その日の夜、千秋は珍しく深酒をした。
いつも以上に入念に準備をして挑んだオーディションに落ちたのだという。
役者である以上オーディションに落ちるという事は悲しいかな日常茶飯事で、千秋のやけ酒に付き合う事にした冬沢も当然ながらオーディション落選は幾度も経験済みであった。
千秋とてオーディション合格と落選を幾度となく繰り返して来たはずだ。だがどうも今回はかなり手応えを感じていたオーディションだっただけに、悔しさはひとしおらしかった。
場所は千秋の自宅であるとあるマンションの一室、冬沢は今度の週末一緒に食事でもと連絡した所千秋の様子がおかしい事に気付いて心配になり千秋の家に半ば無理やり押し掛けた。
案の定と言うべきか、冬沢が千秋の家に着いた時には千秋の顔は少し赤くなりローテーブルの上には空き缶が二本転がっている状態だった。
その時の千秋はまだ酔いが回りきっていない状態だったため、何があったのか聞き出すのにそう苦労はしなかった。冬沢は同業者として、そして千秋と最も付き合いの長い友人として千秋の晩酌に付き合ってやる事に決めたのだった。……結局、晩酌というより千秋のやけ酒になってしまったのだが。
「ほら貴史、そろそろ飲むのはやめろ。明日以降に響くぞ。明日はオフでも明後日にまで支障が出たらどうする気だ」
冬沢は酒に弱い自覚があるので、早々にただの麦茶に切り替えていた。空き缶を隅に寄せてやりながら水の入ったグラスをローテーブルに置いて突っ伏した千秋の肩をとんとんと叩くと、千秋が突っ伏したまま既に真っ赤になった顔を冬沢に向けた。
「……なあ亮、なんでオレのやけ酒に付き合ったわけ」
「どうしてそんな事を聞く?」
「だってお前こういう事したら情けないって言いそうだし」
確かに、情けないと思わなくもないのだが。
だが今の千秋の場合、冬沢の様子への違和感と言うよりは情けないと責めてくれた方が踏ん切りを付けられる、と言った類の物だ。こいつのこの変に自罰的な所はなんとかならないものか、と思いながら千秋の隣に座る。
「言って欲しいのか?」
「いつまで経っても言わねえから、なんでだろうなって思ってるとこ。……実際情けねえだろ、オーディション落ちてやけ酒とか」
飲んだ量の割に、呂律は回っている。意識ははっきりしているようだし、酔いたくてもあまり酔えていないのかもしれないと冬沢は思う。実際千秋は冬沢より遥かに酒に強い。
「……俺以外の誰かがするなら止めないよ、悔しい気持ちは分かるからね。だからってやけ酒なんてされてあまりいい気分はしないが」
「じゃあなんで」
「様子のおかしいお前を黙って一人で放っておける程、短い付き合いでもないつもりだけどね?」
また別の縁がある、また次頑張ればいい、と声を掛けるのは簡単だ。だが今の千秋に向けて軽々しくそれを言うのは違う気がした。かと言って情けないと叱るのも違う気がした。相当な覚悟で挑んだ、手応えもあった。それなのに落ちた、いらないと言われた。そこからすぐに気持ちを切り替えるには千秋は不器用すぎるし、慣れるにはまだ少し芸歴が短すぎる。
ならば近くにいてやった方がいいだろうと、冬沢は思った。近くにいて気が済むまで話を聞いてやるくらいなら出来るし、苦しみを少しでも分かち合えば千秋も楽になるだろうと。いずれ癒えて慣れてしまうのであろう苦しみとは言え、今苦しい事に変わりは無いのだ。
……そして、千秋に対してそれが一番上手く出来るのは自分だろうと言う自負があったし、それをするのは自分であるべきだという独占欲もあった。だがそれは表には出さないでおく。
だがやはり、それはそれとして、と冬沢はとんとんと、今度は背中を優しく叩く。
「とは言え、今日のお前はそろそろ飲みすぎだ。いい加減に……」
