竜弦と叶絵が若い頃の話です。
竜弦がずっと暗いです。
◆◆◆
「お前に暇を出したい」
二人の間を挟むテーブルの上に置かれたのは、解雇予告通知書。
それを差し出した彼女の主は、淡々と言った。
「僕は、お前に幸せになってほしい。石田家に残り僕に仕え続ける限り、お前が幸せになることは出来ない。だから、石田家の外で幸せになってほしい」
そして、解雇予告を言い渡された彼女――片桐叶絵は、主の顔を見てはっきりと、こう言い切ったのであった。
「お断りさせていただきます」
「そうか、ありが……待て」
断られたことに気が付いた石田竜弦は、浮かべ掛けた安堵の表情を慌てて引き締めた。
「断ると」
「はい」
「……理由は言っただろう」
「はい。ですがそれは竜弦様の本意ではないとお見受けしております」
「っ……無理矢理にでも辞めさせると言ったら」
「出るところに出させていただきます」
「うっ……」
叶絵の言葉に、竜弦は小さく呻く。その内情を可能な限り外界から隠さなければならないこの石田家において、「出るところに出る」というのは非常に面倒な事態を引き起こしかねない。それは叶絵もよく理解している筈であり、つまり彼女は本当にここの使用人を――より正確に言えば、竜弦の側近としての務めを辞める気がないのだ。
「……本当に、辞める気はないんだな」
「以前も申し上げた筈です。片桐の務めは、生涯を掛けて竜弦様にお仕えすることだと」
「っ……お前だって分かっている筈だろう、そもそもお前が僕付きになったのは……!」
「初めから承知しております!」
声を荒げ掛けた竜弦に、叶絵も声を張り上げた。
「承知の上で、お断りすると申し上げたのです!」
ほとんど怒っているようなその声色に、竜弦は言葉を失った。
一方で叶絵は、これで話は終わりと言わんばかりに立ち上がる。
「そろそろお夕飯の支度にかかる時間です。失礼させていただきます」
叶絵は綺麗に一礼すると、部屋から立ち去った。後には解雇予告通知書と唖然とする竜弦だけが残された。
叶絵が厨房に足を踏み入れると、先に用意を始めていた年長の同僚が声を掛けてきた。
「叶絵ちゃん、さっき竜弦様と何かあったの?」
「はい、少し」
叶絵は調理用のエプロンを身に着けながら答える。
「お暇を出されそうになったので、お断りしました」
「えっ、竜弦様から?!」
「はい」
「理由は何か仰ってたの?」
「……それは、お答えできません」
叶絵が目を伏せたのを見て、勘のいい同僚は重ねてこう尋ねた。
「竜弦様が良くないパターンだったりする?」
「……そうかもしれませんね」
あら、と同僚は目を見張る。叶絵がこうもあっさりと主の非を認めるのは珍しい事だった。一方で叶絵は流しで手を洗いながら、どこか哀し気に呟いた。
「竜弦様は、ご自分の幸せというものを考えておられませんから」
◆◆◆
――混血統とは言え、あなたは滅却師。純血滅却師に劣ろうとも、竜弦の能力を後世に残す義務があるのです。
幼い頃、竜弦の母親にそう言われたことを叶絵は今でも覚えている。
滅却師とはそういうものなのだと幼いながら理解しているゆえに、叶絵は大人しく頷いた。
これから自分が使えることになる主に己の人生を捧げるという未来を、選択の権利すら与えられなかったにも関わらず、彼女は受け入れていた。そのように教育されて育ったのだ、小学校に上がる直前の幼い少女には、他の人生など想像しようもなかった。
そうして叶絵は、それを当然のこととして、彼女よりも年下の主――竜弦の側近となった。
――遠足って、どんな感じなの。
叶絵が小学校の遠足に行っていた日、就寝の準備をしている叶絵に当時小学一年生であった竜弦がそう尋ねた。
