ゴッホちゃんがそこに居ないテオに宛てて手紙を書いていたりゴッホちゃんとエリセが友達になるかもしれなかったりする話です。
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ヴィンセント=ヴァン・ゴッホが弟のテオドルス=ヴァン・ゴッホや友人のエミール・ベルナールらと交わした書簡は、その多くが彼らによって大事に保管され、テオの妻・ヨーにより書簡集が発行され、後世に更に整理され、英語を中心として多くの言語に翻訳され、全文インターネットにも掲載されている。
少女がそれを知ったのは、ゴッホが生きた時代の彼の友人達のことを、ゴッホが自ら命を絶った後の彼らのことを知ろうとノウム・カルデアの地下図書館を訪れた時のことだった。
それはちょっと恥ずかしすぎて死にたい。
少女の中にあるゴッホの記憶は切実に、とてもとても切実にそう叫んでいた。自分が同じことをされても同じことを言うだろう、少女はそう思った。何しろヴィンセントとテオが交わした手紙には、ヴィンセントがテオから貰った仕送りだとかについても事細かに書かれている。ヴィンセントがテオ無しでは生きられない体である(金銭的な意味で)ことはもう全世界の知るところとなっているのだという。そして少女はヴィンセントの記憶の激しい羞恥を己のこととして感じ入り、真っ赤になった頬に手を添えて書架の片隅に蹲るのであった。
座はこう教えてくれる。ゴッホが生きた時代は今自分が召喚された時代の約百三十年前。大丈夫、マスターの生きる日本という国は約千年前の随筆や日記が写本によってなんだかんだ残っておまけに教科書にも載っている。
いやでも彼女らは作家として人類史に刻まれているのだし自分ほど恥ずかしくないのでは? ゴッホの本業は画家ですよ。まあ本業と言うには全然売れなかったけど……うふ、ふふふ……まあでも、ここに召喚されている英霊の皆さんは、何らかの残る形で自分の一生が後世に伝えられているから英霊になったような方々ばかりですし、こういう目に遭っているのは私だけじゃないかも……。少女はそう自分に言い聞かせるが、それでも羞恥心はそう簡単に消えてくれるものでもない。
「……人の手紙の、何がそんなに面白いんでしょうか」
蹲りながらもそう呟いたが、少女は知っている。
ヴィンセント=ヴァン・ゴッホは、絵だけでなく人生もまた、今の時代を生きる者達の心を掴んでいるのだという。ゴッホの人生を題材とした映画が沢山あることはマスターに教えてもらった。
「そりゃ、他の皆と比べたらちょっと浮き沈みの激しい人生だったかもしれないですけど……でもそれを言ったらゴーギャンちゃんだって相当では……? 現地妻とかちょっと笑えない……」
蹲ったままぶつぶつ呟きながら、少女はぎっしりと本の詰まった書架を見上げた。「美術」ジャンルの書籍が収められているこのエリアには、ゴッホと近い時代を生きた画家達の伝記や作品集が所狭しと並べられている。無論その中には、ゴッホの伝記や作品集も含まれている。
ここ以外の書架を見れば、他の時代・地域の画家達、画家だけでなく音楽家、作家、政治家、王族、政治家、発明家、その上に神話や民話の英雄達の人生がこの図書館には詰まっている。そしてそんな彼らがこのカルデアに集まり、人理のために戦っているのだ。
とんでもないところに来てしまった、と改めて思う。だってかのダビデ王やシバの女王に聖マルタと肩を並べて人理を守るために戦うことになるだなんて。己の内の信仰と戦いながらも求めてやまなかったゴッホの記憶が嫌でも騒ぐ。
「私自身はゴッホを雅号とするギリシャ出身の小娘みたいなものなんですけどね……でもやっぱり本物の迫力は凄かったなあ、ダビデ王はちょっとゴッホが思ってたのと違いましたけど……」
脈絡のないことをぶつぶつ呟いて、手紙から気を逸らす。そうすれば羞恥心が紛れて、頬の火照りも治まってきた。あまりここにいては何度も同じことになる。ここを離れようと、少女は立ち上がった。
「ゴッホ、ちょっと失敗……ゴッホの友達のことを知りたければ、まず端末からライブラリに入って、絞り込んだ情報だけ入手するよう情報の集め方を変えるべき……えへへ、ゴッホの時代はそんなの無かったから、ちょっと新鮮……」
ゴッホと同じ時代、あるいはゴッホよりも後の時代を生きた英霊もこのカルデアには何人かいるが、ゴッホと同じ地域、つまり十九世紀終盤のオランダやフランスに縁のある英霊はいない。座から得ることの出来ない情報に関しては、少女が自力で集めるしかないのであった。
