ここではない何処かに行きたい、とまでは言わない。
ただ漠然と、見たことのないものをこの目で見てみたい。
エグザベの中にそんな想いが芽生え始めたのは、ジオンが新体制となってから一年ほど経った頃だった。
正式なジオン国籍を取得しているとは言え、難民上がりゆえにいつでも吹けば飛ぶような価値の命で生きるために失敗は許されなかった旧体制下。その頃と比べれば今の職場は随分恵まれていて、真っ当に人として扱われていると感じる。
だからなのか、同僚のコモリ曰く「極まった無趣味」であったエグザベは少しずつ趣味や好きなものを意識するようになり、その中で風景写真を見るのを好むようになった。
雄大な山脈や果てしなく広がる海原、鏡のように光る湖と、それらは主に地球の風景を写した写真であったが、一際エグザベが心惹かれたのは極地や雪原……雪景色の写真だった。
自分のギャンを思わせる白銀の雪。地球の一部地域では、冬になると大気の作用によって空から雪が振り、世界を白く染め上げるのだという。恐ろしくもあるが、なんと美しいのだろう。
雨はコロニー内部で降ることもあるが、雪をわざわざ降らせるようなコロニーは観光用途以外で存在しない。きっとほとんどのスペースノイドがそうであるように、エグザベは雪を見たことがない。
(いつか、見てみたいな……)
「なるほど、君が今興味を持っているのはそれですか」
「わっ!?」
背後から声を掛けられ、ソファの上で跳び上がるエグザベ。その拍子に膝の上に乗せて読んでいた写真集がカーペットの上に音を立てて落ちたので慌てて拾い上げた。図書館で借りてきた物なのだ、傷つけるわけにはいかない。それから振り向くと、同居人にして恋人のシャリアがバスローブ姿で立っていた。
「驚かせてしまい申し訳ない……と言いたいところですが、珍しく気付かないとは随分集中してようですね」
「あ、いえ、集中といいますか……」
四人掛けソファのすぐ隣にシャリアが腰を下ろす。シャワー上がりの高い体温がすぐ側にあるので、エグザベの心臓がつい跳ねた。しかし動揺している事を押し隠すポーズくらいは取りたくて平静を装う。
「今日、図書館で借りてきた写真集の写真があまりに綺麗だったので。いつかこの目で見ることが出来たら、と」
エグザベは写真集を持ち上げて、シャリアに表紙を見せる。『地球・雪の世界』というシンプルなタイトルのその写真集を見て、シャリアは顎に手をやった。
「ふむ……地球ですか。以前任務とマチュ君達の訪問を兼ねて訪れたのは赤道に近い地域でしたから、こうした景色とは無縁でしたね」
「はい。僕の中での地球って、ああいう青い空と海に高い気温と湿った空気ってイメージだったんです。学生時代の地球降下訓練は一瞬でしたし……だからこんな景色があるとは思わなくて、図書館で写真集を借りてきてしまいました。いつかこの目で直接見てみたいです」
エグザベは写真集を開くと、山の中に建つ古城が雪で白く染まった写真を撫でた。この写真は一際気に入っていた。
「そうですか。渡航時期を選ぶ必要はありそうですが……君ならすぐに旅費も貯められそうだ」
どこか他人事のようなシャリアの言葉に、エグザベの胸がじりりと焦がされた。
もうとっくに恋人関係だと言うのに、少なくともエグザベはそう思っているのに、この人は時折こうしてやけに他人行儀な態度を取る。距離を取るような、わざとエグザベから離れようとするかのような……これが試し行為ならまだ良かったのだが、残念ながらシャリアのこれは無自覚だ。
いい、分かってる。こんなの今に始まったことじゃない。だから何度だって。エグザベは写真集から顔を上げて、眼前のシャリアを睨むように見詰めた。
「あんたの旅費も僕が稼ぐからな」
シャリアは何も言わずエグザベを見詰め返している。その翡翠の瞳の中の虚無のその更に奥にまで届かせるように、エグザベは啖呵を切った。
「あなたも一緒に来るんだ。……僕の見たいものを、あなたにも見てほしい」
「……」
シャリアの長い睫毛が揺れて瞼が降りる。また瞼が上がった時、その瞳の奥には小さな光が灯っていた。そしてくすりと肩を揺らして笑う。
「……やっぱり、君には敵いませんね。そう言われると、私分の旅費は私が持つので一緒に行きますと言いたくなる」
「言えばいいじゃないですか、僕より稼いでるだろ」
「ええ、そうですね。……君の旅に、私がついて行っても?」
「付いて来いってさっきから言ってます」
子供みたいな拗ね方をしている自覚はあった。そしてそんな自分の子供じみた仕草をシャリアがいたく好んでいることも知っている。
だけど少し拗ねて見せるくらいは許して欲しいとエグザベは思う。どれだけ思いを伝えればこの人に全部伝わるというのだ。
「……ありがとう、エグザベ君。楽しみにしています」
そんなエグザベに、シャリアは更に距離を詰めてその身体に両腕を回した。慈しむような抱擁に、エグザベの中の拗ねる思いはあっという間に萎んでいく。
(僕だって、こういう時のこの人には敵わない)
だから僕は、この人と一緒に旅をしたいのだ──その思いはきっと筒抜けているのだろうが、構うことなくエグザベもまたシャリアを抱き締めた。