青い恋の終わらせ方(再録)(モブ→桜庭)

某Webアンソロに寄稿した、桜庭に恋して失恋するとあるモブの男の子のお話です。

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僕の初恋。それは、僕が高校一年生の頃。元々働いていたコンビニのブラックバイトを辞めて、地元のファミレスでバイトを初めて一週間経った頃の十二月に始まった。

ガシャン!
陶器の皿と金属のフォークやナイフがいくつもまとめて一気に床に落ちる騒々しい音は、ざわめく店内を一瞬で静まり返らせた。
「っ……! も、申し訳ありません!」
一瞬真っ白になった頭は、床に落ちたフォークに反射した照明が目に刺さることで現実に引き戻される。
体が芯から冷えていく感覚と共に、僕は床にしゃがみ込むと散らばった食器をかき集めた。ああ良かった、割れているお皿はない。
「おいおい大丈夫か?」
席に座っていた客──男性三人組の一人が腰を浮かして僕に声を掛けてきた。
「だっ大丈夫! 大丈夫ですので!」
なんとかしなきゃ、なんとかしなきゃ、それだけが頭の中をぐるぐる回る。
「申し訳ありませんお客様!」
バイトリーダーの声と、掛けてくる足音。それすらどこか遠くから聞こえてくるように感じる。
バイトリーダーが隣にしゃがんでトレーを差し出してくれたことは分かった。僕は必死で食器をトレーの上に重ねていく。
「待った」
無心で片付けをしていると、静かな声が僕の耳を打った。
「その店員、怪我をしているんじゃないのか」
「えっ? あ、本当だ……申し訳ありませんお客様」
その店員、というのが僕のことを言っているんだと気付いたのは、バイトリーダーが僕の肩を掴んで食器を集めるのを止めさせた時だった。
「ちょっとストップ」
「えっ」
「今休憩してる子いるから、一旦裏行って傷口洗って、救急箱出してもらって」
「えっ、でも、片付けなきゃ」
「怪我した手で食器を触る方が問題。ここは私が片付けるから」
手、と言われて自分の両手を見る。左手の親指と人差し指の間に一条、赤い線が走っていた。
「……あ」
急に手が痛みを訴え始める。小さな痛みだけれど、動かしたら傷口が広がるという恐怖心で左手が動かせない。すると急に背中にぶわっと冷たい汗が噴き出て、急に頭の天辺から爪先まで動かなくなる。
そんな僕の頭上で、誰かとバイトリーダーの会話が続いている。
「おい店員、裏に案内しろ。そこの怪我をした方の店員の手当てをする」
「ですがお客様、」
「軽い傷だが放置すれば治りが遅くなる。それに……」
ごそごそと何かを探るような音の後、その人は動けない僕と困惑するバイトリーダーに向かってこう言ったのだった。
「僕は医者だ。ここに医師免許もある」
糸に引き上げられるようにして、僕は顔を上げていた。
三人組のお客様のテーブルの奥に座っていたその人は腰を浮かし、顔写真入りのカードをバイトリーダーの方へ向けていた。その人は黒い髪に紺のワイシャツに白い肌が対照的で。眼鏡の奥には鋭い目が覗いている。食器を片付けていた時にも顔は見ていた筈なのに、そこで始めて気付く。
綺麗な人だなあ……。

「ま、待って、あの、お待ちください!」
そのお医者さんは、僕の怪我を手当するとさっさとホールに戻り店を出てしまった。
慌てて追い掛けると、お医者さんは一緒に来ていた男の人二人と一緒に店の手前の交差点の所で待っていてくれた……と言うより、両脇をがっしり固められているように見えた。
「おい……!」
「まあまあいいじゃねーか」
「そうですよ薫さん」
少し不機嫌そうなお医者さんを、臙脂のコートを着たお医者さんより少し背が低い男の人とカーキ色のコートを着た背が高い男の人が宥めている……ように見える。
追い掛けない方が良かっただろうか。
「あ、あの……」
「気にすんなって!」
「薫さ……この人に、言いたいことがあるんですよね?」
背が高い方の人にそう促される。暗くてよく見えなかったけど、通り過ぎた車のヘッドライトに照らされていても柔らかい笑顔が見えた。
「さっきは、ありがとうございました!」
お医者さんを真っ直ぐ見てから、頭を下げる。
「当然のことをしたまでだ」
淡々とそう返される。顔を上げると、お医者さんは無表情でこう続けた。
「処置を怠ると跡に残る。傷が開かないよう気を付けるように」
「は、はい!」
「……それと」
「は、はい」
お医者さんはすこし迷うように言葉を止めてから、溜め息と共にこう言った。
「飲食店で働いているんだろう、ナイフの扱いにはもっと慎重になるように」
溜め息混じりではあったけど、その言葉からは不思議と冷たさは感じなかった。
「ありがとうございます!気を付けます!それでは、僕はこれで……!あっ、えっと、またのご来店をお待ちしております!」
「……ああ」
「近くで仕事があったら来るぜ!」
「ご飯、とっても美味しかったです!」
信号が青に変わり、三人は横断歩道を渡って駅前の通りの方へ歩いて行った。夜でも明るい雑踏の方へ三人が消えていくのを見守りながら、僕はもう一度深々と礼をした。