少女は地下図書館を出ることにした。あの物憂げな雰囲気をたたえた女性司書が司書デスクにいないことを遠目で確認して、小走りでそそくさと図書館の出口に向かう。
図書館から一歩出れば、ゴッホの時代とは縁遠い無機質な白い壁と長い廊下が目の前を横切る。少女は召喚されたばかりの頃に貰った紙の地図を見ながら自分の部屋に戻るために歩き出す。カルデアのライブラリにアクセスする端末は施設内主要各各所の他、各サーヴァントの部屋に一つずつ置いてある。無論少女もその説明は受けているから端末の存在も認識しているのだが、ゴッホの記憶と感覚がまず少女を図書館に向かわせた。
この遠回りをテオに手紙で報告したらどんな反応をするだろう。相変わらず絵に関すること意外は妙に要領の悪い、と苦笑するのだろうか。今日のネタは決まった、なんて思いながら、少女は廊下を行く。
そう、少女は毎日のように、テオに宛てて手紙を書いていた。
召喚されたその日にもらったささやかなお小遣いを使って購買部で買ったのは、百枚綴りの一番安い便箋と封筒、そしてペンだった。
理解している、これを書いても読む相手がいないことくらい。この時代においてテオはとうに故人である。何せテオはゴッホが命を絶った一年後に死んでいる。そして無論、テオがこのカルデアに召喚されている訳ではない。だが少女がゴッホの記憶を抱えている以上、テオへの手紙を綴らないことなど有り得なかった。
テオのことを思うと胸が温かくなる。自分という継ぎ接ぎの怪物に存在しない筈の家族の温もりが少女の心を温め続ける。テオの存在は経済面においてゴッホが画家としてあり続けるために必要不可欠であったが、それ以上に家族としても精神的な支柱であったのだから。これがゴッホの記憶であって自分の記憶ではないのだとしても、少女にとってテオは本物の弟も同然であった。
「テオへの手紙のネタは決まったし……部屋から一人で図書館に行くルートは覚えたし……これで好きな時に落ち着いてゆっくり本が読める……」
自分の部屋兼アトリエに向かってるんるんと廊下を歩く。そうして白い廊下をどれほど歩いただろうか。
「ま……迷ったああああ……」
ノウム・カルデアのどこかの廊下の壁にもたれて静かにうずくまる少女が、そこにはいた。
「来た道を戻るだけなのに迷うって……そんなことあります……?」
歩けども歩けども、どこまでも同じような廊下ど扉が続くのみ。分かれ道があっても、地図を見て現在地が分からないので、どこに向かって歩けばいいのかも分からない。
「やっぱり私は駄目な子……来た道を来た通りに戻ることも出来ない……」
はあああああ、と大きなため息を一つ。誰かが通りすがるのを待とう……半ば諦めと共にそう思いながら、少女は白い床を見詰めた。
それからどれだけそこに蹲っていたか。
「あの……ゴッホさん、ですよね」
ゴッホさん。ああ、自分のことか。少女の声に名を呼ばれて、顔を上げる。
「……はい。私は、ゴッホです」
最初に目に入ったのは、目の覚めるような鮮やかな青。そして飛び込んできた……「Arts」の大きな文字。
「あの、こんなところでどうかしましたか……? ゴッホさんのお部屋はもっと向こうですよね」
少女は廊下に膝を付いて、自分に視線を合わせようとしているようだった。更に顔を上げると、晴れた日の湖面のような少女の瞳と視線が交わる。凛々しくもあどけなさを残すその面立ちは、かつてゴッホが憧れてやまなかった「日本」人のものであった。
「あ、えっと……あなたは」
「宇津見エリセです。英霊というわけではないのですが……サーヴァントとして、このカルデアに身を置いています」
「……あ、ボイジャーくんとよく一緒にいる……?」
「! は、はい……覚えていてくださったなんて、光栄です」
自分と同じくフォーリナーのサーヴァントであるボイジャーの隣にはよくこのエリセという少女がいる。それに、白い着物を羽織った恐竜のようなサーヴァントも含めて三人でいることが多いような、と少女は思い返す。だが少女が見た時のエリセの服はもう少し和装じみた服装だったように思う。少なくとも今のような、短いスカートに真っ青なTシャツというスタイルではなかった。
「あ、もしかしてこの服ですか⁉ その……この前貰って、なかなか着心地が良かったのでなんとなく普段着になりまして……」
「あ、そう言えばアビーちゃんも赤いやつを時々着てる……」