しろ、と言いかけた唇は音を発する事はなかった。唇に柔らかい物が押し当てられている、と思った時にはすぐ眼前に千秋の顔が広がっていた。
キスをされているのだ、と気付く。反射的に押し退けようとしたが肩と頭に素早く手が回って冬沢の動きを封じる。
「はっ……ん、ぅ?!」
何を、と言おうとして開けた口から舌をねじ込まれ、呼吸を奪われる。
千秋の舌は貪るように冬沢の口の中を舐め回し、冬沢の舌に絡み付いては何度も食むように粘膜を擦り合わせた。
苦しい。上手く息が出来ない。身体中がざわめいている。力が抜ける。背筋がぞくぞくする。脳まで抜けるような酒の臭いの中に幼い頃から今までずっと変わらない千秋の匂いを感じて、頭がくらくらしてしまう。ぐちゃぐちゃと互いの唾液が咥内で混ざり合って口の中で溢れそうだ。思わず飲んでしまったそれはとても甘く感じて、体温をまた一段と高めあげた。
同意の無いキスなど紛れも無い暴力、そんなの分かり切っている。それなのに、……ああどうすればいい。無性に胸が高鳴る。体温が上がる。気持ちいい。千秋に与えられる刺激のせいじゃない、胸の奥底から、蓋をしていた場所から溢れてくる幸福にも似ているそれは、一過性の物なんかじゃない。
2人で居る時はずっと意識して閉じ込めていた、目の前の男を愛しているという感情が零れて、溢れて、脳を痺れさせ体に力が入らなくなっていく。
冬沢は目を閉じた。諦念からでも観念からでもなく、自分から、目の前の男に身を委ねる為に。
千秋の手がいつの間にか、冬沢のシャツに伸びてきた。
「んっ……!ぅ、ふっ、」
裾の中から素肌に手を滑らされ、冬沢は身を堅くしながらもそのむず痒い刺激に声を上げた。だがその声も千秋の口の中に消えて行く。
いつの間にか、冬沢の背中は床に付いていた。
千秋の唇が銀色の糸と共に離れていく。覆い被さったまま、赤い舌がぺろりと糸を舐め取った。陰の中の熱に浮かされたかのような顔の中、その目だけは獣のようにぎらついていて。
食われる。背筋を走ったその予感は、戦慄などより興奮とよく似ていた。
冬沢は僅かに乱れたシャツの裾をつまむと、そっと胸の下までたくし上げた。腰骨から薄い腹筋全体にかけての白い肌を、千秋の眼前に晒す。ゴクリと、千秋が喉を鳴らした。
どうしてこんな事をしているのかと、普段の自分であれば眉を顰め忌避するような行為。だが、目の前の男に食われたいという逆らい難い衝動に身を任せても悪い事にはならないだろうという予感があった。
白い肌に千秋の唇が落ちる。腰骨から少しづつ上へ上へと口付けられるごとに、擬似的に捕食されているかのような感覚に陥っていく。このまま食べられて、飲み干されて、一つになってしまえればいいのに。
「はあっ……ん、あ、たかふ、み」
肌に口付けられる度に、少し固い手がゆっくり肌を滑る度に、ざわざわと肌が粟立つ。息がかかるだけで気持ちいいと感じてしまう。口から勝手に漏れる鼻にかかった声は自分の物とは思えぬほど高く、甘い。
やがて千秋の手が、冬沢の胸元をぎりぎり隠しているシャツに触れた。だがそれきり、千秋の手は止まる。
「たかふみ……?」
千秋は項垂れたきり、何も言わない。冬沢が不安に思い名前を呼ぶと、千秋は呻くように呟いた。
「……亮、ごめんな。好きだ、好きなんだお前の事……」
時間が、止まる。
千秋以外に何も聞こえなくなって何も見えなくなって、今この時、世界には自分と自分を組み敷く男だけなのではないかと錯覚する。
「愛してるんだよ、ずっと……友達としてじゃなくて……好きになってごめん……」
その声はまるで、罪人が神に向かって懺悔するかのようで。だが確かに冬沢に向けて発せられた物だった。
そしてその声が最後まで届いた瞬間、ぷつりと。冬沢の中で何かが切れる音がした。次いで、頭全体が沸騰するかのような熱が込み上げてくる。
好きになってごめん?
