【石田親子】三月某日(再録)

「今日はありがとうございました、母さん」
 母さんの部屋の本棚に分厚いバインダーを戻しながら、僕は呟いた。
 存在自体は母さんが元気だった頃から知っていた、母さんが書き残した大量の料理のレシピ。僕がそれを開く勇気を出せたのは、あの大戦が終わってしばらくした頃だった。
 レシピは雑誌や新聞の切り抜きからオリジナル、和風から洋風までの多岐に渡っていたが、そのほとんどに竜弦の好みだったかどうかがメモされていた。僕の反応が書かれたレシピもあって、母さんの息遣いが感じられるような気がした。あの魚のホイル焼きはこのレシピの中から選んだ物で、特に竜弦の好物らしかった。
 母さんは倒れてからずっとあの病院に入院していて、母さんの部屋はそれからずっと変わる事無くそのままにしてある。
 そう、何も手を着ける事無く、そのまま。遺品整理すらろくにされていない。埃を払って換気は適度にしているようだが、竜弦が度々依頼していた家事代行のおかげだろう。
 その理由は最近になってようやく分かった。
 単純に、竜弦にはそれが出来なかったから。本当に、それだけ。
 竜弦は母さんが死ぬまではもう少し真っ当な性格をしていた。今と変わらず表情には恐ろしく乏しかったが、幼い僕が無意識に憧れて医者になりたいと思うくらいにはまともな父親だった。母さんが死んで、それが滅却師の血に起因していたから竜弦の中で何かが狂って、壊れたのだ。

 ──あいつがギリギリ踏みとどまっていられたのは、雨竜君がいたからだ。

 黒崎の家に行った時、黒崎の目を盗んで黒崎のお父さんにそう言われた。

 ──あいつは君のお母さんが亡くなってから人が変わった、そこはフォローしようがないけどな。……それでもあいつは、雨竜君がいたから人間でいられたんだよ。

 それはあくまで黒崎のお父さんの見立てだし、僕自身は僕がいたから竜弦が踏みとどまっていられた、なんて考えていない。あの男は多分とっくにまともな人間性なんて捨てていたし僕のことだって本気で疎んでいたと思う。
 ……それでも、竜弦が母さんを愛していたから母さんの死で壊れたのだということは分かるようになった。だから滅却師である事に拘る僕を疎んでいたのだということも。
 母さんの部屋……母さんが生きた痕跡に触れるというのは竜弦にとって母さんの死を喚起させる行為だ。それは自身をどん底に叩き落とすと同時に、今の自分がどれだけ壊れているかを自覚させられる行為でもあった。多分、竜弦はそんな自分のことを一番に嫌っていたから、母さんの部屋に触れなかったのだと思う。無論、全て僕の想像に過ぎないけど、自分の父親がそういう人間なのだとは少しずつ分かり始めていた。
 竜弦はあの大戦を経て色々な重荷から解放され、ようやく「ただの人間」に戻り始めている。恐らく、あいつが一番望んでいたように。
 だから僕は、少しずつそれを助けてやるだけのことだ。今まで散々向こうに神経を逆撫でられてきたのだから、それくらいの優越感になら浸っても罰は当たらないと思う。
「……明日もよろしくお願いします、母さん」
 そっとバインダーの背を撫でてから、母さんの部屋を後にする。向かう先は、家を出る前まで自室としていた部屋だ。明日の朝からやることがあるから、今日は家に泊まる事にしていた。
 自分の事に疎いあの父親は、明日が何の日かすっかり忘れていることだろう。三月十四日、ということは認識していてもそれが自分の誕生日だなどと覚えているのかどうか。
 僕が辛うじて覚えていなければどうなっていたことやら。いや、例年通り何事もなく過ごすことになるだけか。
 特別な事をしてやるのが癪ではない訳ではないが、僕の誕生日に急にアパートの前に高級車で乗り付けられて食事に──それも相当な価格帯の店に連れて行かれた、というより連行された義理もあったりする。……あれは最初だいぶ意味が分からなかったし不器用にも程があると後々になって思ったけど。
 「普通の親子関係」というものになるには、恐らく酷く時間が掛かる。そうなりたいか、と問われるとまだ自分でも分からない。竜弦のことは正直まだ苦手意識はあるから、今の距離感が一番丁度いい気すらする。それでも歩み寄りたいと思っているから、こうして家に帰るようにしているのだ。
 自分の部屋に入って電気を点け、寝る準備を整える。今住んでいるアパートのワンルームの角部屋と同じくらいの広さの部屋だが、家を出る前に大掃除をして使うものは全てアパートに持って行ったせいで随分殺風景に見える。
 それでも出て行った時のままで、すぐに寝泊まり出来るような状態で残っていたのだから、やはりあの父親は器用に不器用だと思う。
 壁に掛かった時計を見ると、もうすぐ日付が変わろうとしていた。
 明日は卒業式の練習があるから午前は登校、食材の用意はしてある、四時までには帰宅して夕飯の準備……と一通り頭の中で明日の予定を確認する。
 そう言えば卒業式のことを竜弦に話すのをすっかり忘れていた、卒業式はもう今週末だが話せば来るだろうか。
 僕も竜弦も互いを避け続けていたから、小学校の入学式以外はそういった行事に竜弦が来たことはない。
 僕だって迎える事自体諦めていた卒業式だ。迎えられたのは、まあ、竜弦のお陰でもある。それに答辞を読み上げたり表彰されたりする事は決まっているし、少しくらいは良い顔が出来ると思う。
 ……うん。やっぱり、来て欲しい。
 明日の朝になったらちゃんと言おう。
 部屋の電気を消して、眼鏡を置いてベッドに潜り込むと同時に、広間にある時計が時刻が変わったことを知らせる鐘を鳴らしたのが微かに聞こえた。
 ──誕生日おめでとう。
 明日の朝になったら言うための言葉を心の中で練習する。それだけで僅かに緊張した体を落ち着かせる為に大きく深呼吸して、僕は目を閉じた。

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少しずつ距離感を取り戻していく、そんな一秒一瞬が愛おしいです。