【石田親子】灯

 息子さえ生きていれば他には何もいらない。
 石田竜弦がそれを他人に話した事があるのは一度きりである。他人と言うには奇妙な縁が繋がれてしまっている男だが、では他の何なのかと問われても形容すべき言葉が見つからない。
 息子を生かすという自分の目的をその男が邪魔するようであれば迷わず排除するであろうという確信はあった。だが一方で、そんな事にはまずならないであろうと根拠も無く思わせる何かがその男にはあった。だから、その男が何かと近くに寄って来るのは放っておく事にした。
 実害はなく、ただし互いに利益もない。それでも共に居る分には何とは無しに己を偽る必要も無く落ち着いていられる。
 まさか傍から見れば友人同士に見えているのでは、と気が付いたのは、友達ならもう少し優しくすればいいだろ、と寄りによって息子から言われた時。
 幼い頃から家の外にいる他者とのプライベートな付き合いを避け続けていた為か、ほとんど完全な他人と傍から見れば友人に見えるような関係性を築いたのはほとんど始めての事と言えた。本当に友人なのかどうかは分からないが、関係性にラベルを貼る必要性は特に感じていなかったのでその疑問は放っておくことにした。
 だからこそ、あんな言葉を迷うこと無く、そしてなんでもない事のように告げるに至ったのだろう。この男にであれば、自分の行動原理を伝えても問題無かろうと。
 それは裏を返せば、息子を生かす為であれば理性を以て他の何もかもを見捨てる事すらやむ無しとする思考の表明でもあった。例えそれがその男の大切な物であろうと見捨てると。
 それでもその男は、「そうか」とだけ頷いた。
 万人を救う事も出来るであろう大きな力を、ただの個人の為だけに振るうという竜弦の選択を、その男は決して否定しなかった。
 そんなやり取りがあってもなお、男は変わらずに接して来たし、竜弦はそれを何も特別な事とは思わなくなり、いつしか日常の一部となっていた。
 そしてそこまで気を許すに至ったせいか、病院のベッドで意識を取り戻した時に最初に感知した霊圧が黒崎一心のそれであっても、竜弦は特に驚く事もなかった。
「大丈夫か?」
 瞼を上げると、蛍光灯の白がやけに目に刺さる。眼鏡を掛けていない視界はひどくぼやけているし見舞い人の顔もよく見えないものの、見慣れた天井の色でここがどこなのかは直ぐに把握出来た。
「……何があった?」
 やけに体が重く、喉から出る声は掠れている。意識が明瞭になるほど、自分の体全体を覆う異様な怠さとずきずき苛む頭痛が際立っていく。
「倒れたんだってよ、仕事中にな」
「……そうか」
 思い返してみると、午前の診療を終えて少し気を抜いた瞬間に体に力が入らなくなっていったような記憶がある。そんなに疲れていたのか、とどこか他人事のように思う。
「ったく……俺から連絡しといたが、あんま雨竜君に心配掛けんなよ」
「何故それをお前に言われる必要が……」
「お前、自分が今いつ死んでもおかしく無いくらいには不安定だって自覚ないだろ」
 いつ死んでもおかしく無い。自分が。
 全く心当たりはなく眉をひそめると、一心は深深と溜息を吐いた。
「さっき聞いた、最近のお前の働いてる時間の長さが異常だってな。ちょっとお前の霊圧も診てみたがガタガタじゃねえか。それも昨日今日の事じゃねえ、相当前から積み重なってたもんが今日一気に崩れたような状態だ」
 この男にしては随分真面目な声に、ようやく事の重大さを飲み込み始める。
 過労で倒れた患者を診た事は何度かあるが、自分が過労で倒れる側になったと。
「霊圧がガタガタなのを肉体で支えてたが肉体の方に無理が出た……いや逆か、無理をしていたから霊圧がガタガタになったんだな。なんでそんな無理した?」
 何故、と問われても。
「仕事以外にやるべき事はないから、仕事をしていただけだが」
「真顔ですげえ事言うなお前……つーかそれなら何で今になって……ああ待った、そういう事か……」
 なるほどなあ、とまた深深と溜息が聞こえる。
 天井の蛍光灯の明るさにようやく慣れてきた。病室の照明をもう少し暗いものにした方がいいかもしれない。
