シャリア・ブルは芸術をとんと解さぬ男である。
物体の美醜を自意識でもって漠然と判断する事は出来る。資産家の間で絵画や彫刻が資産あるいは一種の投機商品として扱われていることも知っている。
しかしそれらの実際の価値だとか歴史だとかそういったところは門外漢であり、きっとデザインさえ似たようなものであれば北宋の壺もディスカウントショップの棚に並ぶ花瓶も同じように見える。自分はそういう男である、と。それがシャリア・ブルの自認であった。
だがそんな男にも響く芸術は存在するのだという意見には賛同しても良いかもしれない、と、シャリアは一枚の絵を見ながら考えるのだった。
「『夕暮れ時の刈り込まれた柳』フィンセント・ファン・ゴッホ……旧19世紀の作品とは、マ・クベ中将のコレクションの中でも比較的新しい方ですね」
隣に立ったエグザベが、額縁の側に添えてあるキャプションを読み上げる。シャリアは「そうですね」と頷いた。
「中将がこうした絵も好むとは、少し驚きました」
マ・クベのコレクションだというそのゴッホの絵には、夕日の強い光を浴びる柳の木々が描かれていた。背の高い草に囲まれた柳はいずれも葉が刈り取られていて、何処か物悲しく見える。後景の水面と柳の木の青が、夕日と草原の黄色の中でいっそう際立って見え……逆もまた然り。その強い夕日が画面のすべてを色鮮やかな風景に見せていた。
シャリアとエグザベ、そして別室に控えているコモリは、グラナダに新たに開かれる美術館のプレオープンに招待されていた。
この美術館は現ジオン公国中将マ・クベのコレクションを公開展示し、グラナダ市民が気軽に芸術に触れられるようにと建設された。
建設計画自体は現政権となる以前よりキシリア・ザビの認可を受ける形で進んでいたらしい。「イオマグヌッソ暴走事故」に端を発する政変によりしばらく計画は凍結されていたが、実現すれば観光資源として大いに有用であると目を付けたアルテイシア現公王の計らいによって計画が再開され、こうして無事開館と相成ったのだ。その成立には旧・現両体制の思惑が大いに絡んでいるものの、あくまでマ・クベ個人のコレクションを展示する私設の美術館という建付けとなっている。
そうした経緯ゆえに厳密にはマ・クベ個人から招待されたのはエグザベ一人で、シャリアとコモリは任務として潜り込むために「招待状を発行してもらった」形になる。
その任務とは、このプレオープンと翌日の開館式典に集う要人警護の裏からの支援。
その要人とは、地球連邦を含めたジオン国内外の政財界の大物。その中でも特に要警護と目されている者が二人。
まず当然ながら、この美術館の創設者であり旧体制時はキシリア・ザビの忠臣としてその名を知られたマ・クベ中将。
そして開館式典に合わせてのグラナダ入りを予定している、ギレン・キシリア両名の国葬以来およそ二年ぶりに公の場に姿を見せる、ガルマ・ザビである。
「マ・クベ中将個人がお好きなのは陶芸や彫刻ですが、地球に赴任していた頃は散逸・消失の危機状態にある芸術品を可能な限り保護していた方です。それを金持ちの道楽と嘲られたこともあると仰っていましたが、芸術こそ世に必要であると信じていると……だからこの美術館にも、その中から幅広い年代の作品が集められている」
エグザベは、ジオンに拾われてから少しの間マ・クベに衣食住を世話になっていたのだという。キシリア亡き現在でもマ・クベはエグザベを多少なりとも気にかけている。
マ・クベはキシリアがギレンに対するクーデターを謀っていたことは承知の上であったが、イオマグヌッソを用いて地球人類抹殺を目論んでいたことは全く知らされていなかった。それが幸か不幸なのかは、シャリアにもエグザベにも分からない。とにかくそうしてマ・クベは現在でも中将の座に就いていた。
キシリアの死とイオマグヌッソの真相を知り、その諸々の衝撃から辞任して地球の別宅に引き篭もろうとしていたところをランバ・ラル将軍が必死で引き止め説き伏せた、とシャリアは聞いている。
「地球に置いていてはむしろ危険だと、マ・クベ中将個人を信頼して所有者から預けられた個人蔵作品も含まれていると伺いました」
