「……先生達、すげえ大騒ぎだったな」
「騒ぎすぎだと思うけどね」
昨日図書館で借りたヴィトゲンシュタインのページを捲りながらそう答えると、屋上の柵に凭れて座る黒崎は「落ち着いてんなあ……」とぼやいた。
事の始まりは、ずっと提出を催促されていた進路希望の紙を登校時に提出した時まで遡る。どうも、3年の秋になってから医大を第1志望に決めるというのはなかなかに大それた事らしかった。それから担任を発端に職員室は現高3を担当した教師を中心に大騒ぎ。あまり好ましくない事だと思うのだが。
教師達が動揺しているのは生徒達にも伝わり、流石に心配されたので黒崎達には事情を話したら、絶句された。それが朝の出来事。
「お前が医大に行くって決めたんならいいけどさ、もう秋だぞ?流石のお前も医大対策の勉強とかしてないだろ?」
「医大対策……?赤本を解いてみたら合格圏内だったから、行けるだろうと判断しただけだ」
「うん、そうか、悪い。聞いた俺が馬鹿だった」
黒崎がパンの袋を開ける。そこで僕が昼ご飯を持っていない事に気付いたらしかった。
「お前今日昼飯は?」
「……忘れた」
「は?珍しいな」
「いいだろ、別に」
「悪いなんて言ってねえだろ。……ほら」
ずい、と黒崎が目の前にパンを差し出してくる。見れば、半分になったコロッケパンだった。何のつもりだ、と半目で睨むと、そんな顔すんなって、と黒崎は呆れたように言う。
「6時間目お前のクラスとうちのクラスと合同で体育だし、流石のお前でも昼飯抜きで体育はキツいだろ。なんか食っとけ」
「……分かった、ありがとう」
本を閉じて渋々受け取ると、黒崎は自分の分をコロッケパンをほぼ一口で平らげた。
「君も購買のパンなんて珍しいな」
「昨日から遊子が校外学習でいねえんだよ」
コロッケパンを1口齧り、無視していた空腹感をなんとか宥める。何だかんだで、黒崎の気遣いは有難かった。僕にパンを分ければ君には足りなくなるだろうに。うん、黒崎は本当に馬鹿だ。……そんな馬鹿のお陰で、僕はここにいる訳だが。
「なあ、黒崎。君、前にここで僕に医者にならないのか聞いてきた事あっただろ」
「……ああ。あったな、そんな事」
黒崎がもう1つパンの袋を開けながら頷く。
パンの礼と言う訳では無いのだが、僕が自分の行く先を決めた以上、これは黒崎にだけは伝えておくべきなのだと思う。
「あの時の僕は、自分が何者になるべきなのか分からなかった。そもそも自分が何者なのかも、実はよく分かってなかった」
「……」
黒崎は何も言わない。何か言ってくれた方がこちらの気は楽なのだが。けれど集中して聞かれるより今みたいにパンを食べながら聞いてくれるくらいで丁度いい。
「多分、よく分からないままでも良かったんだ。君達といると、それが気にならなくなるし、些細な問題に感じるから。君達は、僕が何者かなんて気にしないだろ。……実際はそうもいかなかったけど」
自分の立っていた筈の世界の足元が揺らぐ位の事が起きて、答えを必要としていなかった筈の、自分が何者なのかという問に答えられない事が無性に不安に感じた。
けれどあの戦いを経て、迷い続けたそれにようやく出せた答えは、あまりにシンプルな物だった。
「在り来りな答えだけど、僕は僕でしかない。何者になるのか決められるのも、僕しかいない」
後はもう自分で片を付けるために死ぬしかない、なんて所まで追い詰められなきゃ気付けなかったんだから、大概馬鹿だけど。
「だけど、実は何者になりたいかについてはまだ全然決まってない。でも、何になるかそろそろ考えないといけないし……だから、昔なりたかった物になろうと思った。そう、昔確かに僕は医者になりたかったんだ。……生きている人も死んでいる人も、救えるようになりたかった。それが僕の出発点だったって思い出して、まだそれは僕の原動力だと思えた。それだけさ」
「……そうか」
「それに医師免許を取っておけば後々何かと潰しが効くし、就職に困る事も無い。収入も見込める」
「それで医大に受かる自信があんだからすげーよなお前……」
黒崎は呆れ果てているようだし、朝方茶渡君や井上さんすら絶句したのは黒崎と同じような理由なのだと思う。
僕とて、医大が狭き門だと言うのは承知している。それでも僕の学力ならばこのまま過去問で対策を進めれば合格圏内に入れるのは事実なのだし。むしろ、過去問の点数だけ見れば既に入ってはいるのだし。
いつの間にかパンは残り一口分になっていた。
「お前の言う通り、オレはお前が何者なのかなんて気にした事ねーけどな。でもお前が自分でそう思えたんなら、良かったんじゃねーか?」
「少し時間はかかったけどね」
僕はパンの最後の一口を口に入れ、咀嚼して、飲み込む。
「……君達がいないと気付けなかったとは思う」
結局僕にとっては、黒崎達がただの友達でいてくれた事が、何よりの救いだったのだ。僕をただの石田雨竜として認めてくれる彼らがいてくれた事が。だから僕は僕でしかないのだと今ならはっきり自覚出来る。
それを黒崎に面と向かって言うのは少し口惜しいので、言わないでおくが。
「……そうだ石田、今日うちで飯食ってかねえか?」
「ん?良いなら行くけど、なんで」
「遊子も夏梨もいねえから今親父が飯作ってんだけど、野菜が傷みかけてるからどうせならまとめて鍋にしようって朝なったんだよ。量がかなりあるから、チャドと井上にも声掛けようと思うんだけどよ」
「なんでそんな量の野菜を一気に駄目にしかけるんだ……」
「親父に聞いてくれよ……」
黒崎はいつの間にか3個目のパンの袋を開けていた。
僕はまた読み掛けのヴィトゲンシュタインを開く。今日中には読み終わりそうだ。倫理の授業で興味を持ったから何となくで読み始めたが、これからはもう少し理系分野か洋書に比重を置いた方が良いだろうか。
しかし何となく読み進める気にはなれず、ページを開いたままぼんやりと時間だけが過ぎる。黒崎は対面にいる僕を気にすることも無くチョコがかかったパンを食べていた。僕はそのまま視線を空へと向ける。
空は抜けるように青い。5階分下の校庭からは、昼休みに興じる生徒達の声がする。
会話は無くとも、何となく居心地が良くて。
ああ、これが僕が諦めようとしていた物なのだ、と急に胸が締め付けられた。
けれど同時に、諦めていたら先行きを決めることも出来なかったけれど、今の、諦めていたら決して得られなかった当たり前の1秒1瞬が、とても愛おしく思えて。
柔らかな風が頬を撫でる。その風の中に秋が暮れていく気配を感じて、不思議と頬が緩んだ。
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この話の対として書きました。
この二人の距離感がとても好きです。