間接照明の光だけが当たるベッドの上に投げ出された細い体躯。パジャマの裾から覗く手首足首は相変わらず、加減を間違えれば折れてしまいそうに見えた。
「……お前、本当に三食食べているのか」
自然と浮かんだその疑問に、雨竜は不機嫌そうに眉をひそめ、寝返りを打ってこちらに背を向けながらこう返してきた。
「食べてるよ。時々食事をさぼってるあんたに言われたくない」
適正な食事量、必要摂取カロリー、栄養バランスといった言葉が喉から出掛かった。
しかし自身が雨竜の見ていない場面で食事を抜かしがち、かつ雨竜に向けようとしている小言のすべてを雨竜が打ち返して来るのは自明の理なので、代わりに竜弦は一つ溜息を吐き出した。
ベッドに腰を下ろし、こちらに背を向けたままの雨竜の肩に触れる。
薄い━━そんな感想がどうしても浮かぶ体格。雨竜が幼稚園や学校で受ける健康診断で、体重測定結果が低体重の域を出たのを見たことがない。
「……丈夫なだけましか」
大怪我は幾度となくしながらも大病はせずにここまで育ったのだから、と己に言い聞かせるように呟くと、雨竜は少しだけ気まずそうに身動ぎした。
「なんなんだ……」
「お前が気にする必要のない話だ……と言いたいところだが」
肩に掛ける手に軽く力を込めて引く。するとほとんど抵抗もなく、雨竜はあっさり仰向けになった。
ベッドに乗り上げて肩を軽く押さえたまま見下ろすと、雨竜はバツが悪そうに目を逸らす。
「……事あるごとに負った傷を完治後に事後報告、あるいは病院に担ぎ込まれるのを迎える羽目になる身にはなってほしいものだな」
「そこまでじゃないだろ……最近は」
「さて、どうだか」
普段から反抗的な態度を隠さない息子がどこかしおらしい顔をしているのが愉快で、竜弦は雨竜の頬を撫でた。
雨竜は表情は変えないまま竜弦の掌に自分から頬を寄せ、それから深く息を吐きながら目を閉じてぽつりと呟いた。
「眠い」
「そうか」
間接照明の明るさを限界まで落とし、眼鏡を外してベッドサイドに置く。足元の毛布を肩まで引っ張り上げながら雨竜の隣に身を横たえ、その細い体を背中から抱き締める。抱き締めれば尚の事肉よりも骨の感触が際立つが、確かに血の通った体温があった。
程なくして、腕の中で雨竜が寝息を立て始める。
━━良かった、今日もこの子はこうして生きている。
その実感だけで、何もかもが報われる。
タグ: パパウリ
とある金曜日の夜
父には甘え癖があるのではないか。
雨竜は時々、そう考える。
「おい竜弦、離せ」
リビングの大きなソファの上、自分を背中からしっかりホールドしたまま寝落ちてしまった父・竜弦の手をぺちぺち叩きながら雨竜はため息混じりにそう訴えた。しかし竜弦が離れる様子はなく、聞こえてくるのは静かな寝息のみ。
竜弦は酒に酔うとこうして雨竜に抱き着いてくることがある。それだけならまだ良いのだが、抱き着いたまま寝落ちられるともうどうしようもない。
悲しいかな、身長は大して変わらず雨竜の方が若くて体力があるのにも関わらず、竜弦の方が筋力は強いのだ。
「……ああもう、この酔っ払い……!」
雨竜は小さく毒づいた後に父の腕をほどくのを諦めて、体から力を抜いた。
そうすると背中から密着する体温が意識される。ぬるま湯に浸かるような心地よさを伴いながら忍び寄る眠気に、自分も身を任せてしまうことにした。
残した家事は全部、明日の朝になってから。
たまには、こういう週末があっても良い筈だ。
before time
学会ついでに横浜に泊まるつもりだがお前もどうだ、などと言われた時は流石に面食らった。
確かに来週は横浜で学会がある。だけど横浜なら車で一時間も掛からず帰って来れるだろ、と。
しかしこの父親が金で解決できることは金で解決する性質であることを考えると、恐らく「学会での人付き合いに疲れてそのまま車を運転したくない」というのが本音であるのだろう。
そう思い至った雨竜は、自分も学会を聴講しに行く身であること、多少父に付き合って挨拶回りをする必要があることを考えた。
そうして、半ば渋々と頷いたのだった。
この先の展開が読めたぞ、などと思いながら。
果たして雨竜の予想通り、竜弦は横浜・みなとみらいの高級ホテルの一室を予約していた。
学会後にチェックインしたホテルで足を踏み入れた部屋は雨竜が暮らすアパートの一室より広く、成人男性二人で寝てもなお余裕がありそうな広々としたベッドが一つ。
ツインとダブルを間違えたのかわざとやっているのか、部屋を見た竜弦の表情を横目で見ても何も読み取れない。疲れの色こそ見えるがいつもと変わらぬ無表情だ。
大きな窓の外には、みなとみらいの美しい夜景が広がっている。だが竜弦はそちらには一瞥もせず、さっさとジャケットを脱いでネクタイを外している。
