タグ: 石田家

【竜叶】AM00:09

※描写はないが一応事後、雨竜を授かる前の話

「虚も滅却師も死神も居ない世界に生まれてみたかったよ」
 ベッドの上で体を起こしてペットボトルを開けながら、竜弦がぽつりと呟く。
「生まれた時から何かに監視されているかもしれない、何かすれば殺されるかもしれない、何もしなくても殺されるかもしれない、そんなことを考えなくてもいい世界に」
 それから竜弦は水を飲む。独り言のようなその言葉は、彼の隣にいる女に届いていた。
「……私はそのようなこと、考えたこともありませんでした」
 竜弦の隣、ベッドに横たわり体をシーツで包んだ叶絵は、伏し目がちに応える。
「そんな世界は、物語の中でしか有り得ないだろうと……」
「そうだな、物語の中でしか有り得ない。自分の境遇を世界のせいにして、その上でいい年して物語の世界を本気で羨んでいるなんて、あまりにも子供だろうと自分でも思う」
 竜弦の口ぶりは自嘲するようだったが、叶絵は何も言えなかった。それが彼にとって、笑い飛ばすにはあまりに切実な願いであることを理解していたからだ。
 こんな世界に生まれてさえ来なければ、というあまりに強烈な自己否定。大切な人達の幸せを願いながらも自分の存在を否定しようとするどこか拗れたそれは、この世界と己に流れる血の残酷さを彼が身に沁みて知っているからに他ならない。
「……どうしても考えてしまうんだ。こんな世界でさえなければ、母様はもっと幸せでいられたのだろうか、って」
 悔いたところで彼にはどうしようもない……竜弦も叶絵も、それは承知の上だ。ただ、この世界で滅却師が滅却師の家を保持したまま家庭を持つことのままならなさを竜弦は両親の姿を通して知っていた。それ故に、叶絵と結ばれることを選択して改めて思うところがあるのだろう。
「……だから竜弦さまは、ご自身の代で滅却師を終わらせようとなさっているのですか?」
 幾年も続いた純血滅却師としての石田家を自分の代で終わらせるという決断。生まれた頃より石田家の跡取りとして育てられた竜弦にとって、それにどれほどの覚悟と勇気が必要なことか。
 叶絵が体をシーツで隠しながら起き上がると、竜弦は叶絵を見た。天蓋の布越しの間接照明の柔らかなオレンジの光がその瞳に映る。優しくも哀しい色に、叶絵は思わず息を呑む。
「もう見たくないんだ、滅却師であるがために人が不幸になるのは。それが生まれてくるかもしれない僕達の子供ならなおさら。世界の方をどうしようもないのなら、僕が僕自身の有り様を変えるしかないだろう」
「……」
 叶絵は知っている。
 幼い頃の竜弦は滅却師としての自身の有り様を誇りに思っていたことを。
 例え世界に必要とされていないのだとしても、この力で誰かを護れるのであればそのために強く有りたいのだと。
 けれどその誇りは十年以上の時間を掛けて世界の歯車にゆっくりと圧し潰され、家庭内不和により罅割れ、あの雨の日に「誰よりも護りたい人を自分の力で護れなかった」という現実によって崩れ落ちた。
 滅却師であるがためにひどく傷ついた男は、それでも立ち続け、「自分の代で」滅却師を終わらせるという選択をした。
 竜弦はまだ滅却師であることをやめるつもりがない。そう有り続けなければならない理由があるのだ──叶絵はそう察しながらも、何故竜弦自身が滅却師であることをやめようとしないのか、聞くことは出来なかった。
 叶絵は思わず竜弦の手を握る。 
「……竜弦さまは、今、幸せですか」
 叶絵の問いに竜弦は少し目を見開いてから、微かに目元を緩めて叶絵の手を握り返した。
「……幸せだよ、泣きたくなるほど」
 
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絵本の話

「おとうさんおとうさん、どうしてこのえほんのれいは、むかしの人のふくをきているの」
「ん? ああ……」
 とある日曜日の昼下がり。
 夜勤明けの就寝からつい先程起床してきたばかりでソファにぼんやりと座っていた竜弦は、足元で絵本を読んでいる幼い息子に目を向けた。
 それは怪談の絵本のようで、開かれたページでは白い着物を着たテンプレートな女の幽霊が描かれていた。
「ぼくがようちえんに行くときに見るれいは、ぼくたちみたいなようふくだよ」
「まあ……そうだな」
 この屋敷は竜弦が貼っている結界に覆われているために「整(プラス)」や「虚(ホロウ)」の類が入り込んでくることはない。そのため雨竜が幽霊を目にするタイミングは家の外にいる時のみとなる。それらは基本的に虚化する前の「整」であるのだが……
「そうだな雨竜、お前が目にする霊は比較的最近に命を落とした者の例だ。だから洋服を着ている。今現在を生きている私達のようなファッションなわけだ」
 どこまで教えるべきか、と考えながら竜弦は身をかがめて絵本のページをつつく。
「一方でこの絵本は……ベースは四谷怪談だったな。ならば江戸時代、今からざっと二百年ほど前に書かれた話だ。その頃に出現する幽霊は、当然その時代に死んだ者の霊。着ているのはその時代のファッション……つまり着物だ。『着物を着た幽霊が出て来る話』が二百年間ずっと語られている、現代になってもその幽霊のイメージが多くの人の中にある、というだけの話だよ」
「うーん……」
 竜弦としては可能な限り簡単に説明したつもりであったが少し難しかったのか、雨竜は考え込んでいる。
「……まあ、幽霊のことはあまり気にしないことだ。良くないものに取り憑かれてしまう」
「そうなの?」
「そうだ」
 好奇心旺盛なのは雨竜の良いところだが、あまり霊のことを気にするようになっては今後何が起きるか分からない。
 「見える」のはどうしようもない以上、フィクションにおける霊と本物の霊の違いを知るのも必要かもしれないと絵本を何冊か買い与える時に四谷怪談を入れた記憶はある。だが少し早かったのかもしれない……竜弦のそんな心配を他所に、雨竜の興味は別の絵本に移ろうとしていた。
「おとうさん、このほんよんで」
「……どれどれ」
 雨竜が差し出して来た絵本の表紙には小さな魚の絵が描かれている。雨竜から絵本を受け取るとソファの上によじ登って来たので、隣に座らせる。
「……この絵本、前は母さんに読んでもらっていなかったか」
「おとうさんもよんで! 今日はおかあさん、おでかけしてるから!」
「仕方ないな……」
 そう言いつつ思わず口元を緩めながら、竜弦は絵本のページを開いたのだった。

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続・竜弦が雨竜に名古屋土産でぴよりん買ってきた話

竜弦が雨竜に名古屋土産でぴよりん買ってくる話」の続きです。

「わあ、ぴよりんだ!」
 箱から覗くひよこ型のケーキに最初に声を上げたのは井上だった。
「本物は初めて見たな、可愛い〜……」
「可愛いな……」
 その可愛らしさに井上と茶渡が夢中で写真を撮る中で黒崎は、どこかむず痒そうな顔をしながらテーブルにカトラリーとコーヒーセットを並べている石田を見た。
「……で、これ買ってきたのがお前の親父さんと」
「……そうだよ」
「………………なるほど」
「な、何だその目は!」
「ぴよりんってすぐに崩れちゃうから、持ち帰るの大変なんだって。だから凄いね、石田くんのお父さん」
「ぴよりんの持ち帰りは箱の形の都合で偶数個が適している……だから四つ買ってきたんだろう」
「井上もチャドも詳しいな……」
 ならば何故「二つ」ではないのか……それは石田以外の三人が思ったことだが、あえては言わない事にした。
 石田は綺麗な白い皿にぴよりんを一つずつ乗せ、四人分のカップにコーヒーを注いでいく。
「……上がっちまって良かったのか?」
 石田の実家に三人が足を踏み入れるのは初めてであった。黒崎に尋ねられた石田は事も無げに答える。
「竜弦に連絡はした、その上で何も言ってこないんだから問題ないさ」
「……ならいいんだけどな」
 黒崎はまだ少し気になっているようであったが、石田は全員分のぴよりんとコーヒーをテーブルに並べ終えた。
「甘そうだからコーヒーにしたんだけど……良かったかな」
「大丈夫だよー」「問題ない」「ありがとな」
 石田は三人の返答に少しホッとしたような顔をしてから席につき、各々がスプーンを手に取る。
「……おいチャド、大丈夫か」
「た、食べられない……」
「本当になんでこんな可愛いもの買ってきたんだあいつ……?」
「いいじゃねーか、せっかく親父さんが買ってきてくれたんだ、食おうぜ」
 躊躇する茶渡と改めて訝しむ石田を促すように黒崎は真っ先にぴよりんの背中側にスプーンを入れた。そしてそのまま口に運ぶ。
「ん、美味いぞこれ」
「……わあ、本当だ! 美味しい〜!」
 織姫も幸せそうにぴよりんを口に運ぶ。
 二人に後押しされるように茶渡もぴよりんに背中側からスプーンを差し、最後に石田もどこか渋々とぴよりんにスプーンを伸ばす。
 まず茶渡が素直な感嘆の声を漏らす。
「厶……美味い」
「でしょ?」
 それから三人は石田の方を見る。石田はぴよりんに小さくスプーンを差し入れ、それを口に運んだ。
 そしてその表情がふわりと解けたのを見て、井上が素早く携帯端末を手に取った。
「石田くん、写真撮るね!」
「?!」
 石田がなにか言う前に井上は素早くシャッターを切り終えていた。
「井上さん?!」
 ぴよりんを飲み込んだ石田が叫ぶが、その時にはその場の全員の端末が震え、あるいは通知音を鳴らし、あるいは通知ライトを光らせていた。
「石田くん、すごくいい顔してたよ」
「だ、だからって……じゃあ君達も撮らないと不公平じゃないか?!」
 そう来るか。
 そう来るか……。
 黒崎と茶渡は、奇しくも内心で全く同じことを呟いた。
「うんうん、だから皆で撮ろう!」
 当然ながら、井上は満面の笑みでそれに応じる。
 しっかりと四人全員収まるように写真を撮り、その写真もグループトークに共有される。
 そうして四人はぴよりん&コーヒータイムに戻るが、雨竜だけはやや恨めしそうに井上を見た。
「……僕の写真をわざわざ上げる必要があったのかい?」
「もし石田くんが良かったらなんだけど、石田くんのお父さんに送ってあげたら喜ぶかなぁって」
「喜ぶかなあ……?」
 石田は訝しむが、黒崎と茶渡は井上に同調する。
「喜ぶだろ」
「喜ぶな……」
「な、なんなんだ君達は……」
 不服であることを隠そうともしない石田だが、その頬はうっすらと赤くなっていた。
 それから四人はぴよりんとコーヒーを伴に常と変わらぬなんてことはない雑談をする。陽が傾き始めた頃には何とはなしに解散する流れとなった。
 そうして三人を玄関で見送り、その背中が見えなくなってから石田はこめかみを押さえて呟いたのだった。 
「写真送ったほうが良いのか……?」