エグザベはそう言いつつ、手元の収蔵品リストに目を落とす振りをしながら周囲に目を配った。
今のところ怪しい気配は無し──エグザベがそう口にする前にシャリアは「なるほど」と頷いた。
──我々が泳げば何か釣れるかとも思いましたが。
「少尉はどう思いますか、この絵」
──もう少しだけ泳いでみましょう。
「え、僕ですか」
──もう少しって……。
言外に呆れているエグザベに、シャリアは仮面越しに目配せした。
──私の勘です。
「そうだな……この盛り上がってるの、絵の具ですよね。筆致に、この絵を描いた時の手遣いが感じられるような気がしました」
「なるほど、筆致ですか」
面白いところに目を付ける、と改めてゴッホの絵を注視すれば成程。一色に見えた部分は絵の具で引かれた線の積み重ねだ。
「少尉は絵を見る心得が?」
「いえ、全く。中将にお世話になっていた頃にいくつか見せていただいた程度です。高貴な方にお仕えするのだから本物を見て見る目を養えとのことでしたが、正直あまり」
「ふふ、あの方らしい」
こうしたところがマ・クベは能力が高いが根本的に軍人向きではない、とランバ・ラル辺りから評されている理由なのだろうとシャリアは思うが話が反れるので黙っておく。それ故に共和制への移行を前提としている現政権でも優秀な政府の歯車として重用されているのだが、そんな彼に擦り寄ろうとするザビ派残党のなんと多いことか。キシリア亡き今、マ・クベはそうしたザビ派残党に一切の興味を失っているというのに……とシャリアが密かにマ・クベに思いを馳せていると、耳に仕込んだ通信機から微少な着信音が聞こえた。別室でシステムやカメラを監視しているコモリからの定時通信だ。
シャリアとエグザベにしか聞こえない、無線に乗ったコモリの声が二人に状況を伝える。
『こちらコモリ。今のところ館内外に大きな異常は見えません。ガルマ様の到着が予定より早まるとウラガン少佐より連絡がありましたのでそろそろご準備を』
エグザベがシャリアを横目で見る。シャリアは注視しなければ分からないほどに小さく頷いた。
二人はゴッホの絵に背を向け、周りの客に悟られぬよう展示室を後にした。あくまで招待客として、ゆったりとした足取りで。数メートル後方にぴったり付いて来る気配には気付いていないふりをしながら。
「そう言えば中佐は、どうしてあのゴッホの絵が気になったんですか?」
世間話のようにエグザベに尋ねられたので、シャリアは「ふむ」と顎に手を当てた。
「色遣いに目を引かれた……のだと思います」
「色遣い、ですか?」
エグザベがスーツの襟を直す振りをしながら、襟元に仕込んだ発信機でコモリに信号を送る。
「確かにゴッホの絵は他の収蔵品と比べればとても色鮮やかですよね……僕はてっきり、中佐ならもっと落ち着いた色彩と風景の絵を好むのかと」
「おや、面白い偏見ですね」
「偏見というわけでは……」
エグザベが信号を送って程なくして後方から「お客様──」と警備員の声がする。その隙に二人はそそくさと展示ルートを逸れ、スタッフ通用口を通って、今回の拠点である小さな控室へ足を踏み入れる。
その控室は設計段階から館内に組み込まれていた「第二のセキュリティルーム」であった。館内の監視カメラの映像や館内見取図が投影されているモニターが壁一面に敷き詰められ、いざという時は館内セキュリティシステムの権限を全てこの部屋に移譲可能であるという。
室内には、椅子に座ってモニターを眺める者が一人。
「美術鑑賞はどうでした?」
シャリアとエグザベから声を掛ける前に、私もそっちに行きたかった、と言外に拗ねながらコモリがモニターから振り向いた。
「なかなか有意義な時間でしたよ。次はコモリ少尉も是非」
「いつ来れることやら」
コモリは小さな溜息とともにタブレットとキーボードを手に椅子から立ち上がり、それらをそそくさとケースに詰める。
「さっきみたいにちらほら怪しい者はいますが、いずれも警備には報告済。大きな動きはありませんね」
「まだ会場に中将もガルマ様もいらしていませんからね。ここで騒ぎを起こすメリットがあるとも思えません」
