翼の生えた少年に休息を(再録)(空閑と鳳)

 授業がいつもより早く終わり、同じクラスの月皇は教室の清掃当番ということで空閑は一人でteam鳳のレッスンルームに向かった。レッスンが始まる前に少しピアノに触っておこうと思ったのだが、まだ授業中の時間にも関わらず、レッスンルームには既に先客がいた。
「あれ? どうしたの空閑。授業は終わったのかい?」
 床に置いた椅子に座り、長い脚を持て余すかのように組んで手にした書類を読んでいるのは、team鳳の指導者である鳳樹だった。
「いつもより授業が早く終わったので。月皇は清掃当番です」
「ああなるほど。俺も今日は六限目の授業がなくってね……あ、ピアノ弾く?」
「はい」
 空閑はそそくさとジャージに着替え、舞台上のアップライトピアノの前に座った。
 いつものように軽く指を温めてから、弾き始める。ショパンのノクターン第20番。アルバイト先のカフェレストランで、弾いて欲しいと店長にリクエストされた曲だ。なんでも、空閑の演奏を気に入った常連がこの曲を弾いて欲しいとリクエストしてきたのだという。
 空閑にはそれほど難しい楽譜ではない。しかし少しでも加減を間違えると曲の持つ繊細さが損なわれてしまうので、打鍵の力がどうしても強くなりがちな空閑にとっては細心の注意を払って演奏する必要もある。そのため、最近ピアノを練習する時は専らこの曲だった。
 一回通して弾いてから、気になった箇所をもう一度弾き直す。それをなんどか繰り返していると、黙って空閑の演奏を聞いていた鳳が「あのさ」と空閑に声を掛けた。
「空閑、昨日何時間寝た?」
 突然の質問に戸惑い、ゆっくり瞬きをしながら、空閑は昨日のスケジュールを思い出しながら答える。
「四時間……だと思います」
「よく倒れないね……いや、皮肉じゃないよ。ちょっとこっち来てみて」
 鳳は椅子から立ち上がり、空閑を手招きする。空閑はピアノの前から立ち上がって舞台から降り、鳳の前に立つ。
 鳳は少し身を屈めて空閑の顔を覗き込んだ。
「うーん……顔色が少し良くないんじゃない? 隈も出来てるし」
「……そう、ですか」
 つい昨日、幼馴染からすれ違いざまに全く同じようなことを言われたことを思い出して少しどきりとする空閑。
 空閑の顔を覗き込むのをやめた鳳は顎に手を当てて少し黙り込み、「お前がバイトで忙しいのは分かってるし、止めようとは思わないけどね、」と前置きしてからこう言った。
「お前はもうちょっと休んだ方が良い。頑張るための休息を疎かにしてちゃ、頑張ることも出来ないよ」
 空閑が密かに気にしていたことを、ずばり言われる。体を壊さないように、無理するな、空閑の状況を知る周りの人間からはほとんど必ず言われる言葉だ。
 そんなこと空閑も分かっている。けれど頑張ることをやめるわけにはいかなかった。だから頑張り続けるしかない。心のどこかに確かにある、このままだと壊れるんじゃないか、本当にこのままで大丈夫なのかという不安と戦いながら。
「……どうして急に」
 鳳は肩をすくめた。
「ピアノを聞いてなんとなく思ったってだけ。でもお前は頑張るのをやめたくはないだろう? とりあえず今だけでもちょっと寝たらどうだい。星谷達が来そうな時間まであと三十分はある」
 いきなりすぎる鳳の言葉にきょとんとする空閑。鳳はウインクしながら空閑の頭を撫でた。
「いい年してって思うかもしれないけど、お昼寝はいいものだよ、ボーイ」
 鳳の優しい声と共にぽんぽんと頭を撫でられるうちに、無理に忘れようとしていた眠気が少しずつ空閑の意識の片隅で主張し始めた。
 無理するなと言ってくれる人がいるのだから、少しくらい甘えたって良い。いつもより少し早く終わった授業のお陰で出来た自主練の時間だ、体を休めるのもまた舞台人に必要になることだ。
 そう思っただけで、急に肩の力が抜けた。
「……それでは、遠慮なく寝かせてもらいます」
 欠伸を噛み殺しながら言うと、鳳は目を細めて笑った。
「タイミング見て起こすから、今はぐっすり寝なよ」
 空閑はレッスンルームの壁際へ移動するとジャージの上着を脱いで丸め、枕替わりにして床に寝転んだ。レッスンルームの床は当然固いが、そんなことも気にならない程に柔らかな眠気と安心感が空閑を包み込んでいた。
「……おやすみ、ボーイ」
 意識を手放す直前に聞こえた鳳の声が何故だか、ぼんやりとしか覚えてない筈の父親の声に聞こえた気がした。

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先輩にほんのり父性を感じる空閑とか良いと思います