(Singing) in the rain(再録)(和愁)

 今日は朝からずっと、雨が降っていた。
 レッスン上がりの放課後にいつものように女の子とデートをし、傘を差して雨が降りしきる夜道を歩く俺は、どこかぼんやりした意識の中で寮へと向かっていた。
 今日のデートも楽しかったな、とか、衣替えしたばっかなのに雨で制服濡れちまったな、とか、雨で濡れた腕が気持ち悪い、とか。そんなとりとめのないことを考える中、一際強く浮かぶのは、今よりも幼い幼馴染み……空閑愁の楽しそうな笑顔だった。
 雨の日になると、どうしても愁のことを思い出す。思い出すも何も、高校生になった今でも同じ学校に通っているし、クラスや所属するチームは違えどかなりの頻度で会っている。だけど雨の日になると、小学生の頃の愁を思い出さずにはいられなかった。
 雨の公園で、濡れるのも厭わず軽快に歌い踊る愁。口下手で無愛想で感情表現も下手なあいつが、英語の歌を楽しそうに歌いながら軽快なダンスを踊る姿は、ちょっとした衝撃だった。そんな姿、一度も見たことなかったから。
 けど、そんなあいつの姿はとても生き生きしていた。キラキラしていた。そのキラキラは、俺の目を捕らえて離さなかった。そう、あの時の自分は間違いなく愁に見惚れていたのだ。
 これ、お母さんに見せたくて。
 踊り終えてまた傘を差し、少し紅潮した頬ではにかむ幼馴染みに、自分は何と返したのだったか。
 だけど、自分の言葉に幼馴染みがいっそう嬉しそうに笑ったのはよく覚えている。
 それからすぐに、俺はあいつが見て真似した、あの昔のミュージカル映画を見た。
 愁が心奪われたあのダンスを見て、俺もその雨の中のダンスに見惚れ、そして子供心に少し悔しく思った。
 あいつをあんな風に笑わせることが出来るのは、俺じゃない。テレビの中の、昔のミュージカルスター。
 いつも一緒にいて、あいつのことなら何でも分かると思ってた。でも俺は、あいつがあんなにキラキラ笑いながら踊れるなんて、知らなかった。あいつからキラキラを引き出したのは、俺じゃなかった。
 それが悔しくて。ちょっとだけ、もうとっくに亡くなっていたそのミュージカルスターに嫉妬した。でもすぐに情けなくなって俺は野球のバットを持って家を飛び出し、その日は陽が沈むまで公園で素振りをしていた。
 お母さん、喜んでくれた。
 数日後に愁に学校でそう報告された時の俺は確か、良かったじゃん、と笑って言った。
 それから何度か、俺は愁のダンスの練習に付き合った。興味があることなら吸収が早いヤツだから、あいつのダンスも歌も、目に見えて上達していった。それに、歌って踊っている時のあいつは、本当にキラキラしてて。
 俺は、そんなあいつを見ているのが好きだった。あいつが新しいダンスを覚えようとする度に、今までに見たことの無いあいつの表情を見ることが出来て、嬉しかった。だけど、見てるだけじゃ我慢出来なくて。
 一緒にミュージカルやらないか、と聞かれた時。俺は迷わず、その手を掴んだ。
 それが、俺がミュージカルを始めたきっかけだった。
 愁がいなかったら俺はミュージカルをやろうだなんて思わなかっただろうし、ミュージカルをやろうと思ってなきゃここにはいない。
 小さい頃から、しっかりしてるのに妙に危なっかしいあいつの手をいつも引っ張ってるのは俺だったのに、いつの間にか引っ張られてた。しかも最近のあいつは、俺がいないteam鳳という場所に、自分の新しい居場所を見つけている。あいつには俺はもう必要ねえのかな、とすら時々思う。
 俺にはあいつが必要なのに。あいつはいつの間にか、どんどん新しい場所へ向かっていく。
「ったく……らしくねーぞ、虎石和泉」
 おセンチな気分を無理矢理振り払いたくて、自分で自分に言い聞かせる。
 さっさと寮へ帰ろうと少し歩く速度を速めるが、すぐに俺の足は止まることになった。
 寮のすぐ近くにある公園。
 街灯に照らされ、黒い傘を差して立っているのは、あろうことか愁だった。
「……え、」
 こんな雨の中寮にも帰らないで何やってんだあいつ、と呆れる俺と、不思議と納得してしまう俺。そう、今日は雨の日だ。
 あいつにだって、雨の日はきっと特別だ。多分、俺なんかよりずっと。
 俺は声をかけに行くこともせず、ただ少し離れたところから愁を見ていた。あいつがこれから何をするつもりか、見当は付いてる。
 果たして、愁の足が動き始めた。
 一見ただ歩いているようだけど、あいつの頭の中でもう曲は始まっている。
 愁の歌が聞きたくて、俺はどうにか歌声が聞こえるような位置へ移動する。あいつに気付かれないように。