 それから凡そ一時間後。
「院長、本日のカンファについて確認が……」
 空座総合病院の内科部長が院長室に足を踏み入れた時、部屋の主たる院長はじっと携帯端末の画面を凝視していた。
 その様子がどこかただならぬ雰囲気であったので、内科部長は恐る恐る声を掛ける。
「……どうかしましたか、院長?」
「いや……」
 院長・石田竜弦は端末をテーブルに伏せ、僅かに目を細めながら呟いた。
「生きていれば良いことがあるな、と」
「はあ……」

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◆◆◆◆◆

特に知っていてもいなくてもいい裏話:出張先で竜弦にコーヒー受けとしてぴよりんを差し出した剛の者がいたらしい。

石田家SS台詞オンリー9本ノック

「私からすればお前か叶絵の作った食事以外は全て等しく栄養以外の価値はない」
「それ絶対外で言うなよ……」
「冗談だ」
「冗談に聞こえないんだよ」

こんな感じで台詞オンリーのやつがひたすら続きます

【石田親子】6月某日

「私が父親で良かったと思うか」
 ほとんど酔い潰れて──連れて帰って来た黒崎のお父さんに何度も謝られた──ベッドの上に横になった竜弦は、どこかぼんやりとした目で僕の服の裾を掴んでそう小さな声で呟いた。
「良かったんじゃないのか、僕はこうして普通の生活を送れているわけだし」
 こんな事を言っても酔いが醒めたらどうせ覚えていないだろうしまた同じことで悩むんだろうこの父親は。そんなことを思いながら、裾を掴む指を解いて、掛け布団を竜弦の上に広げてやる。
「だから少なくとも今は、あんたが親で良かったと思っているけど」
「……そうか」
 竜弦は少しだけ安心したように呟いて目を閉じた。そのまま安らかな寝息が聞こえて来たので、僕は父の寝室を後にした。
 これから何度あんなことを言ってやれば良いのやら。いっそ素面の時に言ってやろうか……いや、恥ずかしいからやめよう。向こうだってあんなこと素面では聞けないのだから。
 全く、手の掛かる父親で困る……そう思いながら首を横に振る。
 よりによって父の日の前日に、そんなことで思い悩まなくてもいいだろうに。

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ハロウィン竜弦が吸血鬼だったらのIF

※ハロウィンソサエティ設定+独自設定
※CPではないが距離が近い

 父の血なら飲める。
 その思い付きは、突如天啓として石田雨竜に降り注いだ。
 滅却師であり吸血鬼、だが信念の都合により吸血出来ない。雨竜はそんな難儀な業をかかえている。
 牛乳を飲んではいるものの日頃から貧血に悩まされており、いい加減吸血をしろと友人のとあるフランケンシュタインの怪物に言われてしまう。
 己の全力を振るえないということは屈辱ではあるものの、死神の色である赤い血を飲むのもそれはそれで屈辱。
 だが同じ滅却師である父の血なら飲めるのではないか。飲める気がする。
 そんなわけで、雨竜は手っ取り早く父・竜弦(職業:モンスターハンター)の寝込みを襲うことにした。

 そうして、あっさり返り討ちにされた。

「馬鹿なのか、お前は」
「っ……」
 ついさっきまで眠っていたはずの竜弦は恐ろしく機敏に雨竜の襲撃に対応し、その細い手首を掴んでいとも簡単にベッドに押し倒した。
 雨竜を見下ろす竜弦の色素の薄い瞳が、開け放たれた窓から差す月光を反射して鈍く光る。雨竜は竜弦を睨みながら抵抗しようとするが、どういうわけか体に力が入らず、拘束されていない足を動かすことすらままならない。
「なっ、これ……」
「催眠術の応用だ」
 掛けられてから気付くか、と竜弦は溜息を吐き出した。
「吸血鬼だというのに血も飲まず、馬鹿な拘りを持つからそうなる」
 吸血鬼の基本能力の一つである催眠術。それを父が使いこなしていることに、雨竜は戦慄する。
「あんたまさか、吸血鬼の力を……!」
「なんだ、吸血鬼の父親が吸血鬼で何かおかしいことがあるか?」
 竜弦は雨竜の顎に指を滑らせる。手首の拘束が解けてもなお、雨竜の手はベッドに投げ出されたままだ。
「さて、吸血鬼としてハンターを襲ったのだから、相応の報いを受ける覚悟はできているのだろうな」
 竜弦の瞳が光る。なす術もなく雨竜はその光を直視してしまい、ぷつりと意識の糸を途切れさせてしまった。
 瞼を閉じて力なく眠る雨竜の顔を竜弦はしばし眺めたのち、ベッドから下りるとサイドボードの引き出しから小さなナイフを取り出す。
「……『起きろ』」
 支配者としての竜弦の声に雨竜はゆっくりと瞼を上げ、そしてどこかぎこちなく上体を起こすと体の正面を竜弦に向けた。その瞳に光はなく、その心身が完全に竜弦の支配下に置かれていることを示していた。
 ちょっとした催眠のつもりがここまで強く効くとは、と嘆息したい気持ちを抑えながら竜弦はシャツの左袖を捲くりあげる。そして右手にナイフを持つと、躊躇いなく自身の左下腕にナイフの刃を滑らせた。
 赤い一直線の軌道に赤い雫が膨らむ。竜弦は左腕を雨竜の顔の前に差し出し、淡々と命じる。
「『我が血を啜れ』」
 雨竜は小さく口を開くと竜弦の白い腕に唇を寄せ、竜弦の傷口にゆっくりと舌を這わせ始めた。
 素直に言ってくれば催眠を使うこともなくこうしたものを……そんな竜弦の思いも知らず、雨竜はいずれ自身の力の源となる血を舐めている。肉親かつ真祖の血を濃く受け継ぐ竜弦の血は雨竜の力により強く働きかけるだろう。自分が何をされたのか、本人が気付くのは少し後になるが。
 雨竜の前では冷たい目を見せていた竜弦であったが、大人しく竜弦の血を舐めている雨竜の姿を見ながら目を細める。
「全く、手の掛かる……」
 呆れながらもどこか愉しそうに呟きながら、血を舐める雨竜の黒い髪を梳くように撫でる。その髪は、竜弦の亡き妻──雨竜の母親であった人間によく似ていた。
「『今日はここまで』」
 胸に押し寄せる寂寥を振り払って雨竜の耳元で囁くと、雨竜は竜弦の傷口から顔を上げた。
「『そのまま窓から出て、宿から一時間分飛べ。そうすればお前は眠りから覚める』」
 催眠の解除を仕込んでやってから、雨竜を帰らせることにする。雨竜は竜弦の言う通りに立ち上がり、窓枠に手を掛けた。
 催眠の中とは言え血を吸わせてやったのだ、蝙蝠に変化することくらいは出来るだろう……そう思いながら竜弦は窓枠に立つ雨竜を見送ろうとする。
 ふと、窓枠に足を掛けながら雨竜が振り向いた。
 その瞳に変わらず光はない。だが夜空にいつも浮かんでいる白い月の光がその瞳の青を浮かび上がらせた。
『──これが襲った報いだって言うなら、あんたは随分優しいんだな』
「な……」
 雨竜は口を動かしておらず、その表情は催眠を掛けた時と変わることなくひどく静かだ。
(テレパスだと……?)
 そのような能力、雨竜は持っていない筈だ。まさか父の血を取り込んだことで早くも新たな能力を開花させたというのか。何よりも今の雨竜は、まだ催眠の中にいるはず──。
 訝しむ竜弦を他所に、雨竜はふわりと窓の外へ身を踊らせる。竜弦が窓に歩み寄ると、一匹の蝙蝠が月の光の方へと飛び去っていくのが見えた。

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◆◆◆

原作49巻で雨竜が空座総合病院に担ぎ込まれたくだりあるじゃないですか、あの時絶対輸血受けてるけどその血多分竜弦の血だよね?と勝手に思い込んでいるところをいつか出力しようと思い続けた結果これになりました。
吸血鬼とか真祖の設定は月姫や吸死を参考に勝手に盛り盛りしました。
 