アビゲイルに限らず、エリセの着ているTシャツに似た鮮やかな青や赤や緑のTシャツは食堂で時々見掛ける。
「その、ダビデ王に、私がここに来る前に会ったとあるサーヴァントのことを話したら大層お喜びになられて私にこのTシャツを……じゃない、今はそうじゃない。ゴッホさん、どうしてこんなところに? 体調が優れないようなら、医務室までご一緒しますが……」
「あ、いや、そんなわけじゃなくって……」
エリセは本気でこちらを心配しているようだった。いらぬ迷惑を掛けてしまった、と焦燥と羞恥が胸の内をぐるぐる回る。
「えと……、部屋に戻りたいんですけど、道が分からなくなって……」
「だったら、私が一緒に行きましょうか」
「えっ、そんな」
「カルデアの構造は一通り頭に入ってるので」
「ひええ……すごいい……」
しっかりしている。自分と比べてもそうだし記憶の中の生前の彼と比べてもずっとしっかりしている。その上エリセ自身はどこまでも自分に敬意を持って接していることがその態度からびしばしと伝わってくる。気圧されながらも、少女は頷いた。
「えっと……じゃあ、よろしくお願いします……」
立てます? すみませんえへへ……だいじょぶです……。そんなやり取りをしつつ、立ち上がった少女はエリセの後を付いて歩く。
「エリセ……ちゃん、ここの構造とか覚えてるんだ……すごいね……? 広いし、複雑なのに……」
「ここに来る前はナイトウォッチ……その、警察……と言っていいかは分からないけど。そんなことをやっていたので。建物の構造とか道を覚えるのは、習慣が」
「すごいなあ……ゴッホ、そういうのは全然だから……」
「ゴッホさんは来たばかりですし、これから覚えていけば大丈夫ですよ……そうだ、カルデア内部の道案内をしてくれるナビゲーション用の礼装が購買部で売ってるんですけど、私はもう使わないのでお譲りしましょうか?」
「ひぇ……いいんですか」
「はい、私はもうここの構造はほぼ覚えたので……後でお部屋に持って行きましょうか」
「あああありがとうございますうう……」
なんでこんなにいい子なんだ、と密かに怯えつつも少女はぺこぺこ頭を下げた。
***
親愛なるテオ
今日はゴッホの友人達の、ゴッホが死んだ後について調べようと、図書館に行きました。
そこで知ったのですが、どうやらゴッホ達の手紙はほぼ丸ごと後世に伝えられているらしいです。それも色々な言語に翻訳されて。テオに宛てた物だけではありません、ゴーギャンやベルナールに宛てた手紙もです。恥ずかしいったらありゃしません。
結局皆のことは、部屋に支給されている便利な端末……たぶれとかいうもので調べることにしました。触ってみたけどこのたぶれは凄くて、レンブラントやミレーの絵を手元で簡単に鮮やかに見ることが出来るのです。勿論本物を見た時の感動とは比べるべくもありませんが、銅版画の模写に比べたらずっとましなのでしょう。ゴッホにはあの銅版画の模写が本当に素晴らしいものに見えていたのですが、どうやら人類史の技術の進歩とは凄まじいようです。
こんな物があっては画商の仕事はあがったりなのでは、と心配もしましたが、どうやらマスター様の時代でも、画商という仕事や商品としての芸術にはそれなりの需要があるようです。これでいつテオが現界しても安心ですね。
いつになったら、私はあなたに会えるのでしょう。
私の知るテオは彼の記憶の中のテオであって、私自身はあなたを知りません。
そしてあなたも、私のことを知りません。
それでも私はあなたに会いたくて堪らない。
あなたを弟と呼びたい。
この手紙を、あなたに読んでもらいたい。
あなたから私に宛てた返事の手紙を受け取りたい。
私の願いはただそれだけなのに、きっと叶うことはないのだろうと思うと胸が張り裂けそうになります。
これはダ・ヴィンチに聞いたことなのですが、私の霊基のゴッホ成分は全体のたった5パーセントなのだそうです。
そのたったの5パーセントの縁でいつかあなたが来てくれるならばそんなに嬉しいことはないのですが、私の肉体はあくまでクリュティエのものですから、難しいのでしょうね。
それにもしあなたが現界出来たとしても、私を見たあなたはきっと、私じゃなくて私の中のほんの僅かな彼を見るでしょうに。
それでも私は、あなたに会いたいのです。
急にこんなことを書いてしまって、ごめんなさい。今日はもうここまでにします。
ここに来てからいくつか絵を描きました。それについての話は、また次の機会に。
愛を込めて
クリュティエ=ヴァン・ゴッホ
