったので難なく撃退したものの、その虚は何やら毒を持っていたようで、散り際にそれを目の前に噴霧させられたのだ。咄嗟に呼吸は止めたものの少し吸い込んでしまったらしく、撃退から僅か数分で発熱が始まってしまった。
虚の持つ毒は普通の人間以上に滅却師に毒となるため、早くに治療を受ける必要がある。しかし大した強さの虚でもなかった、自宅に常備している薬を飲んで少し眠れば問題ないだろう。経験からそう判断しているものの、幼い頃一度だけ罹ったインフルエンザを思い出させるこの高熱は勘弁して欲しかった。
熱で神経が敏感になっているのか、服が肌に擦れる感触すら煩わしい。少しでも早く歩こうとすれば高熱も相まって自然と呼吸が荒くなる。
どうにかして自宅の正門前まで辿り着いたが、ここで正門から帰宅すれば側近のメイドに顔を合わせることになるかもしれない。そう考えると彼女に余計な心配を掛けたくないという思いが勝った竜弦は、軽く宙を飛び、窓から二階の自室に入ることにした。
行儀は悪いであろうがこうしたことは一度や二度ではなく、窓は外から開けられるようになっている。そうして転がり込むようになんとか自室に入るなり、竜弦は靴を脱いで重石のような鞄とコートを放り出した。
すぐに薬を飲まなければ、と薬を置いている棚に手を伸ばそうとした瞬間、膝から力が抜けた。そのまま床に崩れ落ちる。咄嗟に腕で頭を庇うことには成功したものの、腕を強く床へ打ち付けてしまった。
毒の効果は発熱だけではなかったのか、と己の見通しの甘さを反省しながら鈍く痛む腕に力を入れて体を起こそうとしたその時、ぬるりと何かが爪先を這う感触があった。靴下越しに触れたその濡れた何かに、ぞわりと痺れに似た悪寒が背筋を走る。
「っ……?」
どうにか上体を僅かに起こして自分の体を見下ろすが、見えるのは床に投げ出された自分の体だけで、この部屋に自分以外に動くものの気配はない。
何かおかしい、と警戒しながら更に起き上がろうとした瞬間、今度は首筋に冷たく濡れた何かが触れた。ねたり、と這うようなその動きは先に爪先に触れたものによく似ており、嫌でも全身に震えを呼び起こす。
見えない敵に襲われている──直ちに脳を戦闘態勢に切り替えて起き上がろうとするが、腕にも力が入らなくなりまた床に倒れ込んでしまう。
どうにか起き上がろうと藻掻いても体は言うことを聞かず、次第に意識に霞が掛かり始める。
いよいよ死ぬのか、と。諦観が、真水に一滴落とされた墨汁のように脳裏へ滲む。それに対する絶望を感じるほど生への執着は無いつもりだった。しかし、
(僕はまた彼女を泣かせてしまうのか)
意識が落ちる間際、春の月のように静かで穏やかな笑顔が脳裏を過る。
(……ああ、いやだな)
ただそれだけを思いながら、竜弦の意識は深くへ引きずり込まれていった。
◆◆◆
「ッ……! は、あっ、かはっ」
目が覚めると急激に冷たい空気が喉を刺激して、思わず横になったまま咳き込む。
一頻り咳き込んで落ち着いてみても相変わらず手足は言うことを聞かず、体を起こすこともままならない。
発熱も引いていないようで、頬に当たっている地面だか床だかの冷たさが嫌に心地よく感じた。その冷たく固い感触は石材のようで、自室のカーペットとはまるで違う。部屋全体も薄暗くじめじめしている。
いつの間に運ばれていたのか、と考えるよりも先に脳は自然と嫌な場所を思い出していた。
(地下室によく似ている)
石田家邸に昔からあるその小さな地下室は、昔から懲罰房として用いられていたらしい。悪い事をすればその部屋に入れられて反省を促される……幼い頃の竜弦も入れられた経験がある。
