【竜叶】約束、二つ

※真咲が石田家を出た後と雨竜が生まれる間くらいの出来事については完全に捏造と妄想

 母が逝去して二ヶ月ほど経過した頃、竜弦は屋敷の使用人達に解雇を告げた。
 再就職先と新たな入居先が見つかるまではここで働いて構わないが、見つかり次第屋敷を出て欲しいと。
 使用人達はこの石田家の事情を理解していたので、ただ一人を除いて屋敷を去って行った。
 そうして広い屋敷には、ただ一人の使用人と年若い事実上の現当主だけが残された。実際の当主である父は死んでいる訳では無いが、昔から滅多に帰って来ない。こんな時ですらそうなのだから、竜弦は父をほとんどいないものとして扱うようになっていた。
 屋敷はすっかり人の気配が薄くなったが、これでいいのだと竜弦は思う。
 この家は元々こうあるべきだったのだ。誰かの人生を縛ってまで続いて良い家ではない。そう思いながら寒々しい廊下を歩いて食堂に足を踏み入れると、ただ一人残った使用人がてきぱきとテーブルセッティングをしていた。
「……片桐」
 声を掛けると、彼女はふっと顔をあげて微笑んだ。
「竜弦様、もうすぐお食事の用意が出来ますのでもうしばらくお待ちください。紅茶を入れましょうか?」
「いや、いい……ここで座って待つ」
「畏まりました。もう五分ほどで、グラタンが焼き上がりますから」
 自分以外の使用人がいなくなり仕事が増えるばかりだろうに、片桐はこの家の使用人としての仕事の全てを行っていた。
 掃除、洗濯、炊事。竜弦が派遣のハウスキーパーを呼ぼうとしても、片桐は頑なに首を横に振り、それらをこなし続けた。
 私が一番この家を理解しています、と。
「……やっぱり、お前はここを去るつもりはないんだな」
「私はいかなる時も、竜弦様のおそばにおりますから」
 何度も投げ掛けた問いに、片桐は毎回同じ答えを返す。そしてその言葉を聞いて安心している自分はあまりにも卑怯だ、と竜弦は思う。
 結局いつまでも彼女に甘えているのだ。昔から彼女に何かを返すことも出来ないまま、与えられてばかり。
 だから、彼女には自由になってほしいのに。彼女は、自分のそばにいることが何よりの幸福なのだと笑うのだ。
 片桐が竜弦の夕食をカートに乗せて運んで来た時、竜弦は思わず声に出していた。
「片桐、一緒に食べないか」
「え?」
 その言葉を聞いた片桐は驚いて目を見開いている。
「どうせこの屋敷には僕たちしかいない。……お前も、疲れているだろ」
「ですが……」
 片桐は困惑している。十年以上、食事をする竜弦の後ろで控えるのが日常だったのだ。その反応は当然だろう。
 だが、広々としたテーブルで片桐を立たせたまま一人で食事をするのが、もう自分ではどうしようもないほどに嫌だった。
「……お前と一緒に、食事をしたいと思ったんだ。嫌なら無理にとは言わない」
 これが結局片桐への甘えならもうそれで構わないと竜弦は思った。どの道、彼女が自分の頼みを断れないと理解した上で言っているのだから。
 果たして、片桐はおずおずと頷いた。
「分かり、ました……では、十分程お時間をいただきます」
 片桐は竜弦の分の夕食をセッティングし、「先に召し上がっていてくださいね」と言い残して食堂を後にした。
 竜弦は食事には手を付けず、片桐が来るのを待った。
 片桐が竜弦のメニューとほぼ同じ、だが少し量の少ない食事を持って食卓に戻って来る頃には、グラタンはすっかりぬるくなっていた。
 片桐から温め直しを提案されたが竜弦は断り、片桐に自分の向かいの席へ座るよう促した。
 そうして食卓に向かい合った二人は食事に手を合わせ、竜弦はサラダ、片桐はスープから口に運ぶ。
 片桐は竜弦の食事姿など見慣れているだろうが、竜弦が片桐の食事姿を見るのは初めてだった。
 片桐の所作は物静かだ。一口一口が小さく、食べるペースも遅い。袖口から覗く細い手首も相まって、やはり体の弱い彼女に無理をさせているのではないかと思ってしまう。
 片桐の唇にスプーンが運ばれていく様に思わず見入っていると、片桐がどこか気まずそうに肩を竦ませた。竜弦は慌てて目を逸らし、自分の食事に集中する。
 そうして食事は無言のまま続いた。無言だがそこに冷たさやよそよそしさはなく、穏やかな時間が流れる。
 自分の食事を終え、片桐の皿も空になった頃、竜弦は口を開いた。
「……今日も美味かった。ありがとう」
「お粗末様でした」
