滞在三日目
山下が目を覚ますと、森次の背中が目に入った。
窓際に置いてある百合子の灯篭に向かい合うようにして正座している。
「……おはようございます、森次さん」
声をかけると、森次が振り向いた。
「ああ、おはよう」
その顔が昨日海に飛び込んだ後と同じように晴れやかだったので、山下は安堵した。
朝食は堂馬食堂で済ませ、二人は再び石神の灯篭作りに向き合う。
支度を整えた森次はちゃぶ台の前に正座した。どこか張り詰めた空気が森次を覆う。山下はそれを黙って見守ることした。
一つ深呼吸してから、森次は筆を取る。
そうして、「石神邦生」と書き記した。一画ずつ、何か静かな思いを込めるように、昨日のように唐突に立ち上がることもなく。
「今日は海に飛び込まなかったので安心しました」
筆を置いた森次に山下が言うと、森次は「さて」と呟いた。
「今から飛び込みに行きたくなるかも知れん」
「勘弁してください」
軽口を叩き合いながら卓上の諸々を片付けて、窓際でぼんやりと半紙が乾くのを待つ。半開きにした窓からは時折緩やかな風が吹き込んだ。
「前に来た時も思いましたケド、やっぱ竜宮島は東京より過ごしやすいッスよねえ」
「限度はあれど、島の天候はある程度偽装鏡面内部で調整しているという話だからな。地球上でスペースコロニーを運用しているようなものなのだろう」
「東京とは大違いだ……」
「……社長が」
「?」
「いつか竜宮島に行きたい、と言っていた」
「ああ、確かに社長が好きそうですよねえ、ここ」
「夏が来る度に、昔は東京もこんなに暑くなかった、とぼやいていたからな。この島の気候も羨ましかったのだろう」
「暑くない東京ねェ……想像つかないや」
「……山下」
「なんすか?」
「まだ、私に何か言いたいコトがあるんだろう」
窓の外に視線をやりながらの、日常会話の延長のように何気ない口ぶりだったが、どこか確信めいたものを帯びている。山下は小さく肩を竦めた。
「言いたいコトっていうか……話したい、っスね。正直満足しつつあるんスけど、それは今僕が森次サンを独占できてるからで」
少しばかりの照れと共に山下がそう答えると、森次は怪訝そうに聞き返す。
「話したい?」
山下は人差し指を立てた。
「まず一つ目、石神社長の話をしたいなァって。こっちはもう結構したような気がしますケド」
「……二つ以上あるのか」
「だって森次さんは忙しすぎるじゃないスか。ボクだって足りてなかったんスよ、森次さんが」
それから山下は人差し指を立ててまま中指を立てて、二本指をぐいと森次に見せた。
「二つ目は、森次さん自身についての話です。最近どうかとかそういうの、社長になってから全然話してくれなくなりましたよね。森次さんが忙しいとしても、普段からもうちょっとくらいボクに構ってくれてもいいんじゃないスか? 今ぐらいとは言わず……日頃から、ちょっとくらいは!」
そのままぐい、と森次に詰め寄る。
「…………」
森次は二、三度瞬きをしてから、一つ息を吐いた。
「そうかもしれないな」
「おっ」
「……先日早瀬に言われた」
「早瀬?」
「お前にもっと構ってやれと」
「なに言ってんだよアイツ!?」
思わず声がひっくり返る。森次は意に介さずといった風に遠い目で続ける。
「ダミアンも同調していたな……改めて己の不甲斐なさを痛感した」
「何を何で痛感してるんすか!? 第一早瀬なのがムカつく……!」
そもそも早瀬は森次さんに会ってる時間はボクより短いハズだろとかなんで自分が森次さんがいないと寂しくなる生き物扱いされているんだとか諸々、言いたいコトは諸々ある。
ついさっきまで森次本人相手にもっと構えと言っていたのを棚に上げ頬を真っ赤にしてぷるぷる震える山下を見て、森次は薄く息を吐くようにして笑いながら山下に手を伸ばした。山下はそのままぽんぽんと軽く頭を撫でられた。ただそれだけで、山下の心はすっと凪いでいく。
(適わないなあ……)
「森次さん、今日元気ですね」
「?」
「やっぱり昨日の件でだいぶすっきりしました?」
「……そうだな。衝動で体を動かすのも存外馬鹿に出来ん」
「そういう感覚、大人になってもあるんスね」
「自分でも忘れていた」
森次は自分より十近く歳上だ。その年齢差は絶対的なもので、出会った頃から変わることはない。しかしその中に確かに残っている子供らしさ・幼さのようなものが顔を出す瞬間は結構好きだな、と山下は密かに思う。
「じゃあこれからももう少し趣味で体を動かす時間作りましょうよ。ナノマシンにだってメンタルケアには限度があるんスから」
「それもそうだな……」
じゃれ合うような会話を続けているうちに石神の名前を書いた半紙が乾いていたので、灯篭を組み立てる。壁の時計が指す時刻は正午を回っていた。
「間に合って良かったっスね」
山下が言うと、「そうだな」と森次が呟くように応えた。
まだ祭りまでは時間があるので、連れ立って一度宿を出る。
『楽園』まで昼食を摂りに行くと、偶然カノンと共に食事に来ていた羽佐間容子と出くわした。再会の挨拶をするうちに昼食後は祭りの準備を手伝うことになる。『楽園』を出てから神社で力仕事を少しばかり手伝っているうちに、少しずつ日が傾いていった。