 二、三度瞬きをしてから体を起こす。だが手にも腹筋にも上手く力が入らず上半身を起こすだけでどっと疲れに襲われた。左腕で体を支えた時にチクリとした痛みを覚え、ようやく点滴のカテーテルが刺さっている事に気付く。
 病室を見渡しても視界に写る物の輪郭線は酷くぼやけており、ベッドの傍に立っている一心の霊圧をした人間の顔すら見えない。
「おい無理すんな」
「そうじゃない、眼鏡を寄越せ」
 裸眼の視力が0.1程度なせいで、眼鏡がないと自分の状況把握すらままならない。
 大きな手が伸びてきて、樹脂と金属がこめかみに当たる感触の後にレンズ越しの視界がクリアになる。
 指で眼鏡の位置を直して病室を見渡すと、ベッドサイドの丸椅子には呆れた顔をしている一心が座っていた。個室に入れられたようで、病室内には自分が今寝ていたベッドの他にはテレビ台と小さなソファしかない。腕に刺さっている点滴は一本。
 病人側としては初めて見る病室に少し新鮮味を覚えていると、あまりに覚えのある霊圧がこちらに向かっているのに気付いた。そしてソファをよく見れば、学生鞄が置いてある。
「黒崎、雨竜に連絡したのはいつだ」
「いや、それなんだけどな。実は倒れてすぐに俺に連絡が来たから俺から雨竜君に連絡して、それからすぐに来たんだよな、雨竜君。学校終わった直後だったみたいでよ、来たのがだいたい2、3時間くらい前だ」
「……そうか」
「で、一度帰った。お前の入院セット持って来る為にな」
「……そうか……」
 息子に入院セットを持って来させる羽目になってしまった、と僅かな反省の念を抱いた瞬間に静かに病室のドアが開いた。
 目を向けると、安堵のような表情を浮かべた息子と目が合った。その表情に虚を突かれて黙っているとすぐにその眉が吊り上がり、大きなボストンバッグを肩から下げたままつかつかと歩いて来た。そして開口一番、怒りと呆れがない混ぜになった顔でこう言い放った。
「なんで院長なのに過労で倒れてるんだあんた!?」
 一心が堪らずと言った様子で勢い良く噴き出した。

 相次ぐ連勤で曜日感覚すら失い掛けていたがどうも今日は土曜日らしく、雨竜は一頻り怒った後も制服のまま病室に残り続けた。
 体を起こしているだけで体力を消耗するので再度横になれば、すぐに重くじっとりした疲れが体を眠りの底へ引きずり込んでいった。
 何かの夢を見たような気がするが、酷く曖昧な靄を掴むような夢だったような気がする。
 そうして再度目を覚ました時には、病室の窓から橙の空が見えた。点滴はいつの間にか抜け、あの強烈な怠さは先に比べると鳴りを潜めていた。それでも漠然とした全身の不調は感じる。
「おじさんなら帰った」
 体を起こして眼鏡を掛けると、ソファに座っている雨竜が手元の本に視線を落としたまま言った。
 壁にかかった時計を見ると、六時前を指している。入院病棟の面会時間は八時までだが、そろそろ日が沈む。
「……お前は帰らないのか」
「僕の勝手だろ」
 雨竜は本を閉じて顔を上げた。まだ怒っているようで、眉間には皺が寄っている。
「……担当の先生から色々、聞いた。ここ最近あんたがどういう働き方してたのか」
「そうか」
 未成年と言えど患者の家族だ、それくらい聞くだろう。
 雨竜は膝の上で拳を握り締めた。
「ずっと、気付かなかった」
「私が勝手に体を壊した。お前が悔やむ事ではない」
「そういう事じゃない」
 僅かに声を荒らげると、雨竜は立ち上がりベッドサイドまで歩み寄って来た。
「……大前提としてだ。仮にあんたが僕の父親じゃなかったとしても、いらないって言ってるのに毎月生活費を振り込んできて僕が死にかけた時に真っ先に助けに来るような人間が倒れるまで働いてるのを見逃した事を悔やむ事も出来ない程、僕はあんたに対して冷たくなれない」
 丸椅子に腰掛けると、雨竜は少し眉を下げた。その顔は、幼い頃に必死で泣くのを堪えていた時の顔に似ていた。
「おじさんから聞いた。あんたの今の霊圧だと、いつ死んでもおかしくないって」
「そうらしいな」
「……僕はずっと思ってた。あんたはどこを見てるんだろうって」
 雨竜は一つ息を吸うと、胸の前で滅却師十字を握りしめた。
