【ちあふゆ】手は口程に

「ほら、お粥出来たぞ」
 お粥の入った小さな土鍋の乗ったお盆をサイドテーブルに上げると、冬沢はベッドに横になったまま緩慢に首を回してサイドテーブルを、そして運んできた千秋を見た。
「……さっき聞くのを忘れた。なんでお前がいるんだ?」
「もう忘れちまったか?お前を連れて帰ってきたのはオレだぞ」
「……そうだったかな」
 普段の氷のように冷たい筈だが今は全く険の無い目でどこかぼんやりと呟く冬沢の頬は赤く、額には冷却シートが貼ってある。
 そう、冬沢亮は少し重めの風邪をひいていた。
 急激に冷え込んだ所に綾薙祭の膨大な事後業務が重なって疲れが溜まっていたのか、事後作業も終わり今日は特に業務も無いから早めの下校となった夕方に帰ろうとした所気が付けば足取りはおぼつかず、体は妙に熱く、なんだか指先足先ばかり冷たく、それでも学園にいる間は華桜会のメンバーとして無様な姿は見せられないと気丈に振舞っていれば見るに見かねた千秋に連れられて何とかタクシーに乗って帰宅したものの、玄関を跨いだ瞬間にふらふらと倒れ込んでしまった。
 そこから先の記憶は眠っていた為に冬沢にはほとんど無く、千秋はというと、せめて寝るに相応しい格好にはしてやらねばと眠りこけてしまった冬沢からどうにかして燕尾を脱がし制服を脱がしパジャマを着せて、ベッドに寝かせ冷却シートや氷枕を用意してやったのだった。
「……じゃあこれも貴史が?」
 額の冷却シートに冬沢が触れるのを見て千秋は申し訳なさそうな顔をする。
「ああ……シートとかパジャマとか探すのにお前の家の中色々見ちまった。悪い」
「……別に構わないよ。変な物も置いていないし、俺の為にした事だろう」
 冬沢がゆっくり体を起こしたので、千秋はその背中をそっと支える。
「食えそうか?」
「……食べる」
 冬沢の姿勢が安定したのを確認すると千秋は背中から手を離し、ベッドサイドまで持ってきた椅子に腰掛けた。れんげで土鍋の中のお粥をよくかき混ぜてから1口分掬う。そしてれんげを冬沢の前に差し出す。
「はい、あーん」
 子供相手にするようなその仕草に冬沢は若干不服そうな顔をしたが、素直に口を開ける。千秋がその中にれんげをそっと差し入れ、冬沢が口の中にお粥を全て入れた事を確認してからそっとれんげを引き戻す。冬沢は口元を手で隠しながらゆっくり咀嚼し、こくりと頷いた。
「……相変わらず料理だけは上手いな」
「『だけ』は余計だ」
「ネギと……生姜か」
「風邪にはネギと生姜だからな。ほら、次いくぜ」
「自分で食べられる……」
 そうは言いながらも結局お粥は全て千秋の手によって冬沢の口元に運ばれ、冬沢は大人しく完食したのだった。
 風邪薬を飲ませて一息つき、眠っている間に測れなかった体温を測る。38.7℃と、熱が下がる気配はまだない。
 歯を磨かせてからもう一度ベッドに寝かせて部屋の灯りをサイトテーブルのランプだけにしたところで、千秋は時計を見る。時計は19時半を指していた。普段であれば帰宅を意識する頃合の時間なのだが。
 ベッドの上の冬沢は眠れないのか、所在なさげに天井を見ていた。普段雪のように白いその両頬は赤く染まり上がっており、全力疾走の後のような苦しげな呼吸が唇から漏れている。
 その様子を見て、彼を一晩ここに一人で残していっていいものか。いや、オレは亮をここに残して帰れるのか、と、千秋は自身に問い。しばらく考え込んだ挙句、 
「……なあ亮」
「ん……?」
「泊まって行っていいか?今から急いで家から着替えとか取ってくるからさ……」
 その言葉に、冬沢の熱で潤んだ目が僅かに見開かれる。
「……なんで」
「今のお前をほっとけるかよ」
「っ……」
 冬沢は僅かに目を泳がせた後、掛け布団を両手で引きあげ、目から下を隠したかと思うとくぐもった声を出す。
「……好きにしろ」
 その仕草が妙に可愛らしく見えて、千秋は思わずクスリと笑う。
「ありがとな。すぐ戻るからさ」
 千秋は冬沢の食事に使った食器や調理器具を全て洗って水切りに片付け、冬沢から預けてもらった合鍵を手に外へと駆け出した。
 冬沢が一人暮らしをしている家と千秋の家は大して遠くない。電車に乗っている時間を含めても20分程あれば千秋は自宅に到着する。
 事情を説明すると両親は「傍にいてあげなさい」とすぐに冬沢の家に泊まるのを承諾してくれた。そんな訳で千秋は外泊に必要な一式をバックパックに適当に放り込んで制服のまま冬沢の家へととんぼ返りしたのだった。
