妻の写真を入れたロケットを手に、桜が川の両岸で咲き誇りながら散っては水面に落ちていくのを眺める。
川沿いの道では屋台も出ていて花見客でたいそう混雑していたが、竜弦は比較的人の少ない橋桁の隅に立って桜を眺めていた。
妻の生前、週に一度二人きりで出掛けてはお互いに少しずつ「家族らしい家族」になれる距離感を構築しようとしていた時期のこと。花を見るのが好きであった叶絵の希望で一度だけここに来たことがある。
桜は竜弦の趣味に合わない花であったが、叶絵が喜ぶ姿を見られるならば自分の好みなどどうでも良かった。
そうしてその日から、桜を見ると、桜を見て喜ぶ叶絵の柔らかな笑顔を思い出すので、桜が好きになった。
叶絵が死んでからは、もう彼女の笑顔が見られることはないという現実に酷く胸が苛まれるので、桜は見なくなった。
そうして今年になって、ようやく目を背けずに桜を見る気になった。彼女の笑顔が写真の中だけのものなのは変わらない。ただ、これから先も桜を見ないまま生き続けていては彼女が悲しむだろうという予感だけが、この季節のこの場所に足を運ばせ、桜を直視させた。
そもそも今年を生きて迎える事自体、全く予期できたことではなかった。自分はこれくらいになったらきっと戦いの末に死ぬ、と認識していた時期が人生においてあまりにも長い。それを息子に勢い良く引っ繰り返されて急に人生の長さが倍近くなったようなものだ。
戦いさえ終われば心置きなく楽になれるとどこかで感じていたというのに。甘えるなよと息子に叱られたような心地だが、思いの外悪い気分はしなかった。
ふと、桜の花びらが一枚、ロケットを握る手の上に落ちた。彼女のあの白い手を思い出して、無性に煙草が吸いたくなった。
カテゴリー: 鰤
3/14
「……なんだ、これは」
「何って、誕生日プレゼントだけど」
テーブルの上に置かれた物を見て、竜弦は眉間に皺を寄せている。
それが何なのかは知識として知っているが、自分の生活に入り込むことはまるで想像していなかった物体を目にして当惑しているといったところだろうと、雨竜は手にしたティーカップをソーサーに置きながら分析する。
掌に収まるほどの藍色の鉢に植えられた、小ぶりながらその枝葉を天に伸ばそうとしている松の木。
世間一般ではそれを「盆栽」と呼ぶ。
「渡す瞬間まで僕の部屋の方に置いていおくつもりだったんだけど、あんたの帰りが遅いからここまで持ってきた」
時刻は既に22時を回っている。帰りは20時と聞いていたのだが。
これは今日はここに泊まりだな、と、雨竜は立ったまま困惑する竜弦を他所に立ち上がる。
「夕飯温めてくるから、少し待ってろ」
そう言い残し、キッチンに足を向ける。
スープ、サラダ、ローストビーフと付け合せ、バゲットを皿に盛り、今日のために買ってきたワインを搭載したカートを押してダイニングに戻ってみれば、竜弦はまだ立ったまま盆栽と睨めっこしていた。
「まだ見てるのか?」
「……お前の考えることは分からん」
「分からないなら分からないでいいさ、大事にはして欲しいけど。道具も一緒に買ってあるから後で渡す」
雨竜はてきぱきと皿をテーブルに並べ、グラスにワインを注ぐ。
「……」
竜弦は盆栽から顔を上げて怪訝そうに雨竜を見たが、雨竜が食事を並べ終えたのを見てようやく椅子に腰を下ろした。雨竜も向かいの椅子に座る。
これだけじゃ伝わらないか、と、静かに食事をしている竜弦を見て思う。
(長生きして欲しいだけなんだけどな)
誕生日に松を贈るというのは我ながら直球すぎるかと思ったものの。
この松がもう少し育つ頃に伝わっていればそれで良いか、と、雨竜は飲みかけのカモミールティーに口をつけるのだった。
イルミネーション(竜叶)
大学の近くの大通りでイルミネーションをやっているようだから一緒に行かないか、と叶絵を誘うのは、竜弦にとってそれなりに大きな冒険であった。
二人で出かける時の行先は叶絵が決めることがほとんどであったし、それにイルミネーションというのは、恋人同士で見に行く先の定番であるという朧げな知識くらいはあるのだ。
二人でそういった場所に出掛けることへの躊躇いが今更あるわけではない。ただ、初めて自分から誘った先がそう言った場所なのは、気取りすぎではなかろうか、と。好きな相手に少しでも自分を良く見せたいという心理で思うのだ。
年齢一桁の頃から竜弦の面倒を見て来た叶絵がそんなことを今更気にするわけもないのだが、今現在の竜弦は自分を何より愛してくれる人がいるという事実に救われ、見方を変えれば少しだけ浮かれているので、待ち合わせ時刻よりも早く着いてしまった駅前でそわそわと落ち着かない気分になっていた。
そもそも二人は雇用主と使用人という立場で同じ家に住んでいるので、待ち合わせという行為自体が新鮮なのだ。竜弦は大学の図書館で時間を潰してから来ているし、叶絵は仕事を使用人の同僚に任せて家を出て来ている筈だ。
成程これが普通のデートの感覚なのか、と竜弦は新鮮に思いながら、叶絵を待ち詫びていた。
フローライト(竜叶)
竜弦と叶絵が若い頃の話です。
竜弦がずっと暗いです。
◆◆◆
「お前に暇を出したい」
二人の間を挟むテーブルの上に置かれたのは、解雇予告通知書。
それを差し出した彼女の主は、淡々と言った。
「僕は、お前に幸せになってほしい。石田家に残り僕に仕え続ける限り、お前が幸せになることは出来ない。だから、石田家の外で幸せになってほしい」
そして、解雇予告を言い渡された彼女――片桐叶絵は、主の顔を見てはっきりと、こう言い切ったのであった。
「お断りさせていただきます」
「そうか、ありが……待て」
断られたことに気が付いた石田竜弦は、浮かべ掛けた安堵の表情を慌てて引き締めた。
「断ると」
「はい」
「……理由は言っただろう」
「はい。ですがそれは竜弦様の本意ではないとお見受けしております」
「っ……無理矢理にでも辞めさせると言ったら」
「出るところに出させていただきます」
「うっ……」
叶絵の言葉に、竜弦は小さく呻く。その内情を可能な限り外界から隠さなければならないこの石田家において、「出るところに出る」というのは非常に面倒な事態を引き起こしかねない。それは叶絵もよく理解している筈であり、つまり彼女は本当にここの使用人を――より正確に言えば、竜弦の側近としての務めを辞める気がないのだ。
「……本当に、辞める気はないんだな」
「以前も申し上げた筈です。片桐の務めは、生涯を掛けて竜弦様にお仕えすることだと」
「っ……お前だって分かっている筈だろう、そもそもお前が僕付きになったのは……!」
「初めから承知しております!」
声を荒げ掛けた竜弦に、叶絵も声を張り上げた。
「承知の上で、お断りすると申し上げたのです!」
ほとんど怒っているようなその声色に、竜弦は言葉を失った。
一方で叶絵は、これで話は終わりと言わんばかりに立ち上がる。
「そろそろお夕飯の支度にかかる時間です。失礼させていただきます」
叶絵は綺麗に一礼すると、部屋から立ち去った。後には解雇予告通知書と唖然とする竜弦だけが残された。
叶絵が厨房に足を踏み入れると、先に用意を始めていた年長の同僚が声を掛けてきた。
「叶絵ちゃん、さっき竜弦様と何かあったの?」
「はい、少し」
叶絵は調理用のエプロンを身に着けながら答える。
「お暇を出されそうになったので、お断りしました」
「えっ、竜弦様から?!」
「はい」
「理由は何か仰ってたの?」
「……それは、お答えできません」
叶絵が目を伏せたのを見て、勘のいい同僚は重ねてこう尋ねた。
「竜弦様が良くないパターンだったりする?」
「……そうかもしれませんね」
あら、と同僚は目を見張る。叶絵がこうもあっさりと主の非を認めるのは珍しい事だった。一方で叶絵は流しで手を洗いながら、どこか哀し気に呟いた。
「竜弦様は、ご自分の幸せというものを考えておられませんから」
◆◆◆
――混血統とは言え、あなたは滅却師。純血滅却師に劣ろうとも、竜弦の能力を後世に残す義務があるのです。
幼い頃、竜弦の母親にそう言われたことを叶絵は今でも覚えている。
滅却師とはそういうものなのだと幼いながら理解しているゆえに、叶絵は大人しく頷いた。
これから自分が使えることになる主に己の人生を捧げるという未来を、選択の権利すら与えられなかったにも関わらず、彼女は受け入れていた。そのように教育されて育ったのだ、小学校に上がる直前の幼い少女には、他の人生など想像しようもなかった。
そうして叶絵は、それを当然のこととして、彼女よりも年下の主――竜弦の側近となった。
――遠足って、どんな感じなの。
叶絵が小学校の遠足に行っていた日、就寝の準備をしている叶絵に当時小学一年生であった竜弦がそう尋ねた。
義務教育の期間中、叶絵は泊りがけでない校外学習に参加することを許されていた。
それは彼女が混血統であり、「混血統滅却師が外で多少血を流したところで問題ない」と、ある種雑に扱われているが故だったのだが……裏を返せば、純血滅却師である竜弦はあらゆる校外行事への参加を許されなかった。
「見ていないところで何かあっては困る」という、学校側からは過保護と捉えられ、一方石田家側からすれば「唯一の後継者に不慮の事故で傷を付けるわけにはいかない」という滅却師としての切実な理由であった。