出入り口は人が一人通れる小さなドア一つで、当然窓もない。誰かが外から鍵を開けてくれるまで、幼い竜弦は一人、薄暗い部屋の隅で膝を抱えるしかなかった。決して気持ちのいい思い出とは言えない。
(……何だか知らないが、趣味の悪い)
先までの体の異常が残っているということは、まだ自分は生きているのだろう。
何故こんな場所にいるのかは分からない。意識を失ってからあの見えない敵によってここまで連れて来られたのか、あるいは自分の体は自室に倒れたままで何かしらの強い幻覚を見せられている可能性もある。
どちらにしろ、この場所に自分を置いている何者かの悪趣味さを竜弦は呪った。とうに昔のものと処理していたはずの記憶が眼前に広がり、ざわざわと心臓の表面に粟立つような心地がする。
敵の正体も分からないが、とにかくここから生きて脱出しなければ……熱で明瞭さを欠いた意識の中でどうにか集中して空間内の霊子濃度を測ろうとしたその時。
ぞわぞわと、何かが右足首に触れる感触がした。それはまさしく、自室で自分に触れたあの見えない何かと同じで。そしてあの時と違いがあるとすれば、それの正体がはっきり視認できるということだった。
「っ……!」
竜弦は不快な感触に顔をしかめながらも、足首に巻き付いているそれを見る。
生肉の色をしたそれは、イソギンチャクの触手に似ていた。表面は濡れているのか、どこから差しているのかも分からない光を反射してぬらぬらと光っている。その太さは竜弦の腕ほどもある。その触手からは虚の気配はしない。だがこんな生物が地上に存在しているなど聞いたこともない。
自分を襲おうとしているそれの正体が分からず、体も自由に動かせない。どうすれば、と頭を回転させるが、その間にも触手は竜弦の足を這い上がって来る。
どこから伸びている触手なのか目を凝らして見ようにも、触手の向こうには地下室のあの薄暗がりが深い霧のように広がるのみだ。
気付けば触手は本数を増やし、竜弦の左足や両腕にも巻き付いてくる。それだけに留まらず、細い触手が幾本もシャツやズボンの裾から服の内側に侵入して肌を直接撫で回し始めた。
「ッ……ぅ……」
無遠慮に肌をなで回すそれは、熱で敏感になっている神経を必要以上に刺激した。己を辱めようとするかのような触手の動きに吐き気を覚える。
ぐい、と両腕に巻き付いてきた触手に上体を無理矢理引き起こされて膝立ちにさせられた。肩が外れるかと思う程の痛みに声を上げそうになるのを堪えるが、触手は意にも介さず一際太い触手を竜弦の上半身にべったりと擦り付けた。胸から腹を舐めおろし、背中にもゆっくりと巻き付いていく。
全身を触手に拘束され、身動きが取れない。触手がゆるゆると首を這う感触に、自分はいよいよ死ぬのだな、とどこか他人事のように思う。生きたまま虚に食われて死ぬのか、その前に絞められるなりして死ぬのか。滅却師である以上ろくな死に方はしないだろうと思っていたが、想像以上にろくでもない死に方だ。
だがどちらにしても、脳裏に浮かぶのは包み込むようなあの優しい笑顔。彼女を泣かせないために足掻こうと、竜弦は思考を巡らす。
手首から先が吹っ飛ぶ可能性はあるが霊子爆発でも起こせばなんとか脱出できるかもしれない……そう考えた瞬間、触手が顎を掴み無理矢理竜弦の顔を上向かせた。
触手が竜弦の白い喉に触れ、やがて少しずつ竜弦の首に巻き付いて行く。
まずい、と竜弦は抵抗しようとするがゆるく首を横に振る事しか出来ない。触手は竜弦の些細な抵抗などまるで意に介せず、ゆっくりとその首を締め付け始めた。
「かッ……ァ、は、」
じわじわと気道が圧迫され、眼の前がチカチカと明滅する。
