Spring has come(再録)(空閑と虎石)

April 2 -this year-

 床に座り込んだ空閑は呆然と、テレビ画面を見ていた。
『えっと、恥ずかしいから、これくらいで! 愁、17の誕生日、おめでとう!』
『おめでとう、愁!』
 画面の中から、笑いながら自分に向かって手を振る若い夫婦。女の方は、今よりも若い空閑の母親。そして赤ん坊を抱いている男の方は……
「……父、さん」
 喉から絞り出した声は、震えていた。
 ビデオの再生が終わり、画面が青くなっても尚、空閑はそこを動けずにいた。
『愁、これ』
 朝、働きに行く母親から渡されたDVD。
『昔のビデオを焼いたDVDなんだけど……お母さんがお仕事行ってから、見てちょうだい。プレゼントは帰ってきたらね』
 そう言って笑う母親の表情は少し寂しげで、けれど嬉しそうでもあった。
 このビデオを16年間、今日自分に渡すために持っていたというのか。
 頬を何かが伝う感触がする。あまりに久し振りに感じるそれに、思わず頬に手を伸ばす。液体が手に触れ、自分は今泣いているのだと気付く。
 父親の記憶は、僅かしかない。顔も、声も、朧気にしか覚えていない。自分の記憶より、写真の中の父親の印象の方が強い。
 家に一人きりの時、寂しくて、お父さんがいれば、と思っても、そこに父親はいないし、そんな寂しさにもすっかり慣れてしまっていた。そして気が付けば親友がいつでも隣にるようになって、寂しさもすっかり感じなくなった。
 父親なんて本当にいたのか、と思うほど、空閑の中の父親の存在感は希薄だった。
 それでも。
 父親は、確かにいた。
 このアパートで、小さな自分を抱き上げていた。
「……っ、」
 肩が震える。ひくり、と一度しゃくり上げてしまうと、もう止まらなかった。
 どうしてこんなに涙が出るのか分からなかった、拭っても拭っても、次から次へと涙が零れてきた。鼻の奥がつんとして、目の周りが熱い。最後に泣いたのがいつになるのか思い出せないくらいに、泣くのは久しぶりで、どうすれば涙が止まるのか分からなかった。
 泣き始めてからどれくらい経ったか分からない頃に、玄関のチャイムの音がした。空閑は顔を上げ、涙を拭いながら立ち上がって玄関へ向かう。
 ドアスコープを覗くと、スーパーの袋と紙袋を両手から提げた幼馴染み……虎石がドアの前に立っていた。空閑は玄関ドアを開ける。
「よう愁! 誕生日おめで……ってどうした?!」
 空閑の様子にあからさまに狼狽する虎石に、空閑は「わりぃ」と呟いて涙を拭った。
「上がれ」
「お、おう……なあ愁、本当にどうした?」
「別に……」
 虎石は器用に足だけで靴を脱いで玄関から上がってくる。空閑は踵を返すとリビングに戻り、散らかしたままのリモコンやDVDのケースを片付ける。さっきまで見ていたDVDもデッキから出し、きちんとケースにしまう。
「……愁、何見てたんだ?」
 テーブルに持ってきた荷物を置きながら、空閑の片付けを目敏く見ていた虎石が尋ねてくる。
「さっきお袋から貰ったDVD」
「DVD?」
「……親父が撮ったやつだった」
「親父さんが?」
 虎石は、スーパーの袋を持ったまま、リビングにと繋がった台所に入る。空閑はなんと無く虎石の傍まで行き、壁にもたれる。
「親父さん、映ってたの」
 勝手知ったる様子で冷蔵庫を開け、コーラのペットボトルを入れる虎石。それから冷凍庫を開けてアイスを入れていく。
「ああ。……顔とか全然、覚えてなかったんだけどな。すぐ、親父だって分かった」
 語尾が微かに震える。空閑は鼻を啜り、また零れてきた涙を拭う。
「初めから、俺が17になったら見せるつもりで撮られてるビデオだった」
「……そっか」
 虎石は立ち上がり、空閑を見て笑う。
「いい親父さんじゃん」
「そう思うか?」
「だって愁の親父さんだろ、いい親父さんに決まってるし」
「……そうか」
 父親を誉められたことが嬉しくて、自然と笑みが浮かぶ。またぽろぽろと涙が溢れ出してくる。
 そして、嫌でも考えてしまう。
 父さんが生きていたら。父さんが今でもこのアパートで毎朝家を出て、夜には帰って来て、母さんと三人でご飯を食べる。そんな家族の在り方があったかもしれない。
 少なくともあの時はあったのだ、あのビデオが撮られた時は。ただ、覚えていないだけで。
