本国では白磁の騎士とも讃えられるそのモビルスーツが基地の格納庫に戻って来た頃には、純白の美しい装甲はすっかり泥に塗れていた。特に脚部は搬送中に乾燥した泥がこびりついてしまっている。
そしてこの機体の専属パイロットであるエグザベは、コックピットから降りて機体を見上げ思わず「わあ」と間の抜けた声を上げた。
「地球で戦闘するとこんなになるんですね」
「あんた地球での戦闘は初めてだったのか」
基地の技術尉官が呆れたようにエグザベを出迎えながら、タオルと水のボトルを差し出した。
「それであの戦果なら大したもんだよ、あんたの上官達はたいそうお冠だがね」
「はは、やっぱり……」
エグザベがタオルで額の汗を拭うと、じりりと額が痛んだ。驚いてタオルを見ると、白かった筈のタオルに赤い点が飛んでいる。
「医務室に行ってきな、地球での怪我を放置すると洒落にならんぞ」
そう促されたエグザベは、技術尉官にギャンを任せて格納庫を出た。ほとんど勢いで飛び出してきたのでパイロットスーツは着ていない、士官服のままだ。激しい戦闘で体に伝わった衝撃は当然緩和されず、あちこちに痣が出来ている可能性があった。
上官達がお冠……という言葉には、嫌と言うほど心当たりがあった。この基地に奇襲を仕掛けようとしていたテロリストのモビルスーツ制圧という戦果を挙げたとは言え、正式な命が下る前に単騎で無断出撃したのだ。日頃温厚な彼らが目くじらを立てるのも当然のことだ。
医務室より先に中佐のところへ……と医務室の反対側に足を向けようとした時、カツン、と前方からヒールで床を打ち鳴らす音がした。
「エグザベ少尉」
決して冷たくはない、しかし怒気を孕んだ声であった。エグザベは思わず立ち止まる。
腕組みをしたコモリ少尉が、額に青筋を立てながら廊下のほんの五メートル先に立っていた。
「今、怪我の手当てより先に中佐への報告を優先させようとしていますね?」
「は、はい」
この時エグザベの目には、コモリが立ちはだかる壁のように見えた。ここを越えて行くことは出来ない……本能がエグザベにそう囁いた。
「貴方の独断専行に中佐は大変お怒りです。その上で手当てを後回しにした場合処罰が更に重くなる可能性があります。今すぐ医務室へ向かいなさい」
「ええと、処罰が重くなるのは報告を後回しにした場合なのでは」
「ごちゃごちゃ言わない! 回れ右!」
「りょ、了解致しました!」
エグザベは慌ててくるりと方向転換し、医務室へ走った。戻って来たらしばく──背中から伝わるコモリの怒気が、雄弁にそう物語っていた。
そうしてエグザベは医務室へ向かい、軍医によって容赦なく士官服を剥かれて肌の下に内出血が滲む痣にぺたぺたと湿布を貼られた。擦りむいた額にはガーゼを当てられ医務室用パジャマを着せられベッドの上に座らされ、いずれあなたの上官が来るのでそこで待機しているようにと言いつけられたのだった。
士官服はランドリールームに持って行かれ待機命令も出てしまったものだからとにかくここに座って中佐が来るのを待っている事しか出来ない。
自分の行動に後悔はない。あのモビルスーツの武装やエグザベの後続で出た特殊部隊からの通信を鑑みるに、対処が遅れていれば被害が出ていた可能性が高い。守るべき人達を守ることが出来た。
それはそれとして軍人の身でありながら上官の命令も待たずに無断出撃をしたことは事実だ。
沙汰を待つ心持ちで、エグザベは壁掛けの時計を見つめながらシャリアが来るのを待った。
やがて時計の長針が反対まで動いた頃、医務室に控えめなノックの音が響いた。
開いてるよ、と軍医が声を上げると静かにドアが開く。そして、エグザベの上官であるシャリア・ブル中佐が医務室に足を踏み入れた。手には畳まれた服を持っているが士官服ではない。整備作業時に着用するツナギだ。
エグザベが跳ねるように立ち上がって敬礼すると、「ああ、楽にするように」とだけ言われた。バイザーを掛けた表情は伺い知れないが、纏う空気は静かで怒気は感じられない。
だがこの人が自分の無茶を怒っていないわけがないのだ、とエグザベは過去の経験を思い出しながら心を引き締めた。
「動いても問題ないようなら、ひとまずこれを着てください。着替えが終わったら我々の部屋へ」