呼吸ができない、痛い、苦しい。まともな思考を奪われる中、酸素を求めて無意識に口を開閉させると突然に首の締め付けから解放された。
急激に喉に流れ込む外気に激しく咳き込む。目を覚ました時の咳込み以上に苦しく、呼吸筋を何度も激しく動かし続けたせいか次第に吐き気も込み上げてきた。
「は、はッ……ぁ、んぐ?!」
咳が落ち着いてきたところで、開いた口に太い触手を一本捩じ込まれる。そしてそのまま喉奥に向けて何か液体を流し込まれた。
その液体は恐ろしく甘ったるい匂いをしていた。反射でえづきそうになるが、口に捩じ込まれたままの触手によって吐き出すことは許されず、無理矢理嚥下させられた液体は食道へと流し込まれていった。
口からゆっくりと触手が抜けていく。再度咳き込むが、奇妙なことに吐き気は治まっていた。
いったい何を飲まされたのか、と考える間もなく。竜弦の力なく垂れた指先を一本の触手が甜めた。
「ッ……?!」
指先の触覚が掻痒感に似た刺激となって腕から脊髄に伝わる。それは微弱な電流のように全身を駆け巡り、脳に届き甘い痺れをもたらした。全身が震え、眼の前が白んで何も考えられなくなる。
今までも熱で神経が敏感になってはいたが、今の感覚は明らかに何か違う。飲まされた液体が、感覚をおかしくするものだったとしたら。そこまで考えたところで、気付く。肌に直接触れている触手達が動いていない。もしこれが動いたら……そう思い至った時、
(やめろ)
心に芽生えたのは、本能的な恐怖だった。
あれ以上の刺激を与えられたら、おかしくなってしまう。
その恐怖心を食らおうとするかのように、再び肌の上を触手達が這い回り始めた。
「あ゛ぁあああああ……!」
脳が焼き切れるかと思うほどの刺激が全身を暴れ回り、視界がチカチカと明滅する。
何も考えられず、与えられる刺激に体を震わせ悲鳴を上げることしか出来ない。いつしか服のあちこちが触手によって破られていることにも気付けず、竜弦はそれから逃げようと身を捩った。
一方で触手は竜弦の下肢に集まり始めた。
竜弦は気付いていないが、ズボンを破られ外気に晒されているその陰茎は固く立ち上がっていた。
触手はゆるゆると竜弦の陰茎に巻き付くと上下に動かす。
「ぅあ?!」
陰茎に触れられ、竜弦はそこでようやく自身の下肢の状態に気が付いた。
全身を暴れ回る刺激に身を震わせながら立ち上がっている自身の陰茎を見て、竜弦は絶望で目を見開いた。
(え、あ、なんで)
幼い頃の恐怖心を呼び起こす部屋に連れ込まれ、訳の分からない触手に全身をまさぐられて勃起している。
それはつまり、異常な状況下で怪物に襲われながら浅ましくも快楽を得ていたということではないか……そう思い至った時、心に罅が入る音が聞こえた気がした。
(なんて汚らわしい)
罅割れた心の隙間から聞こえる、自分を責める声。地下室の薄暗い闇と同じ色をしたそれが頭の中を何度も巡る。
(こんな汚らわしい自分に、あの家にいる資格も、彼女にそばにいて欲しいと願う資格も、あるわけがない)
竜弦が思考の檻に囚われかけている間にも、触手は竜弦の陰茎をしごき続ける。一際強い刺激に竜弦は嫌でもその存在を意識することになり、その思考は次第に波のように押し寄せ大きくなる快楽に押し流されていった。
こんな化け物の手によって達したくない……その願いも虚しく、快楽はいよいよ閾値へと達した。
「ひっ、ぐ、うう……!」
全身を震わせ、どぷりと白濁を先端から吐き出す。次いでざわざわと甘い痺れが爪先から頭の先まで全身を駆け巡り、いよいよ自分は堕ちてしまったのだという絶望が心を塗り潰していく。
