《自らが輝く》、ヤエヤマヤシ、それから(石田親子)

※雨竜が二十越えたあたりの話

◆◆◆

『昼十一時に迎えに来る』

 まだ何も予定がないのであればこの日は丸一日空けておけ、と父に言われたのが二週間前。そして、具体的に何があるのかも伝えられないままにそう短いメッセージが送られてきたのが、今……つまり、約束の日の前日の夕方六時。
 本当にこっちの都合を考えないな、と呆れつつ、何か服装の指定とかは、と返信する。返信が送られてきたのは三十分後であった。
『度を過ぎたカジュアルでなければどうとでも』
 さてどこへ連れて行かれるのやら。
 竜弦の指定でまず思い出したのが、誕生日だからと少し前に竜弦から贈られた服に含まれていたセットアップであった。高級ブランドのショップに連れて行かれ、着せ替え人形のようにあれこれ着せられては店員と竜弦の間でお似合いですよ否こうではないと言葉が飛び交い、気が付けば全身竜弦の好みにコーディネートされ、目の飛び出るような総額のそれを丸ごと贈られた。それはどういうわけか「雨竜の」誕生日ではなく、「竜弦の」誕生日に発生したイベントなのだが、こういったイベントはその後も何度か発生している。
 竜弦は三月生まれなのであの時は春物中心のコーディネートとなったが、今は寒波襲来と連日ニュースで騒がれる真冬である。しかし幸いにもあのセットアップはオールシーズン使えますよと言われた記憶があるし、真冬に別のブランドのショップに連れて行かれたこともある。
 とにかくあれを中心にすれば何か言われるようなこともないだろう……と、雨竜はセットアップほか竜弦から事あるごとに贈られている服でコーディネートを組み立て、翌朝十時五十分には綺麗に身支度を終えて自宅アパートで待機していた。
 父の金遣いは決して荒いわけではないのだが、根本的に金銭感覚が世間ずれしているというのは家を出て一人暮らしを始めてから実感したことだった。
 病院経営だけでなくどこぞに持っている土地やマンションあるいは株なんかの資産運用によって得ている莫大な収入の使い道と言えば、今は竜弦が一人で暮らしている屋敷の維持費用(馬鹿にならない額である)と食費に水道代に光熱費といった基本的な生活費が中心で、それ以外は竜弦が必要最低限の社会生活を営むのに必要な細々とした出費……と聞いている。
 どうもその「細々とした出費」の中には息子を着せ替え人形にするあの奇怪な趣味費が含まれているらしく、その一回分の値段だけで雨竜からしたら数か月分の食費を賄えてしまうところを、竜弦は些細な出費だと涼しい顔をしているのだった。もっと他の趣味を見つけろと一度思わず怒鳴ってしまったが、竜弦の顔はやはり涼しいものだった。
 あいつ家計簿とか付けてるのかな、と本人に言えば余計なお世話と一蹴されそうな心配を巡らせていると、竜弦の霊圧が近付いて来るのに気が付いた。
 竜弦を玄関で出迎えると、まず竜弦は雨竜を頭のてっぺんから爪先まで眺め、そしてどこか満足げに頷いた。
「……よし。行くぞ」
「殴られても文句言えないからな、今の」
 踵を返して近くに停めている車の方へ向かう竜弦に呆れながらそう声をかけ、雨竜は後を追いかけた。
 本気で息子を着せ替え人形にしたいのかこの男は。
 学生向けや単身者向けのアパートが多く立ち並ぶ住宅街にはどこか不釣り合いな高級車は、そのまま駅前を通り過ぎて都心方面へと雨竜を連れて行く。
「で、どこに行く気なんだ?」
 晴れ渡った冬空の下のクラシカルな巨大駅舎を窓の向こうに認めながら訪ねると、竜弦は短く「まずは昼食だ」とだけ答えた。
