【ちあふゆ】ストレンジ・ワンルーム_2「食卓」

1「居候」の続きです。

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 冬沢が千秋の家に押し掛けてから一ヶ月半が経とうとしていた。
 相も変わらず冬沢側の真の動機は不明、だが家賃と生活費は折半しているから大した経済的な不便もなく、強いて言うなら少し部屋が狭くなっただけ、そんな奇妙な生活は依然として続いていた。
 冬沢が拉致犯に監禁される役をやるという舞台の稽古期間は既に始まっている。稽古が始まれば出て行くのかと思っていたが、そんな事は全く無かった。
 変化はと言えば、冬沢は時々自分の家に戻るようになった。荷物を取りに行ったり置きに行ったりしているらしい。最初の二週間ほどは一応仕事以外はほとんど部屋から出なかったと言うのに。それをとやかく言うつもりは毛頭ないが、だんだんと監禁だったか軟禁だったかの体すら成さなくなっている。それでも夜になれば冬沢は千秋の部屋に帰って来て、千秋の作った料理を食べて眠る。まさか飼う権利をやるとはこういう事か。お前は猫か。最早冬沢が何をしたいのか全く分からない。
 そして何よりも千秋の頭を悩ませるのは、飼う権利をやる、などという不穏極まりない言葉と共に着けさせられたチョーカーは、冬沢が千秋の部屋にいる時は相変わらずその首に巻き付いているという事実であった。