遠足がある日は学校を休み、滅却師としての修行。それが竜弦にとっての当たり前であった。
その年、叶絵の学年は町外の動物園へ出かけていた。叶絵は、動物園で見た動物たちの様子や、お昼は芝生の上でレジャーシートを広げてお弁当を食べるのだということを話した。
叶絵の話を聞いた竜弦は、その日の修行で怪我をしたという左腕の包帯を撫でながら、全てを諦めたような笑顔で、こう呟いたのだった。
――行ってみたいな。
叶絵の目から見ても、竜弦は己の望みの何もかもを諦めて生きているような子供だった。
世間一般の子供たちが得ている「普通の幸せ」を、「石田家の後継者である」という理由でほとんど知ることなく育っている子供。「普通の幸せ」に憧れながら、自分は滅却師なのだからそれを与えられなくても仕方ないと自分に言い聞かせるようにしながら辛うじて立っている子供。それなのに、常に自分以外の誰か――それは彼の母であり、従妹の少女であり、時には叶絵であった――を慮り、優先し、常に己の意思を押し殺すことを覚えてしまった子供。
いつしか叶絵は、そんな竜弦に笑ってほしいと、少しでも幸せを感じてほしいと願うようになった。その感情がどのようなものであるかとは考えなかった。ただ竜弦が笑っていれば叶絵は幸福であったし、竜弦が悲しんでいれば叶絵の胸は張り裂けそうになった。それだけのことであった。
成長するにつれ、竜弦の顔に自然な笑顔が浮かぶことは少なくなっていった。朝の起床が遅いので起こしに向かうと、ベッドの上で体を起こしたまま瞳の焦点が定まらず虚空を見つめているようなこともしばしばであった。竜弦の心が限界に近づき始めていることは火を見るよりも明らかだった。それでも叶絵は、少しでもその支えになろうと、竜弦に仕え続けた。
叶絵には義務教育期間を経て学校に「普通」の友達がいたので、自分の置かれている境遇が「異常」であることを思い知る機会などいくらでもあった。
修学旅行には参加できず、高校進学もしなかったが、それでも彼女は竜弦に仕える己の人生は幸福であると感じていた。
黒崎真咲が竜弦の婚約者として石田家に迎え入れられた時も。
真咲の身に起きた例の「事故」後も。
真咲が石田家を出た後も。
竜弦の母・依澄が息を引き取った後も。
叶絵は変わることなく、竜弦に仕え続けた。それだけが、自分が竜弦のために出来ることであると信じていた。
何故自分が竜弦の側に置かれたのか、叶絵が自らの意思で竜弦に生涯を賭けて仕えるのだと決めている以上、そんなことには最早何の意味もなかった。
そして竜弦自身が自分の代で滅却師を終わりにするのだと決めた以上、竜弦にとってもそれは最早何の意味も成さない筈だった。
「片桐……」
解雇予告通知書を差し出し・あるいは差し出されたその日の夕食で、竜弦は食事を用意した叶絵の顔を見て何か言いかけた。
しかし叶絵は、主に対して頑なになることを選んでいた。
「先ほどの件でしたら、申し上げたことが全てです」
竜弦が困ったように眉を顰める。
その表情を見て、この人はまだ自分の意思を主張することに躊躇いがあるのだと、叶絵は胸が痛んだ。
竜弦にとってそれがどれほど苦しく負担が掛かることであるか、叶絵は知っている。それでも、彼の抱える本音を察することが出来る人間としての自覚がある以上、叶絵は引くことが出来なかった。
「……竜弦様が何かを隠していることが分からないほど、お仕えしている期間は短くないつもりです」
叶絵に言えることはそれだけだった。
◆◆◆
それからひと月の時が流れた。
相変わらず叶絵は竜弦の側近として仕えていたし、竜弦は叶絵に何か言おうとしては諦めることを繰り返していた。
叶絵以外の使用人達は、竜弦からいつでも辞めてもらって構わないと言われている中で誰も辞めずに屋敷に残っていた。だって他所の待遇を見ても結局ここが一番いいのだものねえ、竜弦様が当主名代になられてから更に働きやすくなったくらいですもの、と彼女らは言う。
竜弦の父・宗弦は、本来の当主であるにも関わらず、相変わらず屋敷に帰ってくることはほとんどなかった。
そんなある日、大学の年度末の考査を終えたばかりの竜弦が起き抜けに熱を出した。
「39.5℃……」
体温計に表示された数字を叶絵が読み上げると、竜弦は天井を見つめたまま「そうか」とぼんやりした調子で呟いた。
「起き上がれそうですか?」
「なんとか……」
「では朝ご飯を食べて少し落ち着いたら病院へ行きましょう、私が車を出します。何か食べられそうでしょうか?」
「……少しなら」
「それではりんごをすりおろして来ますね」
竜弦の部屋から出た叶絵は、厨房で林檎を半分すりおろして叶絵が手ずから口に運んだが、実際に竜弦が口に入れられたのはその半分にも満たなかった。
叶絵の運転する車で竜弦は近くの診療所に連れて行かれ、インフルエンザの検査を受けたが結果は陰性。風邪ですね、お大事になさってください、と、人の好さそうな中年の医者は目を細めて笑って言った。
竜弦が通っているのは医大であり、すぐ近くに大学病院もある。運悪く質の悪い風邪を貰って来てしまったか、あるいは長年の様々な無理が祟ったか、そのどちらでもなくただただ運が悪かったのか。それを考えることは竜弦が望まないであろうと思ったので、叶絵は考えないことにした。
病院から帰宅した竜弦は、薬を飲んですぐに眠ってしまった。眠りながら魘されている様子もなく、静かなものだった。
叶絵は時折竜弦の氷嚢を変えたりタオルで汗を拭いながら、その傍に付いていた。それ以外の時間は、自分の部屋から持ってきた編み物を進める。竜弦が今よりもう少し子供であった頃、同じように風邪を引いた竜弦の看病を付きっ切りでしていたことがあり、その時に言われたのだ。「ずっとそこにいたら退屈だろうし何か本でも読んでいればいいのに」と。実際は退屈なわけがなく、数分おきに竜弦の様子を伺うことになるので本を読めるわけもないのだが、今回もきっと同じように言うだろうと思ったのだ。編み物であれば少しの時間でも進められる。
病院から帰ってきて二時間ほど経った頃、竜弦が静かに目を覚ました。
「おはようございます」
叶絵が声を掛けると、竜弦はまだどこかぼんやりとした声で、「何時だ?」と尋ねてきた。
「もうすぐお昼の十二時です」
失礼します、と断ってから、叶絵は竜弦の額に触れた。氷嚢で冷やし続けてはいたが、朝とそう変わらずまだ随分熱い。
「食欲はありますか?」
「……あまり、ないな」
「ではお昼は、果物かゼリーをお持ちします」
叶絵がベッドの前から踵を返そうとした時、竜弦がぽつりと呟いた。
「目を覚ましたら誰もいないかと思った」
「……」
「熱で霊圧知覚が馬鹿になっているんだ、きっと。でもお前がいて、安心した」
「……片桐は、どのようなことがあろうと竜弦様のお側にいますよ」
そう言って微笑む。叶絵はマスクをしていたし、ただでさえ視力が弱い上に熱で弱っている竜弦に見えているかは分からなかったが、竜弦は少しだけ安心したように目を細めた。
昼食として用意したのは、栄養補給用のゼリー飲料と少量のコーンスープであった。ゼリーを深めの皿に全て開けて叶絵が朝のようにスプーンを手にすると、竜弦が「自分で食べられる」と呟いた。竜弦にスプーンを渡すと、少し危なっかしい手付きながらもゆっくりとゼリーとスープを完飲したので叶絵は内心胸を撫でおろした。
食後の薬を飲んで、竜弦は目を閉じる。またすぐ眠りに落ちたことを霊圧で感じたが、その眠りが先と違うことに叶絵はすぐ気が付いた。
ひどく苦しそうな霊圧の震え。どこか悪くなったのか、と腰を浮かせたとき、固く瞼を閉じた竜弦の唇から言葉がこぼれた。
「ごめんなさい」
幼い子供のような声色で苦しそうに眉を寄せながら、竜弦はうわ言をこぼす。
「ごめんなさい、おかあさま、ごめんなさい」
その言葉を聞いて、叶絵は必死の思いで竜弦の手を取った。
熱い。だが、触れられる。両手で包み込むようにして、その手を握った。
「……奥様は、もうどこにもおられませんよ」
と、呟く。もう、この人がいくら悔いたところで、どうしようもないことなのだ……そう思った瞬間に瞼が熱くなり、視界が滲んだ。自然、堰を切ったように感情があふれる。
「旦那様が滅却師の修行に打ち込んで帰って来ないことも、奥様がそれを寂しく思っていたことも、真咲様の魂魄に虚の血が混ざったことも、貴方が生まれた時から望まぬ戦いを強いられているのも、そんなの、竜弦様ただ一人でどうにかなるわけがないではありませんか……!」
世界そのもの、そして一族のありとあらゆる理不尽を幼い頃からその身に受けて自分の幸せを全て諦めて、それでもなお自分以外の誰かの幸福を願ってしまう竜弦のあり様が、悲しくて苦しくてたまらなかった。
この人が自分の幸せを諦めたところでどうにかなるようなものではないのに、それでもこの人は自分の心を犠牲にしてまで今もなお苦しみ続けている。過去の影に、あるいは、幼い子供の自分によって。
叶絵を解雇しようとしていたのだって、叶絵を思っての行動だ。叶絵に側にいて欲しいと竜弦自身が願っているのにも関わらず、竜弦自ら自分の望みを諦めようとしていた。それが分かってしまったから、叶絵はそれを突っぱねたのだ。
どうしてこの人は、この人ばかり、いつもいつもいつも!