 竜弦は駅の近くの立体駐車場に車を入れると、近くの高級ホテルの方へと雨竜を連れて来た。雨竜の誕生日にこうした場所のレストランに連れて行かれたことはあるが、今日のような「何でもない日」に来ることは初めてであった。
「ランチってまさかここ……」
「他に何だと?」
 上階へと向かうエレベーターに乗る竜弦の表情は平然としている。この父らしいと言えばこの父らしいが、と雨竜は思わず溜息を一つ。
 エレベーターが止まった階にあったのは、ビュッフェ形式のレストランであった。竜弦が受付で名前を告げると席に案内される。東京の街を見下ろせる窓辺の席に通された。
「意外だな。あんたは食べ放題とか好きじゃないのかと思ってたけど」
「今日は私の都合でお前を連れ回すのでな」
「……ふうん」
 ランチくらいは好きなものを食べろ、ということらしい。気の使い方がどうにもずれている気はするが、そういうところは今に始まったことではない。
 雨竜は遠慮なく(ただし上品に)、好きなものを好きなだけ食べることにした。
 これは自分でも作れそう、味付けは、これ後でもう一度食べよう……などと考えながら取ってきた料理を丁寧に食べている雨竜を、竜弦は雨竜に比べて少ない量を食べながら、険の無い──何か掌の上で小さく輝いているものを見るような目で見ていた。
 食事を終えると、そのまま徒歩で向かったのは現代的な外観をした高層ビル――その中にある美術館だった。
「今日の目的ってここ?」
「そのうちの一つだ」
 さてこの父に芸術を嗜む感性があったのだろうか……と雨竜は若干失礼なことを考えながら、事前に予約していたらしいネットチケットで入館する竜弦の後に続いた。
 壁に掛けられているキャプションを見るに、この美術館に収蔵されているのはどうやら近現代の作品が中心らしい。
 雨竜はこうした美術館に自発的に足を運ぶことはほとんど無かった。小学校から高校にかけての校外学習の類で連れて来られて目にした絵や彫刻を何となくいいな、と思うことはあれど、私生活においては美術館から縁遠い。
 竜弦はどのような絵を好むのだろう、と横目で観察しているうちに分かったのは、どうも人物画や静物画よりも風景画や抽象画を好むらしいということだった。明らかに絵の前にいる時間が長い。
「こういうの好きなんだな」
 種々の色鮮やかな図形がキャンバス上に配置されたカンディンスキーの絵をじっと見ている竜弦の隣に立って話しかけてみると、竜弦は雨竜を見た。
「可笑しいか」
「そうは言ってないだろ。意外ではあるけど」
 竜弦は絵に視線を戻すと、呟くように言った。
「……こういった絵には、物語も信仰もない」
 理由を言ってきたことに驚きつつ、なるほど、そうなると風景画や抽象画なのかもしれない……と、雨竜は納得する。そして、この美術館に展示されている時代以前の絵画は宗教色の強いものが多いという漠然とした知識を思い出す。
「そうか、そういう絵が好きなんだ」
「嫌いではない」
 竜弦らしい……雨竜はそう思い、そのまま竜弦の隣りに立って絵を眺めた。
 そうやって一時間ほど掛けて、ゆっくりと館内の絵を全て見て巡った。
 ミュージアムカフェを見つけたので、次に行く前に少し休憩しよう、と雨竜が提案すると、竜弦はあっさり承諾した。
「次はどこに行くんだ?」
 そう尋ねると、竜弦はアールグレイのカップを傾けながら「黙ってついてこい」とだけ答えた。
 さっきの素直さはどこに行ったのやら、と雨竜は呆れながらもハーブティーを味わうのだった。