 片桐の料理の腕に間違いはない。不味い食事が出て来ることなど有り得ないのだが、今日の食事はいつにもまして美味に感じた。
 彼女がそこにいてくれることの有難さと温かさが全身に染み入るようで、竜弦は改めて片桐を真っ直ぐ見た。
「片桐、やっぱり僕はお前の負担を減らしたい」
 その言葉を聞いた片桐の表情が引き締まる。
「結局僕はお前に甘えてばかりで、お前がいないと日々の食事すらままならない。だから……せめて雇用主として、お前に無理なく働いて欲しい。そのために、この家の事を何も知らないハウスキーパーにも来てもらおうと思っている。それで……」
 この先を言っていいのかと迷い、言葉に詰まる。
 しかし片桐が真っ直ぐに自分を見ていることに気付き、ふと。
 その言葉が口からこぼれた。
「結婚しないか」
「えっ?」
「っ!」
 片桐の反応で、竜弦は自分が何を言ったのか気付く。 
「っ……すまない、」
 竜弦の突然の告白に片桐は固まっており、何を言われたのか分からないといった様子だ。
 言うとしても今ではないだろう、と竜弦は己の迂闊さを激しく呪う。
 動揺で心臓が早鐘を打ち始めるのをなんとか呼吸でなだめて言葉を絞り出すが、声が震えていた。
「……一旦、忘れてくれ」
「か、畏まりました……」
 片桐も声が震えていた。胸を手で押さえて竜弦と同じように呼吸をなだめようとしている。
「……どうぞ、お続けになってください」
「あ、ああ……」
 竜弦は一度深呼吸して、本来言おうと思っていた言葉を頭の中で整理した。今度こそ間違えないようにと注意しながら言葉を選ぶ。
「また今日みたいに、一緒に食事をしてほしい。食事が楽しいと感じたのは、久しぶりだ」
 空になった二人分の食器を見ながらそう口に出してしまえば、動悸は少しずつ落ち着いて来る。
 こうして誰かと食卓を共にしたのはいつが最後だっただろうか。食卓とは、こんなに温かく感じる場所だっただろうか……それを片桐にきちんと伝えられれば良かったのだ。
 それをまさか一足飛びに求婚してしまうとは、とあまりにも性急な自分を責めるしかない。そんなに嬉しかったのかと問われると、そうとしか回答しようがないほど、二人で食卓を囲む食事は竜弦の心に染み入っていた。
「竜弦様がお望みなら」
 片桐は微笑みながらそう答える。それを少しだけ悲しく思いながら、竜弦は言葉を重ねた。
「……毎日、でもか」
「お断りする理由が、私にはありません。……竜弦様の喜びが、私の喜びです」
 片桐はしっかりと頷き。
 竜弦は「そうか」と呟いた。
「すまない。……ありがとう」
 結局彼女をこの家に縛り続けてしまうという自責による胸の痛みと、彼女は自分を一人にしないままでいてくれるという子供じみた安堵を同時に覚える。
 それでも彼女がそれを幸せだと笑うのならば、自分が今考えるべきは彼女を働かせすぎないことだろう。竜弦は自然とそう考えた。
「とにかく、ハウスキーパーは呼ぶ。これはもう決定事項だ、いいな」
「畏まりました」
「時々休みも取ってくれ。お前は昔から働きすぎだ」
「お休み、ですか……」
 片桐の表情に、困惑が浮かぶ。
「私、お休みの日はいつも、何をすればいいのか分からなくて……結局、お仕事をしている時間が一番落ち着くのです」
「そうか……」
 昔から放課後と学校のない日は滅却師の修行漬けだった自分も似たようなものだ、と竜弦は片桐の言葉を受け入れる。
 医大に通い始めてニ年以上になる今ですら、周囲の同級生は空いた時間に勉強以外の何をしているのだろうと不思議に思うのだ。
「それは僕も同じだな。大学で改めて、自分がいかに異常な環境で育っているか実感した」
「竜弦様……」
「……そうだ、どこか行きたい場所はないか」
 最近取得したばかりの普通免許の存在を思い出す。車ならほとんど使っていないものが車庫にあるはずだ。業者にメンテナンスしてもらえば動くだろう。
「車ならあるんだ、どこでも僕が連れて行く。休みの日も僕が一緒だと休まらないかもしれないが……」
「! いえ、そんなことはありせんっ」
 少しだけ片桐の語調が強くなった。
「どこに行こうと、竜弦様がいてくださった方が、心が休まります」
「そ、そうなのか……?」
 片桐には珍しい気迫のようなものを感じて、竜弦は少しだけ気圧される。
 だが、一緒に出掛けること自体は拒絶されなかったので安堵する。
「それなら……どこに行きたい?」