「あんたは僕の事なんてほとんど見てないと思ってたけど、それは違った。あんたが、僕と僕以外の全部を天秤に掛けて僕を選んでたって事は分かった。あんたが見ていたのはずっと、母さんの復讐と、僕を守る事だった。……それじゃあ、母さんの復讐の必要も無くなって、もう他の全てを見捨ててまで僕を守る必要もほとんど無くなった今、あんたは今どこを見てるんだ?」
 どこを見ているのか、と聞かれ、答えが出てこない事に気付く。
 ああそうだ、自分はまさに黒崎に向けて言ったでは無いか。
 仕事以外に、やるべき事が無いと。
 妻が倒れる前までは、仕事が終わって家に帰れば家族がいた。自分には一生涯掛けても手に入らないと思っていた、「ごく普通」の幸せと愛情に満たされた生活があった。ただそれだけあれば良いと思える程の、何よりも愛しい家庭が。
 けれど妻が倒れて逝ってからそれは過去の物となり。十年近い時間の中で自分は、刻一刻と迫るタイムリミットへの焦燥感と息の詰まる閉塞感と忍び寄る絶望感を紛らわす為に仕事をしていたような物だった。
 そして仕事以外の時間でずっと続けていた滅却師の道具のメンテナンスも、結界作成も、己自身の力の保持も、全てが終わった今、ほとんど必要が無くなった。
 ただ滅却師の能力を復讐と守護の手段としてしか利用していなかった自分には、今となってはいずれも必要のないものだった。
 雨竜はもう、自分で自分の身を守れる。
 自分のするべき事が、見るべき方向が分からなかった。故に、ただ一つ「職務」としてそこにあった仕事にのめり込んだ。
 「成すべき事」も無く「生きて」行く方法など、竜弦は知らなかった。
 答えに窮する竜弦に、雨竜は少し悲しそうな目をした。
「……僕は、あんたと普通の親子に戻りたいとは思ってない。そんなのは今更無理だと思う」
 雨竜の言葉は恐らく正しい。親子としてはとっくに機能不全に陥っている、「真っ当な親」に育てられていない自分が妻抜きで息子と上手くやるなど土台無理があったのだ、と竜弦は認める。
 息子の事は愛している、それでもまともな親として振る舞う事などもう出来はしない。
 増してや、自分の行く先を自分で決められなくなった父親など、子供にとって負担となるだけだ。
 竜弦の思いを知ってか知らずか、雨竜は迷うような素振りを見せながら、それでもはっきりと竜弦を見据える。
「ただ、たとえ今のあんたに生きる理由がないんだとしても、普通の親子になるのが無理だとしても、……生きているのが苦痛なのだとしても、僕はあんたに生きていて欲しい。僕のただの我儘だ。それでもあんたは僕のたった一人の父親だから」
「……何故」
 喉から出た声は、思いがけず震えていた。
 急に目の前の息子に、得体の知れない恐怖を覚えた。何故機能不全に陥っている父親に対してそこまで根拠の無い情を抱けるのか。
「何故お前はそこまで私を気にする事が出来る、生きて欲しいと望む事が出来る」
「何でって……」
 雨竜は困惑しながら、首を傾げた。
「父親だから……その答えで不満なのか?」
 少し考え込んでから、一つ溜息を吐く。
「じゃあこう言ってやろうか。今更死ぬなんて許さない。……僕の為に他の全てを見捨てようとしてたなら、僕の為にもう少し長く生きてくれないか。生きてくれるだけでいい、あんたの生きる理由がいつか僕で無くなるとしても構わないから」
 目尻を緩めたその表情に、胸を抉られる。
 笑っているのに泣いているかのようなその顔は、悲しい程妻によく似ていた。
 ──私は、きっと貴方と雨竜を置いて行ってしまうけれど
 ──どうか貴方は、まだあの子を独りにしないであげてください
 妻がそう言ったのはいつの事だったか。
 そう、確かこことよく似た病室で……
「……ようやく、またあんたと向き合える気がしてるんだ。だからあんたが嫌だと言っても僕はあんたに向き合ってやる、仮に死んだとしても尸魂界まで押し掛けて探し出してやるからな。……それに」
 妻の面影が過ぎったのは僅かな一瞬の事で、雨竜はどんどん居丈高な顔付きになっていき、最後にはニヤリと、けれど力強く笑ってみせた。
「もし生きるのが怖いなら、僕が助けてやらない事も無い。……僕はあんたが戦う理由だ、あんたの守りたい物だ。その僕があんたを守ろうとして、生きて欲しいと願って、何かおかしい事があるか?」
 ……ああ、全く。
