「飯出来たぞ」
野菜中心のメニューを二人分、手早く食卓代わりのローテーブルに並べていく。
ソファの隅に腰掛けて台本を読んでいた冬沢は立ち上がると、そのまま静かにローテーブルの前に敷いてあるクッションの上に腰を下ろした。
皿や食器を並べ終えた千秋は、その向かいの床の上に胡座をかいた。
「いただきます」
「……いただきます」
冬沢が手を合わせる。千秋も手を合わせ、静かな食事が始まった。
冬沢が千秋の料理の感想を直接言う事はあまりない。ただその表情を見れば、千秋には冬沢のお気に召したかどうかが分かる。千秋の作る料理は概ね好評だし、仮にお気に召さなくとも冬沢は必ず完食する。そうして千秋は冬沢の味覚の傾向を細かく把握していき、どうせなら冬沢の好きな物をと料理を作るうちに、いつしか食卓には冬沢の好みそうな物ばかり並ぶようになってしまった。今日作った豆のカレーは前日の夜から少しばかり気合いを入れて仕込んでいたのもあって自信作だ。
それでもやはり冬沢の反応が気になるもので。だからいつものように視線だけをちらりと上げると、淡々とスプーンを口に運ぶ冬沢の白い首に巻きついた黒いチョーカーが視界に映る。それがやけに目に毒で、千秋は慌てて食べかけのカレーに視線を戻した。
だがその白と黒のコントラストは、嫌でも冬沢がこの家に押し掛けてきた日の事を思い出させた。
──貴史、俺をしばらくお前の家に軟禁しろ。
それが、ドアを開けた時の冬沢の第一声だった。
幻聴でも聞いたのかと思った。
千秋はしばし、玄関に立つ幼馴染を唖然として見つめる。
だが大きなキャリーケースを手に上がり込んできた幼馴染の顔で、どうも本気で言っているらしいという事が分かる。分かってしまう。
「……お前、何言ってんの?」
念の為聞き返す。だが冬沢は眉をひそめたかと思うと、深々と溜息を吐き出した。
「一度聞いただけでは理解出来ないのか?」
「出来てたまるか。なんだお前、急に変な趣味にでも目覚めたのか?」
そんな訳は無いのだろう。自分の言葉に冬沢が何も言わず顔をしかめたのを見て千秋はそう悟る。だとしたら何故、と余計に困惑が募る。潔癖気味な幼馴染がそういう趣味に目覚めていたのだとしたらそれはそれで困惑したのだろうが、であれば尚更冬沢が、趣味でも何でもないと言うのに軟禁しろと荷物まで持って自分の部屋まで押し掛けてきた意味が分からないのだった。
「……とりあえず理由だけは教えろ。軟禁しろって事はつまりあれか、オレの家に住み込む気だって事だろ。荷物まで持って」
「ああ、そうなる」
「なんでだよ」
冬沢は肩から下げていたトートバッグから一冊の台本を取り出した。
「次の舞台の台本だ」
「はあ」
「俺はこの舞台で、拉致犯に監禁される役をやる」
「はあ……」
話が何となく読めてきた、と同時に頭が痛くなってきた。
「稽古開始までまだ日はあるんだが、それまでに監禁される感覚を体感で掴んでみたい」
「それで監禁は流石に無理があるから軟禁しろと……」
「なんだ、話が早いじゃないか」
「オレはお前の練習台って事か?」
「そういう事とも言えるが少し違うな」
「何がだよ」
「貴史」
そして冬沢は、またトートバッグに手を突っ込んだかと思うと黒い紐状の物体を取り出すと千秋の胸にぐいと押し付けた。
「お前に俺を飼う権利をやろう」
冬沢が差し出してきたそれは、首輪……ファッションアイテムとしてはチョーカーと呼ばれる物だった。
そうしておよそ二週間前、千秋は己の手で冬沢の首にチョーカーを着けた。着けさせられた。
冬沢の白い首に掛けられた黒いチョーカーは、千秋が手を離してもなおぴったりと首に巻き付いていた。その瞬間を思い出す度に目眩がする。
まるで自分の手で清廉な彼を汚したかのような背徳感に似た高揚と確かに感じてしまった支配欲は、心の奥に秘めておこうと思いながらも、チョーカーを見る度に嫌でも千秋を支配する。
皿をすすぎながら、リビングにいる冬沢をちらりと見る。今はローテーブルを布巾でせっせと拭いている冬沢は、あっという間に千秋の生活の中心に居座った。