***
あれ以来、少女とエリセは時々話すようになった。道案内用の礼装を届けに来てくれたエリセにコーヒーでも出そうとアトリエの中に招き入れた時、エリセは目を輝かせながら少女の描いた絵に見入っていた。
──その、私、本物をこうしてしっかり見るの、初めてで。筆使いも色合いも、こんなに激しく力強い物だって、知識としては知っていたけど、そんなの本当に無意味な物で……! ああごめんなさい、もどかしくて、言葉がうまく出なくて……。でも、あなたの描く絵が本当に素晴らしいものだってことは、はっきり分かります。
どこか感極まったようなその言葉で、少女はすっかりエリセに気を許してしまった。ゴッホの記憶を持つ少女は、自分の絵を面と向かって褒めてくれる者にはとにかく弱かったのだ。
「エリセちゃんは、ここに来る前に色んなサーヴァントに会ったことがあるんですよね……?」
「はい。私のいたモザイク都市では、全ての市民がマスターであり、サーヴァントがいるのが当たり前だったので」
タイミングが合えば、食堂の隅の方で二人向かい合ってコーヒーを飲む。ここのコーヒーは濃くて美味しいなあ、と少女は思う。極貧生活の中で飲んでいた安い豆の極限まで薄めたコーヒーとは大違いだ。
「……その、ゴッホの友達に会ったことは、ないですか……?」
「友達……と言うと……ゴーギャンやベルナール、ロートレック……同時代の画家達、でしょうか」
「そんなところです……」
「ごめんなさい、私は会ったことがなくて」
「そうですか……」
そんなことをエリセに聞いてどうするのか、と心の内で己を引っ張る声は聞こえない振りをした。
熱いコーヒーの入ったマグカップの上にストロープワッフル──いつも食堂に立っている弓兵のサーヴァントが試作品をサービスでくれた──を乗せながら、少女は呟くように言う。
「時々思うんです。このカルデアで生前のお友達に出会えている人達が、少し羨ましいなあって。だから……てわけでもないんですけど。えへへ。ゴーギャンちゃん達の友達は彼であって、私じゃないのに」
「それでも、ゴッホさんは彼らに会いたいんですよね」
「はい……」
彼らに会ってどうしたいのかなんて、自分にも分からないけど。特にゴーギャンとは面と向かって顔を合わせたところでまともに話せる気がしない。ゴッホだって例の事件からしばらくして手紙のやり取りなら出来たけれど、結局対面はしていないのだし。
そんな心持ちで彼らに会いたいと思っていいのかどうか、少女には分からない。
「会ってみないと分からないことは、あると思います。生前の知り合いでもサーヴァントとして召喚されたら何かの逸話が融合していて全く違う人、なんてこともあるみたいですし」
「えと……」
「例えば、サリエリとモーツァルト。彼らは史実では良き師弟関係だったそうですが、サリエリは後世の創作物の多大な影響によって無辜の怪物スキルを付与され、さらに灰色の男の伝承とも融合した結果、生前のサリエリとは異なる様相を呈しているらしいのだと、マスターから聞きました。サーヴァントになったら狂化が付与されていて生前より人の話を聞かなくなっているらしい、なんて話も聞きました。だから……」
エリセはふと、言葉を詰まらせる。それから少しずつ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「会いたいと思っているなら、そのまま思い続けていて、いいと思います。私は、ゴッホさんのその気持ちは、尊重されて然るべきだと思います」
少女を真っ直ぐに見て告げられたその言葉は、すとんと少女の胸の中に落ちてきた。胸の中でつかえていた物を丸ごと巻き込んで落ちてきたその言葉は、少女の心を不思議な程に軽くした。
「英霊となった以上は、きっと皆さん、生前と全く同じのままではいられないんだろうって。ここに来る前にも沢山のサーヴァントを見てきて、私はそう思いました。そして、第二の生を受けた者同士で生前の関係性をそのまま続ける方々もいれば、全く異なる関係性を紡ぐ方々も。ゴッホさんがどちらを選ぶことになるとしても……私は、ゴッホさんの、ご友人達に会いたいという気持ちを、尊重したいです」
そしてエリセは静かに口を閉じ。小さく項垂れた。
「ごめんなさい、勝手なこと言って……」
「だだだ大丈夫、ゴッホ、エリセちゃんの言葉すごく嬉しかったし……あ、ありがとう。エリセちゃんは、優しいね……」
「そ、そんなことは……!」