 テレビの中や、小学校の時の周りの生徒の家族みたいに、父親と母親の二人が揃った家族になれていたかもしれない。
「……っ、ぅ……」
 堪えようとしても、喉の奥から泣き声が漏れる。
「愁」
 名前を呼ばれた、と思ったら肩を引き寄せられてふわりとした温もりが体を包んだ。そして何も言わず、とんとんと背中を叩かれる。虎石に抱き締められている、と気付くのに少し時間がかかった。
 その温もりに、いっそう涙が溢れ出してきた。なんだかみっともない気がして泣き声を堪えながら涙を流していると、虎石はぽんぽんと頭を撫でてくれた。それがひどく優しくて、泣きながら震えていた体も自然と落ち着いていく。
 気が付けば隣にいて、寂しいという気持ちも忘れさせてくれた親友。子供っぽくて、我が儘で、軽薄で、その癖に優しくて、面倒見が良くて、温かい。空閑は思わず目を閉じ、虎石の肩に額を預けた。
「……虎石」
「何?」
「……ありがとうな、一緒にいてくれて」
「はあ?」
 顔は見えない。しかし、きっと今の虎石は照れを隠しながら笑っているのだろう。
「何言ってんだ、俺はお前のダチだぞ? 一緒にいて別に当たり前だろ」
 いつもなら、何変なこと言ってんだよ、とか言いそうなものなのだが。
 今日の虎石は、いつになく優しい。
「……だから、だ」
「だいたい、お前みたいなやつに小五になるまでダチがいなかったことの方が不思議だっっつの……お前どんだけ口下手だったんだよ」
「うるせえ、いつの話してんだ」
 思わずくすりと笑ってしまう。いつの間にか涙はひいていた。虎石から身を引くと、照れ臭そうに少し顔を赤くした虎石と目が合う。
「……ありがとな」
「やめろよ……なんか、むず痒い」
 ぷいとそっぽを向かれ、いつもの虎石だ、と思うとなんだか面白くてまたくすりと笑ってしまう。
「な、何がおもしれーんだよ!」
「はは、悪い……で、お前は今日は何持ってきたんだ?」
 テーブルに置かれたスーパーの袋と紙袋を見て尋ねると、虎石は「去年は忙しくてゆっくり祝えなかったし……」ともごもご言いながらテーブルへ向かう。空閑もその後をついてリビングに戻る。
「一緒に飯食うしと思ってさっき冷蔵庫入れたコーラとアイスと、スーパーの惣菜……唐揚げとか買ってきた。あと、俺からのと、お前のチームメイトからの……チームメイトっつか、元っつか」
 紙袋からごそごそと、虎石は包みを二つ取り出した。紺色の包装紙に包まれた四角く細長く薄い箱と、桜色の包装紙で包まれた四角い長方形の箱。
「こっちの紺の箱のが星谷達から。で、こっちが俺から。……誕生日、おめでと」
 同時にぐいと突き出されたので、同時に受けとる。
「……逆かと思った」
「可愛いラッピングで悪かったな!」
「ああ、いや。ありがとうな」
 虎石からのプレゼントを先に開けるため、星谷達からだというプレゼントは一度テーブルに置く。
 虎石からのプレゼントの箱をよく見ると、淡い桜色の袋に白く細い線で桜の花の模様が描かれている。目の前の幼馴染みがこの可愛いらしいラッピングのプレゼントを自分のために買ったのだと思うとなんだかむず痒くなる。
 包装紙を丁寧に剥がすと中から出てきたのは、
「……紅茶?」
 箱の中には丸い紅茶の缶と黒いマグカップ、小さなクッキーの袋が収められていた。
「……そのお茶、リラックス効果があるんだってよ。お前高校上がってから寝る時間も減ってるし、そんなんじゃ二年になってからもきついだろ。……それ飲んで、夜はゆっくり寝ろよな。マグカップとクッキーは、まあ……おまけ」
「……」
 今までの虎石なら考えられないような方向性のプレゼントだ、と思いながら空閑は紅茶の缶を眺める。
 しかし、リラックス効果があるというお茶を選んだということは、虎石なりに自分のことを考えてくれたということだろう。
「ありがとな、虎石」
 照れ臭そうな顔をしている虎石の表情に、嬉しさが込み上げてくる。一方虎石は照れを誤魔化すかのように手で紺色の包みを指し示す。
「い、いーから早く星谷達からの開けろって! それの中身、俺も聞いてないし」
 虎石に言われた通りに一旦虎石からのプレゼントをテーブルに置く。紺色の包みを手に取り、包装紙を丁寧に剥がす。中から出てきた箱を開けると、小さいカードと深い紫色をしたレザーのキーホルダーが収められていた。
「わ、高そ……」
 覗き込んできた虎石の言葉は空閑の感想をそのまま代弁していた。空閑はカードを先に手に取ると、そこに書かれた文字を見た。
