something there(再録)(和愁)

中学時代の和愁。

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 左の二の腕がじりじりと焼け付くように痛む。頭の中はもやがかかったようで、座っている地面がゆっくり揺れているような気がする。
 小さな公園の木陰にもたれかかり、傷跡を右手で押さえながら空閑は長く息を吐き出した。
 陽は沈みかけで、頬を撫でる風は少し冷たい。
 事の始まりは、中学から家路についていたら不良に取り囲まれたこと。どうして絡まれたのかは知らない。5人程度の不良で、それくらいの人数、普段なら返り討ちにするのも容易い。しかしその内の1人が刃物を持っていたのがまずかった。返り討ちには出来たものの、左腕に当たった一閃がやや深く肉を切ってしまったようだ。
 家に帰って手当をすれば何とかなるだろうと思ったが、家に辿り着く前に立ちくらみに襲われた。そして公園で一休みしようと思ったら、立てなくなってしまったというわけだ。これはちょっとまずいんじゃないか、とぼんやり考える。ここでこうしていたらいずれパトロール中の警察官に見つかるかもしれないが、それだと今日は遅くまで仕事の母親に迷惑が掛かる。それは嫌だな、どうするか。血がそんなに出ているわけでもないのに、困った。
「愁!!」
 ぼんやりした意識を引き上げるような声に、はっと空閑は顔を上げた。
「何やってんだよこんなとこで!」
 怒ったような顔で見下ろしてくるのは、幼馴染の虎石和泉。
「……虎石」
「探したんだぞ、家行ってもいねえし……誰にやられたんだよ」
「やられてねえ。全員返り討ちにした」
「あーもう、いいから帰んぞ!」
「ん……」
 空閑の鞄を引っ掴んだ虎石が右の脇の下から支えるようにして空閑を立たせるので、空閑は虎石に体を預けながら立ち上がった。
 そのまま、半ば引きずるようにして家まで連れて帰られた。勝手知ったるもので、虎石は救急箱や清潔なタオルをてきぱきと用意してから空閑の学ランとワイシャツを脱がす。空閑はタンクトップ一枚で、虎石にさせるがまま手当てを受けた。
「制服、切れてんじゃねーか」
「……後で縫う」
 虎石はまず左腕の傷口を濡れタオルで拭い、消毒してオロナインを塗るとしっかりと包帯を巻いてくれた。
「こんくらいなら病院で縫わなくても大丈夫じゃね。血もそんなに出てないし……つか、なんでそんなふらふらなんだよお前」
 虎石の指が、俺の顔に伸びる。ぴり、とした痛みが走ったので、そこも傷が付いていたことに気付く。
「……誰にやられたんだよ」
「顔見てねえ」
「はあ?」
 虎石の顔がぐいと近付いてきた。ぬるりとなにか熱く柔らかいものが頬を這い、背筋が震える。傷口を舐められたと気付き、目を見開く。
「虎石っ……」
「何それ。お前の顔に傷付けた奴等の顔見てねえの?」
 べろり、ともう一舐めされ、息が詰まる。
「おい、」
 右手で体を支えているので左腕で押し退けようとするが、左腕に走る痛みで動きが止まってしまう。
「っつ……」
「なー愁」
 虎石の目が真っ直ぐに空閑を覗き込んだ。その目に宿る怒りと独占欲に貫かれて動けなくなる。とん、と右肩を軽く押されて床に押し倒された。
「おい虎石!」
 声を荒げる空閑に虎石は跨がり、右手首を床に押さえ付けた。
「……誰にやられたんだよ」
 その声はひどく平坦だ。これはいけないスイッチが入ったな、と思いながら、空閑はとにかく虎石を落ち着かせようとした。
「だから顔見てねえって……」
「……愁さ、無防備すぎ」
「は……?」
 思いがけない言葉に呆気に取られていると、ぎゅ、と右手首に強い力が掛かる。軋むような痛みに顔をしかめると、虎石の顔が近付いて来た。何か柔らかいものが唇に触れる。それが虎石の唇だと気付くのに、少し時間がかかった。驚きで何も出来ずに固まる空閑。その唇の感触を味わうように、虎石は触れるだけの啄むようなキスを何度もした。
 男友達からそんなことをされている、という事実はどこか現実離れしていて、まだ少しふわふわした意識の中で空閑は虎石の唇を受け止めていた。不思議と嫌悪感はなかった。ただ少しだけ、心臓の鼓動が早くなった。
 名残惜しそうに唇が離れ、虎石は空閑を至近距離から見つめながら呟く。
「……ほら、俺にこういうことされても、愁は抵抗しねえだろ」
「何言って……」
「愁さ、もっと自分のこと大事にしろよな」
 虎石は体を起こすと、空閑に跨がったまま頬の傷の手当てをした。傷口に消毒液が沁みるのでくぐもった声を漏らしながら身動ぎすると、虎石はそれをじっと見た。少し気まずくて目を反らすと、
「……悪い」
 そう呟いて、虎石は絆創膏を貼ると空閑の上からどいて立ち上がった。空閑はぼーっと床に横になったまま、救急セットを片付ける虎石を見ていた。
 今日の虎石はなんだかおかしい。けれど、それをただ受け止めているだけの自分もなんだかおかしいようだ。唇をなぞると、先の虎石にされたキスを思い出してまたどくりと鼓動が早まる。
 とにかく落ち着きたくて、大きく息を吸い、そして吐き出す。するとぐうと腹の虫が騒いだ。
 そこでようやく気付く。
「虎石、腹減った」
「は?」
「冷蔵庫に夕飯ある筈だから暖めてくれ。腹減って動けねえ」
「はあ?! あんだけ人を心配させといて腹減ったって……おっ、お前なあ」
 心配させやがって、と怒ったような声で言う虎石。照れ隠しだな、と思いながら、空閑は台所へ向かう虎石を見送った。
「一口くらい寄越せよ!」
「それくらいならやる」
 台所から筑前煮の食欲をそそる匂いがしてきたので、空閑は目を閉じてそのにおいを胸いっぱいに吸い込んだ。

 これは、二人の間で何かが変わりつつあった、そんな初秋のとある夕方の話。

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