【石田親子】痛みの話

 痛い。

 日常生活でも滅却師の修行でも、そのたった三音のその言葉をいくら発したところで父にも母にもろくに届かず、聞いてくれたのは後に妻となる専属のメイドだけであった。
 けれど自分が痛いと言えば彼女もとても痛そうな顔をすることに気付いたので、それ以来その言葉は言わなくなった。彼女のそんな顔は見たくなかったからだ。
 とは言え痛覚は変わらず備わっているので、痛い時は痛い。静血装で外傷を防ぐことが出来ても、頭痛や腹痛が体の不調を訴えてくる。結局体のどこかに痛みを覚えても我慢して自分で「処置」する事を覚えたのは、小学校中学年になる頃だった……などと。
 石田竜弦にとっては遠い過去であり、今更問題にもならないような事を思い起こしてしまったのには理由がある。
「どこか痛む箇所は?」
「…………」
「だんまりでは困るな。痛むなら痛む箇所を、痛む箇所がないのならそうはっきり言え。患者なら主治医にもう少し協力的になった方が身の為だぞ」
 今度は何かと思えば、横断歩道を渡ろうとした子供が信号無視の車に轢かれそうになったところを助けようとして自分が車に撥ねられたのだという。
 竜弦が外来患者の診察をしている最中に搬送されて来たという息子は既に検査と処置を終えて足や腕にギプスや包帯を巻かれ顔や手に医療用ガーゼを当てられた状態で玄関ロビーの待合室のソファベンチに座っており、こちらの顔を見るなりバツが悪そうに視線を逸らした。
 一つ溜息を吐いてから、やや距離を空けて隣に座る。
 しばらく返答を待っていると、雨竜はようやく口を開いた。
「……治療ならもう終わったし、薬も受け取った」
「処置が終わっただけだ。両腕両足の打撲と右膝の靭帯損傷、全身の擦過傷が完治するまでは治療を終えたとは言えない」
「それにしたって大したこと無い、もう歩いて帰れる。なんで引き留めるんだ」
 時速40kmで突っ込んで来た信号無視の車に撥ねられてその程度で済んでいる幸運あるいは異常性を医者として指摘するべきか、もっと軽い怪我で済んだ筈であると滅却師として指摘するべきか。
 そう考えた時、その言葉はすぐに口から出て来た。
「何故避けなかった」
 雨竜の能力を考えれば公道を走る乗用車程度、避けられない筈はない。その問いに対する雨竜の答えはとてもシンプルだった。
「僕が避けたら車があの子に直接突っ込んでた」
 予想出来た筈の答えとは言え、その答えを聞いた竜弦はひどく苛立ちを覚えた。
 自分を優先しろ、と。
 そう口で言うのは簡単でも、雨竜がそんなことを出来るような性格をしていないことくらい理解している。自分の安全よりも目の前の他人の安全。助けた子供やその親からは感謝され、世間から称賛を浴びる立派な精神であろう。
 だがその判断を正しいと認めるなど出来たものではない。例え、最大限軽い傷で済むよう当人が受け身を取っていたとしても。子供の自己犠牲など親が褒めるべき物ではない。
「だとしてもどうにかして避けろ。他者の安全を確保したいなら自分の安全も等しく扱え、出来ないとは言わせんぞ。回避できた筈の怪我をわざわざ負うような人間にかかずらっていられるほど病院は暇ではない」
「……それは、反省してる」
 雨竜の表情が曇る。ここまで搬送してきた救急隊員や、処置にあたった医師・看護師のことを思い返したのだろう。院長の息子が車に撥ねられて担ぎ込まれて来たのだから、対応にあたったという研修医はさぞ緊張していた筈だ。
「怪我への感覚が麻痺しているところはあるかもしれない」
 その言葉を聞いて、麻痺しているという自覚が雨竜にあることに密かに安堵する。
「この程度なら自分でも治せるから、救急車も断ろうと思ったくらいだ」
「……それはやめておいて正解だ。医者が診なければ気付かない異常はある。そしてここでお前を担当した医者に診断書を書かせれば被害者・加害者双方にメリットがある」
 まあ加害者にメリットなんぞ無くとも良いのだが、雨竜本人がピンピンしている上に念の為撮ったMRIでも異常は見受けられないので必要以上に加害者を追い詰める必要はないだろう。取るべき責任は取ってもらうが。
「加害者側や保険会社とのやり取りは私が行う。さっさと治したいのならお前は大人しくしていろ」
「……分かった」
 まだ雨竜に言うべきことはあるが、これ以上の話は他人の目のある場所でするべきではない。
「もう帰っていい、車で送る」
「自分で帰れる」
「大人しくしていろと言ったのが聞こえなかったのか?」
「…………」
 雨竜はムッとした顔をしたが、竜弦がベンチから立ち上がると大人しく付いて来た。松葉杖の扱いに慣れないためか、その足取りは少しばかりぎこちない。左肩に掛けているトートバッグは撥ねられる時に持っていたものか。バランスを崩しそうなものだからバッグをこちらに渡すよう竜弦が言うと、雨竜は渋々と頷いてバッグを差し出した。
 少し時間を掛けながら病院内を歩き、竜弦は雨竜を後部座席に乗せて雨竜のアパートへと車を走らせる。運転はいつもより少しだけ丁寧に、なるべく交通量の少ない道を選ぶ。
「最後にもう一度聞いておく。どこか痛む箇所は」
 アパートに程近い通りで信号が青に変わるのを待ちながら改めてそう尋ねると、雨竜はぽつりと呟いた。
「……右腕と右膝は、少し」
 返答があったことに驚きと安堵を同時に覚える。
 この子は自分相手に痛みを曝け出してくれるのか、そして、この子はまだ痛みを訴えることができるのだ、と。
「生活に支障は出そうか」
「立ち仕事が少し辛くなるかな」
 信号が青に変わった。車を雨竜のアパートがある住宅街へと走らせる。
「貼り薬の他に痛み止めは処方されているな? 言われただろうが、あまり無理な動きはするな」
「……分かってる」
 どこか不貞腐れたような声音だが、運転中なので後部座席の様子を伺うわけにも行かない。
「言っておくが、虚退治もするんじゃない」
「するわけないだろ、こんな怪我してるときに」
 果たして本当に分かっているのか。そう問い詰めたいのを堪えながら、竜弦はアパート前で車を停めた。
 先に降りてから後部座席のドアを開けると、そろそろと雨竜が降りて来た。
「一階だったか?」
「そうだけど」
「登下校に送迎は」
「流石にそこまでしてもらわなくていい」
 二人で雨竜の部屋の玄関前まで来ると、雨竜が「鍵、そのバッグの中」と言いながらこちらを振り向いた。
「どこに入れてある?」
「バッグの口広げてくれればいい、自分で出す」
 バッグの口を広げると雨竜はバッグに手を突っ込み、迷わず鍵を引っ張り出してみせた。
「……送ってくれてありがとう」
 鍵穴に差した鍵を回しながら雨竜が小さな声で言う。
「意外と歩きづらいな、これ」
「そう思うなら次はもう少し上手くやることだ」
「そうする」
 カチャリ、と錠から音がした。鍵が開いたようだ。部屋のドアを開けてやり、雨竜が屋内に入るのを見届けてから預かっていたバッグを手渡す。
 部屋のドアを押さえて開け放したまま屋外に立つ私から、室内に立つ雨竜の顔は陰の中に立っているように見えた。向き合った雨竜の顔は慣れない松葉杖で少し疲れているようだが、辛そうな色は見えない。
 後はもう雨竜一人にしても問題ないだろう。
「では私はもう戻る。お前は当分大人しくしていろ」
「何回も聞いた……」
 雨竜の顔には呆れが浮かんでいるものの、こちらを拒絶しているわけではなさそうである。 
 胸の内を締め付けるような情感がふと湧き上がり、背丈は自分と大して変わらない筈だが今は松葉杖でやや低い位置にある頭を思わず軽く撫でた。
「なっ、」
 カッと雨竜の頬が赤くなる。
「なんだ急に?!」
「…………」
 赤面した時に肌の白さが際立つのはお前の母親に似ている、などと言える筈もないので黙っておくことにした。撫でられるがままの雨竜は目を白黒させているが気付かない振りをしながら一頻り頭を撫でて満足する。
「ではな」
 少し乱してしまった髪を軽く整え直してから手を離すと、睨みながらほとんど噛み付かんばかりに叫ばれた。
「さっさと帰ってくれ!」
 これ以上嫌われる前に身を引き、アパートのドアを静かに閉める。
 玄関前に長居はせず、アパート前に停めている車へと戻り、運転席に腰を下ろしてから携帯端末を取り出す。
 訳あって携帯電話番号を知っている息子の友人達にショートメッセージを送り、あいつが怪我をしていることを伝える。また顔を合わせた時にあいつから文句を言われるのは目に見えているが、これくらいはさせて欲しいものだ。
 端末をしまい、車を発進させる。病院へと戻る道中で口角が僅かに緩んでいることに気付いたが、引き締めようという気にはならなかった。