少女の言葉にエリセは僅かに頬を赤くして目を泳がせた。この子も私のように褒められ慣れていないのかもしれない、と少女は思う。こんなにいい子なのに。
この子の肖像画を描けたらどんなにいいだろう。瑞々しく凛々しい表情を、強い意志の中に憂いと情念を帯びたこの目を、戦いの中に身を置くことも傷を負うことも当たり前にしながらもその純真な透明さを内に宿し続けているその姿を、私のキャンバスに留め続けられたら。描きたい。この子を、私の筆で描きたい。心の奥底から炭酸水の泡のように小さく湧いてきたその思いはふつふつと大きくなっていった。
気が付けば少女は、身を乗り出してエリセの手を取っていた。
「え、エリセちゃん」
「は、はい?」
「こここ今度、私の絵のモデルになってくれませんか!」
少女の言葉に、エリセは目を見開いた。
「……え、わ、私がですか」
「はい、えへ、その、ゴッホ、本物の日本人をモデルに絵を描いたことなかった、し……、私は、貴女を描きたい! エリセちゃんを!」
ほとんど勢いに任せた言葉だったが、勢いに任せればどんどん気が大きくなって、思うままを言葉にして伝えることが出来た。
「ゴッホは沢山の肖像画を描きました、彼は偏屈だったかもしれませんけど彼の友人達が好きでした弟家族が好きでした人間達が好きでした彼らの姿を後世にも残したいと思ってました私はそのことを確かに覚えています、だから……だからかどうかは、わかりませんし、違うかもしれませんけど。私も、私が好きになった人達の絵を描きたいんです」
「そ、それで私をモデルに、ですか」
エリセは動揺しているのか、目が泳いでいた。
「は、はい、エリセちゃんが嫌でなければ、ですけど」
少女は真っ直ぐにエリセを見た。現界してからかつてないほどに胸がふ高鳴っていた。基本的にあがり症気味なのですぐに心臓がバクバクいいがちなのだが、それでも。ここでこの少女を逃せば今描き得る最高の肖像画は描けないという確かな予感があった。
エリセはしばらく視線をきょろきょろさせ、一度ぎゅっと目を閉じた。そしてゆっくり瞼を上げて少女を見詰め返した。
「……その」
「は、はい」
「私で、良ければ……」
こうして少女は、エリセとモデル契約(合計最大十時間までのデッサン・クロッキーと油絵一枚)を結ぶこととなった。
コーヒーの中にはいつの間にか湯気で柔らかくなったストロープワッフルが沈んでいたが、モデル契約を成立させた少女は落ち込むことも無く、沈んだワッフルをスプーンで崩してコーヒーと一緒に食べ始めた程度には浮き足立っていた。
***
ザク、とストロープワッフルを一口齧ると強烈な甘味が脳を叩き起こす。少女は齧り掛けのワッフルを皿の上に置くとワッフルを噛み砕きながらパレットに青い油絵の具をたっぷりと絞り出した。筆に絵の具を取ると、まっさらなキャンバスに筆の跡を残しながら激しくも丁寧に刻み込むように被写体の形を描き出していく。
ここ数日、少女は寝る間も惜しんでエリセの肖像画の作成に取り掛かっていた。カルデアで過ごす中でエリセをよく見て、最も彼女が彼女らしいと思える瞬間を探して、デッサンをして、それから習作として素描や水彩画を何点か描きながら最適な構図を模索し、決定したらそれを元にまた習作を作成し、納得が行ったら油絵の作成に入る。そんな生前のゴッホも行っていた制作スタイルを少女は今回取ることにした。そして今日はいよいよ油絵の作成に入るのだ。
彼と少し違うことと言えば、この絵は誰にも売るつもりがないということくらいか。完成したらエリセに無償で譲るつもりでいたが、彼女曰く自分の部屋に自分の肖像画を飾るのはちょっと恥ずかしい、とのことだったので、しばらくの間は自分のアトリエに掛けることにした。勿論、誰かに売る気は無い。まあ、彼にも売る気のない絵くらいはあったようだが。
少女に観察されている間のエリセは初めこそ気まずそうだったが、次第に慣れてきたのか、気が付けば少女とエリセは更に打ち解けて、食堂で三食同じテーブルで食べるようになっていた。
──エリセちゃん、本当にいい子だ……私なんかの友達には、勿体ない。
ゴッホは偏屈だが調子のいい時は話好きだし友人が何人かいたのも納得出来るのだが、私は違う。卑屈でじめじめしていて人の顔色を伺ってばかり。少女は思わずため息を一つ吐き出した。だがすぐに頭を振って雑念を振り払う。
今はこの絵と向き合わなくちゃ。だってエリセちゃんの姿をキャンバスに留めおきたいと願ったのは私なのだ。写真でもなく他の画家によってでもなく、描かなければならないのだ、私自身の筆で!
