ただひたすらに、足を動かすことしか頭になかった。
後ろから聞こえてくるのは怒声、罵声、悲鳴、何かが崩れる音、爆発音、あまりにも大きすぎる銃声。
目の前は暗闇だった。それでも走ることしか出来なかった。足を止めたら、あの音に捕まってしまうから。
怖かった。
あの嫌な音達に心を全部飲み込まれて、自分もそういうものに変えられてしまいそうで。
だからひたすらに走った。周りに何があるのかも、自分がどこに向かっているのかも分からず、彼は無我夢中で足を動かした。
走って走って、息が上がりそうになった時、どすん、と。何かにぶつかった。走ってきた勢いのまま地面に転げる。
見上げて初めて、自分がぶつかったのが人間の背中であると気付いたので彼は慌てて声を上げた。
「わ、ごっ、ごめんなさい!」
「……?」
その人がのろのろと振り向いてこちらを見た。薄汚れた作業着を着ていて、髪も髭も無造作に伸び放題のその男は、長い前髪の隙間から彼を見た。
その人の目を見た時、思わず息を呑んだ。何も反射しない、光のすべてを吸い込んでしまうような虚ろな目。それなのに……どうしてか、その目をとても美しいと、思ってしまった。
同時に、その目の美しい虚ろが、ひどく痛々しいものに見えた。
男はしゃがんで彼に目線を合わせる。
「……大丈夫、ですか」
しかしその動作は人でないものが人の真似事をするようにぎこちなく、声はひどく陰鬱だった。
「あの、どこか痛いんですか」
彼は男に向かって思わず尋ねていた。
「ごめんなさい、僕、絆創膏とか何も持ってなくて」
「……」
彼がそう続けた言葉を聞いてか、男はゆっくりと瞬きをする。そして、ぽつりと呟いた。
「君だって、痛いでしょうに」
「僕は平気です」
さっきまでどこか痛かったような気がしたが、もうどうということはなかった。
走ってる間に痛いのは忘れられたし、さっきこの人にぶつかって転んだ時は不思議と痛みはなかった。
だから、もう平気なのだ。
そう主張する彼を見て、男は小さく俯いた。何か変なことを言ってしまっただろうか、と彼が焦っていると、男は緩やかに首を横に振った。
「君が平気なら、私も平気です」
「……?」
「ありがとう。君は、優しい子ですね」
男は表情一つ変えずにそう言いながら、彼に手を差し出した。
彼がその手を取ると、強い力で引っ張り上げられる。そのまま二本の足で地面を踏み締めると、男の手が離れていく。
「……この先も、気をつけて。どうか幸運を」
男はそう言い残すと、ゆっくりと彼に背を向けた。彼が思わず手を伸ばした時には、男の姿はもやのように掻き消えていた。
◆◆◆
ふと、シャトルの中で目を覚ます。
焼かれた故郷を追われた人々がすし詰め状態の船の中でその少年に与えられたスペースは、少し体を折り畳んで横になれる程度の広さだった。
もう何日も着替えていないし風呂にも入っていない。最後の食事は十時間前。空腹を我慢するためにほとんどの難民がただ横になるか座るかして運ばれているだけの、どこへ向かうのかも分からない航路。
ほとんどの者と同じように体をただ床の上に横たえ、少しずつ細くなり始めている指を見詰めながら、その明るい茶髪の少年は夢の中で出会った誰かを思った。
(……絆創膏、持ち歩いてれば良かったな)