それだけ言い残し、シャリアはエグザベにツナギを渡して医務室を出て行ってしまった。
普段なら即お説教の流れなのだが、とやや拍子抜けしながらエグザベはそそくさとツナギに着替えて医務室を出た。
我々の部屋、とシャリアが言ったのはシャリア・コモリ・エグザベの部隊が地球滞在中に拠点として間借りしている会議室だ。基地のやや奥まった場所にあるが、医務室からは五分も歩けば辿り着ける。
扉をノックすると、「どうぞ」と返って来たので鍵の掛かっていない扉を開ける。
窓に背を向けるようにしてコの字型に配置されたデスクの一番奥、窓を背にしてシャリアが座っていた。
部屋の中にコモリはいない。どこに行ったのか、とエグザベが考えるより先に「コモリ少尉は陛下への定時報告で通信室にいます」とシャリアが言う。その声はやはりひどく静かだ。
「座ってください、軽傷とは言えまだ痛むでしょう」
エグザベの定位置をシャリアが指し示しながらそう言うので、エグザベはおずおずと腰を降ろした。
「貴方の独断専行を理由に何か処罰を与えるつもりはありません。テロリストによる基地襲撃を防いだ貴方の戦果は無視できないもので、まあ相殺して問題なかろうという、貴方の直属の上官である私の判断です」
それでは戦闘報告を聞きましょう、と、シャリアは手元のレコーダーを起動した。
エグザベは淡々と報告を上げた。テロリスト側のモビルスーツの武装の特徴、対峙して分かったパイロットの技量。
一通りの報告を受けてから、シャリアは小さく溜息を吐いてからバイザーを外した。ようやく見えたその目は静かで、けれど疲れ切っているように見える。
「……何故、あのテロリスト達に気付いたのですか。貴方が出た時、兆候は何も無かったでしょう」
「気付いたと言うより、予感がしました。この場所に向けた敵意のようなものを感じ、僕がすぐに行かなければここが燃える、敵意の方へ向かえば間違いないと。結果論ですが、事実連中はこの基地を標的としたテロリストでした」
「────」
シャリアは口を引き結び、黙りこくる。エグザベは黙ってシャリアの言葉を待った。
やがてシャリアは一つ、溜息を吐き出した。
「後出しじゃんけんは好かないのですが……ミーティング中だったでしょう、同じ場にいた我々に話そうとは思わなかったのですか」
「話している余裕はないと感じました」
「そのために君一人が負担を負って傷付いたとしても?」
「この基地を、貴方達を守ることが出来たので、意義はあると考えています」
「…………」
シャリアはしばし黙り込んでから、レコーダーを止める。それからちょいちょいと手の動きだけでエグザベを呼んだ。
エグザベが不思議に思いながら立ち上がってシャリアに近付くと、シャリアも立ち上がる。かたん、と椅子の脚が床にぶつかる音が静かな部屋に響き、次いで衣擦れの音がエグザベの耳を覆った。
いつの間にか、エグザベはシャリアの体温と白檀の仄かな香りに包まれていた。白檀──シャリアが好んでいる香水の香り。抱き締められていることに気付いて、エグザベは身動ぎしながらシャリアを見上げる。
「中佐……?」
「ここから先は上官としてではなく、恋人としての言葉だと思って聞いてください」
「はあ……」
戸惑うエグザベには素知らぬ振りで、シャリアは恋人としての言葉を続ける。
「君は軍人に向いていないと思うことがあります。君は軍人であるにはあまりにも真っ直ぐで、その身を顧みない……私の存在が君を軍に縛る限り、私は既に君のその人格と能力を戦いに利用する悍ましい存在へと成り果てているのではないかとすら思う」
「────」
独白に似たシャリアの言葉に、エグザベはなんと返したものかとしばし迷う。
あまり僕を侮るなよ、と叱りつけてやるのが一番手っ取り早かったしそう言ってやりたくもあったが、叱るには今のシャリアはあまりにしおらしかった。
「確かにあんたは僕に無茶振りばかりしますが、それは僕が必ず成し遂げると信じてのことでしょう。ちょっとムカつくことはありますけど」
なんとか口を開いたエグザベは、頭をフル回転させながら言葉を選ぶ。
「僕がこの身を賭けるのは、僕にとって、あんたやコモリ少尉がそうするに充分なくらい大事な人達だからです」
それに、上官だろうと恋人だろうとあんたは僕を大虐殺の尖兵にだなんてしないでしょう?