荒い呼吸をする竜弦の口内に触手が入り込み、舌に絡みついてきた。
「はぁ、ん、ぅう……」
触手によって与えられる刺激を一度快感として認識してしまった以上、体はそれら全て快感として受け止めてしまう。舌をなぶられ口内をまさぐられ、過ぎた刺激にただ体を震わせることしか出来ない。
いつしか抵抗するだけの気力もなくなり、竜弦は全体重を触手に預けていた。
「っあ……は……んあ、」
全身を舐め回す触手の動きに体が電気的に反応する度に喉から溢れる声は、自分ではない他人の物のように聞こえた。
ふと、絶え間なく刺激されている下半身のある部分に違和感を覚える。
細い触手が何本も、これまで入り込んでいなかった尻の谷間に入り込んでいるのだ。
「……な、」
思わず声を上げた時にはもう、触手は動いていた。細い触手が谷間の奥にある後肛を探り当て、その淵を何度か撫でる。もどかしいようなその感触に竜弦が僅かに眉を顰めた時、一本の触手がそこからゆっくりと竜弦の中へ侵入し始めた。
「っ……! ぐ、うぅ、」
体を開こうとする異物感に竜弦は思わず呻く。触手は後肛の入り口を広げようとするかのようにぐねぐねと動き、二本、三本と体内に押し入ろうとする触手の本数は増えた。体の内側を撫でられ、押し広げられ、気持ち悪い筈なのに、内からぞくぞくと沸き上がってくる感覚がある。その正体が快感であることに気付くのに、そう時間はかからなかった。
本来快感を覚える部分ではない場所で快楽を得ている。正常な思考が働いていれば、その事実に先のように絶望していたのかもしれない。だが竜弦はそれにすら何も感じず、されるがままになっていた。
ぬるり、と体の内に入っていた触手達が抜けていく。
「ん、あァっ」
触手が体内を擦る感触がざわざわと全身を走り思わず声が上がる。次いで、先まで塞がっていた体の内側が外気に触れる感触に息を飲む。無理やりに拡げられた体を自覚し、気が付く。
自分は今から、犯されるのだ。
「あ、やめろ……」
力なく首を横に振りながらどうにか喉から絞り出した声が震える。拡げられた穴の淵にひたりと触れた触手の先端からその太さを感じ、恐怖心で身が竦んだ。
ぐっ、と先端が体の内に押し入る。これまでを凌ぐ質量が体の内をじわじわと押し広げ、激しい痛みが下肢を貫く。
「っぐ……あ、や……!」
(いたい、なんだこれ、いたい、いたい、いたい)
痛みに慣れた筈の体を貫く未体験の痛みでパニックになる。やがて触手は最奥に達し、下腹部が触手によって隙間なく満たされた。これまで以上の異物感と圧迫感で呼吸が苦しい。
程なくして、下肢を貫く触手がゆっくりと体内から出ていこうと動き始めた。
「ひ、い、」
腸を引きずりだされるような痛みに喉が引き攣る。かと思うと、ずん、と下から突き上げられて激しい衝撃に体が弓なりになる。
「あ゛あ゛あ゛っ」
何度も強く突き上げられ、視界が白黒に明滅する。
「あ゛、んあ、は、ひぐっ」
痛い、苦しい、怖い。それなのに、
(なんで、きもちいいんだ)
苦痛の奥にある快感を、体は確かに拾っていた。
「はあ゛、あ、あ……」
苦痛に喘いでいるのか快楽で喘いでいるのか分からなくなるが、もうどちらでも良かった。どの道自分はもう戻れないのだ……そう思いながらも、朦朧とした意識の片隅に彼女の姿が浮かぶ。
帰宅後いつものように彼女の作った夕飯を食べて、食後のお茶を一緒に飲んで……そんな当たり前の日常が、彼女がそばにいればそれだけで満たされるささやかな幸せが続いていく筈だったのだ。それをこの怪物は理不尽に奪おうとしている。
