雨天、独白(竜弦の話)

※(12/16)タイトルが思い付いたので「無題」から修正しました

◆◆◆

 朝から雨が降っていた。
 夏の雨の蒸し暑さと秋の雨の冷たさのいずれでもない、心地よくすらある雨がしとしとと降りしきる中で、竜弦は病院の駐車場に車を停める。
 車のエンジンを止めながら病院のとある個室に意識を向けると、弱々しい脈動のような霊圧を感じた。日に日に弱々しくなっていくその霊圧に心の臓が冷える心地を覚えながら、雨に濡れるのも構わず車外に出る。
 後部座席に置いてある細長いビニール袋と鞄を手に取り、車の鍵を閉めて小走りで関係者用出入り口へ向かう。
 建物内に入ってそのまま院長室に向かい、鞄とスーツジャケットを放り出して白衣を羽織り、ビニール袋だけを手に入院病棟のその個室へと足を向けた。
 その個室には、三ヶ月前から一人の患者が入っていた。
「おはよう、叶絵」
 病室に足を踏み入れ、ベッドに横たわるその患者──彼の妻である叶絵に声を掛ける。返答はない。彼女は半月ほど前から、起きている時間より眠っている時間の方が長くなっていた。
 病室の中はひどく静かで、心電計の電子音がやけに大きく響いている。
 ビニール袋から花束を出し、花瓶に生ける。妻の好きな花を集めたその花束は、昨日花屋で作ったばかりだというのに色褪せて見え、竜弦はすぐに花瓶から目を逸らしてベッド脇の丸椅子に腰を下ろした。
 延命の為にチューブで機械に繋がれた妻の肌は白い。触れたその手は僅かに温かく、彼女がまだ生きようとしていることを訴えていた。
 加減を間違えれば折ってしまうのでは、と恐怖心を抱かせるほどに細い手を握る。熱が少しでも彼女に伝わるようにと祈りながら、妻の寝顔を見た。
 脳波を測定する電極と人工呼吸器さえなければすぐにでも目を覚ますのではないかと思うほどに、その寝顔は静かだ。
 彼女の先が長くないことを、竜弦は知っている。
 その時が来るのは今日か明日、あるいは一週間後かもしれない。ひと月は、恐らく保たない。希望を持つ余裕など無いほどに「それ」は着実に彼女の命を蝕んでいて、もうふた月待てば九歳になるひとり息子の誕生日を祝うことすら許さない。
 竜弦は毎朝そうしているように、病床の妻に息子の話をする。
「昨日、雨竜がずっと作っていたコサージュが完成したよ。今日の学校が終われば持って来るかもしれない」
 息子は母の命が長くないことに恐らく気付いているが、それに対する不安を口にすることはない。ただ、病床の母にプレゼントするための小物を毎日のように作り続けていた。
 手芸に没頭することで母に迫る死という現実から逃避しているのかもしれなかったが、竜弦はそれを責めることは出来なかった。
「とても美しく出来ていた……あいつには手芸の才能があるな」
 雨竜に手芸を教えたのは叶絵だ。サンルームで二人で手芸をしている時間が好きなのだと、叶絵は倒れる前に笑って言っていた。竜弦も、そんな妻と息子を見ているのが好きだった。
 ひと月ほど前にペンを握るのにすら苦労するようになったことを思うと、例え目を覚ましたとしても彼女がその手に針と糸を握ることはもうないだろう。
 竜弦はそれが悲しくてやりきれなかった。少しずつ生きる力を奪われていく妻に、自分の命を与えてしまいたいと思うほどに。
 ほんの数時間後の未来の話をすることすら、胸がつかえて苦しい。
「……見てやってくれ。君のために、本当に頑張って作っていたんだ」
 なんとか話し終えて壁に掛かった時計を横目で見ると、そろそろ業務の準備を始める時間だった。
 丸椅子から立ち上がり、妻の額と髪をそっと撫でる。
「そろそろ仕事だ……昼にまた来る」
 そうして竜弦は静かに病室を後にした。廊下で看護師に呼び止められ、妻の容態について昨日までと大きな変化がないことを聞かされる。
 院長室に向かいながら、ふとまた妻の霊圧に意識を向ける。ああ良かった、まだ生きている……そう安堵しながらも、意識を逸らせばその間にこのか細い霊圧が消えてしまうのではないかという冷たい刃のような恐怖が首筋を撫でる。
 乗り込んだエレベーターにはちょうど誰も乗っていなかった。竜弦は院長室の階のボタンを押し、壁にもたれて深々と息を吐き出した。
 恐怖で思考停止することは許されない。立ち止まることも逃げることもできない。そのような世界に自分は生きていて、自分ではなく息子を生かそうと決めた以上他に選択肢などないのだ。
 少なくともこの先の九年を、妻がこの世を去ったのちも自分は無理矢理にでも生きて、来るべき戦いに備えなければならない。でなければ、息子がその九年の先を真っ当に生きられる保証すら無いのだから。
 そして、九年の先に自分はいないかもしれないという予測以上に、九年の中に妻がいることはないのだという事実が竜弦の身を竦ませる。
 物心ついた時から竜弦の傍にいた彼女は竜弦にとって、そこにいて当然の存在だった。いつまでもそうあって欲しいと心から望んだ相手だ。
 だが残酷にも、彼女が死ぬことで、世界の崩壊を防ぐための父の計画のピースが揃うのだという。それを最初に聞いた時、怒りが心を芯から冷やしていくのに気付いた。
 何故、たかが世界のために彼女を失わなければならない?
 生まれて来ただけで苦痛を伴うこの世界に、自分が何かする義理があるのか?
 一方で、それを抑えようとする内なる声も確かに生まれた。
 だが、この世界には雨竜がいる。
 ただのそれだけだった。
 それだけで竜弦は、この最悪の世界のために自分の人生を捧げても良いと思えてしまった。
 息子のためであれば、この最悪の世界を救うために最悪な父親の計画に手を貸しても構わない。それが自分の九年から先の人生を捨てると同義であったとしても。
 そう何度も繰り返した筈の自問自答に、何という皮肉か、と乾いた笑いが溢れる。
(僕は、君を失わないと続いていけないこの世界が何よりも憎いというのに)
(僕がここで全てを投げ出したら、世界が終わるかもしれないだなんて)
 エレベーターはいつの間にか、目的の階に停止していた。

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