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【竜叶】約束、二つ

※真咲が石田家を出た後と雨竜が生まれる間くらいの出来事については完全に捏造と妄想

 母が逝去して二ヶ月ほど経過した頃、竜弦は屋敷の使用人達に解雇を告げた。
 再就職先と新たな入居先が見つかるまではここで働いて構わないが、見つかり次第屋敷を出て欲しいと。
 使用人達はこの石田家の事情を理解していたので、ただ一人を除いて屋敷を去って行った。
 そうして広い屋敷には、ただ一人の使用人と年若い事実上の現当主だけが残された。実際の当主である父は死んでいる訳では無いが、昔から滅多に帰って来ない。こんな時ですらそうなのだから、竜弦は父をほとんどいないものとして扱うようになっていた。
 屋敷はすっかり人の気配が薄くなったが、これでいいのだと竜弦は思う。
 この家は元々こうあるべきだったのだ。誰かの人生を縛ってまで続いて良い家ではない。そう思いながら寒々しい廊下を歩いて食堂に足を踏み入れると、ただ一人残った使用人がてきぱきとテーブルセッティングをしていた。
「……片桐」
 声を掛けると、彼女はふっと顔をあげて微笑んだ。
「竜弦様、もうすぐお食事の用意が出来ますのでもうしばらくお待ちください。紅茶を入れましょうか?」
「いや、いい……ここで座って待つ」
「畏まりました。もう五分ほどで、グラタンが焼き上がりますから」
 自分以外の使用人がいなくなり仕事が増えるばかりだろうに、片桐はこの家の使用人としての仕事の全てを行っていた。
 掃除、洗濯、炊事。竜弦が派遣のハウスキーパーを呼ぼうとしても、片桐は頑なに首を横に振り、それらをこなし続けた。
 私が一番この家を理解しています、と。
「……やっぱり、お前はここを去るつもりはないんだな」
「私はいかなる時も、竜弦様のおそばにおりますから」
 何度も投げ掛けた問いに、片桐は毎回同じ答えを返す。そしてその言葉を聞いて安心している自分はあまりにも卑怯だ、と竜弦は思う。
 結局いつまでも彼女に甘えているのだ。昔から彼女に何かを返すことも出来ないまま、与えられてばかり。
 だから、彼女には自由になってほしいのに。彼女は、自分のそばにいることが何よりの幸福なのだと笑うのだ。
 片桐が竜弦の夕食をカートに乗せて運んで来た時、竜弦は思わず声に出していた。
「片桐、一緒に食べないか」
「え?」
 その言葉を聞いた片桐は驚いて目を見開いている。
「どうせこの屋敷には僕たちしかいない。……お前も、疲れているだろ」
「ですが……」
 片桐は困惑している。十年以上、食事をする竜弦の後ろで控えるのが日常だったのだ。その反応は当然だろう。
 だが、広々としたテーブルで片桐を立たせたまま一人で食事をするのが、もう自分ではどうしようもないほどに嫌だった。
「……お前と一緒に、食事をしたいと思ったんだ。嫌なら無理にとは言わない」
 これが結局片桐への甘えならもうそれで構わないと竜弦は思った。どの道、彼女が自分の頼みを断れないと理解した上で言っているのだから。
 果たして、片桐はおずおずと頷いた。
「分かり、ました……では、十分程お時間をいただきます」
 片桐は竜弦の分の夕食をセッティングし、「先に召し上がっていてくださいね」と言い残して食堂を後にした。
 竜弦は食事には手を付けず、片桐が来るのを待った。
 片桐が竜弦のメニューとほぼ同じ、だが少し量の少ない食事を持って食卓に戻って来る頃には、グラタンはすっかりぬるくなっていた。
 片桐から温め直しを提案されたが竜弦は断り、片桐に自分の向かいの席へ座るよう促した。
 そうして食卓に向かい合った二人は食事に手を合わせ、竜弦はサラダ、片桐はスープから口に運ぶ。
 片桐は竜弦の食事姿など見慣れているだろうが、竜弦が片桐の食事姿を見るのは初めてだった。
 片桐の所作は物静かだ。一口一口が小さく、食べるペースも遅い。袖口から覗く細い手首も相まって、やはり体の弱い彼女に無理をさせているのではないかと思ってしまう。
 片桐の唇にスプーンが運ばれていく様に思わず見入っていると、片桐がどこか気まずそうに肩を竦ませた。竜弦は慌てて目を逸らし、自分の食事に集中する。
 そうして食事は無言のまま続いた。無言だがそこに冷たさやよそよそしさはなく、穏やかな時間が流れる。
 自分の食事を終え、片桐の皿も空になった頃、竜弦は口を開いた。
「……今日も美味かった。ありがとう」
「お粗末様でした」
 片桐の料理の腕に間違いはない。不味い食事が出て来ることなど有り得ないのだが、今日の食事はいつにもまして美味に感じた。
 彼女がそこにいてくれることの有難さと温かさが全身に染み入るようで、竜弦は改めて片桐を真っ直ぐ見た。
「片桐、やっぱり僕はお前の負担を減らしたい」
 その言葉を聞いた片桐の表情が引き締まる。
「結局僕はお前に甘えてばかりで、お前がいないと日々の食事すらままならない。だから……せめて雇用主として、お前に無理なく働いて欲しい。そのために、この家の事を何も知らないハウスキーパーにも来てもらおうと思っている。それで……」
 この先を言っていいのかと迷い、言葉に詰まる。
 しかし片桐が真っ直ぐに自分を見ていることに気付き、ふと。
 その言葉が口からこぼれた。
「結婚しないか」
「えっ?」
「っ!」
 片桐の反応で、竜弦は自分が何を言ったのか気付く。 
「っ……すまない、」
 竜弦の突然の告白に片桐は固まっており、何を言われたのか分からないといった様子だ。
 言うとしても今ではないだろう、と竜弦は己の迂闊さを激しく呪う。
 動揺で心臓が早鐘を打ち始めるのをなんとか呼吸でなだめて言葉を絞り出すが、声が震えていた。
「……一旦、忘れてくれ」
「か、畏まりました……」
 片桐も声が震えていた。胸を手で押さえて竜弦と同じように呼吸をなだめようとしている。
「……どうぞ、お続けになってください」
「あ、ああ……」
 竜弦は一度深呼吸して、本来言おうと思っていた言葉を頭の中で整理した。今度こそ間違えないようにと注意しながら言葉を選ぶ。
「また今日みたいに、一緒に食事をしてほしい。食事が楽しいと感じたのは、久しぶりだ」
 空になった二人分の食器を見ながらそう口に出してしまえば、動悸は少しずつ落ち着いて来る。
 こうして誰かと食卓を共にしたのはいつが最後だっただろうか。食卓とは、こんなに温かく感じる場所だっただろうか……それを片桐にきちんと伝えられれば良かったのだ。
 それをまさか一足飛びに求婚してしまうとは、とあまりにも性急な自分を責めるしかない。そんなに嬉しかったのかと問われると、そうとしか回答しようがないほど、二人で食卓を囲む食事は竜弦の心に染み入っていた。
「竜弦様がお望みなら」
 片桐は微笑みながらそう答える。それを少しだけ悲しく思いながら、竜弦は言葉を重ねた。
「……毎日、でもか」
「お断りする理由が、私にはありません。……竜弦様の喜びが、私の喜びです」
 片桐はしっかりと頷き。
 竜弦は「そうか」と呟いた。
「すまない。……ありがとう」
 結局彼女をこの家に縛り続けてしまうという自責による胸の痛みと、彼女は自分を一人にしないままでいてくれるという子供じみた安堵を同時に覚える。
 それでも彼女がそれを幸せだと笑うのならば、自分が今考えるべきは彼女を働かせすぎないことだろう。竜弦は自然とそう考えた。
「とにかく、ハウスキーパーは呼ぶ。これはもう決定事項だ、いいな」
「畏まりました」
「時々休みも取ってくれ。お前は昔から働きすぎだ」
「お休み、ですか……」
 片桐の表情に、困惑が浮かぶ。
「私、お休みの日はいつも、何をすればいいのか分からなくて……結局、お仕事をしている時間が一番落ち着くのです」
「そうか……」
 昔から放課後と学校のない日は滅却師の修行漬けだった自分も似たようなものだ、と竜弦は片桐の言葉を受け入れる。
 医大に通い始めてニ年以上になる今ですら、周囲の同級生は空いた時間に勉強以外の何をしているのだろうと不思議に思うのだ。
「それは僕も同じだな。大学で改めて、自分がいかに異常な環境で育っているか実感した」
「竜弦様……」
「……そうだ、どこか行きたい場所はないか」
 最近取得したばかりの普通免許の存在を思い出す。車ならほとんど使っていないものが車庫にあるはずだ。業者にメンテナンスしてもらえば動くだろう。
「車ならあるんだ、どこでも僕が連れて行く。休みの日も僕が一緒だと休まらないかもしれないが……」
「! いえ、そんなことはありせんっ」
 少しだけ片桐の語調が強くなった。
「どこに行こうと、竜弦様がいてくださった方が、心が休まります」
「そ、そうなのか……?」
 片桐には珍しい気迫のようなものを感じて、竜弦は少しだけ気圧される。
 だが、一緒に出掛けること自体は拒絶されなかったので安堵する。
「それなら……どこに行きたい?」
「そう、ですね……」
 片桐は少し考え込み、ぽつりと呟いた。
「紫陽花……」
「紫陽花?」
「はい。その……小さい頃に、ニュースか何かで見たのです。どこかのお寺で紫陽花が沢山咲いていて、とても綺麗で……。どこだったかまでは覚えていませんし、紫陽花の季節は随分先ですけれど」
「紫陽花、寺……調べてみようか。季節になったら一緒に行こう」
「! は、はいっ」
 片桐の表情がぱっと明るくなった。釣られて竜弦も思わず頬が綻んだ。
 約束を一つ心に留め置きながらも、これだけでは駄目だと竜弦は考える。
 紫陽花の季節まではまだ半年近くある。片桐のことなのでそれまで休みなしで働こうとしかねない。
「では他に、どこか行きたい場所は?」
「他に、ですか……その、竜弦様が行きたい場所はないのですか?」
「え?」
 思い掛けない切り返しに、竜弦は思わず反駁する。
「僕の行きたい場所?」
「はい。竜弦様は幼い頃から、ご自宅・学校・修練場を行き来してばかりなので……私ばかり行きたい場所に連れて行っていただくわけにはいきません」
「そ、そうか……」
 今度は竜弦が考え込む番になった。
 こちらを見ている片桐がどこか楽しそうに見えるのは気のせいか、と若干の気恥ずかしさを覚えながら、竜弦は片桐と同じように、この目で直接見たことのない場所を挙げた。
「今の季節だと……北海道、だろうか……」 
「北海道、ですか」
「車では行けないし、一日や二日で行くのも難しいかもしれないが……雪原と白鳥を、一度この目で見てみたい」
 広大な白銀の雪原、湖に集まり優雅に翼を広げる白鳥達。
 写真だったかニュース映像だったかは忘れたが、自然界の美しい白を映す漠然としたそのイメージに対する幼い頃の憧れを、片桐と話していてふと思い出したのだ。
 「素敵です」と、片桐は目を輝かせて頷いた。
「沢山、暖かくして行かないといけませんね。冬の北海道は寒いと聞きますから」
「そうだな……」
 お互い滅却師の家に生まれた時点で旅行などしたことはなく、通学や買い物以外で空座町の外に出ることもほとんどない。修学旅行も半ば強制的に欠席させられた。北海道など余りにも未知の場所だ。
 未知の場所へ行く恐怖はあるが、それよりも目の前にいる片桐を喜ばせたいという思いの方が大きかった。
「年が明けて少しすれば、大学は休みに入る。その時期を使って行こうか」
「はいっ」
 弾む片桐の声に、竜弦の心も自然と軽くなる。
「氷点下でも過ごせるような暖かいお洋服の準備などしなくてはいけませんね。それに飛行機や宿、現地での移動手段も」
「そうだな、手分けして準備しよう」
 思い掛けず決まった旅の約束。片桐は弾む声のまま「紅茶を入れて来ますね」と立ち上がり、空になった二人分の食器をワゴンに乗せてダイニングから出て行った。その背中もなんだか嬉しそうに見える。
 少しでも彼女に何かを返すことが出来たようで良かった。そう思うと同時に、結局彼女に貰ってばかりだと痛感する。
 ほんの少し先の未来を楽しみにすることすら、かつての竜弦には出来なかった。その楽しみを自分に与えてくれたのは、他でもない片桐だ。
 人として欠陥だらけの自分を支えることを、片桐は選んでくれたのだ。
 ──貰ったものを、同じだけ与えていこう。僕の人生全てを使ってでも。
 片桐がそれを望むのか、自信はない。
 彼女は時々、ひどく苦しそうな目をする。与えられることが彼女の負担になっているのかもしれない。
 しかし、与えられるものは全て与えたいと心の底から思えるほど、竜弦には片桐のいない人生が考えられなくなりつつあった。
 あの時彼女が迎えに来なければ、こうして生きていたかどうかすら分からないのだから。
 ──僕はもう、君がそばにいればそれだけでいいのかもしれない。
 胸に浮かんだその仮説は、あまりに違和感なく腑に落ちた。