こんな怪物が生まれるように出来ているこの世界はどこまでも最悪で、自分は生まれた時点でその理不尽を嫌という程押し付けられているのだ。結局こんな最期がお似合いなのかもしれない。そんな諦念の中、怒りがろうそくの火のように灯った。
だとしても、最後にこの怪物に一矢報いてやりたい。そうでもしなければ、気が済まない。
自分が死ぬことで彼女が悲しむのなら、自分の命を奪うこの怪物を生かしておく理由などどこにもないのだから。
そう思った瞬間、脳が瞬時に自分が今構築するべき術式を組み立てた。
体の内を寄せて返す快楽の波は少しずつ大きくなっている。眉を寄せて必死で耐えながら、自分の五体に精神を集中させる。本来は道具を用意して行う術式だが、道具の役割を全て自力で計算して代替すれば問題はない、無論安全は保証できない……教えられた時は、まさか使う時が来るとは思わなかった。
触手が竜弦の意図に気付いたのか、四肢を捻り潰さんとばかりに絞めつけて来る。
「う、ぐう……あっ、はは、」
与えられる痛みに思わず呻くが、どういうわけか最後に零れたのは笑いだった。
術式の構築を終え、竜弦は右手の人差し指を小さく動かす。竜弦の霊圧が青白い光を放ち始めた。
触手によって与えられた全ての刺激を凌駕する程の熱と痛みが体の内から沸き上がる。
それら全てが外に向かって弾けようとする刹那、最後まで彼女の姿だけが瞼の裏に焼き付いていた。
◆◆◆
目が覚めて最初に視界に入ったのは、見慣れた天蓋だった。着ているものは着慣れたパジャマで、体を覆っているのはいつも使っている羽毛布団。
紛れもない、自分の寝室だった。
何故ここにいるのか、自分はどうなったのか、と考えながら体を起こそうとすると全身を引き裂くような激痛が竜弦を襲った。
「っ……!?」
小さく呻きながらベッドに倒れ込むと、寝室のドアが開く音がした。
「っ、竜弦様! お目覚めになられたのですね!」
開いたドアからぱたぱたとベッドのそばに駆け寄って来たのは、見慣れた白と黒のメイド服。その姿はあの凌辱の時間の中で何度も思い起こした存在……片桐だった。
「……片桐、なのか」
思いがけず、声が震える。片桐は「はい、片桐はここにいます」と頷いた。眼鏡を掛けていないためにその表情はぼやけてよく見えないが、その佇まいも霊圧も、間違いなく本物の片桐だった。
「まずはこちらを」と、片桐は用意していた水差しから吸い飲みに水を入れると、竜弦の唇の前に差し出してきた。常温の水が喉を潤し、少しだけ体が楽になる。
もう二度と会えないものと思っていた彼女が目の前に現れたことで感情が昂ぶりそうになるが堪えて、自身の状況について尋ねる。
「僕は、どうなったんだ」
「竜弦様がお部屋で倒れて魘されているところを、私が発見しました。旦那様に連絡して診ていただいたところ、虚の毒を浴びたのだろう、と。その後旦那様に治療をしていただき……今は、私が発見してから凡そ三十時間経過しています」
「虚の毒、か……父様は他にも何か」
こういう時の父の見立ては基本的に正しい。最初の発熱の症状からして自分もその見立てに異論はない。だがあの悪夢はそれだけで説明が付くのだろうか……そう思いながら尋ねると、片桐はエプロンのポケットから折りたたまれた紙を取り出して竜弦に差し出した。
「こちら、旦那様からの言伝てです。目を覚ましたら渡すようにと」
「……」
紙に触れた時指先がピリピリと痛むのに顔をしかめながら、竜弦は紙を受け取って開いた。片桐がすぐに竜弦に眼鏡を掛けてくれたので、文字を読むのにそう苦労はしなかった。
そこに書かれていたのは、虚の毒の種類とそれらを操る虚に関する文献の引用だった。
吸い込んだ者は高熱に苛まれる毒。
吸い込んだ者に悪夢を見せる毒。