「……かたぎり?」
名前を呼ばれ、叶絵は涙を拭う間もなく顔を上げる。竜弦はゆっくりと瞬きして、まず叶絵が握っている手を見て、笑むように目を細めた。
「ああ、そうか。お前がいてくれたから」
「……?」
竜弦の言葉の意味がわからず叶絵が黙っていると、竜弦は叶絵が泣いていた事に気が付いたようだった。
「……泣かないでくれ、お前が泣いていると、僕も苦しい」
竜弦の言葉は平時に比べてどこかぼんやりとしていて、まるで夢を見ているようだった。熱に浮かされているのだろうと、叶絵は思う。
自分の声も泣いて掠れていたが、構うことはなかった。
「竜弦様が泣けないから、私が泣いているのだと言ったら、どうなさるおつもりですか」
「苦しいけれど……少し、嬉しい」
予想外の返答に驚いていると、竜弦はふわふわと言葉を紡ぐ。
「こんな僕にもお前は心を寄せてくれていて、手を握ってくれる……それがお前であることが嬉しい」
普段の竜弦であれば言わないようなその言葉に、叶絵は目を見張る。
だが、きっとそれだけ疲れているのだろうと、竜弦の額に汗で張り付いている前髪をそっと退けながらタオルで汗を拭った。
「……もう少し、お休みになってください。まだ、熱は下がっていないのですから」
「ああ、そうする」
水をひと口飲んでから、竜弦は目を閉じた。
その寝顔が今度こそ穏やかなものであることを確認し、叶絵は安堵した。
同時に、ここまでの状態にならないと幾重もの心の防壁を取り払うことも出来ない竜弦のあり方は、やはり悲しかった。
竜弦の熱は翌朝には下がり、結局竜弦が熱に魘されたのはその一度きりであった。
熱が下がったあとも、高熱のせいでひどく頭が痛い、と竜弦はベッドに潜っていた。
叶絵はその間も竜弦に付き添いながら、編み物をしていた。時折戯れのように言葉を交わし、穏やかで緩やかな時間が流れた。
この人の人生がしばらくずっとこうであれば、と叶わぬことを思ってしまううちに竜弦は回復し、二日目の夜には、平時より少ないながらも普段通りの食事を食べられるようになっていた。
◆◆◆
竜弦が風邪を引いて一週間ほどが経過した。
竜弦はすっかり回復して、屋敷はゆっくりと日常に戻っていった。
「少し、出掛けたい」
朝、いつものように食堂での朝食を終えた頃、片付けを進めている叶絵に向けて竜弦がそう言った。
「行ってらっしゃいませ。何時頃にお戻りになられますか?」
「いや、お前とだ」
手にした皿を取り落とさなくて良かった。
「そう、でしたか」
「片付けが終わってからでいい、玄関に来てくれ。……その、私服で」
「……かしこまりました」
食器を全て下げた後の片付けを同僚に任せた叶絵は私室でクローゼットを開けたものの、竜弦の前で叶絵が私服を着る機会はほとんどない。
本当にこれで良いのだろうか、と迷いながらも着替えて玄関に足を運ぶと、竜弦が階段の手すりにもたれるようにして立っていた。
竜弦は叶絵を見ると、穏やかな笑顔を見せた。
あの風邪以来、竜弦は時々こうして笑うようになった。まだ疲れが残っているのかと初めは思ったが、そういうわけでもないようだ。
助手席に叶絵を乗せて、竜弦は車を走らせる。
竜弦が車を止めたのは、町のはずれにある大きな公園の駐車場だった。叶絵が小学一年生の頃に遠足で来たことがある場所だったが、叶絵の記憶の限り竜弦はここに来たことが無いはずだった。ただ……
「修練場がこの近くだろう。小さい頃に、いつか来たいと思っていたんだ。すっかり忘れていた」
「……そうでしたね」
子供が芝生広場を駆け回り、大きな遊具ではしゃいでいる。そんなありふれた光景を何か眩しいものを見るような目で見つめてから、竜弦は掲示されている地図を見る。そして展望台の方へと足を進めた。
真冬、その上平日ということもあってか、園内の人影はまばらである。
展望台を一番上まで登っても、周りには誰もいなかった。
町全体を見下ろせる展望台は、春であれば周りに植わる桜に彩られていたのだろうが、 今は寒々しい風が枝を揺らすのみである。
「……お前と、一対一でちゃんと話をしたいとおもったんだ」
眼下の町を眺めることもなく、柵に背をもたれさせながら竜弦は叶絵を見た。
「片桐、これから言うことが僕の勘違いならすぐに否定してほしい。お前が僕に尽くしてくれるのは仕事だからか、それとも、それ以外の理由があるからなのか?」
その言葉に、叶絵は真っ直ぐ竜弦の目を見て答えた。
「……仕事というだけで尽くせるほど、私の立場は安いものではないと自負しております」
「……」
「他の誰かに譲る気もございません。……片桐叶絵は、たとえその始まりが強制されたものだとしても、自分の意志で、竜弦様ただひとりにこの生涯を捧げると誓ったのです」
本心からの言葉であった。竜弦はその言葉に、「そうか」とどこか哀しげに呟いてから続けた。
「僕の人生には、先がない。近くはないが遠くもない……そういう未来に、恐らく死ぬ。それでも、僕と共にいてくれるのか」
「当然のことです」
「……使用人ではなく、家族として隣にいて欲しいと言っても?」
「……え」
予想だにしなかった言葉に思わず声が漏れる。竜弦はどこか夢を見るような、それこそあの風邪を引いた日のような声色で呟いた。
「僕の短い未来の中にお前がいて欲しい。僕の前からいなくなって欲しくない。……だけど」
くしゃりと、竜弦の顔が歪む。ひどく苦しげに、痛みを堪えているかのように。
「それを望んでしまったら、僕は子供のお前から未来を奪ったお母様と同じになってしまうじゃないか……!」
ああそうか、と、叶絵は得心が行った。この人は心の底から、私という女があの屋敷で決められた役割を全うして生涯を過ごすことを痛ましく思っていたのだ。
だからこそ、誰よりも長く共に過ごしている自分だけはそれを強制させた母親と同じでありたくないと、この人は願ったのだ。
「……同じなどでは、ありません」
叶絵は呟き、ちらりと展望台の眼下の町を見た。
遠足にも行くことも許されなかったあの頃の主に唯一与えられた、広くて狭い世界。
その世界から目を逸らし、また竜弦の目を見る。
「私は、ただ貴方との子を残すためだけの装置でも、貴方が私に見向きもしなくなっても、お側にいられればそれで構わないと思っていました」
外の世界を知り、自分と竜弦を取り巻く環境の異常性を思い知る機会ならば、いくらでもあった。竜弦より多いと言っていいだろう。
それでも叶絵は、竜弦に仕えることを選んだ。
「申し上げた筈です、全て承知の上だと。だから……貴方が私を望んでくださるならば、私にとってそれは望外の喜びなのです」
あの日のように、竜弦の手を取った。手袋をしておらず冷え切った右手を、両手で包み込む。触れている先から少しずつ熱を分かち合い始める手を見ながら、竜弦は呟く。
「死にたくなったことがいくらでもある。でも滅却師である以上、死が救済である確証なんてどこにもない。それにお前が作ってくれた食事が美味しくて、真咲が笑っていて……だから死ぬのをやめた、何回も。そんな面倒な男だぞ、僕は」
「よくよく存じ上げています」
「何度もあの家を出ようと思ったが実行出来なかった臆病者だし、あの家を出たところでまともな生活を送る自信もない」
「貴方は、優しすぎるのです。もう少し私に頼ることを覚えてていただきたいと、常々思っております」
「医大に入れたのも、結局現実から逃避したくて勉強し続けていたからだ」
「きっかけがそうであっても、お医者様は立派なお仕事です。苦しむ人を救いたいという貴方の本質の顕れだと私は思っております」
「……早く楽になりたいと、ずっと薄らぼんやり考えていたのに」
そこまで言ってから、竜弦は大きなため息を吐き出した。
「お前には、あんな家からも僕からも解放されて幸せになって欲しい。だから辞めろと言ったんだ」
言葉とは裏腹に、何かの憑き物が落ちたような、どこか晴れやかな声色だった。
「それで私が幸せになれるとお思いなら、竜弦様は少し頭を冷やされたほうがよろしいです」
「……一度冷やしたつもりだったんだが。お前がそこまで言うのなら、そうなのかもしれないな」
竜弦は左手を叶絵の手に重ね、そして握った。
「改めて、ちゃんと言わせてほしい。……僕の未来になってくれ、片桐」
「貴方がそう望むのであれば」
自然と頬が綻ぶ。ふと、竜弦の頬に微かに朱が差した。寒いのか、それとも別の理由か。
だがすぐに、竜弦は俯いて肩を震わせた。
「ふふ、ああそうか……」
「竜弦様?」
「ずっと忘れていたよ」
竜弦が顔を上げた。
その顔に浮かんでいるのは、泣き出しそうなほどの希望に満ちた、笑顔。
「これが『喜び』なんだ」
《自らが輝く》、ヤエヤマヤシ、それから(石田親子)
※雨竜が二十越えたあたりの話
◆◆◆
『昼十一時に迎えに来る』
まだ何も予定がないのであればこの日は丸一日空けておけ、と父に言われたのが二週間前。そして、具体的に何があるのかも伝えられないままにそう短いメッセージが送られてきたのが、今……つまり、約束の日の前日の夕方六時。
本当にこっちの都合を考えないな、と呆れつつ、何か服装の指定とかは、と返信する。返信が送られてきたのは三十分後であった。
『度を過ぎたカジュアルでなければどうとでも』
さてどこへ連れて行かれるのやら。
竜弦の指定でまず思い出したのが、誕生日だからと少し前に竜弦から贈られた服に含まれていたセットアップであった。高級ブランドのショップに連れて行かれ、着せ替え人形のようにあれこれ着せられては店員と竜弦の間でお似合いですよ否こうではないと言葉が飛び交い、気が付けば全身竜弦の好みにコーディネートされ、目の飛び出るような総額のそれを丸ごと贈られた。それはどういうわけか「雨竜の」誕生日ではなく、「竜弦の」誕生日に発生したイベントなのだが、こういったイベントはその後も何度か発生している。
竜弦は三月生まれなのであの時は春物中心のコーディネートとなったが、今は寒波襲来と連日ニュースで騒がれる真冬である。しかし幸いにもあのセットアップはオールシーズン使えますよと言われた記憶があるし、真冬に別のブランドのショップに連れて行かれたこともある。