それから、僕がバイト先であの人たちを見ることはなかった。
あの時一緒にいたバイトリーダーから聞いた話だと、あの人達はこの前が初めての来店で、それから見たことはないらしい。
それじゃああの時あの場にあのお医者さんがいたのは、運が良かったんだなあ。僕はそう思った。
そしてどうしたことか、あのお医者さんのことが忘れられなかった。傷が治って、傷跡がほとんど消えて、何ヶ月経っても、あの時僕を手当してくれたあのお医者さんが頭から離れなかった。
お医者さんという仕事柄、怪我をしていた僕を放っておけなかったのかもしれない。それでも、見ず知らずの僕の怪我の手当をしてくれるなんて凄い人だ、と思う。
もう一度あの人に会ってみたい。それでももう、余程タイミングが良くなければ会えることはない。
あの人にはもう会えないかもしれない。
そう思うと、胸が少し痛んだ。

***

二月のとある金曜日のことだった。
バイトから帰ってきたところをアイドルオタクの兄貴から急に、明日は暇かと聞かれた。
なんでも明日のライブに一緒に行く予定だった人が急病で行けなくなったらしい。それで、急遽僕に一緒に来てほしいということだった。チケ代は奢るから、と。
どうせ明日は暇だし、行ったことがない所に行ってみるのも悪くない。
だから了承すると、兄貴はニヤリと笑って、ぜってー良いライブになるから楽しみにしとけよ、と言った。
アイドルのライブ、映像は見たことあるけど行ったことないから楽しみだなあ。そう呑気に考えながら、僕は自分の部屋に向かったのだった。
僕の分岐点が、そのライブで待ち受けているとも知らずに。

兄貴に連れられてやって来たライブ会場は海沿いということもあって、海風が突き刺さるように寒かった。
なんでも今日のライブは兄貴が好きなアイドルの所属事務所全体で開催される大規模なものらしく、今日だけで九グループのユニットが出演するらしかった。
兄貴と一緒に昼食を取ったファミレスの中にはこれから同じライブに参加するのであろう女性客が多く、少し落ち着かない。
それでも兄貴は、男のファンも結構多いから心配すんな、と笑っていた。
実際、入場してみると広いホールの中には男も結構たくさんいた。周りの人達はライブTシャツやタオル、ペンライトを手にざわめいており、やはり落ち着かない。自分が場違いなような気もする。
兄貴が慣れた顔で大量のペンライトをベルトで体に巻き付けている間──洋画に出てくる傭兵とか軍人っぽい──、僕はただきょろきょろとステージや客席を見ていた。
ライブが始まると、満員の客席が一斉にざわめき立つ。
いや、もっとすごかった。
床が揺れている、と感じるほどの割れんばかりの歓声、悲鳴、それよりもっと大きく力強い声で歌い出すステージ上のたくさんのアイドル達。
波のようにうねる色とりどりのペンライトの光、アイドルの歌に合わせて起こるコール。激しいダンスを踊りながらも客席をしっかり見て笑いながら歌うアイドル達。
ステージと客席が一体となってこの1つの空間を作っているようにすら思えて、何もかもから目が離せない。こんな光景、初めて見た。いや、こんな空間、初めてだ。自然と体が熱くなって、いつの間にか笑顔が零れて、気付けば僕も必死で兄貴に借りたペンライトを振っていた。
付いていくのに必死で、でもめちゃめちゃに楽しくて。一曲目が終わる頃には、もうすっかり息が上がってしまっていた。
「すげえ……」
思わずそう呟くと、それに気付いた兄貴は僕を見てニヤリと笑い、「だろ?」とだけ言った。
一曲目が終わり、今日の出演者の自己紹介が始まる。
そこで僕は初めて、ステージの脇にある大型モニターで出演者の人たちの顔を落ち着いて見ることが出来た。さっきは付いていくのに必死だった。
そしてその中。いや、真ん中に立っている三人のユニット。最初に挨拶を始めたそのユニットを見て、僕はあっと声を上げた。
──あの人達は、僕がバイト先で怪我をした時にあの場にいたお客さんたちじゃないか?
そして、中心に立つ赤い服を着たあの人に続き、あのお医者さんは──青い衣装を身にまとい、マイクを手にステージに立っているあの人は。微笑を湛えて一歩、客席側に踏み出した。
「DRAMATIC STARS、桜庭薫。今日は最高の時間を皆に届けてみせよう」
さくらばかおる。
それが、三ヶ月経って初めて知った、あの人の名前だった。