義務教育の期間中、叶絵は泊りがけでない校外学習に参加することを許されていた。
それは彼女が混血統であり、「混血統滅却師が外で多少血を流したところで問題ない」と、ある種雑に扱われているが故だったのだが……裏を返せば、純血滅却師である竜弦はあらゆる校外行事への参加を許されなかった。
「見ていないところで何かあっては困る」という、学校側からは過保護と捉えられ、一方石田家側からすれば「唯一の後継者に不慮の事故で傷を付けるわけにはいかない」という滅却師としての切実な理由であった。
遠足がある日は学校を休み、滅却師としての修行。それが竜弦にとっての当たり前であった。
その年、叶絵の学年は町外の動物園へ出かけていた。叶絵は、動物園で見た動物たちの様子や、お昼は芝生の上でレジャーシートを広げてお弁当を食べるのだということを話した。
叶絵の話を聞いた竜弦は、その日の修行で怪我をしたという左腕の包帯を撫でながら、全てを諦めたような笑顔で、こう呟いたのだった。
――行ってみたいな。
叶絵の目から見ても、竜弦は己の望みの何もかもを諦めて生きているような子供だった。
世間一般の子供たちが得ている「普通の幸せ」を、「石田家の後継者である」という理由でほとんど知ることなく育っている子供。「普通の幸せ」に憧れながら、自分は滅却師なのだからそれを与えられなくても仕方ないと自分に言い聞かせるようにしながら辛うじて立っている子供。それなのに、常に自分以外の誰か――それは彼の母であり、従妹の少女であり、時には叶絵であった――を慮り、優先し、常に己の意思を押し殺すことを覚えてしまった子供。
いつしか叶絵は、そんな竜弦に笑ってほしいと、少しでも幸せを感じてほしいと願うようになった。その感情がどのようなものであるかとは考えなかった。ただ竜弦が笑っていれば叶絵は幸福であったし、竜弦が悲しんでいれば叶絵の胸は張り裂けそうになった。それだけのことであった。
成長するにつれ、竜弦の顔に自然な笑顔が浮かぶことは少なくなっていった。朝の起床が遅いので起こしに向かうと、ベッドの上で体を起こしたまま瞳の焦点が定まらず虚空を見つめているようなこともしばしばであった。竜弦の心が限界に近づき始めていることは火を見るよりも明らかだった。それでも叶絵は、少しでもその支えになろうと、竜弦に仕え続けた。
叶絵には義務教育期間を経て学校に「普通」の友達がいたので、自分の置かれている境遇が「異常」であることを思い知る機会などいくらでもあった。
修学旅行には参加できず、高校進学もしなかったが、それでも彼女は竜弦に仕える己の人生は幸福であると感じていた。
黒崎真咲が竜弦の婚約者として石田家に迎え入れられた時も。
真咲の身に起きた例の「事故」後も。
真咲が石田家を出た後も。
竜弦の母・依澄が息を引き取った後も。
叶絵は変わることなく、竜弦に仕え続けた。それだけが、自分が竜弦のために出来ることであると信じていた。
何故自分が竜弦の側に置かれたのか、叶絵が自らの意思で竜弦に生涯を賭けて仕えるのだと決めている以上、そんなことには最早何の意味もなかった。
そして竜弦自身が自分の代で滅却師を終わりにするのだと決めた以上、竜弦にとってもそれは最早何の意味も成さない筈だった。
「片桐……」
解雇予告通知書を差し出し・あるいは差し出されたその日の夕食で、竜弦は食事を用意した叶絵の顔を見て何か言いかけた。
しかし叶絵は、主に対して頑なになることを選んでいた。
「先ほどの件でしたら、申し上げたことが全てです」
竜弦が困ったように眉を顰める。
その表情を見て、この人はまだ自分の意思を主張することに躊躇いがあるのだと、叶絵は胸が痛んだ。