いつの間にか止まっていた手をまた動かし始めた。最も色が鮮やかに映える配色を脳内で組み立てて、なるべく混色が起こらないよう神経を研ぎ澄ませながらキャンバスを絵の具で埋め尽くしていく。
こんこん、と部屋のドアをノックする音が聞こえたような気がしたが無視して筆を進める。いい所なので邪魔しないで欲しい。
そうして何時間キャンバスに向き合っていたか。
一気に描き上げた肖像画を前に、少女は一つ息を吐き出して筆とパレットを置いた。
改めて、描き上がった肖像画を見る。絵の具が乾くまであと数日は掛かるのでまだ完成とは言えないが、これ以上手を加える必要が無いと言えるまで描き上げることは出来た。
縦約四十センチ、横約三十センチの縦長のキャンバスに描かれているのは、テーブルに頬杖を突いた黒髪の少女。淡く微笑んでいる少女の目線は画面左側に向かっていて、鑑賞者の方を見ていない。背景はペールブルーやウルトラマリン、白の絵の具でエリセの輪郭を囲むように塗り潰しているが、画面の中のエリセの視線の先、キャンバスの左辺にクリーム色や黄色で淡い半円が描き込まれていて……
「やあ」
「のわっ?!」
自分の絵につい見入っていると、突如後ろから声を掛けられて驚きのあまり椅子から飛び上がる。
「ぼ、ボイジャーくん……」
そこには、淡い燐光を内から放つ幼い少年が立っていた。否、浮いていた。床から十センチほど浮いている。
ドアには鍵を掛けていたのに何故ここに、と思ったが、霊体化して入って来てしまえばドアなど無意味である。しかしよりによってボイジャーが来るとは。少し気恥ずかしくなり、少女は無意識に背中でキャンバスを隠しながらボイジャーを振り向いた。
「どうか、しましたか? ゴッホ今日は、オフですが……」
「あのこが、ね」
ゆっくりと、ボイジャーは話し始めた。少女の目を見ながら、淡く微笑んでいる。
「あのこが、きみのことを、しんぱいしていたよ」
「あのこ……あの子って、エリセちゃんですか?」
「そう。エリセ。きみ、あさもひるも、ゆうも、たべにこなかったでしょう?」
「へ? あ、ああ……ああーそう言えば……」
今朝からの製作中、部屋に常備しているコーヒーといくつかのお菓子は口に入れていたが、一歩も外には出ていないし食堂にももちろん行っていない。
「へ、エリセちゃん、私を心配、しててくれた……?」そ
そのことに思い至って、心臓が一つ跳ねた。ボイジャーはにこりと笑いながら頷いた。
「きみは、たべることがだいすきなのに、たべなくってだいじょうぶかな、って。ゆうはんまえに、へやをたずねてみたけれど、きみはでてこなかったから」
「…………」
そう言えば、絵を描いている時にノックの音が聞こえてきたような。……つまり。私が無視したあのノックの主は、エリセちゃんだったということでは?
「あわわわわわわ……」
無視してしまった。エリセちゃんが心配してくれたのに。がたがた震えている少女を気にすることもなく、ボイジャーはマイペースに続ける。
「エリセはね、きみをしんぱいしていたけれど、きみのえを、たのしみにしているよ」
「え……本当、ですか」
ほとんど無理矢理頼み込んだようなものなのに。
「はずかしいけど、たのしみだって、いっていたよ」
「……そう、ですか」
そんなに優しくしてくれる、私が頼み込んで描かせて貰った絵を、楽しみだと言ってくれる、そんな子の優しさを知らずのうちに無下にしてしまった私はなんて酷いやつなのか。どっと汗が吹き出てきた。死にたい。
「ねえ、きみは、さ」
ボイジャーは俯く少女の顔を覗き込んだ。
「ひぇ、は、はい」
「エリセのこと、すき?」
「え……」
真っ直ぐな目が少女を見つめる。この目を前に嘘を吐くことは許されない、そんな強迫観念すら抱いてしまう程に綺麗な瞳。
少女は目を泳がせながら、水から上げられた魚のように口をパクパクさせた後、大きく息を吸い込んだ。
「好き……です。私は、エリセちゃんはとても、好ましい女の子だと……ええ、と。その、友達になれたら、なんて、思います……」
「なら、かのじょのともだちに、なってくれないかしら」
「……その、エリセちゃんが良ければ……」
良ければ、とは言わずにすぐにでも友達と呼びたいくらいだけれど。こんな時ゴッホならすぐにエリセを友達認定してしまえるのだろうが、ゴッホの図々しさをクリュティエの卑屈さが上回って身が縮こまってしまう。
「エリセは、えいれいとともだちになるなんておそれおおい、っていうけれど。でも、きみはきっと、エリセとともだちに、なれるよ。あとはエリセのゆうきしだい、だけれど」