ライブが終わった時、僕は呆然と席に座り込んでいた。
心臓はバクバクと鳴り続けている。体は熱く、外に出れば真冬だというのに熱くてたまらない。ひどい高揚感が全身に満ちて、体の震えが止まらない。
あの人の艶のある良く通る歌声が、全身を震わせる歌声がまだ耳に残り続けている。温度は低いのに魂の全てを燃やしているかのような声が僕を捉えて離さない。
兄貴に声を掛けられて慌てて立ち上がったが足元はもつれ、歩くのがやっとだった。
「……兄貴」
会場を出て、僕は思わず呟いていた。
「ちょっと、CD買って良い……?」

***

それから、寝ても覚めても僕はあの人のことしか考えられなくなった。
公式ホームページ、SNS、色々と見た。ラジオも聞き始めた。CDも全部買ったし、出演作品も見れるだけ見た。
バイト先でもついあの人を目で探してしまう。会えることは、なかったけど。
あの時ステージの上で歌っていたあの人の姿を忘れられない。考えるとそれだけで胸が苦しくなる。
どうも僕は、あの人に恋してしまったらしかった。
アイドル。それは僕のような一般人に比べると遠い世界に生きる人達だ。
兄貴が時々言っていた。アイドルっていうのは、根本的に俺達一般人とは違う場所にいる人たちなんだ、と。
よく分からなかったけど、今なら分かる。
桜庭さんのことを知れば知るほどに、僕は桜庭さんと自分のいる世界の違いを痛感した。
人としての違いが……差が、ありすぎる。
綺麗な容姿に綺麗な声。外科医からアイドルに華麗に転身し、アイドルとしては完璧なパフォーマンスを追求する姿勢。漫画の登場人物みたいだ。
僕はと言えば、普通の高校生。一応大学には行くけど、正直自分が何をしたいのかも分からない。あまりに眩しすぎて、桜庭さんを遠くから見ているのが精一杯だ。いや、見ずにはいられない。桜庭さんを見ていると、心が軽くなるから。光を貰えるような気がするから。
何も持ってない僕だけど、そんな僕でもこんな風に誰かの心を救えるような人になれたら、と思わずにはいられないほどの輝きが、桜庭さんにはある。
だから桜庭さんのことはずっと応援していたい。だけど時々、桜庭さんが僕だけを見てくれれば、と思うことをどうしても止められない。
そう、あの時、怪我をした僕の手に包帯を巻いてくれたみたいに。またあんな偶然が起こってくれたら、なんて期待するだけ無駄なのに。
こんな思いをするのは辛いだけだから、断ち切ってしまいたい。いくらそう思っても、桜庭さんのことを思うのを止められない。
ライブに行って、出演番組を見て、遠くから見ているだけで幸せな筈なのに、ひどく苦しい。こんなんじゃ、純粋な気持ちで桜庭さんを応援なんて出来ない。
僕に光をくれるあの人を、もっと純粋な気持ちで応援したい。こんな苦しい思いで応援したくない。