「魚の餌になろうとしてる人がそれを言わないでもらえます? 中佐もエグザベ君もザビ派からしたら格好の的になるからって」
「もっと言ってやってくれ、僕だけならともかく」
「エグザベ君だけならいいって話でもないの!」
本当にこの二人は、と呆れていることを隠しもせずに大きなため息を一つ吐いて見せてから、コモリはテーブルの上に置かれた菓子缶を掲げた。個包装のクッキーやチョコレートが詰まっている缶の蓋は既に空いていて、コモリが食べたのか隙間がある。
「このお菓子、差し入れで頂きましたので移動しながら食べましょう」
「あ、それ前にマ・クベ中将からいただいて美味かったやつだ」
「グラナダ最高級ホテルの限定缶。中将って差し入れにセンスあるよね」
そそくさと荷物をまとめ、三人連れ立って地下の職員用駐車場へ向かい、三人の部隊用の小型バンの定位置にそれぞれ滑り込む。シャリアは助手席、エグザベは運転席、そしてコモリは小型サーバーやエンジン停止中も動く電源なんかが満載のトランクルームをぶち抜いた後部座席。
「はい、発車前に好きなのどうぞ」
コモリが前の席に向けて缶を差し出すと、エグザベはホワイトチョコレートとミルクチョコレートを一つずつ、シャリアはブラックのチョコレートを一粒取った。
チョコレートを口に放り込んだエグザベがバンを発進させ、後部座席のコモリがタブレットを開いた。シャリアもつまんだチョコレートを口に入れる。ほろ苦さと爽やかな香りが強張っていた神経をほどよくリラックスさせてくれた。
「お伝えした通りガルマ様の乗ったシャトルの到着予定時間が一時間早まりました、あと二時間で宇宙港に到着します。その後のスケジュールはガルマ様のホテル滞在時間が一時間長くなる以外は変更ありません」
「到着時刻が早まった原因は?」
「医療用民間シャトルとの発着場の兼ね合いとのことです。ガルマ様のチャーター便が出発を早めればグリーン・ノア発カリフォルニア着医療用シャトルが最速で着陸出来るからと。この便の存在はこちらでも確認していますが、裏も無さそうでした」
「よろしい。この後の配置は大きく変更しなくても良さそうですね」
美術館からグラナダ宇宙港までは車で三十分ほど。互いの報告や軽い確認も終われば自然会話は途切れるか雑談へとシフトする。今日のシャリアは雑談をしたい気分だった。
「時にエグザベ少尉、私がゴッホのあの絵より落ち着いた色合いの絵が好きそうという先の偏見について伺いたいのですが」
「ちょっ、なんでその話続くんですか」
「ああ、聞こえてましたよその話。エグザベ君なかなか失礼じゃない?」
「う……それはそうかもしれないが……」
エグザベは気まずそうに言葉を詰まらせてから、視線は前に向けたまま考え考え口を開いた。
「あの美術館は、もっと古い時代の、落ち着いた色合いの絵画も多かったでしょう。ええと例えば……そうだ、ラファエロやレンブラントのような。中佐が普段お召しになっている服や私物は上品で落ち着きのある色合いなもので……なんとなく、絵もそういった落ち着いたものが好きなのかなと。偏見と仰るならばその通りです、すみません」
「別に気にしていませんよ、面白い視点だと思っただけで」
エグザベの言う落ち着いた色合いの服や私物については、ハイブランドのアパレルや小物はそうした色合いの物が多く、そうした物を身に着けていれば箔が付くというある種の打算から始まっている。
深いこだわりがあると自分で意識したことはなかったが、エグザベの目にそう見えているのであれば、それは自分で意識していない真実の一端ではあるのかもしれない。
「中佐はあの絵のどんなところが気に入ったんですか?」
コモリがシャリアに尋ねた。
バイパスを通過して、周りの車両にトラックが増え始める。車が少しずつ宇宙港に近付いているのだ。
「そうですね、先ほどエグザベ少尉にも言いましたが色遣いが気に入りました」
隣でハンドルを握るエグザベ、そして後部座席に座るコモリをそれぞれにちらりと見る。