 ◆◆◆

 心臓がまだバクバクと鳴っている。
 空の食器の乗ったワゴンを押して厨房へ向かいながら、片桐は胸を手で押さえてた。
『結婚しないか』
 あの時、確かに竜弦はそう言った。
 その言葉に嘘も打算もないことは嫌でも分かった。
 彼は片桐に対して嘘をつかない。つけない、と言ったほうが正しい。幼い頃から、竜弦の嘘を片桐は全て看破した。片桐はその上で彼の嘘にあえて乗ることもあれば、叱ることもあった。竜弦とてそれは理解している筈だ。 
 ──なぜ、私を?
 ──竜弦様にはもっと相応しい女性がいる筈だ。
 ──そう、例えば真咲様のような……
 かつての彼の婚約者を思い出す。
 その場にいるだけで場を明るくする、太陽のような女性。自分のような貧相で暗い女とは大違いだ、と片桐は思う。
 ──どうしようもなかったのだと、竜弦様は仰った。
 ──それでも私はあの時、真咲様が最早滅却師として生きることはないのだと知って喜んだ、卑怯な女なのに。
 自分を労る言葉も眼鏡越しの優しい瞳も、何より嬉しいもののはずなのに、それら全てが胸を苛む。嬉しいのに苦しくて、笑いながら泣き出してしまいたくなる。
 それらは本来、自分ではない人に向けられる筈の……
「……っ」
 息が苦しい。心臓が痛いほど鳴り、視界が白み始めた。ワゴンから手を離して、廊下の隅にうずくまる。
 過呼吸の対処なら慣れている。上手く回らない意識の隅で半ば無意識に、片桐はゆっくりと呼吸する。
 竜弦の優しさをよく知る片桐は、彼に気付かれないことだけを祈る。果たして数分掛けて呼吸を整え立ち上がるまで、竜弦は来なかった。
 ああ良かった、と安堵しながら、片桐はまたワゴンを押して歩き出す。幸い厨房はもう目の前だった。
 広い厨房で一人、食器を洗い場に下げてティーセットの用意をしながら、ふと昔を思い出した。
 片桐が風邪で臥せっていた時、修行を抜け出した幼い竜弦が片桐の部屋の窓から顔を見せて、こう言ったのだった。
『僕、医者になるよ。そうすれば、片桐がいつ風邪をひいても治せるでしょう』
 ──あの後竜弦様は、修行を抜け出したことを旦那様から、使用人の部屋に行ったことを奥様からひどく叱られていたけれど。
 あの日、片桐は竜弦にこう言ったのだった。
『私のことなど気にしなくてよいのですから、どうかお好きなお仕事を選んでください』
 それでも医者になるのだと、竜弦は言い張った。
 そして、今の竜弦は医大に通っている。あの時の言葉を覚えているのかまでは分からないが、彼は今でも医者を目指していた。
 優しい人だ、と思う。優しさ故に沢山傷付いてきた人だ。
 傷付いた分だけその人生が幸多いものであって欲しい。そう願う一方で、その人生に自分が寄り添い続ける資格があるのか分からなかった。
 それでも彼女の主は、迷うことなく彼女の存在を肯定する。傍にいてほしいと、幼い子供のように目と行動で訴えてくる。
 望まれる喜びも苦しみも同じだけ胸の内で渦巻いて、片桐を苛む。竜弦から離れれば苦しみが増幅されて息が苦しくなり、かと言ってそばにいれば喜びの鮮やかさで苦しみはいっそう強く際立つ。
 ──いけない。竜弦様の前で、苦しみを見せてはいけない。
 何度もそう自分に言い聞かせながら、ティーポットに竜弦の好きな紅茶を作る。
 二人分のティーセットをワゴンに乗せて食堂に戻ると、竜弦が携帯電話の画面を睨んでいた。
 竜弦は片桐にすぐに気付くと画面から顔を上げて、「おかえり」と微笑んだ。
 春の月に似たその柔らかな微笑みが嬉しくて、同時に悲しくて。それら全てを覆い隠すように、片桐は「ただ今戻りました」と微笑みを返した。
 
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第1クール最終話放送後のタイミングで投稿しようと思って用意していたものです。
アニメ凄かった……

雨天、独白(竜弦の話)

※(12/16)タイトルが思い付いたので「無題」から修正しました

◆◆◆

 朝から雨が降っていた。
 夏の雨の蒸し暑さと秋の雨の冷たさのいずれでもない、心地よくすらある雨がしとしとと降りしきる中で、竜弦は病院の駐車場に車を停める。
 車のエンジンを止めながら病院のとある個室に意識を向けると、弱々しい脈動のような霊圧を感じた。日に日に弱々しくなっていくその霊圧に心の臓が冷える心地を覚えながら、雨に濡れるのも構わず車外に出る。
 後部座席に置いてある細長いビニール袋と鞄を手に取り、車の鍵を閉めて小走りで関係者用出入り口へ向かう。
 建物内に入ってそのまま院長室に向かい、鞄とスーツジャケットを放り出して白衣を羽織り、ビニール袋だけを手に入院病棟のその個室へと足を向けた。
 その個室には、三ヶ月前から一人の患者が入っていた。
「おはよう、叶絵」
 病室に足を踏み入れ、ベッドに横たわるその患者──彼の妻である叶絵に声を掛ける。返答はない。彼女は半月ほど前から、起きている時間より眠っている時間の方が長くなっていた。
 病室の中はひどく静かで、心電計の電子音がやけに大きく響いている。
 ビニール袋から花束を出し、花瓶に生ける。妻の好きな花を集めたその花束は、昨日花屋で作ったばかりだというのに色褪せて見え、竜弦はすぐに花瓶から目を逸らしてベッド脇の丸椅子に腰を下ろした。
 延命の為にチューブで機械に繋がれた妻の肌は白い。触れたその手は僅かに温かく、彼女がまだ生きようとしていることを訴えていた。
 加減を間違えれば折ってしまうのでは、と恐怖心を抱かせるほどに細い手を握る。熱が少しでも彼女に伝わるようにと祈りながら、妻の寝顔を見た。
 脳波を測定する電極と人工呼吸器さえなければすぐにでも目を覚ますのではないかと思うほどに、その寝顔は静かだ。
 彼女の先が長くないことを、竜弦は知っている。
 その時が来るのは今日か明日、あるいは一週間後かもしれない。ひと月は、恐らく保たない。希望を持つ余裕など無いほどに「それ」は着実に彼女の命を蝕んでいて、もうふた月待てば九歳になるひとり息子の誕生日を祝うことすら許さない。
 竜弦は毎朝そうしているように、病床の妻に息子の話をする。
「昨日、雨竜がずっと作っていたコサージュが完成したよ。今日の学校が終われば持って来るかもしれない」
 息子は母の命が長くないことに恐らく気付いているが、それに対する不安を口にすることはない。ただ、病床の母にプレゼントするための小物を毎日のように作り続けていた。
 手芸に没頭することで母に迫る死という現実から逃避しているのかもしれなかったが、竜弦はそれを責めることは出来なかった。
「とても美しく出来ていた……あいつには手芸の才能があるな」
 雨竜に手芸を教えたのは叶絵だ。サンルームで二人で手芸をしている時間が好きなのだと、叶絵は倒れる前に笑って言っていた。竜弦も、そんな妻と息子を見ているのが好きだった。
 ひと月ほど前にペンを握るのにすら苦労するようになったことを思うと、例え目を覚ましたとしても彼女がその手に針と糸を握ることはもうないだろう。
 竜弦はそれが悲しくてやりきれなかった。少しずつ生きる力を奪われていく妻に、自分の命を与えてしまいたいと思うほどに。
 ほんの数時間後の未来の話をすることすら、胸がつかえて苦しい。
「……見てやってくれ。君のために、本当に頑張って作っていたんだ」
 なんとか話し終えて壁に掛かった時計を横目で見ると、そろそろ業務の準備を始める時間だった。
 丸椅子から立ち上がり、妻の額と髪をそっと撫でる。
「そろそろ仕事だ……昼にまた来る」
 そうして竜弦は静かに病室を後にした。廊下で看護師に呼び止められ、妻の容態について昨日までと大きな変化がないことを聞かされる。
 院長室に向かいながら、ふとまた妻の霊圧に意識を向ける。ああ良かった、まだ生きている……そう安堵しながらも、意識を逸らせばその間にこのか細い霊圧が消えてしまうのではないかという冷たい刃のような恐怖が首筋を撫でる。
 乗り込んだエレベーターにはちょうど誰も乗っていなかった。竜弦は院長室の階のボタンを押し、壁にもたれて深々と息を吐き出した。
 恐怖で思考停止することは許されない。立ち止まることも逃げることもできない。そのような世界に自分は生きていて、自分ではなく息子を生かそうと決めた以上他に選択肢などないのだ。
 少なくともこの先の九年を、妻がこの世を去ったのちも自分は無理矢理にでも生きて、来るべき戦いに備えなければならない。でなければ、息子がその九年の先を真っ当に生きられる保証すら無いのだから。
 そして、九年の先に自分はいないかもしれないという予測以上に、九年の中に妻がいることはないのだという事実が竜弦の身を竦ませる。
 物心ついた時から竜弦の傍にいた彼女は竜弦にとって、そこにいて当然の存在だった。いつまでもそうあって欲しいと心から望んだ相手だ。
 だが残酷にも、彼女が死ぬことで、世界の崩壊を防ぐための父の計画のピースが揃うのだという。それを最初に聞いた時、怒りが心を芯から冷やしていくのに気付いた。
 何故、たかが世界のために彼女を失わなければならない?
 生まれて来ただけで苦痛を伴うこの世界に、自分が何かする義理があるのか?
 一方で、それを抑えようとする内なる声も確かに生まれた。
 だが、この世界には雨竜がいる。
 ただのそれだけだった。
 それだけで竜弦は、この最悪の世界のために自分の人生を捧げても良いと思えてしまった。
 息子のためであれば、この最悪の世界を救うために最悪な父親の計画に手を貸しても構わない。それが自分の九年から先の人生を捨てると同義であったとしても。
 そう何度も繰り返した筈の自問自答に、何という皮肉か、と乾いた笑いが溢れる。
(僕は、君を失わないと続いていけないこの世界が何よりも憎いというのに)
(僕がここで全てを投げ出したら、世界が終わるかもしれないだなんて)
 エレベーターはいつの間にか、目的の階に停止していた。