とにかくあれを中心にすれば何か言われるようなこともないだろう……と、雨竜はセットアップほか竜弦から事あるごとに贈られている服でコーディネートを組み立て、翌朝十時五十分には綺麗に身支度を終えて自宅アパートで待機していた。
父の金遣いは決して荒いわけではないのだが、根本的に金銭感覚が世間ずれしているというのは家を出て一人暮らしを始めてから実感したことだった。
病院経営だけでなくどこぞに持っている土地やマンションあるいは株なんかの資産運用によって得ている莫大な収入の使い道と言えば、今は竜弦が一人で暮らしている屋敷の維持費用(馬鹿にならない額である)と食費に水道代に光熱費といった基本的な生活費が中心で、それ以外は竜弦が必要最低限の社会生活を営むのに必要な細々とした出費……と聞いている。
どうもその「細々とした出費」の中には息子を着せ替え人形にするあの奇怪な趣味費が含まれているらしく、その一回分の値段だけで雨竜からしたら数か月分の食費を賄えてしまうところを、竜弦は些細な出費だと涼しい顔をしているのだった。もっと他の趣味を見つけろと一度思わず怒鳴ってしまったが、竜弦の顔はやはり涼しいものだった。
あいつ家計簿とか付けてるのかな、と本人に言えば余計なお世話と一蹴されそうな心配を巡らせていると、竜弦の霊圧が近付いて来るのに気が付いた。
竜弦を玄関で出迎えると、まず竜弦は雨竜を頭のてっぺんから爪先まで眺め、そしてどこか満足げに頷いた。
「……よし。行くぞ」
「殴られても文句言えないからな、今の」
踵を返して近くに停めている車の方へ向かう竜弦に呆れながらそう声をかけ、雨竜は後を追いかけた。
本気で息子を着せ替え人形にしたいのかこの男は。
学生向けや単身者向けのアパートが多く立ち並ぶ住宅街にはどこか不釣り合いな高級車は、そのまま駅前を通り過ぎて都心方面へと雨竜を連れて行く。
「で、どこに行く気なんだ?」
晴れ渡った冬空の下のクラシカルな巨大駅舎を窓の向こうに認めながら訪ねると、竜弦は短く「まずは昼食だ」とだけ答えた。
竜弦は駅の近くの立体駐車場に車を入れると、近くの高級ホテルの方へと雨竜を連れて来た。雨竜の誕生日にこうした場所のレストランに連れて行かれたことはあるが、今日のような「何でもない日」に来ることは初めてであった。
「ランチってまさかここ……」
「他に何だと?」
上階へと向かうエレベーターに乗る竜弦の表情は平然としている。この父らしいと言えばこの父らしいが、と雨竜は思わず溜息を一つ。
エレベーターが止まった階にあったのは、ビュッフェ形式のレストランであった。竜弦が受付で名前を告げると席に案内される。東京の街を見下ろせる窓辺の席に通された。
「意外だな。あんたは食べ放題とか好きじゃないのかと思ってたけど」
「今日は私の都合でお前を連れ回すのでな」
「……ふうん」
ランチくらいは好きなものを食べろ、ということらしい。気の使い方がどうにもずれている気はするが、そういうところは今に始まったことではない。
雨竜は遠慮なく(ただし上品に)、好きなものを好きなだけ食べることにした。
これは自分でも作れそう、味付けは、これ後でもう一度食べよう……などと考えながら取ってきた料理を丁寧に食べている雨竜を、竜弦は雨竜に比べて少ない量を食べながら、険の無い──何か掌の上で小さく輝いているものを見るような目で見ていた。
食事を終えると、そのまま徒歩で向かったのは現代的な外観をした高層ビル――その中にある美術館だった。
「今日の目的ってここ?」
「そのうちの一つだ」
さてこの父に芸術を嗜む感性があったのだろうか……と雨竜は若干失礼なことを考えながら、事前に予約していたらしいネットチケットで入館する竜弦の後に続いた。
壁に掛けられているキャプションを見るに、この美術館に収蔵されているのはどうやら近現代の作品が中心らしい。
雨竜はこうした美術館に自発的に足を運ぶことはほとんど無かった。小学校から高校にかけての校外学習の類で連れて来られて目にした絵や彫刻を何となくいいな、と思うことはあれど、私生活においては美術館から縁遠い。
竜弦はどのような絵を好むのだろう、と横目で観察しているうちに分かったのは、どうも人物画や静物画よりも風景画や抽象画を好むらしいということだった。明らかに絵の前にいる時間が長い。
「こういうの好きなんだな」
種々の色鮮やかな図形がキャンバス上に配置されたカンディンスキーの絵をじっと見ている竜弦の隣に立って話しかけてみると、竜弦は雨竜を見た。
「可笑しいか」
「そうは言ってないだろ。意外ではあるけど」
竜弦は絵に視線を戻すと、呟くように言った。
「……こういった絵には、物語も信仰もない」
理由を言ってきたことに驚きつつ、なるほど、そうなると風景画や抽象画なのかもしれない……と、雨竜は納得する。そして、この美術館に展示されている時代以前の絵画は宗教色の強いものが多いという漠然とした知識を思い出す。
「そうか、そういう絵が好きなんだ」
「嫌いではない」
竜弦らしい……雨竜はそう思い、そのまま竜弦の隣りに立って絵を眺めた。
そうやって一時間ほど掛けて、ゆっくりと館内の絵を全て見て巡った。
ミュージアムカフェを見つけたので、次に行く前に少し休憩しよう、と雨竜が提案すると、竜弦はあっさり承諾した。
「次はどこに行くんだ?」
そう尋ねると、竜弦はアールグレイのカップを傾けながら「黙ってついてこい」とだけ答えた。
さっきの素直さはどこに行ったのやら、と雨竜は呆れながらもハーブティーを味わうのだった。
◆◆◆
竜弦の車は雨竜を乗せて、湾岸部へと向かう。
竜弦が車を停めたのは、海からほど近い大きな公園の駐車場であった。
駐車場から少し歩いて、竜弦は大きなドーム型の屋根を持つ建物の前で足を止めた。ドームから透けている緑色を見て雨竜はすぐその建物の正体に気が付く。温室──植物園だ。
入り口で二人分のチケットを買った竜弦は、建物に入る前に一度振り向いた。
「中は暑いぞ」
「来たことあるのか?」
「お前が生まれる前に一度と、お前が一歳にならないくらいの頃に」
その言葉とどこか懐かしむような目に、成程と合点がいった。
「もしかして、あの美術館も?」
「前の建物だった頃に一度。お前は生まれていなかった」
「……そう」
つまり今日巡っているのは、父と母がデートした場所で……その中でも、父がもう一度足を運びたいと思っていた場所、ということだ。
そのことに僅かなむず痒さを覚えるが、同時にこれは竜弦なりに心を開いているのだと分かるので、可愛いところあるな、と一歩先を歩く背中を見て思ってしまった。
建物に足を踏み入れ、ショップやカフェのあるロビーを通って温室の方へと入っていく。
竜弦の言う通り、緑の草木が生い茂るドームの下は外の冷気とは裏腹に南国の如き暑気に満ちていた。なるほどこれは……と、雨竜は早々にコートを脱いだ。
「僕は流石に覚えていないんだけど……アルバムを探せばここに来た時の写真はある?」
「何処かにあるだろうな」
背の高い熱帯植物や色鮮やかな花がそこかしこに咲いている。人工滝の水音も聞こえて来て、どこか日本ではないような雰囲気を醸し出していた。
「南国の植物が好きなんだ?」
「冬でなければ、別の場所も候補に入った」
「……植物が好きなのはなんとなく感じていたけど。そういえば動物はそんなに好きじゃないよな、あんた」
「何を根拠に」
「小さい頃、母さんやお手伝いさんと一緒に動物園に行った記憶はあるんだけど。あんたはいなかったなっていうのも覚えてて」
「……仕事があった」
「ふうん……まあ、いいんだけど」
温室の中をゆっくりと見て回る。ところどころに立っている解説パネルも、竜弦は丁寧に読んでいた。
ふと、ドームの天井まで届くほどのヤシの木を見上げる竜弦に尋ねてみる。
「で、植物だとどういうのが好きなんだ?」
すると竜弦はまた素直に答えてきた。
「……木と、長い葉」
「木と長い葉」
「それと、花。あまり主張しない花がいい」
「大雑把だな……」
「詳しいわけではないのでな」
「……だとしたらここ、あんたの好みと逆じゃないか?」
木と葉はともかく、この温室の中で咲いている花はどちらかといえば大ぶりで派手なほうだ、と思う。
「そうでもない、今は冬だ。……それに、叶絵がここを気に入っていた」
「……冬以外にここに来たことがあるのか?」
「いや、冬にしか来たことがない」
「じゃあ次は、別の季節に来よう」
雨竜の提案に、竜弦はヤシの木から視線を外して雨竜を見た。
「別の季節に来れば、違う花が見られるだろ。まあ、あんたの好みではないかもしれないけど、少なくともこの木は変わらずここにあるんだろうし」
そのような提案を思い付いたことに、雨竜も少し驚いていた。だがすぐに自分が以前竜弦に対して趣味を見つけろと怒鳴った時のことを思い出し、苦笑しながら続けた。
「今日のルート、あんたの好きなもの……というか、趣味候補とかだろ。年に何回か来てもいいんじゃないのか。少しくらいは付き合うさ。趣味を見つけろってあんたに言ったのは僕だからね」
「……随分邪推が上手くなったものだな」
「あんたの息子やってれば嫌でもそうなるよ」
竜弦はしばらく何も言わなかったが、やがて、何か諦めたようなため息を吐き出してヤシの木の前から踵を返した。
そして温室内を眺めながら、どこか独り言のように、しかし隣を歩く雨竜に向けて語り始めた。
「私は長く、世界を知らなかった。学校には通っていたが、通っていただけだ。初めて空座町から出たのは、大学入試の日だった」
「ああ、だから無趣味な上たまに世間知らずなんだ」
「……」
思い切り苦虫を噛み潰したような顔をされた。竜弦にしては珍しく感情がありありと表に出ているが、雨竜は先を促した。
「で?」
「……私よりは、叶絵の方が世界を知っていた。だから彼女は、私がただの人間でいられるようなものを見つけようとしてくれた。結局仕事にばかりかまけてしまい、何も定着しなかったが」
「酷いなあんた……」
「全くだ……お前に言われるまで忘れていたのだから」