「世界を照らす光の鮮やかさと、寂しい色をしているはずなのに不思議とそうは見えない柳……世界をこれほど鮮やかに描けるのかと、感心したのです」
私はきっとあの柳だ。己の感じたものを語りながら、ふとシャリアはそう気付いた。
あの時、自分はやるべきことはやり尽くした出涸らしの身になると思い込んでいたが、そう成ることをエグザベが許さなかった。何はどうあろうと生きていて欲しいのだとコモリが訴えた。今の私を生かしているのは彼らだと、どういうわけかあの絵を見て思ったのだ。
若い部下達に私は支えられている、いつもその光で照らされている。胸の芯の空洞にすら届く、眩しく美しい光で。
「枯れていないなら、また葉も茂って来るでしょうからね」
ふと、何気ない風にコモリが呟いた。
「──」
思い掛けない言葉に虚を突かれたシャリアは黙り込むが、短い沈黙をエグザベの呑気な声が破った。
「そう言えばお二人、本物の柳って見たことあります? 僕はありません」
「私も多分ないかなあ。宇宙に持ち込まれる木でもないよね。旧世紀からのお伽話によく出てくる木ってイメージしかないかも。中佐はどうですか?」
枯れかけの男の感傷を意に介せず転がっていく部下達の世間話。思考の腰を折られた筈のシャリアは何か爽快感に似たものを覚えながら、首を横に振った。
「私も恐らく見たことはありません。地球の、それも地上に降りた回数はそう多くありませんから」
「写真が発明されていない時代は、ああやって見たものを人々に伝えていたんですね」
「うーん……ゴッホの時代はもう写真発明されてるかも」
「えっ、そうなのか」
「発明されていたとしても写真で色を捉えるまでは出来なかった頃です。伝達手段としての絵画の役割は残っている頃でしょう」
「ああ、そっか。でもゴッホのあの絵で伝わるのって、『何が在ったか』よりは『ゴッホが世界をどう捉えたか』じゃないですか?」
「だとしたら、もっと凄いな」
「何が?」
宇宙港にほど近い交差点で赤信号でに引っ掛かる。エグザベはブレーキを掛けて信号が変わるのを待ちながら、ホワイトチョコレートの包みを開けて口に放り込んだ。
「主観なんてニュータイプだろうと他者にそう易易と伝えられる物でもないし、伝わったところで長く残るものでもないのに。ゴッホが捉えた世界は死後から今に至るまでちゃんと残っている。それは、途方もなく凄いことだよ」
信号が青に切り替わり、エグザベがアクセルを踏み込んだ。車は少しずつ宇宙港のターミナルへと近付いていく。
「だからマ・クベ中将は、芸術が好きなのかな。今日三人で話してやっとそう思いました」
「……やっぱりマ・クベ中将って、軍人っぽくないよねえ。エグザベ君越しに話を聞いてると、結構繊細な人なのかなって。軍人にしては差し入れにもセンスがありすぎだし」
「あはは……」
コモリの言外の「軍人らしくセンスのない差し入れ」を思い出したのか、エグザベの笑いが若干引き攣る。
ジオン軍内も彼らのような若い世代が多くを占めるようになり軍人も意識のアップデートを求められる時代と言うことなのだろうが、はて私はどうなのだろう……とシャリアが己を顧みたところでコモリがすかさず声を上げた。
「中佐も差し入れにはめちゃめちゃセンスあるので、そこは自信持ってください」
「おや、ありがとうございます」
車は、所定の機器を積んで車体登録をしていなければUターンを促される「関係者専用レーン」へ。自然と雑談も終わり、車内の空気が引き締まる。この後の流れを再度確認しながら地下駐車場に車を入れ、各々シートベルトを外す。コモリは差し入れのお菓子缶をちゃっかり小型冷蔵庫に入れた。ここからはコモリも含めた三人での行動となる。シャリアは少しずれたバイザーの位置を直す。
「それではお二人、行きましょうか」
「了解っ」「過度な無茶はしないでくださいよ、二人とも」
バンを降りてエグザベとコモリが先を行き、シャリアはその後ろを歩く。
二人の部下の背中が心なしか大きく見えて、シャリアはバイザーの下で目を細めた。
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