「Singin’ in the rain……」
 愁は傘を閉じ、肩に担いで歌い始めた。
 雨音にかき消されそうなくらいに小さな、けれどよく通る歌声。
 聞き慣れている筈のその歌声は、体の芯まで染み入ってくるようで優しい。
 濡れるのも厭わず雨を全身に受けながら歌う愁は紛れもなく笑っていた。あの時みたいに。小さい頃から何度も繰り返してきた動きだろう街灯に掴まるジャンプは軽やかにスムーズ。
「And I’m ready for love……」
 恋への準備は出来ている。
 街灯に寄り添い、低く艶のある声で愁が歌うその一節に、ひどく胸が苦しくなる。
 愁が体を動かす度に弾き飛ばす雨粒が街頭の光を反射して硝子のように煌めく。指先まで神経が張り詰めているような、でも伸び伸びとしたそのダンス。そして記憶の中のそれよりいっそう鮮やかさを増したステップ。
 とにかく、この世の物とは思えないくらい綺麗で、鮮烈で。
その足が水溜まりを蹴る度に生まれる飛沫もあいつと一緒に踊っているようだ。
 何かに取り憑かれているかのように無心で踊る幼馴染の姿に、俺はただ見入ることしか出来なかった。
 しかし、激しく、けれど軽やかだった愁のダンスはやがて少しずつゆっくりになり。最後の一節をしっとりと歌い終えると共に、愁の動きが止まった。
 踊り終えたのだ。俺は声をかけようと口を開き、手を上げようとした。けれど、踊り終わった愁の、街灯に照らされているその表情を見た瞬間、全身が硬直してしまった。
 僅かに頬を上気させて目を閉じたその顔。恍惚として、全身を快楽に包まれたかのような、満ち足りた顔だ。そんな顔を、愁はしていた。
 ステージ終えた後のあいつが幸せそうな顔をするのは昔から知ってる。
 でも、なんだよ、あれ。
 愁のあんな顔、俺は知らねえ。知らなかった。
 愁に手を伸ばすのも声を掛けるのも躊躇われて、俺は黙ってその場に立ち尽くした。
 けど、愁はすぐに俺の方を見た。
 ばれてた。
「どうした、虎石?」
「……ばれてた、か」
 愁の方へ歩いていくと、愁はいつもの、俺が知ってる愁に戻っていた。それでも、菫色の目はまだ楽しそうに笑っている。
 今はもう傘を差しているが、愁の全身はずぶ濡れだ。髪は顔に貼り付き、最近衣替えしたばかりの夏制服も当然びしょびしょで肌が透けている。
 その無防備な姿に内から沸き上がってくる、愁を抱き締めたい、という衝動。
 俺はそれを押し込め、「自分」を演じて笑う。
「……ったく、風邪引くぞ」
 鞄の中からタオルを出して愁の頭から被せてやると、愁はタオルで水分を拭いながら何故か偉そうに言う。
「どっちにしろすぐ風呂入るし、ワイシャツも今日洗う予定だったから問題ねえ」
「ズボンはそうもいかねーだろ」
「……ん、ありがとな」
 タオルを返され、俺はそれを鞄にまた入れるわけにもいかないので手に持っておく。
「帰ろうぜ」
「ああ」
 愁と連れ立って、寮へ向かう。公園から寮までは歩いて五分もない。
「お前、昔より上手くなってた」
「当たり前だろ」
「やっぱ覚えてるもの?」
「まあな」
 どうと言うこと無い会話をしているだけで、もう寮に着いてしまう。
 玄関に上がって階段を上り、岐路に着いたところで、愁が「じゃあな」と手を振る。
「明日なっ」
 俺も笑って手を振る。廊下の曲がり角で見えなくなるまで、俺はその背中を見送った。
 愁の背中が見えなくなり、俺はもう一階分上がるために階段を上り始める。
 だがすぐ、自分ではどうしようもないくらいの寂しさに胸を締め付けられた。
「…………………はあ」
 踊り場で思わず壁に腕を突き、深い溜め息を吐き出す。
 どんどん愁が遠くなっていく。
 少し前から胸の内に渦巻いていたその不安が、大きくなり始めていた。
 不安が大きくなるほどに、自分が自分でいられなくなるのを感じる。
「……くそ、しっかりしろ」
 自分に言い聞かせ、俺はまた顔を上げた。階段を上りながら、「いつもの虎石和泉」になる。
 それでも思い出すのは、雨の中で新しい恋に胸を躍らせる歌を歌いながら踊る愁の姿。
 どうしてこんなに苦しくなるのか、その理由なんて分かってる。分かっているから、考えたくなんかなかった。
 手にした濡れタオルを思わず強く握り締めると、雨に濡れた腕がひどく冷たく感じた。

歌詞引用
Singin’ in the rain – Gene Kelly 映画『雨に唄えば』(1952年、米)より

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雨に唄えばを見て