軟禁と言えど冬沢が自主的に仕事以外でほとんど千秋の家から出ないだけで、千秋は冬沢の好きにさせている。マンションのエントランスの暗証番号も教えたし、合鍵も持たせた。同居とかルームシェアと言えば聞こえはいいのかもしれないが、千秋の住む物件は広めのワンルーム。どちらかと言えば今の冬沢は居候だ。冬沢が押し掛けてきたその日のうちに間仕切り用のスクリーンを買う羽目になった(もっとも冬沢支払いなので千秋の懐は痛まないのだが)。
飼う権利をやる、などとえらく不穏な事を言れもしたが、さてどうすればいいのやら。何をすれば冬沢のお気に召すのか普段は手に取るように分かってしまう千秋だが、今回に限っては冬沢が何をしたいのかまるで分からない。ご丁寧に首輪まで自前で持って来るなど、いったいどういうつもりなのか。
「貴史、拭き終わった」
「お、おう……ありがとな」
いつの間にかここまで来ていた冬沢に布巾を渡されたので、受け取りついでに少し奥にずれてやる。冬沢は流しで丁寧に手を洗うと、冬沢が住み着いてから常備するようになったペーパータオルで手を拭きながらくるりと踵を返した。そしてまた食事前と同じように、ソファの隅に小さく縮まって台本を読み始めたのだった。
千秋は布巾を洗いながら、水音に隠れて小さな溜息を吐き出した。
幼馴染がどういうつもりでここにいるのか、皆目見当もつかない。毎日同じ事で悩んでも、答えは出ない。いつまでいるつもりなのかと聞いてもはぐらかされるだけだ。
そういうの一番嫌うのはお前だろ、と思ってもそれを口に出すのはどことなく躊躇われた。冬沢の考えている事は分からなかったが、何かただ事ではない心の動きが冬沢の中で起きているのであろう事だけは察する事が出来た。
それが例の舞台起因なのかそれ以外の何かなのかは分からない。対千秋となるとほとんど無意識に無防備に聞いてもいない事を喋り始める冬沢が黙っているという事は、余程知られたくない触れられたくない何かがあるのだ。故に千秋は、黙っている事にした。その気になれば自分はいくらでも冬沢の心に土足で踏み込める。だがそれは最終手段。その時は、まだ来ていない。
食器を全て食洗機にセットして、スイッチを入れる。シンク周りを綺麗に拭いて、ようやく食後の後片付けは終わる。ひと仕事終えた千秋は大きく伸びをしながら、冬沢と反対側のソファの端に身を投げ出した。
大して大きくもないソファの端と端が、いつしか互いの定位置となっていた。二人の間の距離、およそ二十センチ。互いに無言でも、息苦しさも緊張感も無い。
異常で不自然なきっかけから自然に出来たこの距離を、千秋は密かに気に入っていた。スマホで明日の予定を確認しながら横目で冬沢の様子を窺うと、真剣だがリラックスした表情で台本を捲っていた。冬沢も少しはこの距離を気に入っているのだろう。そうであればいい。
これは元々、妹弟達が遊びに来た時の為にと、一人暮らしを始めた時に奮発して買ったソファだ。それがいつの間にか冬沢のものになりかけている。だがそれでも構わないかと思ってしまう程度には、この状況は日常になりかけていた。
無論、いつまでもこの時間が日常であり続けるとは思っていない。それはほとんど冬沢次第だ。
千秋に出来るのは、冬沢の出方を待つ事だけ。どれだけこちらが冬沢の存在に心掻き乱されようと、それを気にしてくれるほど冬沢は優しくも甘くもない。むしろそれを楽しんでいる風ですらある。
そしておまけに生憎、冬沢に心掻き乱されるのは今に始まったことではなく。今回だって何度も同じように悩んで、結局いつも同じ答えに行き着くのだ。
好きにしろ、と。
ああそうさ。ここにいたいなら、いればいいだろ。ここにいる本当の理由を言いたくないなら、言いたくなる時まで待ってやる。こっちは辛抱強さには自信があるんだ、どっかの誰かさんのせいでな。
……その代わり、理由も言わずにここを出て行けるとは思うなよ。
体の奥底から仄暗い何かがじわりと滲むものだから、千秋は天井を仰いで静かに目を閉じたのだった。
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多分続きます。