なんだ、それは。
「こんのっ……馬鹿かお前は!」
ほとんど勢い任せの、だがしっかりとスナップを効かせたその平手は盛大な音を立てて千秋の頬を打った。
「……え、亮……?」
千秋の目が焦点を結ぶ。そして、シャツが胸元までたくし上げられた冬沢を組み敷いている事に気付くと跳ねるようにして起き上がり、冬沢から身を離した。その顔からみるみる血の気が引いていく。
「亮、オレお前に何、」
「俺が……俺が今までどれだけお前にっ……なのにどうしてお前は酒の勢いなんかで……」
気が付いたらぼろぼろと涙が零れていた。だがそんなの知った事かと、冬沢は勢い良く体を起こし、千秋の胸ぐらを掴んで睨み付ける。
「俺だって酔った勢いくらいで告白出来るくらい単純ならどんなに良かったか!なのになんで酔った勢いで告白しながら謝るんだお前は、襲われて喜んで誘った俺が馬鹿みたいじゃないか、そんなに俺の方の気持ちは軽いのか?!第一告白と襲うのと謝罪の順序がおかしい、告白する前に襲うくらいならもっと誠意を持って襲って来い!」
「順序……誠意……え……?そっち……?」
後悔と困惑がない混ぜになった千秋の顔と自分の支離滅裂な言葉で、ひと握りの理性がようやく目を覚ました。
……俺も酔った勢いに任せて貴史に当たり散らしてるだけじゃないか。
そう思った瞬間。ギリギリの所で張り詰めていた糸が切れたかのように、冬沢は千秋にしがみついて声を上げて泣いた。千秋はただされるがまま、シャツが涙で濡れるのもお構い無しに冬沢に胸を貸し続けた。
それからどれほど千秋に抱き付きながら泣いていたか。一頻り泣いてすっきりした冬沢は千秋から離れて立ち上がると、台所でグラス一杯分の水を一気に飲み干した。冷凍庫から保冷剤を二つ取り出して、洗面所の戸棚から勝手に拝借したハンドタオルでそれぞれ適当に包んで片方を千秋に放った。
「当てていろ、放っておくと腫れる」
千秋は困惑した顔ながらも、保冷剤を大人しく頬に当てた。
そして冬沢はソファの上に座って足を組むと、腫れているであろう瞼に保冷剤を当てながら床で正座する千秋を見下ろした。
「……さて。そろそろ、どうして絶対に合格するつもりでいたオーディションに落ちたやけ酒から俺への告白という急展開になったのか理由を教えてくれるかな。貴史」
「やっぱりそこを怒るよな、お前は……」
「顔を殴った件については謝るけどね。お前じゃなかったらもう少し酷い目に遭っていると思った方がいい。お前が明日オフじゃなかった場合は腹にしていたかもしれないし、もしお前じゃなかったら舌を噛み切るくらいはするよ、俺は。さて、そんな俺にいきなりキスして舌まで入れて押し倒した人間から何か申し開き出来る事は?」
「……うん、本当に、それは、全部俺が悪い……」
「全く……」
お前だったから良かったとは言え。ファーストキスだって小学生の頃にお前で済ませていたとは言え。
そう言いかけたのを、流石に恥ずかしさが勝って冬沢は喉の奥にしまい込んだ。
幼い頃の子供の戯れの延長線上のキスと、今のキスとではまるで意味が違う。……多分。
「まあ、お前に押し倒されてから……その、わざわざ服をまくって誘ったのは俺のようなものだから……そこから先は、不問にしておいてやる」
「ようなっていうか、確かにオレは食い付いたけど……あの時お前相当酔ってたよな……?大丈夫かよ……?」
「うるさいよ」
瞼に当てた保冷剤のタオル越しの冷たさで、少しずつ頭が冴えていく。そして、自分がなかなかとんでもない事をしてとんでもない事を言ったという事実に顔から火が出そうになってきた。そしてずきずきと頭が痛み出す。
(やはり酒なんて飲む物じゃない……)
お互い様とは言えあんなみっともない姿を晒すだなんて。
酒が露わにするのはその人間の本性であって、酒のせいで人が変わるだとかそんな事は無い。そんな事知っている、だから冬沢は──酒に弱いのも勿論あるが──余程気心の知れた相手の前でしか酒を飲まないようにしているのだ。