竜弦にとってそれがどれほど苦しく負担が掛かることであるか、叶絵は知っている。それでも、彼の抱える本音を察することが出来る人間としての自覚がある以上、叶絵は引くことが出来なかった。
「……竜弦様が何かを隠していることが分からないほど、お仕えしている期間は短くないつもりです」
叶絵に言えることはそれだけだった。
◆◆◆
それからひと月の時が流れた。
相変わらず叶絵は竜弦の側近として仕えていたし、竜弦は叶絵に何か言おうとしては諦めることを繰り返していた。
叶絵以外の使用人達は、竜弦からいつでも辞めてもらって構わないと言われている中で誰も辞めずに屋敷に残っていた。だって他所の待遇を見ても結局ここが一番いいのだものねえ、竜弦様が当主名代になられてから更に働きやすくなったくらいですもの、と彼女らは言う。
竜弦の父・宗弦は、本来の当主であるにも関わらず、相変わらず屋敷に帰ってくることはほとんどなかった。
そんなある日、大学の年度末の考査を終えたばかりの竜弦が起き抜けに熱を出した。
「39.5℃……」
体温計に表示された数字を叶絵が読み上げると、竜弦は天井を見つめたまま「そうか」とぼんやりした調子で呟いた。
「起き上がれそうですか?」
「なんとか……」
「では朝ご飯を食べて少し落ち着いたら病院へ行きましょう、私が車を出します。何か食べられそうでしょうか?」
「……少しなら」
「それではりんごをすりおろして来ますね」
竜弦の部屋から出た叶絵は、厨房で林檎を半分すりおろして叶絵が手ずから口に運んだが、実際に竜弦が口に入れられたのはその半分にも満たなかった。
叶絵の運転する車で竜弦は近くの診療所に連れて行かれ、インフルエンザの検査を受けたが結果は陰性。風邪ですね、お大事になさってください、と、人の好さそうな中年の医者は目を細めて笑って言った。
竜弦が通っているのは医大であり、すぐ近くに大学病院もある。運悪く質の悪い風邪を貰って来てしまったか、あるいは長年の様々な無理が祟ったか、そのどちらでもなくただただ運が悪かったのか。それを考えることは竜弦が望まないであろうと思ったので、叶絵は考えないことにした。
病院から帰宅した竜弦は、薬を飲んですぐに眠ってしまった。眠りながら魘されている様子もなく、静かなものだった。
叶絵は時折竜弦の氷嚢を変えたりタオルで汗を拭いながら、その傍に付いていた。それ以外の時間は、自分の部屋から持ってきた編み物を進める。竜弦が今よりもう少し子供であった頃、同じように風邪を引いた竜弦の看病を付きっ切りでしていたことがあり、その時に言われたのだ。「ずっとそこにいたら退屈だろうし何か本でも読んでいればいいのに」と。実際は退屈なわけがなく、数分おきに竜弦の様子を伺うことになるので本を読めるわけもないのだが、今回もきっと同じように言うだろうと思ったのだ。編み物であれば少しの時間でも進められる。
病院から帰ってきて二時間ほど経った頃、竜弦が静かに目を覚ました。
「おはようございます」
叶絵が声を掛けると、竜弦はまだどこかぼんやりとした声で、「何時だ?」と尋ねてきた。
「もうすぐお昼の十二時です」
失礼します、と断ってから、叶絵は竜弦の額に触れた。氷嚢で冷やし続けてはいたが、朝とそう変わらずまだ随分熱い。
「食欲はありますか?」
「……あまり、ないな」
「ではお昼は、果物かゼリーをお持ちします」
叶絵がベッドの前から踵を返そうとした時、竜弦がぽつりと呟いた。
「目を覚ましたら誰もいないかと思った」
「……」
「熱で霊圧知覚が馬鹿になっているんだ、きっと。でもお前がいて、安心した」
「……片桐は、どのようなことがあろうと竜弦様のお側にいますよ」