今日訪れた場所も、それ以外に行ったのであろうデートの場所も、母が不器用で世間知らずの父のために選んだのだろう。
母さんはそういう人だ……と、雨竜は遠い記憶の中の母の顔を思い出す。家にいる時も仕事ばかりの父をいつも心配していた。
「……良かったな、母さんがあんたを見捨てないでくれて」
「……そうだな」
ほんの少しだけ、竜弦の口角が上がった。
おや、と思ったが、それはほんの一瞬のことで、竜弦はすぐにいつもの仏頂面に戻っていた。
「それじゃあここ以外も手伝おうか、あんたの趣味探し。まずは今日の美術館とここを起点にしてさ。いいじゃないか、あんたの人生はまだ先も長いんだし」
「……服を見立てられるのがそんなに嫌だったか……」
「いい歳した男の趣味が二十過ぎの息子依存なのは如何なものかと思っただけだ」
気恥ずかしいと言うのは、勿論多分にあるが。
「せめて頻度をなんとかしろ……年に一回くらいなら付き合ってやるから」
「……そうか」
その声色は随分と柔らかかった。
温室の出口に近付いた頃、竜弦がふと思い出したように言った。
「……幼い頃のお前をあちこち連れて行こう、何でもさせてみようと最初に提案したのも叶絵だった」
「そうなんだ」
「そうしたらお前にはしっかりと残った」
「……手芸のこと?」
手芸を始めたきっかけは母だ。幼い頃、母と一緒に簡単な編み物をした記憶が微かに残っている。
「ああ」
竜弦は頷いてから、ぽつりと呟いた。
「……お前が私のようにならなくて良かった」
その声はとても小さく、雨竜に聞かせるつもりもなかった言葉が無意識に零れたもののように聞こえた。なので雨竜は、聞こえなかった振りをした。
温室から出ると、あんなに青かった空の大部分がオレンジ色に染まっていた。吹き抜ける冷たい風に、思わず肩を竦ませる。
「で、今日はもう終わり?」
「そのつもりだが」
「夕飯はどうするつもりなんだ?」
「……何が言いたい」
「作ってやるよ、そっちが何も考えてないならだけど」
「……お前に任せる」
「じゃあ鍋にするから、帰りにスーパー寄ってくれ」
竜弦の運転する車は海に背を向けて、空座町へと帰っていく。
雨竜は窓の外を流れていく景色が少しずつ暗く、そして電気の灯が灯り始めるのを眺めながら、今日の竜弦の様子を思い出す。
竜弦が、雨竜が生まれる前……それどころか母と結婚する前、まだ家の管理下にある子供でしかなかった頃の話を自発的にするのは珍しいことだった。黒崎家と親戚関係にあったことは知っているが、それにしたって黒崎一心に教えてもらったくらいで、竜弦本人の口からほとんど何も聞いていない。なので、竜弦が初めて空座町を出たのが大学入試の日、というのは初耳だった。つまり小学校から高校に至るまで、いや、幼稚園まで遡って、遠足も修学旅行も行ったことがなかったのだろう。
そりゃ世間知らずにもなるわけだ、と、無論それ自体は竜弦に責任がないとは言え雨竜は納得してしまった。
竜弦としてもその話をするつもりは無かったのだろうが……息子に対してもう少し心を開く気になれた、というところなのだろうか。あるいは、そういう重苦しい過去を出汁にしてまで惚気話をしたかったか。案外後者かもしれない。
「なあ竜弦」
「なんだ」
「結構頑張ってたんだな、あんた」
「……どうだかな」
そう呟いた竜弦の顔がどこか晴れやかだったので、雨竜は思わず父さん、と呼び掛けそうになった。だが慌てて口をつぐむ。
こんないい日に事故でも起こされては堪らない、と思ったのだ。
11/6
最初に抱きかかえた時、両腕にかかる確かな重みと温度に一瞬思考が止まった。
新生児の平均体重は知識として知っていても、腕の中で眠るその赤子は思っていたより重く、同時に思っていたより軽かった。
自分のたった二本の腕にこの子の命が乗っていて、そしてそれは自分がこの子を抱きかかえられなくなったとしても続いていくのだ──そう実感した途端に、蓋をしていたものが溢れ出るように目頭が熱を帯び、思わず腕の中の赤子に顔を寄せる。
大切なものを守れないでばかりいる惨めな人生。それでも今度こそ、妻と我が子だけは。
──どうかこの子に、喜び溢れる生を。
願いを込め、そっと名前を呼んだ。
「……雨竜」
今年の11/6当日につぶやきページの方に投げたものです。
とある深夜のキッチンにて
FRIENDが転生して雨竜に引き取られてるパロです。
この話と同じ設定なので、よろしければそちらを先にお読みください。
◆◆◆
深夜十一時、眠れない夜。
保護者と言うべきか、養父と言うべきか。とにかく『今』の自分を引き取って養育している人間の方針で、普段は夜の九時にはベッドに入る。
『前』の自分であれば二十四時間動き続けることも出来たであろうが、『今』の自分は肉体も精神も九歳の子供であり、そしてそんな自分を受け入れなければとうに精神は崩壊しているので、とにかく彼は自身のそんな状態を受け入れて生活していた。
しかしそれでも、生まれついて持っている『前』の記憶が『今』に与える影響は大きく、『前』の記憶に苛まれて今日のような眠ろうとしても眠れない夜というものが度々訪れる。
明日も学校がある。学校は隣町にあって、スクールバス乗り場までは歩いて十分、バスに乗ったら片道三十分かかる。朝六時半には起きて支度を始めなければ、バスの時間に間に合わない。早く寝なきゃ、と焦れば焦るほど眠気からは遠ざかり、『前』の思い出したくないことばかり思い出される。
そうして、吐き気を堪え、ぎゅっと目を瞑り、体にきつく毛布を巻き付けてベッドの上で丸くなっているうちに、ふと、ユーゴーは思った。
(喉、乾いたな……)
こっそり起きだして向かった先のキッチンには、先客がいた。
「……?」
「あ……」
背の高い男が、カウンターにもたれながら大きな氷の入ったグラスを傾けていた。バズにはじいさんと呼ばれ、自分を引き取った男からは竜弦と呼ばれている、この屋敷の主。
存在だけなら『前』の記憶にも知識としてあるが、直接会ったのはこの家に引き取られてからが初めてだ。向こうから話しかけて来ることがあまりないので言葉を交わした回数も少ない。今日の夕飯はこの男とバズを含めて三人の食卓だったが、食前と食後の言葉以外は一言も発しなかった。だが悪い人ではない、ということは漠然と感じる。
「何をしている、こんな時間に」
夜更かしを咎める言葉ではあるが、叱るでも形式上聞いているでもなく、しかしそこにどのような感情があるのかは読み取りづらい声であった。
ユーゴーはキッチンの入り口に立ったまま、おずおずと答える。
「眠れなくて……それで、喉が乾いて」
「……そこに座って待っていなさい」
カウンター前にいくつか置いてある丸椅子を示しながら、竜弦はカウンターにグラスを置くと、コンロの前に立ちケトルで湯を沸かし始めた。ユーゴーは言われた通りに丸椅子に腰を下ろす。
竜弦は湯が沸くのを待つ間に冷蔵庫を開けて、麦茶が作ってあるボトルを取り出した。そして小さなコップにその中身を注ぎユーゴーの前に置いた。
「喉が渇いているのだろう、先にこちらを飲んでおきなさい。今、温かい飲み物を用意している」
コップの半分ほど、冷たい麦茶が入っていた。
ユーゴーはそれを一息に飲んだ。冷たい液体が喉を通り、喉の渇きが少しマシになる。
竜弦が温かい飲み物を用意している間、手持無沙汰なのでカウンターの上に置かれたグラスを眺める。よく見ると底の方に琥珀色の液体が沈んでいた。
(なんでこの人もこんな時間にお酒を飲んでいたんだろう)
酒というものがどのようなものか、『前』の記憶で知ってはいる。しかし『前』の自分はあまり酒を飲まなかったので、竜弦の心理はよく分からなかった。
やがて竜弦は、マグカップをユーゴーの前に置いた。
「カモミールティーを入れた。熱いので気を付けるように」
「ありがとう、ございます」
マグカップは、いつもユーゴーが使っているものだった。マグカップを両手で包み込むように持つと、手のひらからじんわりと体の芯に熱が伝わる。
ユーゴーがカモミールティーを一口飲んだのを見届けてから、カウンターを挟んで向かいに立つ竜弦が口を開いた。
「眠れないのは、いつから?」
医者のような聞き方だな、と思うが、そもそもこの家の元の住人は父子揃って医者なのだった、と思い直す。
「時々……今日は、ちょっと長くて」
「雨竜には話しているのか」
「いいえ……いつもは、じっとしていれば、終わるので」
「……それは『前』に起因することか、それとも『今』か?」
「『前』です。『今』は、拍子抜けするくらい何もされませんから」
「…………」
竜弦が黙り込んだ。何かまずいことを言っただろうか、とユーゴーは温かいお茶を飲みながら思う。カモミールの控えめな甘い香りが鼻をくすぐる。お茶自体も少しだけ甘く、砂糖が入っているようだ。
しばらく竜弦は何も言わなかったが、やがて口を開いた。
「幸福な記憶を、たくさん作りなさい。私に言えるのは、それくらいだ」
ぽつりと、どこか噛み締めるような言葉。この人も同じように眠れなくて苦しんだことがあるのだろうか、とユーゴーは首を傾げた。
「……あなたは今、幸せなんですか?」
「恐らく、人並みには」
「それであなたは、大丈夫になったんですか?」
不躾な質問をしているという自覚はあったが、それを聞いてもこの人はきちんと答えてくれるだろうという不思議な確信があった。
「時々、大丈夫ではないな」
「幸せなのに、ですか」
「ああ。一度でも壊されてしまえば、幸福が零れていくものだから苦労する」
そう言って、竜弦は自分のグラスを手に取ると中身を一気に呷った。
「……壊されたことが、あるんですね」
「君には、関係のないことだが……何度か壊されても人並みに幸せな生活を送れる可能性はある、という見本にはなるかもしれない。過去の不幸よりは、現在や未来の幸福を重視していた方が建設的で健康で、健全だ。そう自分に言い聞かせなければ立つこともままならなかったが……まあ、『大丈夫ではない』夜をやり過ごせば翌朝には何とか自力で立てるようになった」