「先に構わないか」
「どうぞ」
よほど疲れているのか、竜弦はさっさとバスルームに行ってしまった。
雨竜も少しばかりの疲労感を覚えながらジャケットを脱ぎ、大きなベッドに腰を下ろした。
防音設備の整った室内は静かで、聞こえてくる音はバスルームの方から微かに聞こえるシャワーの音のみだ。それがなんだか気まずくて、雨竜はすぐに立ち上がるとテレビのリモコンを探し、夜のニュース番組を付けた。
淡々とニュース原稿を読み上げるキャスターの声に意識を向けつつ、竜弦がバスルームから出てくるのを待つ。
程なくして竜弦は戻ってきた。
部屋に備え付けのガウン型パジャマを着てはいるが、髪は生乾きで目の焦点がなんだか合っていない。疲れているのは仕方ないとして髪が生乾きなのは見逃せず、雨竜は呆れながら立ち上がった。
「髪が濡れてるじゃないか……寝る時に跡になるだろ」
竜弦を部屋に備え付けの椅子に座らせ、洗面所に置いてあるドライヤーとヘアブラシを取りに行く。
「明日も仕事なんだから疲れていても髪くらいは……全く……一旦眼鏡外してくれ」
雨竜の言葉に竜弦は大人しく眼鏡を外した。
雨竜はドライヤーのスイッチを入れ、竜弦の髪に温風を当てて乾かしていく。
竜弦の髪質は雨竜と比べると柔らかく、やや癖がある。髪の色も違うし、親子でもここまで違うものかと竜弦の髪に触れながら雨竜は思う。
「ほら、終わった」
髪を乾かし終えたのでドライヤーを止めて言うと、竜弦はぼんやりと髪に触れながら眼鏡を掛けた。
「僕もシャワー浴びて来るから、もう寝ろよ」
「ん……」
竜弦は普段と比べると若干覚束ない足取りでベッドに向かい、あっという間にシーツの中に潜り込んでしまった。
何十時間ぶっ通しで霊弓を撃ち続けることは出来るのに学会とほんの二、三時間の人付き合いは駄目なのか、などと考えながら雨竜は大きな窓のカーテンを閉めてからバスルームにシャワーを浴びに向かった。
シャワーを終えてバスルームから戻ってみれば、竜弦は相変わらずシーツの中で丸くなっていた。その霊圧が穏やかなので、もう眠ってしまったのだろうと検討をつけた雨竜はやれやれと首を横に振った。
自分もベッドに潜り込み、サイドボード備え付けのスイッチで部屋の灯りを落とす。室内にはたちまち暗闇が立ち込めた。
広いベッドと言えど、その中に入ってしまえば数センチ向こうには父の体温がある。雨竜が少しだけそちらに体を寄せると、竜弦は小さく身じろぎした。起こしてしまったかと思った矢先、竜弦は寝返りを打って雨竜の方に体を向けた。竜弦の表情はほんの数センチ先でも見えない。
腰に腕が伸びてきたかと思えばそのまま抱き寄せられ、雨竜の細い体は竜弦の腕の中にすっかり収まった。
「起きてたのか……ん」
額に小さく唇を落とされ、髪を梳きながら頭を撫でられる。その心地好さに身を委ねながら竜弦の顔を見上げると、暗闇に慣れ始めた目が数センチ先の父の白い肌といつもと変わらぬ無表情を微かに捉えた。
輪郭をなぞるように、竜弦の指がゆっくりと雨竜の体の上を這う。腰から背中、背中から脇、脇から胸、胸から首、首から顎、そして最後に唇へと。
唇を撫でる指に雨竜が僅かに歯を立てると、竜弦が笑ったのが気配で分かった。
「……悪い子だ」
「誰のせいだと……」
全てを言い終わる前に顎を掬われ、唇を塞がれた。唇の重なる感触は安らぎをもたらし、体の力が抜けて行く。何度か唇を重ね合わせるうちに自然と舌が絡み合い、口付けは深くなっていく。そこに性急さはなく、二人はぬるま湯のような心地良さに浸りながら穏やかに熱を分け合った。
暫しそうして何度もキスをしてから、互いの唇を離す。その頃には雨竜は意識が溶かされるような心地になり、竜弦にしがみつきながら目を閉じていた。
竜弦はまた雨竜の頭を撫でながら緩く抱き締めた。パジャマが邪魔だな、と全身を包む体温と揺蕩うような意識の中で雨竜は思う。だが竜弦が目を閉じて微睡み始めているので、この先は諦めることにする。
代わりに竜弦のパジャマの合わせから覗く首筋に小さく唇を落とす。すると竜弦が僅かに目を開けて、雨竜の耳元で囁いた。
「……続きは、帰ってからだ。明後日はお前も休講日だろう」
「……破るなよ」
「破るものか」
「ならいい、明日は夕飯作って待ってる」
竜弦は返答代わりに雨竜の瞼に唇を落としてすぐに離したきり、何も言わなくなった。本当に眠ってしまったようだ。
「……お疲れ様」
小さく呟き、目を閉じる。穏やかな波のような微睡みに身を任せてしまえば、意識はあっさりと眠りに落ちていく。
──やっぱり家の方が良いな。
意識が暗転する直前に思ったのは、そんな何でもないことだった。