それでも、千秋に対してずっと抱えていた友情の枠を越えた思いはどうにか押し隠してきた。まさかこんなきっかけで暴かれる羽目になるとは夢にも思っていなかったが。
「……貴史。俺は本気で心配していたんだけどね、お前のこと」
「……」
「オーディションに落ちるのなんて別に初めてじゃないだろう、俺だってそうだからね。それなのにとんでもない落ち込みようだったから、側にいてやるのがいいだろうと思った。そうしたら酔った勢いで何故かお前に襲われ押し倒され告白された。役者として上手くいかなかったその悔しさと苦しさに寄り添おうとした俺の好意をダシにしたと取られても仕方の無い行動だとは思わないか?」
「そう、だよな……最低だよな……」
千秋は見るからに落ち込んでおり、ほとんど世界の終わりのような顔をしている。
違う、俺はお前のそんな顔が見たいんじゃない、と冬沢は僅かに苛立つ。
「……なんで、今だったんだ。お前もずっと隠し通してきたんだろう」
「っ……」
千秋の目が揺れ、しばらく黙り込んだ後に千秋は視線を俯かせた。
「……とにかくキツくてさ、今日」
「うん」
「別にオーディション落ちるのなんて初めてじゃねえのに、今日のは世界終わったなってそれくらいキツくて。酒に逃げたくなって。そしたら……お前から、連絡入って。何も知らねえのに、オレの事心配してわざわざここまで来てくれて」
「……それで」
「オレが変になってるのにちゃんと相手してくれて、放っとけないって言ってくれて、やっぱりお前の事好きだなって思って……そしたら、ずっと隠しておこうと思ってたお前の事好きだって思い全部、止められなくなった」
それでも、と千秋は顔を上げた。真っ直ぐな目で、冬沢を見つめる。緋色の目はどこまでも誠実なのにひどく苦しそうに見えて、冬沢の胸が締め付けられる。
「本当に、悪かった。俺はお前に酷い事をした。縁切られても仕方ねえって思ってる」
「そこはもういい」
「え」
「……もういい。俺だから、あそこまでしたんだろ。だったらいい」
千秋がそういう対象として見ているのは自分だけなのだと分かれば、もうそれで良かった。
我ながら調子のいいことだ。
「いつからだ、俺の事を好きだと自覚したのは」
そう尋ねれば、千秋は少しバツの悪そうな顔をする。
「ずっと前から。……多分、小学生の頃から」
「……そうか」
冬沢は保冷剤を脇に置くと、ソファから立ち上がり。そのまま屈んで膝を付くと、千秋を抱き締めた。
「なっ、亮……」
「言っただろう、俺だってお前の事が今までずっと好きだったんだ、好きなんだ。そうでなければあんな……あんな恥ずかしい事喜んで出来る訳ないだろう……お前以外にあんな事しない……」
どんどん声が尻すぼみになっていくが、この距離なら確かに聞こえているようで、千秋は首を回して恐る恐る冬沢を見た。
「酒の勢いなんかで告白されたのには怒っているし、役者として友人としてお前を支えてやろうとしたらそれを裏切られたような気がして、いい気分がしなかったのは確かだけどね、……今日の所は目を瞑ってやる。今回だけだからな。それに……俺の方も、もう少し早くお前に好きだと伝えていれば良かったのかもしれないしな」
悔いても仕方の無いことと分かってはいるが、それもきっとお互い様。
「……お前は何も悪くねえよ」
ほら、そうやって心の底から申し訳なさそうな声を出す。
「お前の気持ちを裏切って、本当にごめん」
「うん」
「謝りながら告白したのも、ごめん。お前の方の気持ち考えてるようで、全然何も見えてなかった」
「うん」
「でもやっぱ、お前もオレのこと好きだって言ってくれて……嬉しかった」
「そう。……良かった」
まだ酒が抜けきっていないのか、視界がじわりと涙で滲んだ。背中に回した手に思わず力が篭もる。
「……貴史」
「なに?」
「抱き締めてくれ。お前だから特別に許してやる」