夢の中で死ぬまで目を覚ませない毒。
そして……それらの毒を吸い込んだ者の夢を操り弱っているところを捕食する虚。
「……片桐、これを読んだか」
「いいえ、私は見ておりません」
「見てくれ。これが答えなんだろう」
片桐は竜弦から渡された紙に目を通し、そして口元を手で覆った。
「竜弦様、まさか」
「ああ、夢の中で一回死んだ。……いたんだろうな、僕が倒れる原因になった虚の他に、夢を操っていた虚が」
そして竜弦は、深々と息を吐き出す。紙の一番下に小さく走り書きされた言葉を思い返しながら。
『対象の虚は特定、滅却済』
もう自分が手を下しに行く必要はないということだ。
自分が無理矢理あの夢から覚醒したことでどこぞの虚は自分を捕食することはできなくなり、その虚は父に滅却されたと。
どうにもすっきりしないが、父がそう言うのであればそうなのだろう、と思うしかなかった。
可能であれば自分の手で決着を付けたかった。あの薄暗い部屋の中で凌辱された時間、そして最後に明確に覚えた死の感覚。それらは夢とは思えないほどに鮮明であった。
ふと、その悍ましい感覚を思い出したことで強い吐き気が込み上げて、口元に手を当てる。
「ぅ……」
片桐が慌てて立ち上がり、用意していたらしい銀色のたらいを差し出してきた。
たらいを自分で持つだけの体力もなく、辛うじて上体だけを起こしながら枕元に置かれたたらいの中に胃から込み上げてきたものを吐き出す。途中何度か咳き込みながらも、あの凌辱への恐怖が脳裏を過り嘔吐が止まらない。自身の背中を支えながら優しくさする片桐の手にすがるように、竜弦は必死でそちらへ意識を向けた。しかし胃酸の味の気色悪さも相まって、吐き出すものが胃液だけになっても体が勝手に嘔吐の動きを繰り返す。
「はっ……あ゛、お゛え……」
「大丈夫です、竜弦様。もう夢の中ではありません、何があろうとも片桐がここにいます」
耳元のその声に意識を集中するうちに、次第に吐き気が治まってきた。嘔吐を繰り返したことで横隔膜がきりきりと痛む。起き上がっているのも難しいほどに体力を消耗した竜弦はどさりとベッドに倒れ込んだ。
片桐は再度、竜弦に吸い飲みを差し出してきた。片桐に促されるままに吸い飲みから水を口に含んで口を濯ぐ。口の周りをタオルで拭われ、新たに差し出された別の吸い飲みからまた水を飲んだ。
ようやく落ち着いたところで、強い眠気が竜弦を襲う。眠りに落ちたらまたあの地下室に囚われそうで、竜弦は眠気に抗おうとする。だが全身を覆う疲労に勝てそうもなく、意識は否応なしに眠りに向けて落ちようとする。
「……片桐」
かすれた声で名を呼ぶと、吐瀉物の入ったたらいや使ったタオルをワゴンに積んでいた片桐が振り向いてベッドのそばにしゃがみこんだ。
「いかがいたしましたか」
「手を、握っていてくれ。僕が眠るまででいい……」
その言葉に片桐は驚いたようにわずかに目を見開いたが、
「かしこまりました」
と、微笑みながら白い手でそっと竜弦の手を取った。触れられた時竜弦の手はわずかにピリピリと痛んだが、片桐に触れられている証のように思えた。心の柔らかな部分を優しく撫でられ、眠りと覚醒の境界線が曖昧になりつつある意識の中で口を開く。
「片桐、僕は、あの夢の中で……」
「今はお体を休めてください。……とても辛い思いをされたのでしょう。無理に思い出さなくてもよいのです」
「っ……」
片桐の声は、ぼろぼろになった竜弦を毛布のように優しく包み込む。
瞼が熱くなり、衝動的に片桐を抱き締めて縋りたいと思ったが、それを思い留まる前に竜弦の意識は深く安らかな眠りの中へと落ち込んでいった。