「そう、ですね……」
 片桐は少し考え込み、ぽつりと呟いた。
「紫陽花……」
「紫陽花?」
「はい。その……小さい頃に、ニュースか何かで見たのです。どこかのお寺で紫陽花が沢山咲いていて、とても綺麗で……。どこだったかまでは覚えていませんし、紫陽花の季節は随分先ですけれど」
「紫陽花、寺……調べてみようか。季節になったら一緒に行こう」
「! は、はいっ」
 片桐の表情がぱっと明るくなった。釣られて竜弦も思わず頬が綻んだ。
 約束を一つ心に留め置きながらも、これだけでは駄目だと竜弦は考える。
 紫陽花の季節まではまだ半年近くある。片桐のことなのでそれまで休みなしで働こうとしかねない。
「では他に、どこか行きたい場所は?」
「他に、ですか……その、竜弦様が行きたい場所はないのですか?」
「え?」
 思い掛けない切り返しに、竜弦は思わず反駁する。
「僕の行きたい場所?」
「はい。竜弦様は幼い頃から、ご自宅・学校・修練場を行き来してばかりなので……私ばかり行きたい場所に連れて行っていただくわけにはいきません」
「そ、そうか……」
 今度は竜弦が考え込む番になった。
 こちらを見ている片桐がどこか楽しそうに見えるのは気のせいか、と若干の気恥ずかしさを覚えながら、竜弦は片桐と同じように、この目で直接見たことのない場所を挙げた。
「今の季節だと……北海道、だろうか……」 
「北海道、ですか」
「車では行けないし、一日や二日で行くのも難しいかもしれないが……雪原と白鳥を、一度この目で見てみたい」
 広大な白銀の雪原、湖に集まり優雅に翼を広げる白鳥達。
 写真だったかニュース映像だったかは忘れたが、自然界の美しい白を映す漠然としたそのイメージに対する幼い頃の憧れを、片桐と話していてふと思い出したのだ。
 「素敵です」と、片桐は目を輝かせて頷いた。
「沢山、暖かくして行かないといけませんね。冬の北海道は寒いと聞きますから」
「そうだな……」
 お互い滅却師の家に生まれた時点で旅行などしたことはなく、通学や買い物以外で空座町の外に出ることもほとんどない。修学旅行も半ば強制的に欠席させられた。北海道など余りにも未知の場所だ。
 未知の場所へ行く恐怖はあるが、それよりも目の前にいる片桐を喜ばせたいという思いの方が大きかった。
「年が明けて少しすれば、大学は休みに入る。その時期を使って行こうか」
「はいっ」
 弾む片桐の声に、竜弦の心も自然と軽くなる。
「氷点下でも過ごせるような暖かいお洋服の準備などしなくてはいけませんね。それに飛行機や宿、現地での移動手段も」
「そうだな、手分けして準備しよう」
 思い掛けず決まった旅の約束。片桐は弾む声のまま「紅茶を入れて来ますね」と立ち上がり、空になった二人分の食器をワゴンに乗せてダイニングから出て行った。その背中もなんだか嬉しそうに見える。
 少しでも彼女に何かを返すことが出来たようで良かった。そう思うと同時に、結局彼女に貰ってばかりだと痛感する。
 ほんの少し先の未来を楽しみにすることすら、かつての竜弦には出来なかった。その楽しみを自分に与えてくれたのは、他でもない片桐だ。
 人として欠陥だらけの自分を支えることを、片桐は選んでくれたのだ。
 ──貰ったものを、同じだけ与えていこう。僕の人生全てを使ってでも。
 片桐がそれを望むのか、自信はない。
 彼女は時々、ひどく苦しそうな目をする。与えられることが彼女の負担になっているのかもしれない。
 しかし、与えられるものは全て与えたいと心の底から思えるほど、竜弦には片桐のいない人生が考えられなくなりつつあった。
 あの時彼女が迎えに来なければ、こうして生きていたかどうかすら分からないのだから。
 ──僕はもう、君がそばにいればそれだけでいいのかもしれない。
 胸に浮かんだその仮説は、あまりに違和感なく腑に落ちた。

 ◆◆◆

 心臓がまだバクバクと鳴っている。
 空の食器の乗ったワゴンを押して厨房へ向かいながら、片桐は胸を手で押さえてた。
『結婚しないか』
 あの時、確かに竜弦はそう言った。
 その言葉に嘘も打算もないことは嫌でも分かった。
 彼は片桐に対して嘘をつかない。つけない、と言ったほうが正しい。幼い頃から、竜弦の嘘を片桐は全て看破した。片桐はその上で彼の嘘にあえて乗ることもあれば、叱ることもあった。竜弦とてそれは理解している筈だ。 
 ──なぜ、私を?
