目が覚めた時、どういうわけか彼は自分の部屋の物ではないベッドの上にいた。
そしてベッドの端には、士官服のジャケットを着ていないベスト姿の上官が腰掛けていた。
「おはよう、少尉。よく眠れましたか?」
上官……シャリア・ブル中佐は、普段と何ら変わらぬ穏やかで人を安心させる一方でどこか食えない笑顔を浮かべて言う。そしてその向こうの壁には、中佐のジャケットが掛けてある。
その一連を見て、彼……エグザべ・オリベ少尉はここが上官の部屋であることに気が付いた。
「なっ、ななななな」
慌てて跳ね起き、それからやけに肌寒いのを感じ、遂には自分が服を着ていないことに気が付いた。
「自分は何故ここに!?」
シーツを引き上げて前を隠しながら叫ぶように尋ねると、シャリアはベッドから立ち上がる。冷蔵庫からボトルの水を、それからエグザべの服一式をベッド脇の収納から取り出した。
まず水を差し出しながら、シャリアは言う。
「随分酔っ払っていたんですよ、君」
酔っ払っていた、全裸で上官の部屋のベッドの上にいる自分。水を受け取りながら、連想されるいくつかの可能性にエグザべの全身から嫌な汗が噴き出した。
「ぼ、僕は何か貴方に対して粗相を働いたということですか!?」
赤くなったり青くなったりを繰り返すエグザべに、シャリアは「おや」と小さく呟いてから、くすりと笑った。
「……さて、どうでしょう」
「どうでしょうでは困るんですが!?」
「少なくとも私は怒ったり不快を覚えたり、君に何か危害を加えられたという認識はありません。私はそれで良いのですが」
「ッ……」
シャリアから伝わる感情にマイナスなものは感じられない。シャリア・ブル中佐は自分のような新人士官には憧れの存在ではあるが、彼の開示する心も言葉も本心なのか怪しいとエグザべは常々思っている。それでも上官がそう言うのであれば軍人であるエグザベは飲み込むしか無かった。
「で、君はどうですか?」
シャリアがどう思っていようと自分が何かしていればやはり寝覚めは悪い。エグザべは必死で記憶を手繰るが、昨晩のことをどう頑張っても思い出せない。
シーツの下をこわごわ覗いてみるが、何か新しい傷が付いているわけでもなく、体のどこかが痛むこともない。……もうあの頃とは違うのだ。あって堪るかそんなこと!
「思い出せない、です」
絞り出すように言うと、シャリアは頷きながらシーツの上にエグザべの服一式を置いた。
「それじゃあ良いじゃありませんか。何もなかった、で。お互い気にする必要は無し、と」
そしてシャリアは踵を返すと、壁に掛かっているジャケットを手に取り袖を通しながらドアへと向かった。
「私はそろそろ出勤時間なので、食堂に行っています。君は今日は遅番でしょう、少しくらいならゆっくりしていても構いませんよ」
「いえっ、すぐに着替えて出ていきます!」
「ご自由に」
あたふたしている部下に苦笑を残し、シャリアは部屋から出ていった。ドアにオートロックがかかり、これでエグザべが出て行けばこの部屋はまたシャリア以外出入り出来なくなる。
「気にするなって方が無理だろ……」
思わずそうぼやくと、部屋の隅に置いてある姿見の中の自分と目が合う。いったい何なのだこの状況は、自分は一体何をしたんだ、と溜息をつきながら、エグザべは服を着る。下着まで含まれているがこれは恐らく自分が前夜に着ていたもの。丁寧にも洗濯・乾燥まで済ませてある。憧れの上官に何をさせているのだ自分は。
どう考えてもとてつもない失態なのだが、シャリア本人はそれを咎めるでもなく飄々としている。まさかとは思うが戦艦勤務ならこういうことはよくあるとでもいうのか。だとしても新人士官でしかない自分には刺激が強すぎる。
全身の格好を整え、靴はどこかと探すと部屋の入り口の靴置きに揃えて置いてあった。これもあの人が丁寧に揃えて置いていったんだろうな、と思いながら靴を履く。
出勤までは時間がある。一旦部屋に戻ってシャワーを浴びて……とどうにか頭を日常に戻し、エグザベはシャリアの部屋から廊下へと出た。
一歩足を踏み出した時ふと、鼻腔を何かの香りが掠めたような気がした。
(木……?)
木に似ていて、心を安らがせるような香り。つい最近嗅いだような気がする。木の匂いなど、もう長らく嗅いだ覚えはないのだが。
少し神経を集中してみたが、それきりその香りはしなかった。気のせいだったのだろうか。
自室の前まで来た時、エグザベは既視感の正体にようやく気が付いた。
(中佐が使ってる香水の匂いに似てる)
普段は付けていないようだが、ソドンから降りている時に近い距離ですれ違うと仄かに香ることがある。絶対高い香水だよ~とコモリ少尉が妙にはしゃいでいたことも芋づる式に思い出した。
(……なんであの香りがしたんだろう)
何も分からないまま自室に入って、そのままベッドの上に身を投げ出し顔面をシーツに埋める。
昨晩何が起きたのか、なぜ自分が香水の香りを思い出したのか、上官はきっと何も教えてくれない。子ども扱いされているという僅かな反発と共に、何が起きていようと自分をこの艦に置き続けるためでもあるのだろうとぼんやり考える。
必要な人材と思われているのか、素直に言うことを聞く都合のいい駒と思われているのか。
前者でありたい、と思うのは分不相応だろうか。そうなるための努力は惜しまないつもりでいるが、きっとまだ足りていない。
「……頑張ろ」
小さく呟いて、シーツを握る。
胡散臭い上官だが、自分がその引力に惹かれてしまっているのはどうしようもない事実なのだ。
12 2025.2