ボイジャーはふわりと笑顔を浮かべて、ひらりと身を翻した……かと思うと、いつのまにか少女の脇をすり抜けて、キャンバスの絵を横から覗き込んでいた。
「あっ……」
「ぼくね、”え”は、むつかしくて、よくわからないのだけれど。これをかいたきみが、エリセをすきなことは、わかるよ」
慌てふためく少女をよそに、ボイジャーはマイペースに話し続ける。
「ぼくね、てがみを、もってるんだ。」
「あ、ええと、……ゴールデンレコード……のことでしょうか」
座からの知識を手繰り寄せる。太陽系の外にいるかもしれない知的生命体に向けたメッセージ、ゴールデンレコード。確かに手紙と呼んでも良いのかもしれない。
「きみも、てがみを、かいたのでしょう」
「……書きましたよ」
今だって書いている。どこに送ればいいかも分からない手紙を、何通も。
ボイジャーは、キャンバスにぎりぎり触れるか触れないかまで小さな手を伸ばした。肖像画の中のエリセに触れようとするかのように。
「……ぼくにてがみをたくしたひとたちのなかに、ね。この”え”のなかのエリセみたいなかおを、したひとたちが、いたよ」
「この絵の、エリセちゃんみたいな顔……」
少女は振り向いて、改めて仕上げたばかりの肖像画を見る。
私がこの肖像画の中で描き出そうとしたエリセちゃんの表情は、どんなものだったか。そんなの思い出す間でもない。だってこれは、私がエリセちゃんを見る中で、最も彼女らしいと思った瞬間の表情なのだから。
「……光を……星を求める、顔。ですね」
ボイジャーを見る時のエリセは、時々そんな顔をする。叶わないかもしれないと思いながらも夜空に光る一等星に手を伸ばすことを諦められない者のような表情で、多くの時間を共に過ごしているはずのボイジャーを、見ている。
この表情を、この目を、私は知っている。
この目は、夜空の彼方の光を求め続けた、私の記憶の中の彼とよく似た目。そして他人事には思えない目。だって、私も。
「エリセちゃんは、出会えたんです。彼女が一番求めていた星に。でも……どうしてエリセちゃんが、隣にいる筈の君を、夜空の彼方の星を見るような目で見るのかは……私には、分かりません。だから私は、君を見ている時の彼女を描きたくなってしまったのかもしれません」
それはエリセにとっては、余人が簡単に踏み入ってはいけない領域なのかもしれない。もしかしたら、こうして描かれることも忌避するかもしれない。それでも、少女は思うのだ。
あなたがその星を見ている時の目に浮かんでいるのは、諦念や絶望などでは決して無い。遥かな星に手を伸ばす者が抱く希求であり、切望であり……憧憬なのだと。
「エリセちゃんはきっとその星を諦めてない……私も、諦めたくないんです。私の求めている星を……会いたい、人達を」
こんな自分の身勝手な願いを、出会ったばかりの女の子に重ねていいのだろうかという躊躇いが無いではないけれど。
あの時エリセに「ゴッホの友人達に会ったことはあるか」と尋ねたのは、どこかでテオの現界を諦めていたからだ。勿論、友人達には会いたい。でも、一番会いたいのはテオだ。それでもテオに会うことを半ば諦めながらも手紙を書き続けていた少女は、知ってしまった。すぐ傍の星を見つめるエリセが、彼方の星を求める者の顔をしていることに。
ゴッホの生前の友人達に会いたいという願いを尊重すると言ってくれたエリセが、そんな顔をするというのなら。私が星を求め続けたって、罰は当たらない筈だ。
「私が一番会いたい人に会いたいと願うことを、諦めなくてもいいんだって……、エリセちゃんのお陰で、思えましたから」
さながら星に祈るように。英霊の身となってもなお、祈ることをやめないでいいのだと。
「エリセにもね、いるよ。ここにはいない、あいたいひと。ともだち」
「そう、なんですか?」
「うん。ともだち。エリセのもとめるほし、そのなかのひとつ。エリセのいちばんたいせつな、ともだち。……ここにくるまえの、エリセの、いちばんたいせつなきおく。ほしをえがいたひとのきおくをもつきみが、エリセはあきらめていないとかんじるのなら。エリセは、あきらめていないんだね。かのじょを」
そう言った時のボイジャーは少女の目には、とても嬉しそうに見えた。
エリセが求める星の一つは彼女の友達……ボイジャーの言葉はきっと正解の一つなのだろう。でもそれだけではない、と少女は思った。そしてボイジャーもまた、分かっていて言わないのだろうと、不思議とそんな気がした。だがそれこそ、少女のような部外者はこれ以上踏み込んではいけない領域なのだろう。