 ──竜弦様にはもっと相応しい女性がいる筈だ。
 ──そう、例えば真咲様のような……
 かつての彼の婚約者を思い出す。
 その場にいるだけで場を明るくする、太陽のような女性。自分のような貧相で暗い女とは大違いだ、と片桐は思う。
 ──どうしようもなかったのだと、竜弦様は仰った。
 ──それでも私はあの時、真咲様が最早滅却師として生きることはないのだと知って喜んだ、卑怯な女なのに。
 自分を労る言葉も眼鏡越しの優しい瞳も、何より嬉しいもののはずなのに、それら全てが胸を苛む。嬉しいのに苦しくて、笑いながら泣き出してしまいたくなる。
 それらは本来、自分ではない人に向けられる筈の……
「……っ」
 息が苦しい。心臓が痛いほど鳴り、視界が白み始めた。ワゴンから手を離して、廊下の隅にうずくまる。
 過呼吸の対処なら慣れている。上手く回らない意識の隅で半ば無意識に、片桐はゆっくりと呼吸する。
 竜弦の優しさをよく知る片桐は、彼に気付かれないことだけを祈る。果たして数分掛けて呼吸を整え立ち上がるまで、竜弦は来なかった。
 ああ良かった、と安堵しながら、片桐はまたワゴンを押して歩き出す。幸い厨房はもう目の前だった。
 広い厨房で一人、食器を洗い場に下げてティーセットの用意をしながら、ふと昔を思い出した。
 片桐が風邪で臥せっていた時、修行を抜け出した幼い竜弦が片桐の部屋の窓から顔を見せて、こう言ったのだった。
『僕、医者になるよ。そうすれば、片桐がいつ風邪をひいても治せるでしょう』
 ──あの後竜弦様は、修行を抜け出したことを旦那様から、使用人の部屋に行ったことを奥様からひどく叱られていたけれど。
 あの日、片桐は竜弦にこう言ったのだった。
『私のことなど気にしなくてよいのですから、どうかお好きなお仕事を選んでください』
 それでも医者になるのだと、竜弦は言い張った。
 そして、今の竜弦は医大に通っている。あの時の言葉を覚えているのかまでは分からないが、彼は今でも医者を目指していた。
 優しい人だ、と思う。優しさ故に沢山傷付いてきた人だ。
 傷付いた分だけその人生が幸多いものであって欲しい。そう願う一方で、その人生に自分が寄り添い続ける資格があるのか分からなかった。
 それでも彼女の主は、迷うことなく彼女の存在を肯定する。傍にいてほしいと、幼い子供のように目と行動で訴えてくる。
 望まれる喜びも苦しみも同じだけ胸の内で渦巻いて、片桐を苛む。竜弦から離れれば苦しみが増幅されて息が苦しくなり、かと言ってそばにいれば喜びの鮮やかさで苦しみはいっそう強く際立つ。
 ──いけない。竜弦様の前で、苦しみを見せてはいけない。
 何度もそう自分に言い聞かせながら、ティーポットに竜弦の好きな紅茶を作る。
 二人分のティーセットをワゴンに乗せて食堂に戻ると、竜弦が携帯電話の画面を睨んでいた。
 竜弦は片桐にすぐに気付くと画面から顔を上げて、「おかえり」と微笑んだ。
 春の月に似たその柔らかな微笑みが嬉しくて、同時に悲しくて。それら全てを覆い隠すように、片桐は「ただ今戻りました」と微笑みを返した。
 
鰤作品一覧へ戻る
小説作品一覧ページへ戻る

第1クール最終話放送後のタイミングで投稿しようと思って用意していたものです。
アニメ凄かった……