 この子が私に似なくて良かった。
「な、何急に笑ってるんだ気味の悪い……」
「言うに事欠いて『気味の悪い』か……」
 思わず零れた笑みに対して「気味の悪い」など言われては立つ瀬がない。
 だが、息子の言葉には確かな覚悟と願いがあり。そしてそれはどこか、自分と妻が息子に捧げた祈りに似ていた。それは、ただ家族に生きて欲しいという、当たり前で、けれど親を信じられなかった竜弦からすれば奇跡のような祈り。
 何故息子がそんな祈りを抱けるのか、理解は出来ない。それでもその祈りを受け止めなければならないと、覚悟を決める他無かった。
 息子を、人間としてどこまでも不完全な父親が抱える生への恐怖と向き合わせているのは、他ならぬ父親の自分なのだから。
「……私が重荷になったらいつでも切り捨てろ」
「そっちこそ重荷にならないようにしろ。だいたいあんたなら、仮に僕に切り捨てられてもそのうちまたなんとか勝手にやれるようになるだろ」
「……そうか、お前に私はそう見えているか」
 こんな無様な姿を見せても尚己の強さへの信頼を向けられている事実を、不思議と重荷とは感じなかった。
「そうだな……せめて、あと二十年は生きねばな」
「あと二十年ってせいぜい定年までだろ。今のうちに趣味でも探しておけよ」
 そこまで呆れたように言ってから、雨竜は今度は笑みを湛えながらまた溜息を吐き出した。
「いや……定年退職なんてしないか、あんたは」
「分かってるじゃないか」
「別に仕事をする分にはいい、ただちゃんと休めよ。今なんて休むにはいい機会だろ」
 そこまで言ってから、雨竜は腕時計を見た。竜弦もつられて時計を見ると、既に六時半を過ぎていた。
「……じゃあ、僕はもう帰るから」
 その言葉が名残惜しげに聞こえたのは気の所為だろう。
 雨竜は立ち上がると、ソファの上に置いてあった学生鞄を手に取って肩にかけた。
「明日からも来れる時は来る」
「学生だろう、そう頻繁に来なくとも良い」
「大した手間じゃない。……それじゃ、明日」
 あっさりと、けれど穏やかな笑みを残して、雨竜は病室から出て行った。
 病室から遠ざかっていく霊圧を感じながら、竜弦はまた昔の事を思い出していた。
 ──あの子は、長く生きられますか
 死に向かうまでの三ヶ月を病床で過ごしながら、妻が呟いた言葉があった。あの時は、自分も焦燥感と恐怖に押し潰されそうになりながら、きっと長生き出来る、させてみせる、と肯定するしかなかったものの。
 ああ、長く生きられるとも。あの子自身がその道を掴み取ってみせたのだから。
 今は、何者にも急かされる事無くその影に怯える事も無く、そう首肯出来る。であれば、自分はあの子に万が一があった時の為にも、あの子の行く道を見届けられるよう生き続けなければならないのだろう。
 その思いは、長らく抱えていた生きる事に対する強迫観念と、それに付随する首元に触れる刃のような冷たい恐怖とはかけ離れており。冷たい部屋に差す窓枠の形をした陽光のような、優しい温もりに似ていた。
 翌日、雨竜が来るより早く一心が見舞いに来た。ベッドの上に体を起こしていた竜弦を見て一心はニヤリと笑った。
「随分顔色良くなったな?」
「そうらしいな」
「昨日と違って、今のお前の霊圧ならもう少し長くは生きられるんじゃないか。ま、体の方が全然治ってなさそうだけどなあ」
 それはその通りで、顔色こそ心理的要因で良くなってはいるが、まだ体の方は絶対安静を言いつけられている状態だった。
 まあ一度ガタが来た体がそう簡単に治る訳もない、と竜弦は医者としての冷静な頭で思う。
 一心は手にした書店のビニール袋をサイドボードにどさりと置いた。
「入院中暇だろ、適当に買ってきた」
「ああ……」
 学術誌や経済誌に文庫本が何冊か、袋の口から覗いている。自分にここまでするこの男にも、一度聞いておかねばならない事がある。
「黒崎」
「ん?」
「貴様、私が雨竜以外どうでもいいと知っていても何故私に付き纏ってきた?」
「付き纏っ……まあいいか……何でって」
 一心はベッドサイドの丸椅子に腰を下ろすと腕を組んだ。
「俺はこっちに来るまでは長い事死神やってたからかもしれないけどな。何となく分かるんだよ、やばそうな奴が」
「……やばそう?」