竜弦はそう言うと、ちらりとキッチンの入り口に視線をやった。だがすぐに視線を戻し、ユーゴーを見る。
「あいつが君達を引き取ったのは、君達には私のような無理をせずとも『大丈夫』であって欲しいとあいつが望んでいるからだ。あいつは、君達の幸福を望んでいる」
「……僕が幸福な記憶をたくさん作ることは、あの人の望みだからってことですか。あなた、あの人のこと以外はだいたいどうでもいいって思っているでしょう」
それは『前』の記憶での情報から得た印象だった。しかしそれを言われた竜弦は「さて」と小さく肩をすくめた。
「あいつの存在にすがらねば生きていけなかった、とも言えるが。君はまだ昔の私よりよほど選択の自由がある。少なくともあいつは小児科医で、子供の心身のケアについては私などより専門的に学んでいる上に君達の事情については誰よりも詳しい。まずあいつの望む通りに、素直に不眠症状の相談でもすることだ。それが出来なければ自分の幸福の追求も不眠の改善もままならないと思うが」
思いの外真っ向から正論を叩き返され、ユーゴーは口をつぐんだ。しかし嫌な感じはせず、むしろ『今』の自分が子供だからと言って手加減をしない竜弦の姿はほんの少し好ましく映った。
「あれの強さと正しさが堪えるというのであれば分からんでもないが……さて、いつまでそこで聞いているつもりだ」
竜弦がキッチンの入り口に顔を向け、ユーゴーも同じ方を見た。
「いちいち意地が悪いな……」
溜息を吐きながら姿を見せたのは、石田雨竜その人であった。今さっき仕事から帰ってきたらしく、表情に疲れが見える。しかしユーゴーの姿を認めるとその表情がふっと柔らかくなった。
「ただいま」
「……お帰りなさい」
思わず視線を下げる。ユーゴーはこの男が苦手だった。
嫌いというわけではない。ただ、この男と向き合うと、『前』の自分がこの男に対して抱いていた感情が呼び起こされて胸がざわつく。それは「劣等心」と呼ばれるものだと、『前』の知識で理解している。それゆえ目を合わせることも出来ない。そして同時に、それを許されているという事実が『今』の自分の胸を苛み、余計に向き合うのが苦しくなるのだった。
思わずぎゅうと手の内のマグカップを握る。だが、マグカップに残る熱にふと心が和らいだような気がして、おずおずと顔を上げる。
雨竜はグラスに水道水を注いで飲んでいた。「手術は」「なんとか」と竜弦と短いやり取りの後、雨竜はユーゴーを見た。
「明日は、学校休んでみるかい?ちょうど僕も明日は休みだし、風邪をひいたということにして」
「え……」
「こんな時間まで眠れないなら、明日無理やり学校に行っても辛いだろう。違う世界に行ったような気がして意外と気分転換になるものだよ、平日に学校を休むのは」
「え……ええ……」
思いがけないずる休みの提案におろおろと竜弦を見る。竜弦は「なぜ私を見る」と素っ気ない。
「でもバズは、学校行くんですよね」
「そうだね……君が風邪をひいたのだから、一緒に住んでいる彼も念のため休ませるということは出来なくもないかな。先生も医者の判断にそう口を出せないだろうし。それは明日彼の意思をちゃんと聞いてからだね」
「……学校休んで、何するんですか……?」
「風邪をひいているってことにするから、家の中で出来ることなら何でも。ああでも、学校に嘘を言うが常習化してはいけないから、今回は特別だよ」
「休むなんて一言も言ってないですけど……?」
この石田雨竜という男が『前』の記憶の中の姿の印象と比べれば随分マイペースな人間であることを、引き取られるまでの三か月、そして引き取られてからの約一か月でユーゴーは十分に思い知っていた。
こちらが素の姿なのか、それとも時の流れの中で変化したものなのかは分からないが、この時々強引なまでのマイペースさの中にあの頑なな意思の片鱗が伺えるのも事実であった。
そして、そのペースに乗せられるのはどうにも癪だという思いが、ユーゴーにはあった。それが『前』に由来するものなのか、『今』芽生えているものなのかは、ユーゴー自身にも分からなかった。
「その……僕のために言ってくれるのは、分かるんですけど。今の学校、楽しくなってきたので……風邪引いてないのに、休みたくないです」
目を合わせることはまだ出来なかったが、それでも手の内でマグカップを握りながらはっきりと言う。
雨竜は「そう」と微笑みながら頷いた。
「それじゃあ、他のことは、明日君が学校から帰ってきてから話そうか。もう眠れそうかい?」
その言葉を聞いた途端にふっと肩の力が抜け、そして眠気がベールのようにふわりと意識を覆い始めた。
「はい……多分……」
「それじゃあ、お休み。カップは僕が片付けておくから」
「……お休みなさい」
椅子から降りる。カウンター越しに竜弦を見て小さく一礼すると、竜弦はこれまた小さく頷きを返してきた。この人とは、近い内にもう少し話をしてみたいと思った。
雨竜はと言えば、慈しみの籠もった目でキッチンから出て行くユーゴーを見ていた。
こういう人だから『今』の自分も『前』の自分もこの人のことが苦手なのだろうとユーゴーは改めて思う。
だが彼と向き合っている間は、少しだけ、いつも以上に自分の輪郭がはっきりする気がし始めていた。『前』の自分とはあまりにも遠いのに、図々しくも寄り添おうとしてくれている変な人。
キッチンを出て改めて歯を磨いてから、またベッドに向かう。ふと、ベッドの隅に置かれている大きなぬいぐるみが目に入った。
この家の住人として部屋に通された時には既に置いてあった、ユーゴーの両手でようやく抱えられるくらいの大きさをしたピンクのライオンのぬいぐるみ。
テレビや動物園で見たライオンより弱そうな顔だが、ふわふわとした触り心地は悪くないと思う。
そういえば今日はこの子に触ってなかったな、とユーゴーはぬいぐるみを手繰り寄せながらベッドに潜り込んだ。
ぬいぐるみをぎゅうと抱きしめて、目を閉じる。何か温かなものに包まれているかのような心地になりながら、何も考えず眠気に身を任せた。
おまけ1
「……振られたな」
「結構本気の提案だったんだけど。明日寝坊したらその時は車で送って行くさ」
「どうなることかと思ったが……保護者の顔になったな」
「それはどうも。まだ課題は山のようにあるんだけど……霊圧が無い子の面倒を見るのは難しいな。あの子が抱えてる問題に気付くのに時間が掛かってしまった。あの子達のことも『彼ら』のことも、僕はまだ何も知らない。知っていかないといけないんだろうね」
「少なくともあの子は、『前』で同じ程度の年の頃に何かしらの虐待を受けている可能性が高い。難しいぞ」
「難しくても、向き合うと決めたのは僕だ」
「……そうか」
「あんたももう少しあの子達と話してあげろよ。やれば出来るんじゃないか」
「…………」
「小さい子の相手は一勇くんで少しは慣れたと思っていたんだけど」
「いったい何を見ていたんだお前は……」
おまけ2
「やあ、急に悪いね黒崎」
「別にいいけどよ……何の用だ?」
「コン君の体を借りたくて……」
「なんて?」
「(採寸メジャーを取り出す)」
「ああ良かったそういう……おーいコン!」
「おとーさん!コンちゃんいしだくんみてまどからにげちゃった!」
「はぁ?!今すぐ追え!!」
「いつ来ても騒がしいね君の家は」
「今回のはおめーが発端なんだよッ!!」
このパロでユーゴーが竜弦にちょっと(あくまでちょっと)懐いてる理由の話でした。この設定でせめて雨竜視点・竜弦視点までは書きたくなってきたのでそのうち書くと思います。
とある朝に(FRIEND記憶持ち転生石田家養子化現パロ)
FRIENDが記憶持ちで転生してて雨竜に引き取られてる話です。
◆◆◆
それは、オレがこの家に引き取られた最初の年のクリスマスの朝のこと。
赤い包に金色のリボンが巻かれたその袋は、朝の七時過ぎに目を覚ました俺の枕元に置かれていた。
箱を持って、オイなんだよコレってキッチンにいるそいつに聞いたら、そいつは鍋をかき混ぜながら平然とこう言いやがった。
「さあ、サンタクロースでも来たんじゃないかい?」
余裕綽々の返答が少し気に食わなかったのでその場で包みを開けてやると、中にはオレが欲しかったバスケチームのレプリカユニフォームとバスケットボールが入っていた。
思いがけない中身に思わず声をあげると、そいつは火を止めて俺を見た。
生まれた時から持っていた記憶の中にある、遠くから見た時よりほんの少しだけ老けたそいつは、その時よりよほど穏やかな顔をしてこう言った。
「喜んでいたって伝えておくよ。ユーグラム君を起こしてきてくれるかい?朝食がもうすぐ出来るから」
「お、おう……」
そいつに何か言おうという気がすっかり失せてしまい、オレは開けたばかりの包みを抱えたまま、オレと一緒に引き取られたヤツ……ユーゴーの部屋へ向かった。
「はよー。入るぜー」
ガンガンとノックしてから部屋のドアを開けると、ユーゴーはもう起きていた。
細っこいユーゴーにはデカすぎるように見えるベッドの真ん中に座り込んで何か四角い物を手にしている。
「……おはよ、バズ」
「おっさんが言ってたぜ、サンタが来たってよ」
「サンタって……」
ユーゴーは呆れたような目でオレを見た。
「どうせ僕らが寝てる間に置いて行ったんだろ」
「そう言わずにさあ、サンタってことにしといてやれよ。あのおっさんセンスあるぜ」
「……確かに、そうかも」
よく見るとユーゴーの周りには緑色の包み紙が畳んでおいてある。
「ユーゴーは何貰ったんだよ?」
「チェスセットみたい」
手にしていたものをユーゴーが見せてくれた。木の箱の留め具をユーゴーが開けると、同じ木で出来たチェスの駒が中に納められている。
「へえ、カッコいいじゃん」
「……うん」
そう頷いたユーゴーの目はいつもより少しだけ輝いているように見えて、オレはほとんど衝動的にユーゴーの手首を掴んだ。
「ほら、朝メシ行くぞ!」
「え、あっ」
ユーゴーは少し驚いたようだったが大人しく付いてきた。二人分のプレゼントはベッドの上に投げ出したまま、このだだっ広い家の食堂に向かう。
「おら、ユーゴー連れて来たぜー」
