【雨竜8歳と叶絵】黄昏の楽園

 昨日から降り続いていた雨がやんだその一瞬の時間。少しずつまばらになって行く雲の狭間から茜の光が差し込み始めた。
 雨竜はその様を、自宅近くの高台から見詰めていた。あっという間に夕陽に染め上げられて光り輝く世界はあまりにも美しく、幼い少年の目を奪うには十分であった。
 ──ギリシャ神話のエリュシオンは、こんな世界なのかもしれない。
 自分が教えられた「正しい」世界のシステムと異なる世界の有り様を語る外国の神話、その中で綴られる「死者達の楽園」を思う。
 ──尸魂界も、これくらい綺麗な世界だといいな。
 そして、自分にとっては生まれた時から身近な存在である死者達を思う。彼らはどんな世界へ旅立つのだろう。尸魂界とはどんな世界なのだろう。
 だが広がりかけた想像の翼は聞き慣れた呼び声によって遮られた。
「雨竜」
 声を掛けられてハッと振り向く。大好きな母親が、閉じた傘を手に立っていた。
「お母さん」
「すぐ近くまでは来ているのに遅いので心配したのよ、どうしたの?」
「えっと……綺麗だなって……」
 街の景色に見とれていた、と言うのが少し恥ずかしく、しどろもどろになって答えると、母親はくすりと笑って雨竜の隣に立った。
「……そうね。本当に綺麗。ずっと見ていたいくらい」
 その言葉に、雨竜はパッと顔を輝かせた。「でもね、」と母親は続ける。
「あまり見ていると帰りが遅くなるでしょう?それに夕焼け空になったということは、もうすぐ夜になるという事なの。だから、もう帰りましょう」
「……はい、お母さん」
 母親に優しく手を引かれ、後ろ髪を引かれながらも雨竜は町に背を向ける。空には少しずつ紺が滲み、茜の光を地平まで覆い隠そうとしていたけれど、雨竜はその空を見る事は無かった。
 ──それは、とある六月十六日。己を包む世界の全てが少年の目に優しく見えていた、最後の日の出来事。

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某地平線楽団の曲を聞いているうちにふと思い付いたので書きました。