口から出かかったその言葉はすんでのところで飲み込んだ。しかしシャリアには伝わってしまったようで、エグザベを抱き締める腕に力が籠もった。
「……ごめんなさい、シャリアさん。僕には、どうしてあんたがそんなに心を痛めているのか分かりません。僕はずっと、僕の意思で行動しているだけです」
僕なんかと貴方のような高潔で美しい心を持つ人が傷を負うのとはわけが違うだろう。僕は貴方のためならいくら傷をこさえても痛くない、貴方が傷付くよりずっと良いから。
そう言ってしまえばシャリアはもっと傷付くのだろう、と理由も分からぬままエグザベは思う。機序は分からぬのに、結果だけはうっすらと見えてしまう。そんな自分がなんだか恨めしかった。
シャリアが傷付く理由を理解できなければ、きっと意味がないのに。
「君をずっと私の腕の中に閉じ込めていられたらと。考えてはいけないことを考えてしまいます……そうすれば君が傷を負うこともない……」
エグザベの耳元で囁くようにこぼれたシャリアのその声が泣き言に似ていたので、エグザベはシャリアの背中に腕を回した。
「そうしたいのであれば僕を監禁しても構いませんが、それで一番後悔するのはあんたでしょう? 僕はあんたの自傷の道具になりたいわけじゃありませんよ」
「……意地悪ですね、貴方は」
「意地悪で結構です。でも、あんたが僕のために心を痛めるのは……」
これを口に出していいものか、と迷う。けれど、正直に言わなければこの人と対等とは言えないだろうと、エグザベは言葉を続けた。
「嬉しいと、思ってしまいました」
気を引くことができて嬉しい、とそれはまるで幼い子供の思考。二十代半ばにもなる男が考えて良いことではない。それでも自分を愛してくれる人が弱い部分を曝け出している以上、エグザベもまたそうする。
「だから、あんたがそうして心を痛める理由の理解に努めようと思います。ごめんなさい、分からなくて」
シャリアの手がそわりと動く。もっと強く抱き締めたいのだろうが、エグザベの体を慮って我慢しているのだろう。代わりにその大きな手がエグザベの背を撫でた。
「……いいんです。これから、分かっていけば良いことです。私は……私だけではない、コモリ少尉も、君を大切に思っています。独りで傷付いて欲しくないと、思っています。どうかそれだけは覚えていてください」
「────」
傷付く時は、いつだって独り。それは難民になってからエグザベの人生において当たり前のことだった。それなのにこの人は、独りで傷付いてくれるなと言う。イズマの軍警に殴られた時は絆創膏を差し出し、殺し合いまで演じたのに今こうして抱き締めてくれる。
エグザベが戦果を挙げることよりも、傷を負っていることをこの人は気にする。
(ああ、そうか)
擦り剥いた膝小僧。傷口を洗って、パッドを貼ってくれた大きな手。膝のひりひりとした痛みに涙を堪えていると、パッドを貼り終えた手が頭に伸びてきた。
セピア色になってしまったそれらの光景がぱちんと脳裏に閃いて。
目尻がじわりと熱くなり、頬をなにか液体のようなものが伝った。
(どうして、忘れていたんだろう)
エグザベには確かに、愛し慈しまれた記憶がある。エグザベが傷を負うと、自分事のように悲しむ人がいた。そうやって、シャリアはただ当たり前にエグザベを愛していただけなのだ。エグザベがシャリアにして欲しくないことを、シャリアもまたエグザベにして欲しくないだけなのだ。
気付いてしまえば、堰を切ったように涙が溢れてくる。
自分ではどうにも止められなくて、エグザベはシャリアの首筋に額を押し付けたまま声を上げずにただ無言で涙を流した。
シャリアもまた何も言わず、シャリアのスーツの肩がしとどに濡れるまで、二人の抱擁は続いた。
02 2025.11