食堂に足を踏み入れると、四人しか住んでいない家には大きすぎるテーブルの上に朝メシが並びはじめていた。
「おはよう」
「……おはよう、ございます」
テーブルに料理の乗った皿を並べながら挨拶してきたおっさんに、ユーゴーは少しだけ目を逸らしながら朝の挨拶を返した。
ユーゴーはこのおっさん──オレ達を引き取って育てているこの男が苦手だ。嫌いとかじゃないって言ってるけど、引き取られてそろそろ半年になるのにまだ目を見て話すのが少し怖いようだ。
「顔は洗って来たかい?」
「僕はもう……」
「あ、オレまだ」
「早く洗っておいで。……ユーグラム君、少し手伝ってくれるかな?」
「は、はい」
ユーゴーをおっさんと二人きりにするのは少し心配だったが、ユーゴーが素直に手伝いに応じたので大丈夫だろう。オレは急いで顔を洗いに行く。
顔を洗い終えて食堂に戻る途中で、あいつとユーゴーの話し声が聞こえてきた。
「サンタクロースは来たかい?」
「はい、あの……ありがとう、ございました。嬉しかったです」
「……そう、サンタに伝えておくよ」
返答はオレの時と変わらず余裕綽々なのに、「喜ばれて嬉しい」という気持ちが少しずつ声に滲み始めている。
今のオレが生まれる前の俺の父上と母上も、俺に贈り物をした時こんな感じだったな……と、ふと思い出す。
ほんと。血が繋がってないどころか、前のユーゴーとは殺し合いまでしたっていうのに、わざわざオレ達を引き取って我が子のように育てているのだから、変なヤツだ。
こんなこと言ったらまた「記憶があるとしても今の君たちはまだ子供だろう」と平然と言われるだけだろうから、ちょっとムカつく。
食堂に足を踏み入れると、おっさんとユーゴーはもうテーブルについていた。
オレも定位置に座りながら、この家の住人が一人足りないことに気づく。
「あれ、じいさんは?」
じいさんというのは、このおっさんの父親である。実際じいさんって程老けてるわけでもない……ていうか、おっさんよりちょっとだけ年上って言えば全然通りそうな見た目をしているが、他に呼び方も思いつかない。
「夜勤明けで寝てるよ。それとあいつのことじいさんって呼ぶのやめてやってくれないか、まだそんな歳でもないんだから」
「俺らの養父のアンタの父上なんだからどの道じいさんだろ」
「ほんっと口が回るな君は……」
テーブルの上の料理はいつもの朝メシより少しだけ豪華で、毎朝食べるようなパンやフルーツヨーグルトの他に星の形に切られた野菜やツリーの形のマカロニが浮かんでいるトマトスープ、綺麗なオレンジ色をしたサーモン、昨日の夜も食べたローストビーフが乗ったサラダまである。
オレやユーゴーの育った施設でもクリスマスの日の朝ごはんはいつもより少しだけ豪華だったが、施設のヒト達には悪いけどおっさんの作るメシの方が美味い。
三人で手を合わせて、いただきますを言う。クリスマスであろうと、それはいつもと変わらない。
ユーゴーもおっさんもじいさんも口数が多いほうではないので、食事の時間は施設にいた頃と比べたらとても静かだ。でも余所余所しさみたいなものは感じないから、多分オレはこの家での食卓が好きだし、ユーゴーも来たばかりの頃と比べれば表情も柔らかくなってきていると思う。
オレやユーゴーがヨーグルトに手を付け始めた頃、おっさんが口を開いた。
「僕は今日は午後から仕事に行く。夜まで竜弦と君たちしかいないよ。夕食は冷蔵庫に作っておくから」
竜弦というのは、じいさんの名前だ。なんでか知らないけど、おっさんは普段は実の父親であるはずのじいさんを名前で呼んでいる。
「りょーかい」
ユーゴーもこくりと頷く。どういうわけか、ユーゴーはおっさんよりじいさんの方に懐いている。オレもじいさんのことはそんなに嫌いじゃない。オレらみたいなガキの相手がそんなに得意じゃないのが見え見えだけど、適度に放っておいてくれるし、まあヤなヤツじゃないからな。
「外に出るなら気を付けるんだよ、最近インフルエンザも流行っているようだから」
「はーい」
「あ、あの……」
ユーゴーが珍しく朝メシ中に口を開いた。
「なんだい?」
「朝ごはん終わったら勝負、してください。あのチェスで。出来るところまででいいので」
ユーゴーの申し出に、珍しいな、と驚く。ユーゴーからこうやっておっさんに何か頼んだり挑んだりとか、そういうところは滅多に見ない。おっさんも驚いたように目を見開いた。
「ああ、構わないけど……ルールは大丈夫かい?」
「『前』の時の記憶があるので」
ユーゴーの言葉に一瞬だけおっさんの表情に陰りが見えたが、すぐに柔らかく笑ってその陰りは隠れてしまった。
「……それじゃあ僕と君たちで一局ずつ勝負しようか。君たちが僕に勝てたら、大晦日のディナーに希望のおかずを一品追加しよう。バズ君、チェスのルールは?」
急にオレに話が振られたが、舐められたくない一心で返す。
「オレだってチェスくらい分かるし」
施設にいた頃に将棋とかオセロだとかと一緒に少しやったことがあるが、コマの動かし方くらいは覚えている。
「それじゃあ僕は片付けてくるから、君たちは着替えたらチェスセットを持ってリビングにおいで」
おっさんは立ち上がると、少しだけいたずらっぽく笑ってユーゴーを見た。
「僕はこの手のゲームには自信があるから、挑んで来るならそのつもりで来い」
「……大丈夫です、そのつもりなので」
ユーゴーは真っすぐにおっさんの目を見詰め返した。今日のユーゴーはちょっといつもと違う。だがそんなユーゴーを見たおっさんは、嬉しそうな笑顔を浮かべただけだった。
朝メシを終えて、洗面所で並んで歯を磨いてから二人で二階の部屋に戻る。
「なあユーゴー、どうしたんだよ。急におっさんに勝負挑むなんて」
「プレゼントは嬉しいけど、全部あの人の思い通りにするのも、ちょっとむかつくから」
「なんだそりゃ」
「分からないならいいよ」
むかつくと言っている割に、ユーゴーの表情は明るく見えた。
「バズが貰ったのはバスケットボールなんだよね」
「おう、ブレイブファイアーズのやつ。今度1on1やろーぜ」
「うん、いいよ」
ユーゴーの部屋に置きっぱなしにしていたオレの分のプレゼントを回収して部屋に持って行く。パジャマから着替える時、ボールと一緒に貰ったユニフォームを着るかどうかちょっと迷った。なんかはしゃいでるみたいで恥ずかしいような気はしたが、オレやユーゴーがプレゼントを喜んでいることに喜んでいるあのおっさんの表情がそう嫌なものでもなかったので、セーターの上に重ね着することにした。
リビングに降りると、おっさんもユーゴーもまだ来ていなかった。
リビングに飾られたクリスマスツリーは、オレとユーゴーが飾り付けたものだ。クリスマスツリーを飾るのは二十年ぶりだっておっさんが言っていた。
アンタの家クリスマスやってたんだ、意外、とツリーを飾り付けながら言ったら、ちゃんとやるようになったのは僕が生まれてかららしいよ、と何てことはない風に返された。
暖炉の上にはクリスマス期間限定で、変な顔をしたサンタとトナカイのスノードームと、赤い花(ポインセチアというらしい)の刺繍が入った写真立てが置かれている。スノードームはおっさんが昔友達に貰ったもので、刺繍はおっさんがガキの頃から家にあったものらしい。
すぐにユーゴーがチェスセットを抱えて降りてきた。オレの着ているユニフォームをちらりと見て、ぼそりと呟く。
「バズってそういうところ単純だよね……」
「なんかわりーかよ!?」
「別に……」
ユーゴーはテーブルの上にゆっくりとチェスセットを広げていく。盤上に綺麗に駒を並べ終わった頃、おっさんがリビングに入ってきた。
「ああ、準備してくれていたんだね」
チェス盤を置いたテーブルを挟んで、ユーゴーとオレが座っているソファの反対側に小さい椅子を置いておっさんは腰を下ろした。長い脚を組んで、どこか余裕のある笑みを浮かべながらわざわざこのために持ってきたのであろうコインをオレたちに見せた。
「それじゃあ始めようか。先攻後攻はコイントスでいいかな」
「いいですよ」
でもこのおっさん、オレらが負けてもどうせ食べたい物聞いてくるんだよな……と、コインを弾くおっさんを見てちらりと思ったが、ユーゴーの目が真剣だったので黙っていることにした。
ユーゴーにとって大事なのはこの勝負そのものだってのは、分かり切ったことだから。
それに、おっさんも楽しそうだし……こういう時間は居心地が良くて、オレも嫌いじゃないのだ。
◆◆◆
設定
バズ
十歳前後。施設育ちで親は不明。風邪を拗らせて病院にかかった際雨竜に見つかってユーゴー共々引き取られた。前世の記憶はあるがそれが自分と完全なイコールとはあまり思っておらず、雨竜のことも最初は警戒していたが今は認めている(変な奴だとは思っている)。滅却師としての能力は持っていない。
ユーゴー
十歳前後。バズと同じ施設育ち。前世の記憶を自分と同一視している節があり、時折フラッシュバックを引き起こす。今度こそバズとちゃんと友達でいたい。雨竜のことは嫌いではないがちゃんと話すと前世のコンプレックスが刺激されるのでちょっと苦手。仲良くなりたいという意識はある。バズ同様滅却師としての能力は持っていない。
雨竜
アラサーの小児科医。バズとユーゴーを引き取る前はマンションで一人暮らしをしていたが、引き払って実家に戻った。バズ・ユーゴー共に前の存在とイコールとは全く思っておらず、一貫して「偶然彼らの記憶を持っているだけの普通の子供」として扱う。バズにおっさん呼ばわりされていることは特に気にしていない。
竜弦
アラフィフの院長。急に息子が実家に戻ってきたと思ったら前世が星十字騎士団の子供を二人も引き取ると言い出したので当然困惑したがまあ雨竜帰ってくるし……子供に罪はないし……と受け入れている。子供に怖がられがちという自覚があるので少し距離は置いているが二人のことは気にかけている。バズにじいさん呼ばわりされていることはちょっと気にしている。
◆◆◆
アニメのFRIEND回で強めに脳を焼かれたので書きました。私にできるのはもうはぴはぴ転生現パロを書くことしかねえ。