***

 その日は舞台の稽古がいつもよりも長く掛かりそうだった。今日は家で夕飯を食べられると冬沢は言っていた。こりゃ帰ってから飯作ったら遅い夕飯になっちまう、と千秋は休憩時間を使って稽古場から冬沢に宛てたショートメールを打つ。
『悪い、今日の夕飯作れない』
 返事はすぐに来た。
『なら俺が作る』
「……は?」
 思わず声が出た。慌てて口を噤んで画面上のキーボードに指を滑らせる。
『お前料理出来んの?』
 今頃あちらも画面を見ているのだろう、すぐに既読マークが付く。返ってきたのはあまりに簡潔な返事。
『料理くらい出来る』
 いやいや。お前の不器用さは十分知ってるから聞いてんだよこっちは。
 呆れながら、いやでも、と千秋は考える。帰宅したら食卓にもう料理が並んでいるという状況を考えれば、冬沢の提案は非常に魅力的である。冬沢に料理が出来るかどうか怪しいという一点を除けばであるが。
 だが冬沢は高校三年生になってから千秋の家に押し掛けてくるまでの約三年の期間は一人暮らしをしていた筈である。その間全く自炊をしなかったとは考え難い。もしかすれば少しくらい料理の腕を振るえる程度にはなっているのかもしれない。何しろ自分の記憶にある「料理が出来ない亮」の姿は中学二年生からアップデートされていないのだ、認識を改めるべきなのかもしれない。
 そう、少しばかり楽観的に構える事に決めた千秋は、休憩の終わりの合図を聞きながら急いで九字キーに指を滑らせた。
『それじゃ、頼む』
 そうして夕飯に一抹の不安と期待を抱きつつ、しかしそれらは稽古に打ち込むうちに頭の片隅に追いやられ、いつの間にか忘れられてしまったのだった。
 そして当然の如くと言うべきか、それらを思い出したのは、いつもの習慣で稽古終わりに今日の夕飯のレシピを頭の中で組み立てようとしていた時だった。
(任せはしたけど亮のやつ本当に大丈夫かあ……?)
 帰りの満員に近い電車に乗りながら、今冷蔵庫の中に残っている筈の野菜を思い返す。キャベツ、じゃがいも、にんじん、セロリ、トマト。そう言えばもやしをまだ使っていなかったはずだし冷凍のブロッコリーも残っている。きのこは何があったか? 確かしいたけとしめじ。
 買い物をしてからそう日が経っていないせいか、極端な事を言ってしまえば適当に切って炒めるだけでそれなりのおかずは作れるだろう。それくらいならきっと亮にも出来る。出来るはずだ。そう何度も己に言い聞かせ。
「ただいまー……」
 いつの間にか当たり前になった帰宅の合図と共に部屋のドアを開ける。ふわりと、炊けた米とスープの淡く香ばしい香りが鼻をくすぐった。もうすっかり出来上がっているようだ。
「おかえり」
 キッチンから涼しい声が聞こえてくる。珍しい程に穏やかで優しい声だった。
「もう出来ている」
 キッチンを覗き込むと、どこで調達したのやらエプロンを着けた冬沢が鍋を前にしながら千秋に向けて微笑んだ。
 その笑顔も、ここに押し掛けて来てからは初めて見るような穏やかなもので。
「っ……何作ってんだ?」
「ポトフだよ。丁度いい材料も揃っていたからね」
「へえ」
 なるほど、ポトフ。少し帰りが遅くなった今日みたいな日の胃には丁度良さそうだ。
「座って待っていろ、もうすぐ食べ頃になる」
「それじゃお言葉に甘えて」
 荷物を適当に片付けて、いつもの食卓の前に座って台所に立つ冬沢をそれとなく眺める。誰かが夕飯を作っているのを食卓で待つというのは、千秋にとってはなかなか珍しい事であった。何しろ実家では平日の夕飯と休日の家事手伝い全般担当、高校卒業後は一人暮らしの自炊生活。冬沢が押し掛けてきてからも基本的に食事は千秋の担当だったのだ。だから今日の、自分以外の誰かがキッチンに立って作ってくれる食事には自然と胸が踊ってしまう。
「……出来たよ」
 冬沢の言葉に顔を上げると、冬沢は千秋の前に料理を並べていく。陶器のボウルの中には、やや大きく切られたキャベツやじゃがいも、にんじんがごろごろと入っており、その隙間を黄金色のスープが満たしていた。そしてその隣にはいつもの茶碗に入った白いご飯。
「美味そうだな」
「当然だろう」
 冬沢は得意げに薄く笑みを浮かべた。
「いただきます」
 自然と声が揃い、食事が始まる。
 まずは芯ごと茹でられたキャベツから口に運ぶ。芯にはしっかり火が通っており、スプーンだけで一口大に切り分ける事が出来た。口に運んで軽く噛むだけでキャベツの柔らかな甘味が口一杯に広がる。
 キャベツの下にはやや分厚くスライスされているエリンギ。だがそれもなかなか良い歯ごたえで、スープの味もしっかり染み込んでいる。
「美味い」
 素直に口からそう零れる。すると冬沢の表情がふわりと明るくなった。
「……レシピを見ながら作っただけだ、褒められる程の事では無い」
 そう言いながらもやはり冬沢の浮かべた得意げな笑みはそのままだ。何事も涼しい顔でこなす、あるいはそう見られることを望む冬沢と言えど、料理を褒められれば嬉しいものなのだろう。
「お前、ここに来る前はどれくらい料理してたわけ?」
「週に一回程度ならしていたよ。お前が勝手に考えているように何も作れないほどではない」
 思考を読まれていたことに、思わず背筋が伸びる。全部お見通しだよ、と言わんばかりに冬沢の笑みが深くなった。
「そっ……それじゃ、これからはお前が飯作れる時は任せたいんだけど」
「ああ、構わないとも」
 随分嬉しそうだ。人の為に何かするのが好きというわけでもないだろうに。
 冬沢の中で、何かが変わりつつあるのだろうか。いや、ここに押し掛けてきた時点で何かが変わっているのだろうが、それは未だに分からないのだ。分からないままにこの奇妙で平穏な時間だけが静かに過ぎていく。不自然なほどに、波風も立たず。
 そろそろ、何かこちらから動くべきなのかもしれない。否、動きたい。それでも千秋は冬沢を待つ事を選んだ。
 だとしても、この時間のあり方を変える方法があるとするのならば。冬沢の中にあるそのスイッチは自分が切り替えたい。
「……なあ、亮」
「どうした?」
「お前、最近よく笑うようになった……よな」
「そうか?」
 そうだよ。今だって。
「本当にオレはお前のこと『飼ってる』のか、分からなくなるくらいにはな」
 冬沢の目が僅かに細められた。千秋はあえて気にせずに、言葉を重ねる。
「……最近の亮見てると、何となく昔を思い出す。それだけだ。ごちそうさま。美味かったぜ。ちょっとやらなきゃいけない作業あるからオレは先片付けるわ」
 早口にそれだけ言って立ち上がる。台所に食器を片付けに行き、食洗機に自分の分の食器をセットだけして部屋に戻る。冬沢はまだ食卓の前に座っていた。
「……亮?」
 様子がおかしいので顔を覗き込むと、びくりと冬沢の肩が震えた。そしてその表情を見た千秋は、言葉を失った。
 冬沢の見開かれた目が泳いでいる。ほんのり頬を紅潮させ、スプーンを持ったまま固まっていた。まるで、王ではなくただの人間らしく照れているかのように。……そしてその表情は、照れという単語が相応しいのかどうかも判断しかねる、長い付き合いの中で一度も見た事のない表情で。
「……え」
 お前、なんでそんな顔。
「っ……!」
 千秋に凝視されていることに気が付いたのか、冬沢がひくりと肩を揺らした。それからすぐに氷のような目で千秋を睨み付ける。
「じろじろ見るな、食事の邪魔だ」
「……悪い」
 こういう瞬間にも、『飼う権利』とは何なのか、とは思うのだが。
 仕事用のタブレットPCを立ち上げ、ソファに腰掛けてメールのアプリを開く。冬沢は淡々と食事を終えると、食器を手に立ち上がった。
「……ごちそうさま。後の片付けは俺がやっておく」
「……おう、頼む……」
 冬沢は固く口を引き結び、それから何も言わなかった。冬沢の纏う空気は頑なで、だが迂闊に声を掛ければ簡単に壊れてしまいそうで、千秋は何も言うことが出来なかった。
 そうして交わされる言葉のひどく少ないまま、お互い風呂に入り就寝の準備を始める。今日はもう何も話さず一日終わるのでは、と千秋が思い始めた時、夜の間だけソファを囲うスクリーンの中から冬沢の声がした。
「貴史」
「……何だ」
「一つ教えてやる。俺がお前に与えた『飼う権利』というのは、恐らくお前が思っているようなものではないよ」
「……」
「明日はお前が起きる前に仕事で出る。……おやすみ」
「おやすみ……」

 そして翌日。
 夕刻に稽古から帰宅した千秋の前には、置き手紙と一月分の生活費が入った封筒だけが残され。
 冬沢は、千秋の部屋から姿を消した。

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もう少し続きます。