◆◆◆

 竜弦の車は雨竜を乗せて、湾岸部へと向かう。
 竜弦が車を停めたのは、海からほど近い大きな公園の駐車場であった。
 駐車場から少し歩いて、竜弦は大きなドーム型の屋根を持つ建物の前で足を止めた。ドームから透けている緑色を見て雨竜はすぐその建物の正体に気が付く。温室──植物園だ。
 入り口で二人分のチケットを買った竜弦は、建物に入る前に一度振り向いた。
「中は暑いぞ」
「来たことあるのか?」
「お前が生まれる前に一度と、お前が一歳にならないくらいの頃に」
 その言葉とどこか懐かしむような目に、成程と合点がいった。
「もしかして、あの美術館も?」
「前の建物だった頃に一度。お前は生まれていなかった」
「……そう」
 つまり今日巡っているのは、父と母がデートした場所で……その中でも、父がもう一度足を運びたいと思っていた場所、ということだ。
 そのことに僅かなむず痒さを覚えるが、同時にこれは竜弦なりに心を開いているのだと分かるので、可愛いところあるな、と一歩先を歩く背中を見て思ってしまった。
 建物に足を踏み入れ、ショップやカフェのあるロビーを通って温室の方へと入っていく。
 竜弦の言う通り、緑の草木が生い茂るドームの下は外の冷気とは裏腹に南国の如き暑気に満ちていた。なるほどこれは……と、雨竜は早々にコートを脱いだ。
「僕は流石に覚えていないんだけど……アルバムを探せばここに来た時の写真はある?」
「何処かにあるだろうな」
 背の高い熱帯植物や色鮮やかな花がそこかしこに咲いている。人工滝の水音も聞こえて来て、どこか日本ではないような雰囲気を醸し出していた。
「南国の植物が好きなんだ?」
「冬でなければ、別の場所も候補に入った」
「……植物が好きなのはなんとなく感じていたけど。そういえば動物はそんなに好きじゃないよな、あんた」
「何を根拠に」
「小さい頃、母さんやお手伝いさんと一緒に動物園に行った記憶はあるんだけど。あんたはいなかったなっていうのも覚えてて」
「……仕事があった」
「ふうん……まあ、いいんだけど」
 温室の中をゆっくりと見て回る。ところどころに立っている解説パネルも、竜弦は丁寧に読んでいた。
 ふと、ドームの天井まで届くほどのヤシの木を見上げる竜弦に尋ねてみる。
「で、植物だとどういうのが好きなんだ?」
 すると竜弦はまた素直に答えてきた。
「……木と、長い葉」
「木と長い葉」
「それと、花。あまり主張しない花がいい」
「大雑把だな……」
「詳しいわけではないのでな」
「……だとしたらここ、あんたの好みと逆じゃないか?」
 木と葉はともかく、この温室の中で咲いている花はどちらかといえば大ぶりで派手なほうだ、と思う。
「そうでもない、今は冬だ。……それに、叶絵がここを気に入っていた」
「……冬以外にここに来たことがあるのか?」
「いや、冬にしか来たことがない」
「じゃあ次は、別の季節に来よう」
 雨竜の提案に、竜弦はヤシの木から視線を外して雨竜を見た。
「別の季節に来れば、違う花が見られるだろ。まあ、あんたの好みではないかもしれないけど、少なくともこの木は変わらずここにあるんだろうし」
 そのような提案を思い付いたことに、雨竜も少し驚いていた。だがすぐに自分が以前竜弦に対して趣味を見つけろと怒鳴った時のことを思い出し、苦笑しながら続けた。
「今日のルート、あんたの好きなもの……というか、趣味候補とかだろ。年に何回か来てもいいんじゃないのか。少しくらいは付き合うさ。趣味を見つけろってあんたに言ったのは僕だからね」
「……随分邪推が上手くなったものだな」
「あんたの息子やってれば嫌でもそうなるよ」
 竜弦はしばらく何も言わなかったが、やがて、何か諦めたようなため息を吐き出してヤシの木の前から踵を返した。
 そして温室内を眺めながら、どこか独り言のように、しかし隣を歩く雨竜に向けて語り始めた。
「私は長く、世界を知らなかった。学校には通っていたが、通っていただけだ。初めて空座町から出たのは、大学入試の日だった」
「ああ、だから無趣味な上たまに世間知らずなんだ」
