32話放送前にどうにか消化したくて書いたものです。
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「ソー」
耳慣れている筈の優しい声で、目の前の少年――ヒカルは己の名を呼ぶ。
いつの間にか目の前に踏み込まれ、ソーは背中に冷や汗が伝うのを感じた。ムジョルニアを握る手が震える。
ヒカルは、いつものように穏やかで優しい笑みをたたえてソーを見上げている。平時であれば、彼より遥かに長い時を生きているソーですら、故郷の母を思い出すような慈愛に溢れた笑顔だ。しかし今のヒカルの笑顔は、ソーの目にはとても恐ろしいものに見えた。
慈愛の中にどこまでも広がる仄暗い深淵を抱いているかのような。温かさの中に全てを凍り付かせる冷気が潜んでいるかのような。あまりにもアンバランスなその表情は、得体の知れない恐怖となってソーをじわじわと蝕む。
「ソー、どうしたの?僕を見て?」
「っ……」
ヒカルが右手を伸ばしてソーの頬にそっと触れる。ソーはそのあまりに冷たい指先に眩暈を感じた。だが、動けない。ヒカルの指はまるで体の自由を奪う魔法のようだった。
「……本当に、お前はヒカルなのか」
どうにか声を絞り出すが、その声はあまりにも震えていた。手にしたムジョルニアが重く感じる。
「何言ってるの?僕は僕だよ」
左手もソーの頬に触れたかと思うと、ヒカルはくすりと笑う。
「ふふ……僕は何も変わってないよ」
ヒカルは爪先を上げると、自身の顔をソーに近付ける。その優しいけれど暗い表情は、蠱惑的にすら映る。
「ねえ、」
深淵に引き込まれるかのように、その瞳に吸い寄せられる。
何故だかは分からないが、ソーはその瞳に、共に育った弟の姿が重なるのを感じた。
(ああ……同じだ、あの時と)
「ねえ……僕を見て」
(違う、ヒカルはロキとは違う筈だ)
「この力があれば、何だって出来るんだ……アキラを守ることも、ロキを救うことも」
ヒカルは手を滑らせて、両腕をソーの首に回した。自然、ソーはヒカルに抱き締められる形になる。ソーは、動けない。ただヒカルのなすがままにされるだけだ。
眩暈が一層強くなる中で、ソーはヒカルの甘い蜜のような声をただ聞いていることしか出来ない。
ソーの髪を撫でる手は、幼い頃故郷にいた時の母を思い出させた。温かい雲に包まれているかのように夢見心地になる。
「僕と一緒に強くなろう?ソー」
耳元で囁かれ。
ソーの手の中からムジョルニアが滑り落ちた。
ムジョルニアが地面にめり込む轟音と共に、ソーは、自身の中で何かが崩れるのを感じていた。
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男のヒロイン闇落ちはロマン。