痛い。
日常生活でも滅却師の修行でも、そのたった三音のその言葉をいくら発したところで父にも母にもろくに届かず、聞いてくれたのは後に妻となる専属のメイドだけであった。
けれど自分が痛いと言えば彼女もとても痛そうな顔をすることに気付いたので、それ以来その言葉は言わなくなった。彼女のそんな顔は見たくなかったからだ。
とは言え痛覚は変わらず備わっているので、痛い時は痛い。静血装で外傷を防ぐことが出来ても、頭痛や腹痛が体の不調を訴えてくる。結局体のどこかに痛みを覚えても我慢して自分で「処置」する事を覚えたのは、小学校中学年になる頃だった……などと。
石田竜弦にとっては遠い過去であり、今更問題にもならないような事を思い起こしてしまったのには理由がある。
「どこか痛む箇所は?」
「…………」
「だんまりでは困るな。痛むなら痛む箇所を、痛む箇所がないのならそうはっきり言え。患者なら主治医にもう少し協力的になった方が身の為だぞ」
今度は何かと思えば、横断歩道を渡ろうとした子供が信号無視の車に轢かれそうになったところを助けようとして自分が車に撥ねられたのだという。
竜弦が外来患者の診察をしている最中に搬送されて来たという息子は既に検査と処置を終えて足や腕にギプスや包帯を巻かれ顔や手に医療用ガーゼを当てられた状態で玄関ロビーの待合室のソファベンチに座っており、こちらの顔を見るなりバツが悪そうに視線を逸らした。
一つ溜息を吐いてから、やや距離を空けて隣に座る。
しばらく返答を待っていると、雨竜はようやく口を開いた。
「……治療ならもう終わったし、薬も受け取った」
「処置が終わっただけだ。両腕両足の打撲と右膝の靭帯損傷、全身の擦過傷が完治するまでは治療を終えたとは言えない」
「それにしたって大したこと無い、もう歩いて帰れる。なんで引き留めるんだ」
時速40kmで突っ込んで来た信号無視の車に撥ねられてその程度で済んでいる幸運あるいは異常性を医者として指摘するべきか、もっと軽い怪我で済んだ筈であると滅却師として指摘するべきか。
そう考えた時、その言葉はすぐに口から出て来た。
「何故避けなかった」
雨竜の能力を考えれば公道を走る乗用車程度、避けられない筈はない。その問いに対する雨竜の答えはとてもシンプルだった。
「僕が避けたら車があの子に直接突っ込んでた」
予想出来た筈の答えとは言え、その答えを聞いた竜弦はひどく苛立ちを覚えた。
自分を優先しろ、と。
そう口で言うのは簡単でも、雨竜がそんなことを出来るような性格をしていないことくらい理解している。自分の安全よりも目の前の他人の安全。助けた子供やその親からは感謝され、世間から称賛を浴びる立派な精神であろう。
だがその判断を正しいと認めるなど出来たものではない。例え、最大限軽い傷で済むよう当人が受け身を取っていたとしても。子供の自己犠牲など親が褒めるべき物ではない。
「だとしてもどうにかして避けろ。他者の安全を確保したいなら自分の安全も等しく扱え、出来ないとは言わせんぞ。回避できた筈の怪我をわざわざ負うような人間にかかずらっていられるほど病院は暇ではない」
「……それは、反省してる」
雨竜の表情が曇る。ここまで搬送してきた救急隊員や、処置にあたった医師・看護師のことを思い返したのだろう。院長の息子が車に撥ねられて担ぎ込まれて来たのだから、対応にあたったという研修医はさぞ緊張していた筈だ。
「怪我への感覚が麻痺しているところはあるかもしれない」
その言葉を聞いて、麻痺しているという自覚が雨竜にあることに密かに安堵する。
「この程度なら自分でも治せるから、救急車も断ろうと思ったくらいだ」
「……それはやめておいて正解だ。医者が診なければ気付かない異常はある。そしてここでお前を担当した医者に診断書を書かせれば被害者・加害者双方にメリットがある」
まあ加害者にメリットなんぞ無くとも良いのだが、雨竜本人がピンピンしている上に念の為撮ったMRIでも異常は見受けられないので必要以上に加害者を追い詰める必要はないだろう。取るべき責任は取ってもらうが。
「加害者側や保険会社とのやり取りは私が行う。さっさと治したいのならお前は大人しくしていろ」
「……分かった」
まだ雨竜に言うべきことはあるが、これ以上の話は他人の目のある場所でするべきではない。