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竜弦が雨竜に名古屋土産でぴよりん買ってくる話

 名古屋に出張に行っていた父が、朝の新幹線で帰っては来たがその後またすぐに仕事で直接土産を渡せないのですぐ家に来て冷蔵庫の中の箱ごと持って行け、などと正午を回った頃に連絡してきた。
 なので雨竜が、その唐突さに呆れつつも実家に足を運んだところ。
 可愛らしくデフォルメされた鳥の形をした……薄黄色のケーキ? が、四つ。冷蔵庫の中に置かれていた箱の中に鎮座していた。
「……なんだ、これ」
 父のセレクトに対するイメージからあまりにかけ離れたそれに、思わず声が出る。
 白い箱に貼られていた黄色いシールには、そのケーキのイラストと共にこう書かれていた。
『ぴよりん』と。
「…………」
 ますますあの父っぽくない。
 父が名古屋土産で買ってきそうなお土産って、良くてキオスクの一番目立つところに置かれていたういろうとかじゃないのか。何故これを選んだのか。
 手元の携帯端末で調べてみたところ、どうやらこのぴよりんは名古屋駅構内の店舗でしか販売されていない新たな名古屋名物のひよこ型プリン、ということらしい。
 箱に貼られているシールを見ると、消費期限は今日になっている。
 箱ごと持って行け、と父は言っていた。つまりこの四つ全て好きにしろということなのだろう。
「……全く……」
 友達と食べなさいの一言くらい言えないのか、あいつは。
 雨竜は改めて父に呆れつつ、同時に気恥ずかしさも覚えながら、通信アプリのとあるグループチャットを開いたのだった。

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ぴよりん、持ち運ぶ難易度やばいらしいですね。
(イートインでしか食べたことない)
続いた→続・竜弦が雨竜に名古屋土産でぴよりん買ってきた話

【0314】white bouquet【石田親子】

 疲れ切った顔で帰宅した父に花束を渡したら、どんな顔をするのだろうか。

 おかしな点はない、筈だ。
 今日は父の誕生日で、いつもより少しだけ豪勢な料理を作って、テーブルメイクも張り切って、プレゼントとちょっとしたケーキなんかも用意したりして、そこまでは昨年もやった。
 でも今年はそこに花束を追加した。追加してしまった。
 息子が父の誕生日に花束を送るというのが何かおかしいかと言えばおかしくはない、と思う。家族が家族に花を送るのはごく普通の事だ。少なくとも母さんが生きていた頃の僕の家はそうだった。他の家庭はどうだか知らないが。
 それに今年……いや昨年、今年度の僕の誕生日には成人を迎えたからと色々して貰った。その恩に報いる程の金銭的価値がこの花束にある訳ではない。第一、あの父と金銭面で釣り合おうなど到底無理な話だ。
 それでも、どうしても気持ちでは報いたいと。そうして辿り着いた結論が、花だった。
 白い花を中心に選んだらホワイトデー用ですか、と花屋の店員さんに聞かれたので違います、と慌てて否定して、父の誕生日に、とそれから続けた時の奇妙な気まずさを思い出すと顔が熱くなりそうだ。
 それにしても少し大きすぎただろうか……薔薇は本数で花言葉が変わると店員さんに教えて貰って、それで束ねたい花との兼ね合いとか色々相談していたらいつの間にかそれなりの花束になってしまって……ああ、もうすぐ帰ってくる。
 渡す時はきっと固い表情になってしまう。それでもこの花達に込めた何かが伝わればいい、伝わって欲しい。もう既に顔から火が出そうだけれど、心臓の鼓動もやたらうるさいけれど、緊張で喉も固いけれど、それでもきっと、ちゃんと渡せる。大丈夫。
 リビングを何周も歩き回って呼吸を落ち着かせながら、何度も何度も渡す瞬間をシミュレートする。それでも、受け取った時に竜弦がどんな顔をするのかだけは想像もつかない。
 ……喜んでくれれば、良いんだけど。
 僅かな杞憂を振り払い、大きく深呼吸をして腹を据える。
 竜弦の霊圧が、自宅のガレージに到達した。
 花束を手に、玄関へ。
 ドアが開くのを待ちながら、手の内にある花達にそっと願いを込める。
 
 どうか少しでも。
 この花が、父を優しく暖めてくれますように。

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≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡
この話と少しだけ繋がってます。
当サイトはこれからも不器用に少しずつ歩み寄ろうとする石田親子を応援していきます。