 一度冬沢の家を出てから合鍵でまたドアを開けるまで、およそ1時間。なんと言えば良い物か少し迷ってから「ただいま」と言えば、なんか一緒に住んでるみたいだな、と思ってしまう。
 そのまま静かに寝室に足を踏み入れると、ベッドから半身を起こした冬沢が呆れたような目を向けてきた。
「本気だったのか……暇なのか……?」
「ノーセンス、暇なわけがあるか。第一本気じゃないって思われてた方が心外だぜ。オレだってお前がまだ寝てなくて驚いてるけどな」
 そう言ってやれば冬沢は顔をしかめた。
「……眠れないんだよ」
「んー……じゃあ体拭いてやろうか?お前だいぶ汗かいてるだろ。汗拭いてパジャマ着替えるだけでも、だいぶ寝やすくなるんじゃね?」
 弟妹達が風邪をひいた時の事を思い出しながら言うと、冬沢は「それくらい自分で出来る」と僅かにむくれた。風邪を引いた同い年の幼なじみをいつの間にか子供扱いしている自分に千秋も思わず苦笑し、「悪い」と謝る。
「それじゃ、ちょっと待ってろ」
 言い残して部屋を出ると、背負ったままだったバックパックを適当な場所に置かせてもらってから、電子レンジで手早く蒸しタオルを作る。
 出来上がった蒸しタオルを乾いたタオルで包んで冬沢の部屋に持っていくと、冬沢はタオルを受け取り、部屋から出て行こうとしない千秋をじっとりとした目で睨んだ。
「一人で出来ると言っただろう。出て行ってくれないか」
「背中は?」
「届く」
「はいはい」
 今更何を気にするのやら、と思いながら千秋は冬沢の部屋を出てドアを閉めた。病人なんだからもう少し甘えてくれてもいいだろう、とも。
 病人?……そう言えば、と千秋はハッと気付く。
(おじさんとおばさんに連絡してねえ……!)
 高校に進学してからしばらく会ってない冬沢の両親の顔を思い出す。冬沢は一人暮らしとは言え実家からそう遠い場所に住んでいる訳でもない。学生なのだし、まずそちらへ連絡するべきだったと千秋は慌ててスマホを出す。
 とは言え冬沢の両親の連絡先は知らない。まず自宅の母親に掛けてみる。すると既に冬沢家には連絡しておいたと返ってきたので一安心して電話を切ったものの、その数秒後に冬沢の部屋のドアがゆっくりと開いた。立っているのもやっとだろうに、冬沢がドアの隙間から若干恨めしそうな顔を覗かせる。
「……お前、母さんに連絡しただろ」
「オレの親がな」
 すると冬沢はたちまち渋い顔になり、部屋の中へ引っ込んでいく。千秋が慌てて部屋の中へついて行くと、新しいパジャマに着替えた冬沢が使い終わった蒸しタオルと先まで着ていたパジャマを畳んでまとめている所だった。
「いいからお前は寝とけ、洗濯カゴの中だろ?」
 手を伸ばそうとするが冬沢は首を横に振る。
「これくらいは自分でやる」
 そのまま覚束無い足取りで洗濯機の所へ向かおうとするので、倒れてはいけないと千秋は一応追い掛ける。冬沢が洗濯カゴの中に洗濯物を入れるのを見届けて、また部屋まで戻るのを見届ける。 
 冬沢が布団の中に潜り込む前に氷枕を新しい物に取り替えて、冷却シートも張り替えてやる。横になったところに掛け布団を肩までかけてやると、冬沢は固い氷枕に頭を置きながら呟いた。
「……少し過保護すぎないか、お前」
「ガキ共が風邪ひいたらこんなもんだぜ、うちは」
「俺はお前の弟になった覚えは微塵もないよ」
「はいはい、文句なら治ってからたっぷり聞いてやる。お前の仕事はまず寝て風邪を治す事。そうだろ?これで一晩寝て良くならなかったら明日病院連れてってやるから」
 冬沢は悔しそうに口を引き結ぶ。千秋はランプのスイッチに手を伸ばした。
「それじゃ、オレは隣のリビングで寝かせて貰うから。なんかあったら呼べよ」
「っ……」
 千秋の手首を、冬沢の手が掴む。弱い力だったが、千秋は手を止めて「どうした?」と冬沢を見る。
 冬沢は俯いてしばらく何も言わなかったが、やがて小さく口を開いた。
「……もう少し……」
 蚊の鳴くような声だったが、千秋の耳には確かに届いた。千秋の心臓が一度痛いほど強く脈打った。千秋は冬沢の手をそっと解くと、掛布団の中に戻してやる。
「分かった、じゃあお前が寝るまでここにいるから。明かりはどうする?」
「……付けていてくれ。寝た後も」
「了解」
 椅子に腰掛けて冬沢の顔を見下ろすと、ついと目を反らされる。顔が赤いのは熱のせいなのか照れなのか。
 可愛いところあるじゃねえの、と直接的にからかいたくなるのをぐっと堪える。
「そうだ、手でも握っててやろうか?風邪ひいた時に手握られると落ち着くぜ」
「……知ってる。昔1回お前に言われた」