「もう帰っていい、車で送る」
「自分で帰れる」
「大人しくしていろと言ったのが聞こえなかったのか?」
「…………」
雨竜はムッとした顔をしたが、竜弦がベンチから立ち上がると大人しく付いて来た。松葉杖の扱いに慣れないためか、その足取りは少しばかりぎこちない。左肩に掛けているトートバッグは撥ねられる時に持っていたものか。バランスを崩しそうなものだからバッグをこちらに渡すよう竜弦が言うと、雨竜は渋々と頷いてバッグを差し出した。
少し時間を掛けながら病院内を歩き、竜弦は雨竜を後部座席に乗せて雨竜のアパートへと車を走らせる。運転はいつもより少しだけ丁寧に、なるべく交通量の少ない道を選ぶ。
「最後にもう一度聞いておく。どこか痛む箇所は」
アパートに程近い通りで信号が青に変わるのを待ちながら改めてそう尋ねると、雨竜はぽつりと呟いた。
「……右腕と右膝は、少し」
返答があったことに驚きと安堵を同時に覚える。
この子は自分相手に痛みを曝け出してくれるのか、そして、この子はまだ痛みを訴えることができるのだ、と。
「生活に支障は出そうか」
「立ち仕事が少し辛くなるかな」
信号が青に変わった。車を雨竜のアパートがある住宅街へと走らせる。
「貼り薬の他に痛み止めは処方されているな? 言われただろうが、あまり無理な動きはするな」
「……分かってる」
どこか不貞腐れたような声音だが、運転中なので後部座席の様子を伺うわけにも行かない。
「言っておくが、虚退治もするんじゃない」
「するわけないだろ、こんな怪我してるときに」
果たして本当に分かっているのか。そう問い詰めたいのを堪えながら、竜弦はアパート前で車を停めた。
先に降りてから後部座席のドアを開けると、そろそろと雨竜が降りて来た。
「一階だったか?」
「そうだけど」
「登下校に送迎は」
「流石にそこまでしてもらわなくていい」
二人で雨竜の部屋の玄関前まで来ると、雨竜が「鍵、そのバッグの中」と言いながらこちらを振り向いた。
「どこに入れてある?」
「バッグの口広げてくれればいい、自分で出す」
バッグの口を広げると雨竜はバッグに手を突っ込み、迷わず鍵を引っ張り出してみせた。
「……送ってくれてありがとう」
鍵穴に差した鍵を回しながら雨竜が小さな声で言う。
「意外と歩きづらいな、これ」
「そう思うなら次はもう少し上手くやることだ」
「そうする」
カチャリ、と錠から音がした。鍵が開いたようだ。部屋のドアを開けてやり、雨竜が屋内に入るのを見届けてから預かっていたバッグを手渡す。
部屋のドアを押さえて開け放したまま屋外に立つ私から、室内に立つ雨竜の顔は陰の中に立っているように見えた。向き合った雨竜の顔は慣れない松葉杖で少し疲れているようだが、辛そうな色は見えない。
後はもう雨竜一人にしても問題ないだろう。
「では私はもう戻る。お前は当分大人しくしていろ」
「何回も聞いた……」
雨竜の顔には呆れが浮かんでいるものの、こちらを拒絶しているわけではなさそうである。
胸の内を締め付けるような情感がふと湧き上がり、背丈は自分と大して変わらない筈だが今は松葉杖でやや低い位置にある頭を思わず軽く撫でた。
「なっ、」
カッと雨竜の頬が赤くなる。
「なんだ急に?!」
「…………」
赤面した時に肌の白さが際立つのはお前の母親に似ている、などと言える筈もないので黙っておくことにした。撫でられるがままの雨竜は目を白黒させているが気付かない振りをしながら一頻り頭を撫でて満足する。
「ではな」
少し乱してしまった髪を軽く整え直してから手を離すと、睨みながらほとんど噛み付かんばかりに叫ばれた。
「さっさと帰ってくれ!」
これ以上嫌われる前に身を引き、アパートのドアを静かに閉める。
玄関前に長居はせず、アパート前に停めている車へと戻り、運転席に腰を下ろしてから携帯端末を取り出す。
訳あって携帯電話番号を知っている息子の友人達にショートメッセージを送り、あいつが怪我をしていることを伝える。また顔を合わせた時にあいつから文句を言われるのは目に見えているが、これくらいはさせて欲しいものだ。
端末をしまい、車を発進させる。病院へと戻る道中で口角が僅かに緩んでいることに気付いたが、引き締めようという気にはならなかった。