そう言って微笑む。叶絵はマスクをしていたし、ただでさえ視力が弱い上に熱で弱っている竜弦に見えているかは分からなかったが、竜弦は少しだけ安心したように目を細めた。
昼食として用意したのは、栄養補給用のゼリー飲料と少量のコーンスープであった。ゼリーを深めの皿に全て開けて叶絵が朝のようにスプーンを手にすると、竜弦が「自分で食べられる」と呟いた。竜弦にスプーンを渡すと、少し危なっかしい手付きながらもゆっくりとゼリーとスープを完飲したので叶絵は内心胸を撫でおろした。
食後の薬を飲んで、竜弦は目を閉じる。またすぐ眠りに落ちたことを霊圧で感じたが、その眠りが先と違うことに叶絵はすぐ気が付いた。
ひどく苦しそうな霊圧の震え。どこか悪くなったのか、と腰を浮かせたとき、固く瞼を閉じた竜弦の唇から言葉がこぼれた。
「ごめんなさい」
幼い子供のような声色で苦しそうに眉を寄せながら、竜弦はうわ言をこぼす。
「ごめんなさい、おかあさま、ごめんなさい」
その言葉を聞いて、叶絵は必死の思いで竜弦の手を取った。
熱い。だが、触れられる。両手で包み込むようにして、その手を握った。
「……奥様は、もうどこにもおられませんよ」
と、呟く。もう、この人がいくら悔いたところで、どうしようもないことなのだ……そう思った瞬間に瞼が熱くなり、視界が滲んだ。自然、堰を切ったように感情があふれる。
「旦那様が滅却師の修行に打ち込んで帰って来ないことも、奥様がそれを寂しく思っていたことも、真咲様の魂魄に虚の血が混ざったことも、貴方が生まれた時から望まぬ戦いを強いられているのも、そんなの、竜弦様ただ一人でどうにかなるわけがないではありませんか……!」
世界そのもの、そして一族のありとあらゆる理不尽を幼い頃からその身に受けて自分の幸せを全て諦めて、それでもなお自分以外の誰かの幸福を願ってしまう竜弦のあり様が、悲しくて苦しくてたまらなかった。
この人が自分の幸せを諦めたところでどうにかなるようなものではないのに、それでもこの人は自分の心を犠牲にしてまで今もなお苦しみ続けている。過去の影に、あるいは、幼い子供の自分によって。
叶絵を解雇しようとしていたのだって、叶絵を思っての行動だ。叶絵に側にいて欲しいと竜弦自身が願っているのにも関わらず、竜弦自ら自分の望みを諦めようとしていた。それが分かってしまったから、叶絵はそれを突っぱねたのだ。
どうしてこの人は、この人ばかり、いつもいつもいつも!
「……かたぎり?」
名前を呼ばれ、叶絵は涙を拭う間もなく顔を上げる。竜弦はゆっくりと瞬きして、まず叶絵が握っている手を見て、笑むように目を細めた。
「ああ、そうか。お前がいてくれたから」
「……?」
竜弦の言葉の意味がわからず叶絵が黙っていると、竜弦は叶絵が泣いていた事に気が付いたようだった。
「……泣かないでくれ、お前が泣いていると、僕も苦しい」
竜弦の言葉は平時に比べてどこかぼんやりとしていて、まるで夢を見ているようだった。熱に浮かされているのだろうと、叶絵は思う。
自分の声も泣いて掠れていたが、構うことはなかった。
「竜弦様が泣けないから、私が泣いているのだと言ったら、どうなさるおつもりですか」
「苦しいけれど……少し、嬉しい」
予想外の返答に驚いていると、竜弦はふわふわと言葉を紡ぐ。
「こんな僕にもお前は心を寄せてくれていて、手を握ってくれる……それがお前であることが嬉しい」
普段の竜弦であれば言わないようなその言葉に、叶絵は目を見張る。
だが、きっとそれだけ疲れているのだろうと、竜弦の額に汗で張り付いている前髪をそっと退けながらタオルで汗を拭った。
「……もう少し、お休みになってください。まだ、熱は下がっていないのですから」