【石田親子】灯

 息子さえ生きていれば他には何もいらない。
 石田竜弦がそれを他人に話した事があるのは一度きりである。他人と言うには奇妙な縁が繋がれてしまっている男だが、では他の何なのかと問われても形容すべき言葉が見つからない。
 息子を生かすという自分の目的をその男が邪魔するようであれば迷わず排除するであろうという確信はあった。だが一方で、そんな事にはまずならないであろうと根拠も無く思わせる何かがその男にはあった。だから、その男が何かと近くに寄って来るのは放っておく事にした。
 実害はなく、ただし互いに利益もない。それでも共に居る分には何とは無しに己を偽る必要も無く落ち着いていられる。
 まさか傍から見れば友人同士に見えているのでは、と気が付いたのは、友達ならもう少し優しくすればいいだろ、と寄りによって息子から言われた時。
 幼い頃から家の外にいる他者とのプライベートな付き合いを避け続けていた為か、ほとんど完全な他人と傍から見れば友人に見えるような関係性を築いたのはほとんど始めての事と言えた。本当に友人なのかどうかは分からないが、関係性にラベルを貼る必要性は特に感じていなかったのでその疑問は放っておくことにした。
 だからこそ、あんな言葉を迷うこと無く、そしてなんでもない事のように告げるに至ったのだろう。この男にであれば、自分の行動原理を伝えても問題無かろうと。
 それは裏を返せば、息子を生かす為であれば理性を以て他の何もかもを見捨てる事すらやむ無しとする思考の表明でもあった。例えそれがその男の大切な物であろうと見捨てると。
 それでもその男は、「そうか」とだけ頷いた。
 万人を救う事も出来るであろう大きな力を、ただの個人の為だけに振るうという竜弦の選択を、その男は決して否定しなかった。
 そんなやり取りがあってもなお、男は変わらずに接して来たし、竜弦はそれを何も特別な事とは思わなくなり、いつしか日常の一部となっていた。
 そしてそこまで気を許すに至ったせいか、病院のベッドで意識を取り戻した時に最初に感知した霊圧が黒崎一心のそれであっても、竜弦は特に驚く事もなかった。
「大丈夫か?」
 瞼を上げると、蛍光灯の白がやけに目に刺さる。眼鏡を掛けていない視界はひどくぼやけているし見舞い人の顔もよく見えないものの、見慣れた天井の色でここがどこなのかは直ぐに把握出来た。
「……何があった?」
 やけに体が重く、喉から出る声は掠れている。意識が明瞭になるほど、自分の体全体を覆う異様な怠さとずきずき苛む頭痛が際立っていく。
「倒れたんだってよ、仕事中にな」
「……そうか」
 思い返してみると、午前の診療を終えて少し気を抜いた瞬間に体に力が入らなくなっていったような記憶がある。そんなに疲れていたのか、とどこか他人事のように思う。
「ったく……俺から連絡しといたが、あんま雨竜君に心配掛けんなよ」
「何故それをお前に言われる必要が……」
「お前、自分が今いつ死んでもおかしく無いくらいには不安定だって自覚ないだろ」
 いつ死んでもおかしく無い。自分が。
 全く心当たりはなく眉をひそめると、一心は深深と溜息を吐いた。
「さっき聞いた、最近のお前の働いてる時間の長さが異常だってな。ちょっとお前の霊圧も診てみたがガタガタじゃねえか。それも昨日今日の事じゃねえ、相当前から積み重なってたもんが今日一気に崩れたような状態だ」
 この男にしては随分真面目な声に、ようやく事の重大さを飲み込み始める。
 過労で倒れた患者を診た事は何度かあるが、自分が過労で倒れる側になったと。
「霊圧がガタガタなのを肉体で支えてたが肉体の方に無理が出た……いや逆か、無理をしていたから霊圧がガタガタになったんだな。なんでそんな無理した?」
 何故、と問われても。
「仕事以外にやるべき事はないから、仕事をしていただけだが」
「真顔ですげえ事言うなお前……つーかそれなら何で今になって……ああ待った、そういう事か……」
 なるほどなあ、とまた深深と溜息が聞こえる。
 天井の蛍光灯の明るさにようやく慣れてきた。病室の照明をもう少し暗いものにした方がいいかもしれない。
 二、三度瞬きをしてから体を起こす。だが手にも腹筋にも上手く力が入らず上半身を起こすだけでどっと疲れに襲われた。左腕で体を支えた時にチクリとした痛みを覚え、ようやく点滴のカテーテルが刺さっている事に気付く。
 病室を見渡しても視界に写る物の輪郭線は酷くぼやけており、ベッドの傍に立っている一心の霊圧をした人間の顔すら見えない。
「おい無理すんな」
「そうじゃない、眼鏡を寄越せ」
 裸眼の視力が0.1程度なせいで、眼鏡がないと自分の状況把握すらままならない。
 大きな手が伸びてきて、樹脂と金属がこめかみに当たる感触の後にレンズ越しの視界がクリアになる。
 指で眼鏡の位置を直して病室を見渡すと、ベッドサイドの丸椅子には呆れた顔をしている一心が座っていた。個室に入れられたようで、病室内には自分が今寝ていたベッドの他にはテレビ台と小さなソファしかない。腕に刺さっている点滴は一本。
 病人側としては初めて見る病室に少し新鮮味を覚えていると、あまりに覚えのある霊圧がこちらに向かっているのに気付いた。そしてソファをよく見れば、学生鞄が置いてある。
「黒崎、雨竜に連絡したのはいつだ」
「いや、それなんだけどな。実は倒れてすぐに俺に連絡が来たから俺から雨竜君に連絡して、それからすぐに来たんだよな、雨竜君。学校終わった直後だったみたいでよ、来たのがだいたい2、3時間くらい前だ」
「……そうか」
「で、一度帰った。お前の入院セット持って来る為にな」
「……そうか……」
 息子に入院セットを持って来させる羽目になってしまった、と僅かな反省の念を抱いた瞬間に静かに病室のドアが開いた。
 目を向けると、安堵のような表情を浮かべた息子と目が合った。その表情に虚を突かれて黙っているとすぐにその眉が吊り上がり、大きなボストンバッグを肩から下げたままつかつかと歩いて来た。そして開口一番、怒りと呆れがない混ぜになった顔でこう言い放った。
「なんで院長なのに過労で倒れてるんだあんた!?」
 一心が堪らずと言った様子で勢い良く噴き出した。

