chapter:3
俺が病院のベッドから起き上がることも出来なかった時に度々交わした恋人との口付けはいつも、ハーブのような薬のような味がした。
あまりにも重い体とは対照的に、意識は覚醒していることが多かった、と思う。それでも自分を取り巻く環境を知覚出来るのなんて時々だったし、ましてや自分の意思を表出させることが出来るくらい調子が良くなるのなんて、意識が覚醒している時間の二割にも満たなかったんじゃないか、と思う。
それでも恋人が俺の手を強く握ったことに気付いたら、その温かさにすがって俺は必死で意識を表に浮上させようとした。夜の海を行く船が灯台の光を目指すように。
初めのうちは目を覚ますだけでとても疲れたので目を覚ましていられる時間は僅かだったが、段々回復していったお陰で目を覚ましていられる時間は長くなった。
あの時の記憶はところどころ曖昧で、ところどころ鮮明だ。それでも、どの記憶もきっといつか記憶の海に溺れて忘れていくのかもしれない。
それでも、俺が目を覚ました時はほとんど必ず傍にいた恋人がいつも、泣き出しそうなのをその凄まじいまでの演技力で押し隠していたのだけは、一生忘れられそうにない。
恋人がそんな顔をしているのを見る度に、締め付けられるような苦しさを感じた。そんな顔して欲しくなかったけれど、それを伝える手段が俺にはなかった。
明るくて、優しくて、俺のことが大好きで、意外と泣き虫な幼馴染みが、俺の前で泣くのを堪えていたのが、あの時は一番きつかったかもしれない。
だったらいっそ、思う存分甘えてやろうと思った。
俺が甘えてくるのに目敏く気付いてくれる俺の恋人は、俺が望めば抱擁もキスもしてくれる。そうすれば、互いに幸せを分かち合える。今の俺に出来るのはそれくらいだから。
恋人は、事故に遭う前よりも優しいキスと優しい抱擁をたくさんくれた。もっと思う存分俺を愛したいだろうに、それを我慢して。
俺に出来ることは、俺が元気になったら思う存分甘えさせてやる、と届かない言葉を胸に秘めることだけだった。
それでもやっぱり、愛してる、と毎日のように囁かれる言葉にまばたきで返すことしか出来ないもどかしさは日に日に募った。
だから、日中ずっと目を覚ましていられるようになった時、俺は腹を括ることにした。
ベッドの上で体を起こしていた俺は、ベッドの横に座る男の顔を真っ直ぐ見た。
「虎石、上から二番目の引き出し開けてくれ」
「引き出し?」
今日もいつものように、俺の恋人が見舞いに来ていた。母さんに協力してもらって仕掛ける、ちょっとしたプレゼントだ。
俺に言われた通りにサイドボードの上から二番目の引き出しを開ける虎石。そしてその中身を確認し……虎石は固まった。
「……な、なあ愁、これ……」
震え声の虎石は、引き出しの中の藍色の小箱を手に俺を見た。
「……開けてくれ」
心臓がどくどくと脈打ち、頭に熱が昇る。俺はどうやら久しぶりに緊張しているらしい。
虎石は、恐る恐る小箱を開けた。中に収められているのは、ダイヤモンドがさりげなくあしらわれたメンズのシルバーリング。
恋人の誕生日に渡すために注文したものの、届く前に俺が事故に遭って。母さんにずっと預かってもらっていた。
「……俺の、ただの空閑愁の全部、お前にやる。から」
大きく見開かれた虎石のセサミグレーの瞳を真っ直ぐ見据える。
「俺が退院してからも、ずっと、ただの虎石和泉でいられる時のお前を全部、俺にくれ」
本当は、虎石の誕生日に渡す予定だった指輪と言葉。遅れに遅れたけど。
虎石の返事を待つ。虎石は指輪を見つめたまま固まっていたが、やがて呟いた。
「ずりーよ、愁……」
その両目から、ぽろぽろと涙が溢れ出す。
「それ、俺が先に言おうとしてたのに」
泣いているのを隠そうともせずに、虎石は笑う。
「ほんと、何でこういう所は似るんだろうな俺達……」
「一緒に育ったからじゃないか」
「かもな」
虎石は一旦指輪の入った小箱をサイドボードに置いて身を屈めると、鞄から何かを取り出した。
「……それじゃ俺からも、だな」
それは、藍色の小箱。俺が虎石に贈ったものと同じ箱。
「……虎石、それ」
「だからずるいっつったの」
悔しそうに笑いながら、虎石は俺に向けて箱を開ける。そこに輝くのは、ダイヤモンドがあしらわれたメンズのシルバーリング。……俺が虎石にあげたものと、同じ種類の。
「役者じゃない時の愁を、俺にください」
真っ直ぐなセサミグレーの瞳が、俺を見据えた。その顔は真剣そのものだ。
「その代わり、役者でもモデルでもない俺を全部、愁にあげるから」
「……喜んで」
目頭が熱くなる。頬を液体が伝う感触を味わうのはいつぶりだろう。虎石の手ごと指輪の小箱を包むと、
「指輪交換すっか」
と優しい声で虎石が笑う。俺は上手く言葉にならなくて、こくりと頷くことしか出来なかった。
俺は虎石への指輪を、虎石は俺への指輪をそれぞれ右手に持ち、互いの左薬指にはめる。
意図せずして全く同じ物を選んだ互いの約束の指輪が、俺達の左薬指に輝いた。
虎石の指にはぴったりはまったが、俺の指には少し大きい。
「愁、痩せちゃったんだもんな。なくすといけないから、こんどチェーン持ってくるよ。ネックレスにして首から掛けてればなくさないだろ」
「頼む」
サイズは合わないが、俺のためだけに恋人が選んでくれたたったひとつの指輪。よく見ると、指輪の内側に小さく俺の誕生日の日付が彫られている。
考えることは同じだったんだと思うと、なんだか愉快な気分になる。
「……虎石」
「どうした?」
「今、凄く幸せだ」
「そ、そっか」
虎石は照れて頭を掻きながらも、とびきりの笑顔で俺に応える。
「俺もだよ」
目を閉じて上を向けば、恋人が自然と唇を重ねてくる。
恋人とのキスは相変わらずハーブのような薬のような味がしたが、あの頃のキスよりずっと甘くて熱かった。