「ああ、そうする」
水をひと口飲んでから、竜弦は目を閉じた。
その寝顔が今度こそ穏やかなものであることを確認し、叶絵は安堵した。
同時に、ここまでの状態にならないと幾重もの心の防壁を取り払うことも出来ない竜弦のあり方は、やはり悲しかった。
竜弦の熱は翌朝には下がり、結局竜弦が熱に魘されたのはその一度きりであった。
熱が下がったあとも、高熱のせいでひどく頭が痛い、と竜弦はベッドに潜っていた。
叶絵はその間も竜弦に付き添いながら、編み物をしていた。時折戯れのように言葉を交わし、穏やかで緩やかな時間が流れた。
この人の人生がしばらくずっとこうであれば、と叶わぬことを思ってしまううちに竜弦は回復し、二日目の夜には、平時より少ないながらも普段通りの食事を食べられるようになっていた。
◆◆◆
竜弦が風邪を引いて一週間ほどが経過した。
竜弦はすっかり回復して、屋敷はゆっくりと日常に戻っていった。
「少し、出掛けたい」
朝、いつものように食堂での朝食を終えた頃、片付けを進めている叶絵に向けて竜弦がそう言った。
「行ってらっしゃいませ。何時頃にお戻りになられますか?」
「いや、お前とだ」
手にした皿を取り落とさなくて良かった。
「そう、でしたか」
「片付けが終わってからでいい、玄関に来てくれ。……その、私服で」
「……かしこまりました」
食器を全て下げた後の片付けを同僚に任せた叶絵は私室でクローゼットを開けたものの、竜弦の前で叶絵が私服を着る機会はほとんどない。
本当にこれで良いのだろうか、と迷いながらも着替えて玄関に足を運ぶと、竜弦が階段の手すりにもたれるようにして立っていた。
竜弦は叶絵を見ると、穏やかな笑顔を見せた。
あの風邪以来、竜弦は時々こうして笑うようになった。まだ疲れが残っているのかと初めは思ったが、そういうわけでもないようだ。
助手席に叶絵を乗せて、竜弦は車を走らせる。
竜弦が車を止めたのは、町のはずれにある大きな公園の駐車場だった。叶絵が小学一年生の頃に遠足で来たことがある場所だったが、叶絵の記憶の限り竜弦はここに来たことが無いはずだった。ただ……
「修練場がこの近くだろう。小さい頃に、いつか来たいと思っていたんだ。すっかり忘れていた」
「……そうでしたね」
子供が芝生広場を駆け回り、大きな遊具ではしゃいでいる。そんなありふれた光景を何か眩しいものを見るような目で見つめてから、竜弦は掲示されている地図を見る。そして展望台の方へと足を進めた。
真冬、その上平日ということもあってか、園内の人影はまばらである。
展望台を一番上まで登っても、周りには誰もいなかった。
町全体を見下ろせる展望台は、春であれば周りに植わる桜に彩られていたのだろうが、 今は寒々しい風が枝を揺らすのみである。
「……お前と、一対一でちゃんと話をしたいとおもったんだ」
眼下の町を眺めることもなく、柵に背をもたれさせながら竜弦は叶絵を見た。
「片桐、これから言うことが僕の勘違いならすぐに否定してほしい。お前が僕に尽くしてくれるのは仕事だからか、それとも、それ以外の理由があるからなのか?」
その言葉に、叶絵は真っ直ぐ竜弦の目を見て答えた。
「……仕事というだけで尽くせるほど、私の立場は安いものではないと自負しております」
「……」
「他の誰かに譲る気もございません。……片桐叶絵は、たとえその始まりが強制されたものだとしても、自分の意志で、竜弦様ただひとりにこの生涯を捧げると誓ったのです」
本心からの言葉であった。竜弦はその言葉に、「そうか」とどこか哀しげに呟いてから続けた。
「僕の人生には、先がない。近くはないが遠くもない……そういう未来に、恐らく死ぬ。それでも、僕と共にいてくれるのか」