 相次ぐ連勤で曜日感覚すら失い掛けていたがどうも今日は土曜日らしく、雨竜は一頻り怒った後も制服のまま病室に残り続けた。
 体を起こしているだけで体力を消耗するので再度横になれば、すぐに重くじっとりした疲れが体を眠りの底へ引きずり込んでいった。
 何かの夢を見たような気がするが、酷く曖昧な靄を掴むような夢だったような気がする。
 そうして再度目を覚ました時には、病室の窓から橙の空が見えた。点滴はいつの間にか抜け、あの強烈な怠さは先に比べると鳴りを潜めていた。それでも漠然とした全身の不調は感じる。
「おじさんなら帰った」
 体を起こして眼鏡を掛けると、ソファに座っている雨竜が手元の本に視線を落としたまま言った。
 壁にかかった時計を見ると、六時前を指している。入院病棟の面会時間は八時までだが、そろそろ日が沈む。
「……お前は帰らないのか」
「僕の勝手だろ」
 雨竜は本を閉じて顔を上げた。まだ怒っているようで、眉間には皺が寄っている。
「……担当の先生から色々、聞いた。ここ最近あんたがどういう働き方してたのか」
「そうか」
 未成年と言えど患者の家族だ、それくらい聞くだろう。
 雨竜は膝の上で拳を握り締めた。
「ずっと、気付かなかった」
「私が勝手に体を壊した。お前が悔やむ事ではない」
「そういう事じゃない」
 僅かに声を荒らげると、雨竜は立ち上がりベッドサイドまで歩み寄って来た。
「……大前提としてだ。仮にあんたが僕の父親じゃなかったとしても、いらないって言ってるのに毎月生活費を振り込んできて僕が死にかけた時に真っ先に助けに来るような人間が倒れるまで働いてるのを見逃した事を悔やむ事も出来ない程、僕はあんたに対して冷たくなれない」
 丸椅子に腰掛けると、雨竜は少し眉を下げた。その顔は、幼い頃に必死で泣くのを堪えていた時の顔に似ていた。
「おじさんから聞いた。あんたの今の霊圧だと、いつ死んでもおかしくないって」
「そうらしいな」
「……僕はずっと思ってた。あんたはどこを見てるんだろうって」
 雨竜は一つ息を吸うと、胸の前で滅却師十字を握りしめた。
「あんたは僕の事なんてほとんど見てないと思ってたけど、それは違った。あんたが、僕と僕以外の全部を天秤に掛けて僕を選んでたって事は分かった。あんたが見ていたのはずっと、母さんの復讐と、僕を守る事だった。……それじゃあ、母さんの復讐の必要も無くなって、もう他の全てを見捨ててまで僕を守る必要もほとんど無くなった今、あんたは今どこを見てるんだ?」
 どこを見ているのか、と聞かれ、答えが出てこない事に気付く。
 ああそうだ、自分はまさに黒崎に向けて言ったでは無いか。
 仕事以外に、やるべき事が無いと。
 妻が倒れる前までは、仕事が終わって家に帰れば家族がいた。自分には一生涯掛けても手に入らないと思っていた、「ごく普通」の幸せと愛情に満たされた生活があった。ただそれだけあれば良いと思える程の、何よりも愛しい家庭が。
 けれど妻が倒れて逝ってからそれは過去の物となり。十年近い時間の中で自分は、刻一刻と迫るタイムリミットへの焦燥感と息の詰まる閉塞感と忍び寄る絶望感を紛らわす為に仕事をしていたような物だった。
 そして仕事以外の時間でずっと続けていた滅却師の道具のメンテナンスも、結界作成も、己自身の力の保持も、全てが終わった今、ほとんど必要が無くなった。
 ただ滅却師の能力を復讐と守護の手段としてしか利用していなかった自分には、今となってはいずれも必要のないものだった。
 雨竜はもう、自分で自分の身を守れる。
 自分のするべき事が、見るべき方向が分からなかった。故に、ただ一つ「職務」としてそこにあった仕事にのめり込んだ。
 「成すべき事」も無く「生きて」行く方法など、竜弦は知らなかった。
 答えに窮する竜弦に、雨竜は少し悲しそうな目をした。
「……僕は、あんたと普通の親子に戻りたいとは思ってない。そんなのは今更無理だと思う」
 雨竜の言葉は恐らく正しい。親子としてはとっくに機能不全に陥っている、「真っ当な親」に育てられていない自分が妻抜きで息子と上手くやるなど土台無理があったのだ、と竜弦は認める。
 息子の事は愛している、それでもまともな親として振る舞う事などもう出来はしない。
 増してや、自分の行く先を自分で決められなくなった父親など、子供にとって負担となるだけだ。
 竜弦の思いを知ってか知らずか、雨竜は迷うような素振りを見せながら、それでもはっきりと竜弦を見据える。
「ただ、たとえ今のあんたに生きる理由がないんだとしても、普通の親子になるのが無理だとしても、……生きているのが苦痛なのだとしても、僕はあんたに生きていて欲しい。僕のただの我儘だ。それでもあんたは僕のたった一人の父親だから」
「……何故」
 喉から出た声は、思いがけず震えていた。
 急に目の前の息子に、得体の知れない恐怖を覚えた。何故機能不全に陥っている父親に対してそこまで根拠の無い情を抱けるのか。
「何故お前はそこまで私を気にする事が出来る、生きて欲しいと望む事が出来る」
「何でって……」
 雨竜は困惑しながら、首を傾げた。
「父親だから……その答えで不満なのか?」
 少し考え込んでから、一つ溜息を吐く。
「じゃあこう言ってやろうか。今更死ぬなんて許さない。……僕の為に他の全てを見捨てようとしてたなら、僕の為にもう少し長く生きてくれないか。生きてくれるだけでいい、あんたの生きる理由がいつか僕で無くなるとしても構わないから」
 目尻を緩めたその表情に、胸を抉られる。
 笑っているのに泣いているかのようなその顔は、悲しい程妻によく似ていた。
 ──私は、きっと貴方と雨竜を置いて行ってしまうけれど
 ──どうか貴方は、まだあの子を独りにしないであげてください
 妻がそう言ったのはいつの事だったか。
 そう、確かこことよく似た病室で……
「……ようやく、またあんたと向き合える気がしてるんだ。だからあんたが嫌だと言っても僕はあんたに向き合ってやる、仮に死んだとしても尸魂界まで押し掛けて探し出してやるからな。……それに」
 妻の面影が過ぎったのは僅かな一瞬の事で、雨竜はどんどん居丈高な顔付きになっていき、最後にはニヤリと、けれど力強く笑ってみせた。
「もし生きるのが怖いなら、僕が助けてやらない事も無い。……僕はあんたが戦う理由だ、あんたの守りたい物だ。その僕があんたを守ろうとして、生きて欲しいと願って、何かおかしい事があるか?」
 ……ああ、全く。
 この子が私に似なくて良かった。
「な、何急に笑ってるんだ気味の悪い……」
「言うに事欠いて『気味の悪い』か……」
 思わず零れた笑みに対して「気味の悪い」など言われては立つ瀬がない。
 だが、息子の言葉には確かな覚悟と願いがあり。そしてそれはどこか、自分と妻が息子に捧げた祈りに似ていた。それは、ただ家族に生きて欲しいという、当たり前で、けれど親を信じられなかった竜弦からすれば奇跡のような祈り。
 何故息子がそんな祈りを抱けるのか、理解は出来ない。それでもその祈りを受け止めなければならないと、覚悟を決める他無かった。
 息子を、人間としてどこまでも不完全な父親が抱える生への恐怖と向き合わせているのは、他ならぬ父親の自分なのだから。
「……私が重荷になったらいつでも切り捨てろ」
「そっちこそ重荷にならないようにしろ。だいたいあんたなら、仮に僕に切り捨てられてもそのうちまたなんとか勝手にやれるようになるだろ」
「……そうか、お前に私はそう見えているか」
 こんな無様な姿を見せても尚己の強さへの信頼を向けられている事実を、不思議と重荷とは感じなかった。
「そうだな……せめて、あと二十年は生きねばな」
「あと二十年ってせいぜい定年までだろ。今のうちに趣味でも探しておけよ」
 そこまで呆れたように言ってから、雨竜は今度は笑みを湛えながらまた溜息を吐き出した。
「いや……定年退職なんてしないか、あんたは」
「分かってるじゃないか」
「別に仕事をする分にはいい、ただちゃんと休めよ。今なんて休むにはいい機会だろ」
 そこまで言ってから、雨竜は腕時計を見た。竜弦もつられて時計を見ると、既に六時半を過ぎていた。
「……じゃあ、僕はもう帰るから」
 その言葉が名残惜しげに聞こえたのは気の所為だろう。
 雨竜は立ち上がると、ソファの上に置いてあった学生鞄を手に取って肩にかけた。
「明日からも来れる時は来る」
「学生だろう、そう頻繁に来なくとも良い」
「大した手間じゃない。……それじゃ、明日」
 あっさりと、けれど穏やかな笑みを残して、雨竜は病室から出て行った。
 病室から遠ざかっていく霊圧を感じながら、竜弦はまた昔の事を思い出していた。
 ──あの子は、長く生きられますか
 死に向かうまでの三ヶ月を病床で過ごしながら、妻が呟いた言葉があった。あの時は、自分も焦燥感と恐怖に押し潰されそうになりながら、きっと長生き出来る、させてみせる、と肯定するしかなかったものの。
 ああ、長く生きられるとも。あの子自身がその道を掴み取ってみせたのだから。
 今は、何者にも急かされる事無くその影に怯える事も無く、そう首肯出来る。であれば、自分はあの子に万が一があった時の為にも、あの子の行く道を見届けられるよう生き続けなければならないのだろう。
 その思いは、長らく抱えていた生きる事に対する強迫観念と、それに付随する首元に触れる刃のような冷たい恐怖とはかけ離れており。冷たい部屋に差す窓枠の形をした陽光のような、優しい温もりに似ていた。
 翌日、雨竜が来るより早く一心が見舞いに来た。ベッドの上に体を起こしていた竜弦を見て一心はニヤリと笑った。
「随分顔色良くなったな?」
「そうらしいな」
「昨日と違って、今のお前の霊圧ならもう少し長くは生きられるんじゃないか。ま、体の方が全然治ってなさそうだけどなあ」
 それはその通りで、顔色こそ心理的要因で良くなってはいるが、まだ体の方は絶対安静を言いつけられている状態だった。
 まあ一度ガタが来た体がそう簡単に治る訳もない、と竜弦は医者としての冷静な頭で思う。
 一心は手にした書店のビニール袋をサイドボードにどさりと置いた。
「入院中暇だろ、適当に買ってきた」
「ああ……」
 学術誌や経済誌に文庫本が何冊か、袋の口から覗いている。自分にここまでするこの男にも、一度聞いておかねばならない事がある。
「黒崎」
「ん?」
「貴様、私が雨竜以外どうでもいいと知っていても何故私に付き纏ってきた?」
「付き纏っ……まあいいか……何でって」
 一心はベッドサイドの丸椅子に腰を下ろすと腕を組んだ。
「俺はこっちに来るまでは長い事死神やってたからかもしれないけどな。何となく分かるんだよ、やばそうな奴が」
「……やばそう?」
「こいついつか遠くない内に死ぬんじゃないか、って予感があんだよ。霊圧とかじゃねえ。お前はそれが最初に会った時からぼんやりとだがあった。で、お前の奥さんが倒れてから久し振りに会ってみたらそれは更に強くなってた。理由は他にもないこたないが、それが一番だろうな。流石にほっとけねーよ、そんなやつ」
「……死相が出ていたと?」
「そんなとこだ。その上息子以外何もいらないとか言い出すのは一番危ないパターンだろ、そういう奴に限って残される側の気持ちも考えずに自爆して死ぬからな。で、もうその心配もないと思ったら過労で倒れるしよ……ま、いつか死にそうオーラ出しといてまだちゃんと生きてんだから大したもんだぜお前も」
 つまりこの男は、自分が生きる事に対する漠然とした恐怖を抱え続けていた事など初めからお見通しだったと。その上で当たり前のように接して来たと。
 それが気に食わない訳では無いが。それでも己が抱え込み続けている物を共有は出来なくとも理解しているこの男の存在が、立ち続ける支えとなっていたのは事実なのかもしれなかった。
「……昨日、貴様が帰ってから雨竜に言われた。今更死ぬなど許さない、と」
「ほーう」
「正直なところ、何故あいつが私に拘るのかはまだ半分も理解出来ん。だから、私が重荷になったらいつでも切り捨てさせるつもりでいる。それでも……生きねばならないとは、思った」
「……そーかい。そう思えたなら大したもんだよ、お前は」
「仮に死んでも尸魂界まで押し掛けて探し出してやるとまで言われた」
「お前雨竜君の事相当怒らせてないか、それ……?」
 事実怒らせたので返す言葉もない。
 滅却師があくまで現世側に生きる存在である以上、例え尸魂界と行き来する権利と手段を得たとしても、死者に会う為に尸魂界に赴くというのは一種のタブーである。
 平時にあっては、尸魂界に魂魄を送られた死者と、魂はなお現世に留まっている生者は極力交わるべきではない。
 世界のいくつかの神話に見受けられる「冥界下り」の物語は、現世と尸魂界の距離がまだ近かった頃に実際に死者を彼岸より連れ戻そうとした者の末路を神や英雄に仮託して描いている……と竜弦は教えられた。無論、雨竜とてそれは理解している筈だ。無闇矢鱈と生者が死者を求めて彼岸へ渡るべきではない、と。
 詰まる所、息子をオルフェウスにしたくなければ大人しく生きろ、と己を人質に取った上で脅してきたようなものだ。雨竜がそれを自覚しているかは竜弦の及び知る所では無いのだが。無自覚ならばそれはそれでたちが悪い。
「……まーでも、良かったんじゃないか、オメーはそれで」
「それで、とは」
「お前の世界にはお前を必要としてる患者やこの病院で働く人達がいる。なんなら俺もいる。お前は世界から必要とされてるし、必要とされてなくたってお前が生きるのに別に理由はなくていい。ただそれでも、今のお前には生きる為の決定的な理由がどうしても必要で、そうなれるのは雨竜君だけだ。だから、いくら俺なんかがまだ死ぬんじゃねえって叱ってもお前には響かねえし雨竜君に言われでもしない限りその気にもなれないだろ、こればっかりはな」
「……それもそうだな」
 この男の自分の中の存在意義は理解している。それでも、生きろと言われたところで雨竜程は響かないのだろうというのは認めざるを得なかった。そして、自分は仕事にのめり込むたちでありながら仕事のために生きる事も出来ないだろうとも。
「だから、まあなんだ。気付けたならもう手放すなよ、お前の生きる理由」
「……ああ」
 自分によく似た、けれど今の自分のそれよりは芯の強い霊圧が少しずつ近付いて来るのを感じる。
 ああそうだ、まだ妻が元気だった頃。仕事の翌朝、休日の朝に幼い息子が自分を起こしに来るのを、その霊圧を感じながら待っていた事があった。
 それを思い出して、胸に小さな温もりが灯るような心地に竜弦は目を細めた。
 遠い過去の物になりかけていたそれが、今一度ゆっくり色を取り戻し始めていた。

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雨竜の存在はきっと竜弦にとって他の何とも比べられないくらいかけがえのないものだとおもうのです。