「エリセがあきらめていないって、きみがみていること、きみもあきらめていないこと。エリセには、しってほしいから」
「……ボイジャー君はもしかして、気付いていたんですか? 私がエリセちゃんの、こんな表情を描くって」
「みえたもの。きみが……ええと、かみに、ぺんで、エリセをかいているの」
「ひいいい……」
ボイジャーとエリセはよく一緒にいるのだ、そんなことがあってもおかしくない、のだが。見られていたのはシンプルに恥ずかしい。
「だから、ね。ぼく、きみなら、エリセとともだちになれるって、おもったんだ」
「……ボイジャーくんも、好きなんですね。エリセちゃんのこと。」
「うん」
ボイジャーは何の屈託もなく頷いた。きらきらと光る、星のような笑顔で。
「ぼくとかのじょも、ここでは、ともだち、だからね」
***
親愛なるテオ
今日は、カルデアに来てから出会った女の子……エリセちゃんの肖像画を、一点仕上げました。
せっかくなので、ゴッホが生きていた頃とは違って、絵を撮影した写真を同封してみようと思います。この時代では写真を撮るためにずっと立っていなくていいし、こんなに色を綺麗に再現出来るのだそうです。
どうでしょうか? 青を基調に、油絵なりに透明感が出せるように頑張りました。少し、印象派の影響を受けていた頃に戻ったような気分がします。
エリセちゃんにはまだこの絵を見せていません。喜んでくれるでしょうか。エリセちゃんの一番の友達のボイジャー君は、きっと喜ぶ、と言ってくれました。そうだといいのですが。
この絵のエリセちゃんを見て、ボイジャー君は、星を求める人の顔だって、すぐに見抜いてしまいました。
エリセちゃんは時々、こんな顔をします。私の記憶の中のヴィンセントにどこかよく似た、夜空の彼方の星を求める人の顔です。
その星は、カルデアにいては手が届かないかもしれない。だけどエリセちゃんは、その星を諦めていないのだと、私は思います。だから私は、彼女のこの顔を描きました。
私も諦めなくていいんだって、エリセちゃんを見ていたら思えるようになったから。
だから私は、あなたに会うことを諦めないでいようと思います。テオだけじゃない、ゴーギャンちゃんにロートレックちゃん、ベルナールちゃん……少し怖いけど、会いたい気持ちは、ずっと持っていようと思います。
勿論、会えるかなんて分かりません。でも、星を求めるのって、そういうことだと思うから。本当に掴めるかは分からないけど、それでも求めずにはいられないから手を伸ばし続けるのです。私がテオ達に会いたいと願う気持ちも、同じです。
きっとあなたは、ゴッホにとっての星の一つ。天上の彼方ではなく、手紙を交わせる距離からゴッホを見ていてくれた、地上で光る星。
今の私にとっては、あなたは天上の星のような存在になってしまったけれど。でも、心の中にはずっとあなたがいます。
あなたが見るのが、私の中のほんの僅かな彼なのだとしても構いません。むしろ当然のことだと思います。それでも私は、あなたに会いたいと願うことをやめません。
ゴッホがあなたにどんな思いを抱いていたか、あなたに伝えることくらいは出来ます。それくらいしか、私があなたに出来ることはないかもしれないけれど。あなたに会えても、この手紙を見せることは出来ないかもしれないけれど。
気味の悪い女と思ってくれても構いません。でもこれは、私が私のために書いている手紙でもあって。勿論、あなたが読んでくれて、返事をくれたら嬉しいけど、せめて今は、私のために願わせてください。
これが私の身勝手な願いでも。
いつかあなたに会える日を、私は待ち続けています。
愛をこめて
クリュティエ=ヴァン・ゴッホ
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参考文献
圀府寺司(2009)『ファン・ゴッホ 自然と宗教の闘争』小学館
圀府寺司(2019)『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家』小学館
「Vincent van Gogh The Letters」〈http://vangoghletters.org/vg/ 〉
イマジナリ・スクランブルクリア後に書き始めたのですが書いてる途中にリンボが実装されカルナさんはサンタになっていました。