なんでユーゴーが竜弦にちょっと懐いてるのかとか一応考えてはいるので、気が向いたらまたこの設定で書くかもしれないし書かないかもしれないです。
■■■0.5mg錠 30日分(一心と竜弦)
「なあ、本当に薬効いてんのか?」
ひと月に一度、誰にも知らせることなく通っているその町医者の言葉に、竜弦は眉をひそめた。
「ごちゃごちゃ言っている暇があるならさっさと処方箋を出せ」
「はー……」
黒崎一心はこれ見よがしに深々とため息を吐きながら、慣れた手つきでカルテにペンを走らせる。
「一応心配してんだぞ。月イチでお前の様子見れるから診察してっけどよ」
「知ったことか。私は貴様に処方箋以外何も求めていない」
一心のお節介も厚意も全てが鬱陶しかった。決してそれらを押し付けられている訳では無い、ただこちらの話を真面目に聞こうとしているその姿勢だけで竜弦にとっては余計なお世話であった。
放っておいて欲しい……そう思いながらも毎月のようにこの男の病院に通って睡眠導入薬を処方されている。薬の作用で無理矢理意識を落とさなければ、眠ることすらままならない。
本当に薬が効いているのか単なる思い込みなのか、もうそれすら分からない。
「まあ、今月も来たってことは先月と特に変わらずってことだろうから今月も出すけどよ……本当に、まだ今の薬は効いてるんだな?飲んでないと眠れないんだな?」
「……ああ」
「依存してないってはっきり言えるか?」
「そのような様になるくらいなら睡眠を捨てる」
「例の術は?無理矢理寝れるやつ」
「効果があれば貴様のところになど通わん」
「おーそうですか……」
強いってのは難儀だねえ、と呟きながら、一心はペンライトを手に取った。
「瞳孔一応見せろ、心音も」
「…………」
「んな顔するな!病院嫌いのガキか!」
ここで変に抵抗しても意味がないので、言われるがまま瞳孔を見られ、聴診器を当てられる。
「雨竜君は元気か?一護と同い年ならもうすぐ四年生だろ」
「……ろくに会話していないが、霊圧を見る限り元気なのだろうな」
眼鏡の位置を直してシャツのボタンを留めながら答えると、一心が渋い顔をしたのが視線を上げなくても分かった。
「ちゃんと話せよ、互いのためにも」
「貴様には関係ない」
「全く関係ないってこたぁねーだろ……一応お前は義理の従兄弟だしい?」
「反吐が出る」
スーツを整えてそう言い捨てながら立ち上がり、診察室のドアに手を掛ける。
「おいこら!勝手に出てくな!」
一心が何か言っているが、これ以上は時間の無駄と判断した竜弦は診察室を出た。そしてさっさと待合室の受付に向かい、財布から現金を出す。
日頃受付を担当している事務はいない。この毎月の診察は休診日を利用しており、会計も全て一心手ずから行っている。
要らぬ負担を掛けている、という自覚はある。休診日と言えど事務が出勤する可能性はある中でもこの日だけは竜弦が一心以外と顔を合わせないようにと一心が配慮している……それも無論、理解している。
それらを何でもない顔でしてのけるこの男の決して押し付けがましくない善性は、竜弦の心をざわざわと刺激した。
一秒でも長く同じ空間にいるだけで、己がとうに無くしたものをこの男が持っている事実を見せつけられて吐き気すら覚える。
ドタドタと受付まで出てきた一心は慣れた手つきで会計を行っている。
「ほれ、次はいつ来る?」
「これまでと同様で」
「第三木曜日ってことは……20日な、ほれ」
処方箋と同時に、『クロサキ医院』と書かれた診察券をカウンター越しに返された。
自分はこの男の善意を利用しているのだ、と月に一度しかカードケースから取り出されない診察券を見て思う。
本来であれば心療内科に通うべき所を、事情が事情なだけにそれも出来ぬからと半ば脅すような形で睡眠導入薬を処方させた。それから半年以上この「病院通い」は続いている。
そうしなければ、自分は眠ることすらままならない。
「毎回言ってるが、薬の量減らせそうならいつでも言えよ」
入口の扉に手をかけたところで、一心が竜弦の背中にそう声を掛けた。
自分とは何もかもが違う男。その言動の全てが竜弦の心を逆撫で、同時に奥底に触れてくる。
──何故貴様ばかりがそうして余裕を持って笑っていられる。
──何故そんな男の言葉で、僕は弱くなってしまう。
「出来るものなら、そうしている」
これ以上触れるな。
言外にそう込めて一心を睨む。リアクションの確認もせず、竜弦はそのまま扉を押して外へと足を踏み出した。
リアライゼーション(パパウリ)
間接照明の光だけが当たるベッドの上に投げ出された細い体躯。パジャマの裾から覗く手首足首は相変わらず、加減を間違えれば折れてしまいそうに見えた。
「……お前、本当に三食食べているのか」
自然と浮かんだその疑問に、雨竜は不機嫌そうに眉をひそめ、寝返りを打ってこちらに背を向けながらこう返してきた。
「食べてるよ。時々食事をさぼってるあんたに言われたくない」
適正な食事量、必要摂取カロリー、栄養バランスといった言葉が喉から出掛かった。
しかし自身が雨竜の見ていない場面で食事を抜かしがち、かつ雨竜に向けようとしている小言のすべてを雨竜が打ち返して来るのは自明の理なので、代わりに竜弦は一つ溜息を吐き出した。
ベッドに腰を下ろし、こちらに背を向けたままの雨竜の肩に触れる。
薄い━━そんな感想がどうしても浮かぶ体格。雨竜が幼稚園や学校で受ける健康診断で、体重測定結果が低体重の域を出たのを見たことがない。
「……丈夫なだけましか」
大怪我は幾度となくしながらも大病はせずにここまで育ったのだから、と己に言い聞かせるように呟くと、雨竜は少しだけ気まずそうに身動ぎした。
「なんなんだ……」
「お前が気にする必要のない話だ……と言いたいところだが」
肩に掛ける手に軽く力を込めて引く。するとほとんど抵抗もなく、雨竜はあっさり仰向けになった。
ベッドに乗り上げて肩を軽く押さえたまま見下ろすと、雨竜はバツが悪そうに目を逸らす。
「……事あるごとに負った傷を完治後に事後報告、あるいは病院に担ぎ込まれるのを迎える羽目になる身にはなってほしいものだな」
「そこまでじゃないだろ……最近は」
「さて、どうだか」
普段から反抗的な態度を隠さない息子がどこかしおらしい顔をしているのが愉快で、竜弦は雨竜の頬を撫でた。
雨竜は表情は変えないまま竜弦の掌に自分から頬を寄せ、それから深く息を吐きながら目を閉じてぽつりと呟いた。
「眠い」
「そうか」
間接照明の明るさを限界まで落とし、眼鏡を外してベッドサイドに置く。足元の毛布を肩まで引っ張り上げながら雨竜の隣に身を横たえ、その細い体を背中から抱き締める。抱き締めれば尚の事肉よりも骨の感触が際立つが、確かに血の通った体温があった。
程なくして、腕の中で雨竜が寝息を立て始める。
━━良かった、今日もこの子はこうして生きている。
その実感だけで、何もかもが報われる。
雨竜とハチワレぬい
真夜中にふと目が覚めた時、デフォルメされたつぶらな瞳とぱっちり目が合った。
今日誕生日なんだってな!ゲーセンで取れたから石田にあげちゃうぜっ!と、賑やかな友人がくれた、青いハチワレ模様の猫のキャラクターのぬいぐるみ。
貰ったままベッドに置いて、一緒に眠っていたのを霞がかった意識の片隅で思い出す。
なんでこれを僕に、と聞いてみると、だってこいつなんとなく石田っぽいから石田が持ってると似合うかなって、と答えになっていない答えが返って来たのだ。
僕はこのぬいぐるみのような笑顔を振り撒けるような人間ではないんだけどな、とは思ったものの、プレゼントをくれた彼の気持ちは嬉しかった。
後で他の友人が教えてくれたところによると、この猫(?)にはいつも一緒の友達がいて、そしてとても友達思いなのだそうだ。そんな昼間の出来事が、ふわふわと泡のように脳裏に浮かんでは消えていく。
何とはなしに手を伸ばして、ぬいぐるみの頭を撫でる。短くすこし固い毛並みと綿の詰まった感触が指先を軽く押し返した。
「……君にも、大好きな友達がいるんだな」
口から滑り出たその言葉に意識を囚われることもなく、またあっさりと意識は深くに沈んでいった。
以前ツイッターで呟いた「石田雨竜の部屋には啓吾がくれたハチワレのぬいぐるみがある」という妄想を真面目に文字起こししました。
【バズユゴ】とある夜【少年期】
「……バズならいいよ」
暖炉の火を反射してオレンジの光を宿した碧色の瞳が、オレを見た。
「おじさんにされるのは嫌だったけど。バズなら、いいよ」
「──」
床に座ったまま動けないままでいるオレに、ユーゴーは四つん這いの姿勢でオレににじりよった。
「ね、忘れさせてよ、おじさんのこと……バズなら、出来るでしょ」
手を床についたその肩は小さく震えていて、その瞳は揺れていた。
「ねえ、」
「……ヤだね」
真っ直ぐにユーゴーの目を見て言うと、ユーゴーは目を見開いた。
「なんで」
「オマエ怖がってるだろ」
「っ……そんなこと、」
「うおっ」
ユーゴーがオレの肩を勢いよく掴んだので思わずバランスを崩す。だがすかさずオレもユーゴーの腕を掴むと一緒に床に引き倒してやった。
「わっ」
ドスン、と音を立てて二人で折り重なるように床に転がる。
オレはすかさず上に乗っているユーゴーの背中に腕を回してそのままぎゅうと抱き締めた。ユーゴーは抵抗せず、くぐもった声で呟いた。
「……何やってるの」
「こうすると領地のガキが泣き止むからよ」
「……泣いてたらお母様がこうしてくれた、の間違いだろ」
「ハァ?!ちげーし!生意気言うと離してやんねーからな!」
ぎゅううううう、と抱き締める力を強くしてやると、ユーゴーはそれ以上何も言わなかった。ただ、オレに身を預けるように体の力を抜いた。
その体はまだ少しだけ震えていたが、震えは次第に止まって行った。
ユーゴーのおじに、オレは会ったことがない。あの火に包まれて焼け死んだ、とだけ聞いている。
それでも、ユーゴーはまだおじの影に怯えている。時々、こうして何かを思い出して震えている。
……いい加減死んどけよ。
ユーゴーの心の内に潜むそいつの影に毒づくことしか、オレには出来なかった。