だから、桜庭さんを好きになってから1年が経った頃。
僕は、自分でこの「恋」を終わらせることにした。

***

ドラスタのニューシングル発売記念のトークショー&握手会イベント。仲の良さも売りであるドラスタにしては珍しい、メンバー毎で別会場別日程のリリイベだった。
意を決して初めて応募した接触イベント、まさか本当に当選するとは思わなかった。バージョン違い一枚ずつで系三枚買って全部のシリアルで応募したりはしたけど。
トークショーの間、桜庭さんの言葉は一字一句聞き漏らすまいとしながら緊張で気が気ではなかった。
握手会の列に並びながら僕は何度も深呼吸して、何度も何度も、今日桜庭さんに向けて用意した言葉を反芻した。大丈夫、言える、きっと言える。
お次の方どうぞ、と、スタッフさんに誘導され。僕はカーテンの仕切の中に足を踏み入れた。
「今日は来てくれてありがとう」
「あっ……!えっと、新曲、凄くよかったです!」
言葉が喉につかえて、上手く出て来ない。冷たくてすべすべしているようで、でも少し温かい桜庭さんの手の感触に、頭の中はぐちゃぐちゃになる。
それでもなんとか、桜庭さんの目を見て、勇気を奮い立たせ、必死で言葉を絞り出す。
「僕……その、医者を、目指すことにしたんです。桜庭さんに僕、救われて……歌にいつも助けてもらってて、だから、僕も誰かを助けたいって……だから……!」
桜庭さんの眼鏡の向こうの目が僅かに見開かれた。そして、口元には優しい笑みが浮かんだ。
「……そうか、ありがとう。それでは」
少しだけ、桜庭さんの手に力がこもった。気がした。
「僕達の曲が、君の背中を押せるよう……祈っている」
「っ……!はい、ありがとうございました!」
背中にそっと手が添えられる。手が解け、僕は桜庭さんに一礼してからブースを後にした。

***

高二の冬になっていきなり志望を医大にする、と言ったら流石に担任も引っ繰り返るくらい驚いていたし、浪人させてほしいと頭を下げたら両親も唖然とした。
でも、これが僕が選んだ失恋の方法だった。
恋を終わらせたかった。でも、この恋を無駄になんてしたくなかった。僕のこの桜庭さんに抱いた憧れだけは、恋を終わらせても大切にしたかった。

──何故医者からアイドルに転向したのか、とは良く聞かれます。理由は様々なのですが、一つ、医者とアイドルの目指すところは近いのではないかと、僕は思っています。

ソロ曲発表に合わせて発売された雑誌に掲載された桜庭さんのグラビア&ロングインタビュー。清潔感のある白い部屋の中、白い服を着こなす桜庭さんはクールな佇まいの中に微笑を覗かせていた。

──医者は、人の体を、また心も救います。アイドルは、人の心を救う存在です。心が救われることで、体が救われることもあります。苦しむ誰かを救いたい、寄り添いたい、苦しみと戦う力になりたい……医者であれアイドルであれ、僕が目指す所は同じです。

僕は何も持っていない。
ただ、桜庭さんのように誰かを救える人になりたい。
思えば僕は、桜庭さんに助けられたから桜庭さんに恋をしたのだ。桜庭さんに助けられて、桜庭さんの凄さを知ったから恋をしてしまった。
この恋を自分から終わらせようと思ったら、恋よりも大きな思いや行動で上書きするしかない。
それでも僕は、この恋を無駄にしたくなかった。だから、医者を目指すことに決めた。桜庭さんのように、苦しむ誰かを救える人になりたかったから。
他の人から見れば動機は些細かもしれないけど、僕にとっては大事な大事な思いだ。それに、桜庭さんのお陰で自分がやりたいことを見付けられた。それだけは絶対に、手放したくなかった。

「ただ今より入場を開始しまーす」

ライブスタッフが、会場の外にいるファン達にそう声を掛け始めた。
今僕は、広いと感じたあの時のライブ会場よりずっと大きな会場のすぐ外にいる。あの時よりたくさんのファン達。あの時より僕の背も少しだけ伸びた。
プレゼントボックスに匿名の手紙を入れ、僕はチケットを握り入場口へ向かう。

『桜庭薫さんへ。いつも応援しています。昔、僕は握手会であなたに向かって、医者を目指している、と宣言したことがあります。もう覚えていらっしゃらないかと思います』

昨日の深夜まで、悩みに悩んだ手紙の中身。手紙を書くことすら悩んだ程だった。
それでもこれだけは伝えたかった。あなたのお陰で人生が変わった人間がいると、それだけ伝えられれば、良いと思った。

『先日、医師国家試験に合格しました。あなたのお陰で、あなたの歌の力を借りて、僕はここまで来ることが出来ました。本当に、ありがとうございました』

遠い憧れの人に恋をする日々はこれでようやく終わり。
僕はこれから、憧れの人とは違う場所で、誰かを救う人になる。

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315プロモブドル失恋Webアンソロに参加させていただけた際の作品です。
反省点は多いのですが桜庭のファンになるような男を不幸にしたくないという一心で書きました。とても楽しかったです