「ん……?そんなこと言ったか?」
 そんな事を言った記憶が無く思わず首を傾げる千秋に、冬沢は先程千秋の手首を掴んでいた手を恐る恐る差し出す。
 千秋は少し意外に思いながら、その手を両手で包み込んだ。普段の幼馴染より遥かに熱いその手に少し胸が痛くなる。だがそれは表に出さずに冬沢の様子を伺うと、穏やかな表情で目を細めているので、内心で胸を撫で下ろした。
 やがて冬沢の瞼が重くなるのにそう時間は掛からなかった。うつらうつらとし始めたので、そろそろ寝るだろうな、と千秋が思うのと同時に、
「……たかふみ」
 冬沢が今にも寝入りそうなふわふわした声音で千秋の名を呼んだ。
「どうした?」
「……お風呂、勝手に入っていいしシャンプーとかも使ってくれて構わない……」
「わかった、ありがとな」
「それとお前、何も食べてないだろ……ある物何でも勝手に食べていい。全く本当にどうしてわざわざ泊まるなんて言い出したんだ……」
 弱々しく責めるような口調ながらも、幼馴染とは言え、家族以外の人間に自分が眠っている間に自分の家を任せる事への負い目があるのか、冬沢は申し訳無さそうに眉を下げている。
「こんな時にほんと律儀だなお前は……ああ、ありがとな。だからもうオレの事は気にするな」
 そう言って笑って見せると、冬沢は安心したようにふわりと淡雪のような笑みを浮かべ、唇を動かす。
「……おやすみ」
 その笑顔に胸がささやかな力で締め付けられるような心地を覚えながら、千秋は微笑みと共に言葉を返す。
「ああ。……おやすみ」
 やがて冬沢の瞼がゆっくり閉じたかと思うと千秋が握った手からはゆっくりと力が抜けていき、形のいい唇からすうすうと規則正しい寝息が聞こえ始めた。
 千秋はその寝顔を眺める。夕方に連れて帰って来た時よりは少しだけ苦しさの抜けたその寝顔はどこかあどけなく、幼い頃の面影を思い出させる。
 お前が寝るまで、と言ったはずなのにそこから離れ難く、両手に包み込んだ掌は離し難く。
(ごめんな、もう少しだけ……)
 届かなければ無意味と理解しながらも、心の内で謝りながら冬沢と繋いだ手に少しだけ力を込めた。
 意地張りで強がりで口を開けば減らず口ばかりのこの幼馴染が手と一緒に差し出して来た信頼と小さな甘えをしっかりと受信してそれに応えられている筈なのに、それを受け取っている自分の思いは冬沢の思う所から近いようできっと遥か遠い。
 お前を放っておけない、冬沢に向けて言ったそれは間違いなく本音。だがそれだけではない事はきっと冬沢にはそれとなくバレていて。それでも、もっと大きな本音があるからだと、弱り切った幼馴染を前に伝える事など出来る筈もない。
「……なんでわざわざって。好きだからだよ、お前の事」
 それでも声に出してしまうのは、そうでもしないとどうにかなりそうな程に心臓と血潮がうるさいからなのか、目を閉じて寝息を立てている幼馴染の耳に偶然を装って届いてしまえばいいというささやかな強欲からなのか。千秋にも分からない。
 もう触れられる事は無いと思い、それでも触れたいと願い続けて、ようやく僅かに触れた指先に向けて恐る恐る伸ばされた手が熱の中に抱えた温もりはあの頃とよく似ていた。その温もりを自分だけの物にしたいと、温もり以上のものが欲しいと、そう願ってしまう己の欲深さを自覚して笑いながら抱えていられる程の性分を千秋は持っておらず、またそれが出来る程に歳を重ねてもいなかった。
 今はただ、目の前の温もりに縋るようにその手を握る事しか出来ず。それでも手を握る時間の長さだけ、病気の幼馴染の看病にかこつけてただ欲を満たす為に傍にいたいだけのように思えて、自分が嫌になるばかりで。
「……ん……」
 眠りの中の冬沢が小さく呻く。千秋はいつの間にか俯いていた顔を上げ、
「ごめんな、強く握ってたか」
 と呟いて冬沢の手をそっと解いた。掛け布団の中にその手を入れてやり、椅子から静かに立ち上がる。
 もう一度寝顔を眺める。未だに熱で顔は赤いがそれ以外に特におかしな様子は無い。見ていて痛々しくはあるが、一晩ゆっくり休めば落ち着く事を祈るしかない。
 いっそ一晩ずっとここにいようか、と考えるが、リビングで寝てると言ったのは自分な手前、そんな事をしたら朝になってから確実に呆れられる。
「……おやすみ」
 千秋はもう一度だけ呟くと、今度こそ冬沢の部屋を後にしたのだった。

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実はこの話と繋がってます。