「当然のことです」
「……使用人ではなく、家族として隣にいて欲しいと言っても?」
「……え」
予想だにしなかった言葉に思わず声が漏れる。竜弦はどこか夢を見るような、それこそあの風邪を引いた日のような声色で呟いた。
「僕の短い未来の中にお前がいて欲しい。僕の前からいなくなって欲しくない。……だけど」
くしゃりと、竜弦の顔が歪む。ひどく苦しげに、痛みを堪えているかのように。
「それを望んでしまったら、僕は子供のお前から未来を奪ったお母様と同じになってしまうじゃないか……!」
ああそうか、と、叶絵は得心が行った。この人は心の底から、私という女があの屋敷で決められた役割を全うして生涯を過ごすことを痛ましく思っていたのだ。
だからこそ、誰よりも長く共に過ごしている自分だけはそれを強制させた母親と同じでありたくないと、この人は願ったのだ。
「……同じなどでは、ありません」
叶絵は呟き、ちらりと展望台の眼下の町を見た。
遠足にも行くことも許されなかったあの頃の主に唯一与えられた、広くて狭い世界。
その世界から目を逸らし、また竜弦の目を見る。
「私は、ただ貴方との子を残すためだけの装置でも、貴方が私に見向きもしなくなっても、お側にいられればそれで構わないと思っていました」
外の世界を知り、自分と竜弦を取り巻く環境の異常性を思い知る機会ならば、いくらでもあった。竜弦より多いと言っていいだろう。
それでも叶絵は、竜弦に仕えることを選んだ。
「申し上げた筈です、全て承知の上だと。だから……貴方が私を望んでくださるならば、私にとってそれは望外の喜びなのです」
あの日のように、竜弦の手を取った。手袋をしておらず冷え切った右手を、両手で包み込む。触れている先から少しずつ熱を分かち合い始める手を見ながら、竜弦は呟く。
「死にたくなったことがいくらでもある。でも滅却師である以上、死が救済である確証なんてどこにもない。それにお前が作ってくれた食事が美味しくて、真咲が笑っていて……だから死ぬのをやめた、何回も。そんな面倒な男だぞ、僕は」
「よくよく存じ上げています」
「何度もあの家を出ようと思ったが実行出来なかった臆病者だし、あの家を出たところでまともな生活を送る自信もない」
「貴方は、優しすぎるのです。もう少し私に頼ることを覚えてていただきたいと、常々思っております」
「医大に入れたのも、結局現実から逃避したくて勉強し続けていたからだ」
「きっかけがそうであっても、お医者様は立派なお仕事です。苦しむ人を救いたいという貴方の本質の顕れだと私は思っております」
「……早く楽になりたいと、ずっと薄らぼんやり考えていたのに」
そこまで言ってから、竜弦は大きなため息を吐き出した。
「お前には、あんな家からも僕からも解放されて幸せになって欲しい。だから辞めろと言ったんだ」
言葉とは裏腹に、何かの憑き物が落ちたような、どこか晴れやかな声色だった。
「それで私が幸せになれるとお思いなら、竜弦様は少し頭を冷やされたほうがよろしいです」
「……一度冷やしたつもりだったんだが。お前がそこまで言うのなら、そうなのかもしれないな」
竜弦は左手を叶絵の手に重ね、そして握った。
「改めて、ちゃんと言わせてほしい。……僕の未来になってくれ、片桐」
「貴方がそう望むのであれば」
自然と頬が綻ぶ。ふと、竜弦の頬に微かに朱が差した。寒いのか、それとも別の理由か。
だがすぐに、竜弦は俯いて肩を震わせた。
「ふふ、ああそうか……」
「竜弦様?」
「ずっと忘れていたよ」
竜弦が顔を上げた。
その顔に浮かんでいるのは、泣き出しそうなほどの希望に満ちた、笑顔。
「これが『喜び』なんだ」