「……」
 思い切り苦虫を噛み潰したような顔をされた。竜弦にしては珍しく感情がありありと表に出ているが、雨竜は先を促した。
「で?」
「……私よりは、叶絵の方が世界を知っていた。だから彼女は、私がただの人間でいられるようなものを見つけようとしてくれた。結局仕事にばかりかまけてしまい、何も定着しなかったが」
「酷いなあんた……」
「全くだ……お前に言われるまで忘れていたのだから」
 今日訪れた場所も、それ以外に行ったのであろうデートの場所も、母が不器用で世間知らずの父のために選んだのだろう。
 母さんはそういう人だ……と、雨竜は遠い記憶の中の母の顔を思い出す。家にいる時も仕事ばかりの父をいつも心配していた。
「……良かったな、母さんがあんたを見捨てないでくれて」
「……そうだな」
 ほんの少しだけ、竜弦の口角が上がった。
 おや、と思ったが、それはほんの一瞬のことで、竜弦はすぐにいつもの仏頂面に戻っていた。
「それじゃあここ以外も手伝おうか、あんたの趣味探し。まずは今日の美術館とここを起点にしてさ。いいじゃないか、あんたの人生はまだ先も長いんだし」
「……服を見立てられるのがそんなに嫌だったか……」
「いい歳した男の趣味が二十過ぎの息子依存なのは如何なものかと思っただけだ」
 気恥ずかしいと言うのは、勿論多分にあるが。
「せめて頻度をなんとかしろ……年に一回くらいなら付き合ってやるから」
「……そうか」
 その声色は随分と柔らかかった。
 温室の出口に近付いた頃、竜弦がふと思い出したように言った。
「……幼い頃のお前をあちこち連れて行こう、何でもさせてみようと最初に提案したのも叶絵だった」
「そうなんだ」
「そうしたらお前にはしっかりと残った」
「……手芸のこと?」
 手芸を始めたきっかけは母だ。幼い頃、母と一緒に簡単な編み物をした記憶が微かに残っている。
「ああ」
 竜弦は頷いてから、ぽつりと呟いた。
「……お前が私のようにならなくて良かった」
 その声はとても小さく、雨竜に聞かせるつもりもなかった言葉が無意識に零れたもののように聞こえた。なので雨竜は、聞こえなかった振りをした。
 温室から出ると、あんなに青かった空の大部分がオレンジ色に染まっていた。吹き抜ける冷たい風に、思わず肩を竦ませる。
「で、今日はもう終わり?」
「そのつもりだが」
「夕飯はどうするつもりなんだ?」
「……何が言いたい」
「作ってやるよ、そっちが何も考えてないならだけど」
「……お前に任せる」
「じゃあ鍋にするから、帰りにスーパー寄ってくれ」
 竜弦の運転する車は海に背を向けて、空座町へと帰っていく。
 雨竜は窓の外を流れていく景色が少しずつ暗く、そして電気の灯が灯り始めるのを眺めながら、今日の竜弦の様子を思い出す。
 竜弦が、雨竜が生まれる前……それどころか母と結婚する前、まだ家の管理下にある子供でしかなかった頃の話を自発的にするのは珍しいことだった。黒崎家と親戚関係にあったことは知っているが、それにしたって黒崎一心に教えてもらったくらいで、竜弦本人の口からほとんど何も聞いていない。なので、竜弦が初めて空座町を出たのが大学入試の日、というのは初耳だった。つまり小学校から高校に至るまで、いや、幼稚園まで遡って、遠足も修学旅行も行ったことがなかったのだろう。
 そりゃ世間知らずにもなるわけだ、と、無論それ自体は竜弦に責任がないとは言え雨竜は納得してしまった。
 竜弦としてもその話をするつもりは無かったのだろうが……息子に対してもう少し心を開く気になれた、というところなのだろうか。あるいは、そういう重苦しい過去を出汁にしてまで惚気話をしたかったか。案外後者かもしれない。
「なあ竜弦」
「なんだ」
「結構頑張ってたんだな、あんた」
「……どうだかな」
 そう呟いた竜弦の顔がどこか晴れやかだったので、雨竜は思わず父さん、と呼び掛けそうになった。だが慌てて口をつぐむ。
 こんないい日に事故でも起こされては堪らない、と思ったのだ。

鰤作品一覧へ戻る
小説作品一覧ページへ戻る