「こいついつか遠くない内に死ぬんじゃないか、って予感があんだよ。霊圧とかじゃねえ。お前はそれが最初に会った時からぼんやりとだがあった。で、お前の奥さんが倒れてから久し振りに会ってみたらそれは更に強くなってた。理由は他にもないこたないが、それが一番だろうな。流石にほっとけねーよ、そんなやつ」
「……死相が出ていたと?」
「そんなとこだ。その上息子以外何もいらないとか言い出すのは一番危ないパターンだろ、そういう奴に限って残される側の気持ちも考えずに自爆して死ぬからな。で、もうその心配もないと思ったら過労で倒れるしよ……ま、いつか死にそうオーラ出しといてまだちゃんと生きてんだから大したもんだぜお前も」
 つまりこの男は、自分が生きる事に対する漠然とした恐怖を抱え続けていた事など初めからお見通しだったと。その上で当たり前のように接して来たと。
 それが気に食わない訳では無いが。それでも己が抱え込み続けている物を共有は出来なくとも理解しているこの男の存在が、立ち続ける支えとなっていたのは事実なのかもしれなかった。
「……昨日、貴様が帰ってから雨竜に言われた。今更死ぬなど許さない、と」
「ほーう」
「正直なところ、何故あいつが私に拘るのかはまだ半分も理解出来ん。だから、私が重荷になったらいつでも切り捨てさせるつもりでいる。それでも……生きねばならないとは、思った」
「……そーかい。そう思えたなら大したもんだよ、お前は」
「仮に死んでも尸魂界まで押し掛けて探し出してやるとまで言われた」
「お前雨竜君の事相当怒らせてないか、それ……?」
 事実怒らせたので返す言葉もない。
 滅却師があくまで現世側に生きる存在である以上、例え尸魂界と行き来する権利と手段を得たとしても、死者に会う為に尸魂界に赴くというのは一種のタブーである。
 平時にあっては、尸魂界に魂魄を送られた死者と、魂はなお現世に留まっている生者は極力交わるべきではない。
 世界のいくつかの神話に見受けられる「冥界下り」の物語は、現世と尸魂界の距離がまだ近かった頃に実際に死者を彼岸より連れ戻そうとした者の末路を神や英雄に仮託して描いている……と竜弦は教えられた。無論、雨竜とてそれは理解している筈だ。無闇矢鱈と生者が死者を求めて彼岸へ渡るべきではない、と。
 詰まる所、息子をオルフェウスにしたくなければ大人しく生きろ、と己を人質に取った上で脅してきたようなものだ。雨竜がそれを自覚しているかは竜弦の及び知る所では無いのだが。無自覚ならばそれはそれでたちが悪い。
「……まーでも、良かったんじゃないか、オメーはそれで」
「それで、とは」
「お前の世界にはお前を必要としてる患者やこの病院で働く人達がいる。なんなら俺もいる。お前は世界から必要とされてるし、必要とされてなくたってお前が生きるのに別に理由はなくていい。ただそれでも、今のお前には生きる為の決定的な理由がどうしても必要で、そうなれるのは雨竜君だけだ。だから、いくら俺なんかがまだ死ぬんじゃねえって叱ってもお前には響かねえし雨竜君に言われでもしない限りその気にもなれないだろ、こればっかりはな」
「……それもそうだな」
 この男の自分の中の存在意義は理解している。それでも、生きろと言われたところで雨竜程は響かないのだろうというのは認めざるを得なかった。そして、自分は仕事にのめり込むたちでありながら仕事のために生きる事も出来ないだろうとも。
「だから、まあなんだ。気付けたならもう手放すなよ、お前の生きる理由」
「……ああ」
 自分によく似た、けれど今の自分のそれよりは芯の強い霊圧が少しずつ近付いて来るのを感じる。
 ああそうだ、まだ妻が元気だった頃。仕事の翌朝、休日の朝に幼い息子が自分を起こしに来るのを、その霊圧を感じながら待っていた事があった。
 それを思い出して、胸に小さな温もりが灯るような心地に竜弦は目を細めた。
 遠い過去の物になりかけていたそれが、今一度ゆっくり色を取り戻し始めていた。

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雨竜の存在はきっと竜弦にとって他の何とも比べられないくらいかけがえのないものだとおもうのです。