祭りが始まると、島民達が神社境内に集まり自然と喧騒は大きくなっていく。
浴衣姿のアルヴィスの子供達とすれ違い挨拶を交わしながら、森次と山下は露店を見て回った。
並んで焼きそばを食べ、射的で勝負をした。その光景は傍から見れば似ていない兄弟二人が祭りを楽しんでいるようにも見えたのだが、それを誰かに指摘されることもなく、同時に当人達が特別意識することもなく。
それを当たり前として賑やかな夜の中を歩くうちに、いつしか灯籠流しの時間となっていた。
◆◆◆
宇宙の底を思わせる暗い海を、橙の光を宿した灯籠が流れていく。灯籠に照らされた海面はぼんやりと光りながら、そよ風に揺れるカーテンを思わせる穏やかさで時折揺れていた。
森次は何も言わず、石段に腰掛けて流れていく灯籠を見ていた。山下もまた、何も言わない。
灯籠の群れが沖に向けて川のように流れていくのを見ながら、森次が呟いた。
「……流す灯籠が増えるとはな」
「……そっすね」
「あの人は、単なる墓参りよりこちらのほうが喜びそうだ」
「そりゃあ社長は賑やかなのが好きな人っすから。こうやってお祭りと一緒に弔われるのが嬉しいでしょ」
「……ああ。きっと、こうするのが良いんだ」
それきり森次は黙り込んで海原を行く灯籠の群れを見つめた。山下は一度だけちらりと森次に視線を向けたが、すぐに海原に視線を戻した。
その背中がいつもより少しだけ小さく見えたとして、この誰よりも優秀で世界一カッコいいくせに少し困ったところのある上司は、そう見えることを望まないだろうから。
ふと、「城崎天児」の名が記された灯篭が手前から沖へと流れていくのが見えた。山下が振り向くと、派手な柄のシャツを着た男がこちらを見ている。立てた人差し指を唇の前に当てながら人混みに背を向けて、その男は去っていった。
きっとこの世界に生きている以上、誰にも弔う相手がいるのだ、と山下は灯篭の群れを見ながら考える。それは自分達が特別戦いの中に身を置いていたからというだけではない。誰にも遅かれ早かれ誰かを弔う時が来る。きっとこの灯篭流しは、行くことも覗くことも出来ない彼岸に弔いの思いを伝えるための儀式で、それはある意味此岸に生きる者達のためなんだろう……と。そんなぼんやりとした思考が、ヒュルル、と空気を切る細い音に打ち切られる。
顔を上げると、鼓膜を揺らす破裂音と共に夜空に大きな冠菊が咲いて地上を一度に照らした。
「わ、すげ……!」
思わず声を上げると、森次も空に目を向けた。
断続的に花火が打ち上がり、空と地上を遍く光で染め上げる。
灯籠を見送っていた人々は花火を見上げ、あるいは花火から目を背けるように海に背を向ける。
森次は空から視線を下げ、また海面を流れる灯籠を見詰めた。山下はしばし空に見惚れていたが、やがて森次が空を見ていないことに気付いた。
(仕方ないなァ、この人は)
山下は立ち上がると、森次より一段上から背後に立ち、その両肩に軽く手を置いた。
「……なんだ」
森次が振り向く。いつものように温度の低い視線が、伊達眼鏡越しに花火を僅かに反射して煌めいたように見えた。
「見ないんスか? 花火」
「……見て欲しいのか」
「今くらいはボクと同じモノを見てほしいだけです」
山下の言葉に、森次は二度三度瞬きをする。夜だと言うのに、長い睫毛が揺れているのが花火のお陰で分かった。
やがて森次は口元に薄く笑みを浮かべ、山下から視線を外しながら空にその瞳を向ける。
そうして夜空に漆黒が戻るまで、二人で同じ空を見上げ続けたのだった。
祭りからの宿への帰り道、森次が雲で月の隠れた空を見上げながら呟いた。
「……石神社長は、もうどこにもいないのだな」
そうですね、と山下は頷いた。
この人はきっと、山下達がとうに受け入れることが出来ていたその事実を心の何処かで受け止め切れないままにJUDAという居場所を守るため走り続けてきたのだろう。自分ではなく石神や部下達のためにと、自分の輪郭が分からなくなるまで。
この人が率先して先頭で襲い来る現実に向き合い続けてきたから、部下であった自分達は落ち着いた頃に思う存分石神の死を悼むことが出来たのだ──それを改めて強く思いながら、山下は隣を歩く森次を見上げた。
「それでも森次さんは、ここにいます。ここにいるのは、森次さんです」
JUDAを遺そうとその最初の一歩を踏み出したのは、紛れもなく森次自身の意思なのだ。それは森次にとってもJUDAが大切で……そのためにとてつもない無理を続けるのが当然であると考えられるほどの場所である故だ。
だからこそ山下は、森次にこれ以上の無理をして欲しくなかったし、自分の輪郭を見失って欲しくも無かった。
「……そうだな。ここにいるのは私だ」
森次は空から視線を外し、山下を見る。
その時、雲間から月がゆっくりと顔を覗かせた。月の白く柔らかな光が地上に少しずつ降り注ぎ、二人をも緩やかに包んだ。
白い月を背負い、その光に照らされる森次の表情を見て。山下は、この旅における自分の役目が一つ確かに果たされたことを悟った。