躊躇うような沈黙の後、恐る恐る背中に手が回され、優しく抱き締められる。どこか壊れ物に触れるような手付きだったが、その重なる体温のなんと温かく、優しいことか。その内に秘められた自分だけに向けられている激情を思うとまた熱を上げそうになる。だが今はもう少しだけこの体温の心地良さに身を浸す事にして、冬沢は目を閉じた。
「貴史」
「どうした?」
名前を呼べば、当たり前に応えてくれる。それだけの事が、なんだかとても愛おしい。
「俺達はどうやらお互いの事を恋愛対象として見ているらしいと言うことが分かったな」
「そっ……そう、だな」
千秋の声が少しどもる。今更何を照れているのやら、と思うがそんな所もなんだか可愛くて仕方が無い。
「もしかしたら、恋人同士になれるのでは?」
「……亮がいいなら、それもいいぜ」
「なんだ、言わないと分からないのか」
「お前なあ……」
言葉の戯れはどことなくいつもより面映ゆく、そして、適した距離を探り合っているようで。
冬沢は少しだけ勇気を振り絞る。
「それじゃあ、今からそういう事にしようか。恋人同士、に」
「ああ、いいぜ」
「……いいのか」
「なんで驚いてるんだよ」
「お前、本当に心の底から俺と恋人になっていいと思っているんだろうな?俺への罪悪感なんてものが第一の理由だったら流石に怒るが」
「罪悪感は、確かにある。……でも、別に今以外の状況でお前から恋人になろうって言われても、多分頷くよ、オレは」
「よろしい」
「……ごめんな、勝手な人間で」
「こんな時に恋人になろうと言ってきた俺にそれを言うのか?だからもう謝るな。俺が欲しいのは謝罪じゃなくてお前なんだけどね」
「お、お前……」
それきり千秋は黙り込んでしまった。今頃顔を真っ赤にしている事だろう、と冬沢はようやく溜飲が下がる。
望んでやまなかった筈の関係は、いともあっさりと手の中に収まった。少し拍子抜けするが、胸にじわりと暖かいものが広がっていく。
お互いの恋人としての距離が分かればつか、もう少し遠慮なく強く抱き締めてくれる日が来るのだろうか、と冬沢は思う。その日が来たらこちらも思い切り抱き締めさせてもらおう。焦る事は無い、時間は沢山あるのだから。
名残惜しく思いながらも冬沢が千秋から身を離そうとすると、するりと千秋の腕は解けた。改めて正面から千秋の顔を見ると、顔を赤くしながらもしっかり見つめ返してくれる。
冬沢が打った方の頬を撫でると、千秋は少し気まずそうな顔をした。熱いのは千秋の体温のせいか、腫れ始めているからなのか。
「ほら、ちゃんと冷やせ」
千秋がいつの間にか落としていた保冷剤を拾ってそこに押し当ててやる。千秋はびくりと体を震わせたが、すぐにソファの上に置いたままの冬沢の分の保冷剤に手を伸ばした。
「お前もな、目赤いぞ」
瞼の辺りにそっと保冷剤を当てられるのがなんだか無性におかしくなってくすくす笑う。すると「なんだよ!」と狼狽えた顔をする千秋がやはり可愛くて、からかってやりたくなる。
「いいや?」
自分の瞼に当てられた保冷剤を支えている千秋の手に、冬沢は手を重ねる。
「お前可愛いなと思って」
「はあ?!」
思ったままを伝えれば更に顔が赤くなる。これはまずい。
「ほら、あまり顔を赤くしていたら腫れの引きが遅くなるぞ」
千秋の手から保冷剤をするりと抜き取りながら言うと、千秋は慌てて表情を引き締めた。
あまり腫れが長引くのは役者としていただけないので、これ以上からかうのはやめておこうと冬沢は自分にそっとブレーキを掛ける。この顔に張り手をかましてしまったのは自分なのだし。その代わり今度何でもない時にまたからかわせてもらおう。
時計を見ると、終電まで残り三十分ほどだった。
いつもであれば、わざわざ帰るのも面倒で千秋の家に泊まっていくことを決めるような時間だ。泊めてくれないか、と今日もいつものように軽く言おうとしたところで開きかけた口は動かなくなった。
千秋の家に泊まる。泊まるのか?たった今、急転直下の展開の下にとは言え恋人になった男の家に?