『空閑、誕生日おめでとー!これからもよろしくっ!(^o^)』
『空閑くん、お誕生日おめでとう。体には気を付けてね』
『誕生日おめでとう。そうだな、新学期が始まったらタヴィアンと会わせてやろう』
『誕生日おめでとう。これからもよろしく頼むよ。ちなみにそのキーホルダーを最初に選んだのは天花寺だ』
『Wissimg you a wonderful birthday! 空閑の今までに、そしてこれからに』
 バラバラの筆跡で綴られた五つのメッセージ。
 そう言えば、八月の天花寺の誕生日からチームメイトや先輩の誕生日は欠かさずみんなで祝ってきたが、俺はまだだったな、と思い出す。
 四月二日という、年度始めの春休みに生まれてしまった以上は仕方がないのだが。そもそもの友達も少ないし、自分の家族と、虎石とその家族以外に祝われたことはない。
 箱からキーホルダーを取り出すと、高級感のある見た目とは裏腹に不思議と手に馴染む。バイクの鍵に付けよう、と思いながらもう一度箱に収める。
「……あいつらに、礼言わねえとな」
「星谷の奴が、終業式の日にお前に見付からないようにうちのクラスに来たんだけどさ。お前に見付からないように頑張ってる、ってのが見え見えでめちゃめちゃ面白かったぜ」
「だろうな」
 想像に容易くて、またくすりと笑ってしまう。
「……お前、ほんといいダチが出来たよな」
 虎石はそんな空閑を見て、しみじみ呟く。
 確かに、虎石と出会うまでは互いの家を行き来したり四六時中行動を共にするような友達はいなかった。虎石と友達になった後も、友達と呼べるほど仲良くなる相手は出来なかった。team鳳に選ばれて、彼らと出会って、空閑の世界は驚くほど色を変え、広がった。
 虎石の嬉しそうな、けれど少しだけ寂しそうな顔に、空閑はこう返してやる。
「それはお前もだろ」
 虎石は虚を突かれたような顔をしてから、「ははっ」と声を上げて笑う。
「ありがとな!」
 その笑顔に不思議と安心感を覚えたところで、ぐうと腹の虫が鳴った。
「……腹減ったな」
「今何時だ……? わ、もう12時過ぎてるじゃん。飯食おうぜ! どうする、食いに行く? 俺が持ってきたやつは夜にしてさ」
「……そうだな」
 プレゼントはテーブルの上に並べて、包装紙は捨てるのは勿体ないので畳んでプレゼントの箱の下に置いた。
「どこ食いに行く?」
「駅前のファミレスでいい」
「まじかよ、今日くらい良いもの食わねえ……?」
「夜にお袋が飯作ってくれるだろうが」
「そっか、それなら仕方ねえな……つか愁、まだ目腫れてるぞ、顔くらい洗っとけ」
「そうする」
 虎石に言われた通りに洗面所に行き、鏡を見る。目の周りも鼻先も赤い。まさかこの歳になってこんなに泣き腫らすとは思わなかった。
 顔を洗うと、少しだけすっきりした。タオルで顔を拭き、鏡の中の自分を改めて見ると、ビデオの中の父親に少し似ている。お父さんに似てきた、と中学に上がった辺りから母親に言われてきたが、本当にその通りかもしれない。
 洗面所を出たらそそくさと出掛ける支度を整えたら、財布や携帯電話、家の鍵を持って玄関へ。
 靴を履いてアパートを出る前に、下駄箱の上に置いてある写真立てを見る。日常の一部に溶け込みすぎて、いつの間にか意識することを忘れていた写真。写真の中で、あのビデオの中よりは少し大きくなった自分と両親が、青空とチューリップ畑を背景に笑っている。
 ――父さんはね、愁のこと大好きよ。
 幾度となく母親から言われた言葉。実感が伴わなかったそれに、ようやく実感を持てそうだ。気付いていなかった、いや、忘れていた胸の空白が、埋まったような心地がする。
 虎石に名前を呼ばれ、空閑は写真に向けて小さく「行ってきます」と呟いてアパートを飛び出した。
 外はもうすっかり春の陽気。アパートの近くの家の庭の桜は、もうすっかり八分咲きだ。散りそうで散らない桜の枝が、時折吹く風に揺れる。
 誕生日がやって来る度に、春の訪れを実感する。元々春は嫌いじゃない。寒くもなく、暑くもないから。けれど、今年の春は、これまでの春より少しだけ心が浮き立っている。
 今までより少しだけ、春を好きになりそうな気がした。

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