「……なあ亮」
「な、なんだ」
「お前も顔赤いぞ」
「うるさい。……もうすぐ終電だから帰るよ」
「は?!お前今までそんな事一回も……」
心臓が早鐘のようだった。きっと今日泊まっていったからと言って今までと何かが変わる訳では無い。いつものように冬沢はソファの上でタオルケットを被って眠るのだろうし、朝起きたら千秋が朝ご飯を用意してくれる。
だが。それでも。
それに気づいた瞬間に、それを想像した瞬間に、愛していると今までただそれだけを伝えたかった男と一晩同じ屋根の下で過ごすと考えただけで……熱暴走を起こすのではと思う程に全身が熱くなったのだ。
「今日は、帰る。……心の準備が出来ていない」
「何の心の準……え、お前、あー……えっと、だな、それはオレの方がまだ無理……」
「待て、違う、そうじゃない、お前が何を考えているかはともかく、絶対に、お前が考えているような事じゃない」
慌ててコートを羽織り、バッグを手に逃げるように玄関に向かって走る。
「待った亮!」
「なんだよ?!」
「マフラー!ほら!」
玄関に立って靴を履いた所で千秋に引き止められて振り向くと、忘れていったマフラーを首に掛けられる。少し寒かった首元がふわりと温もりに包まれた。冬沢がいつもやっているようにして丁寧にマフラーを巻いた千秋は、満足気に微笑んだ。
「ったく、こんなに時間に……車出すから送って行こうか?」
「必要ないよ。お前こそ明日はオフなんだからしっかり休め」
「ああ。ありがとな、亮」
その言葉と共に、千秋の手がそっと冬沢の頬を撫でた。その感触が心地よくて、冬沢は思わず相好を崩す。本当は下のエントランスまで送って行きたい、とその目と手が何よりも雄弁に物語っている。
だがお互い世間に顔を晒して商売している身だ、本当にプライベートな時間はなるべく外で見せない、と以前からお互い決めていた。こんな時でも律儀にそれを守る千秋の事が、やはり愛おしい。
「……その、貴史」
「ん?」
「……恋人になったなら、いつでも何でもない時に会いに来ても大丈夫か?」
「……ああ」
そして千秋は、特別な事をなんでもない事のように笑いながら言う。
「何かあってもなくても、好きな時に会いたいって言ってくれよ。オレもそうするから」
その言葉だけで、胸がいっぱいになる。
「だからもうオレに会いに来るのに雑な言い訳しなくていいからな」
「お前に言われたくないよ……」
やれ育ててるミニトマトが豊作だの野菜を買いすぎただのいつもの店の新しいメニューだの可愛い後輩のドラマ主演が決まっただの、お互いあれやこれやと理由を付けて会っていたこれまでを思い出して2人で笑う。
何でもいいから会いたい、一緒にいたいという思いは同じだったのだ。これからはもう一緒にいるのに特別な理由は必要ない。
その代わり、次に泊まり前提で会う時は心の準備をしよう、と冬沢は密かに心に決めた。自分の頬に触れる千秋の手を取ってそっと下ろし、手を離して今度こそ踵を返す。
「ああ、そうだ貴史。一つ言い忘れていた」
「ん?」
ドアノブに手を掛けて、振り返る。
そして、すっかり先を越されてしまって自分から言い損ねていた言葉を放つ。
「俺も愛してるよ。お前に負けないくらいにはね」
言われた瞬間の千秋の顔を、冬沢はきっと一生忘れる事は無い。
次は優しいキスでもしながら言えれば完璧だろう、と、楽しみは次に取っておく事にして。
恐らく人生で一番の笑顔を目の前でただ一人だけに向けながら、冬沢は外に繋がるドアを開けた。
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イメージ曲:『Nothing but You』(アイドルマスターシンデレラガールズより)