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石田さん家の今日のご飯「サンマの蒲焼」

大戦終結から数年後、雨竜が大学三回生か四回生くらいのイメージです。
この話と微妙にですが繋がっています。

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 今年は去年よりサンマが安い。
 スーパーマーケットの鮮魚コーナーで、大学帰りの雨竜はポップに書かれた数字を見て足を止めた。
今日のようにまだ残暑の厳しい日はあれど、スーパーマーケットに並ぶ食材は着実に秋の訪れを告げていた。
 サンマは三枚に下ろして塩を振って焼くだけでも無論美味しいが、さてどうしたものか。台風一過の今日は汗ばむ程の陽気だったから、あまり秋らしいメニューにするのは何か違う気がする。
 とはいえサンマは食べたい。
 雨竜はしばし考え込む。最近父・竜弦は疲れ気味のようだし、食欲が無くても食べやすいメニューや食欲が湧きやすい味付けのメニューを考えた方がいいだろう。
 サンマ、味付け……となると。蒲焼か。
 サンマを甘辛く焼いて野菜の小鉢を二品ほど作り、主食は……ただの白米、というのは少し味気ないか。食欲がなくても食べやすいように出汁茶漬けにしよう。料理に掛けられる時間が今日は少ないからシンプルなメニューだが、疲れている時でも食べやすいと思う。
 よし、と雨竜はサンマを二尾ビニール袋に入れた。
 それから一通りの買い物を終えると、自宅ではなく実家へと向かう。
 初めは月に一度二度だった実家に帰宅して食事を作るイベントは、四年も経つと週一度以上の習慣となっていた。
 最初こそはろくな食生活を送っていない父の寿命をそんなどうしようもない理由で縮めてなるものかという使命感だったのだが、自分以外の誰かの為に食事を作るという行為が思いの外楽しく、昔はあんなに避けていた父との食事が楽しみになってしまっていた。
 実家は町の高級住宅街の一角を占める豪邸であるため内装も当然広々としており、台所も広い。おまけにここで食べる分に限っては材料費・光熱費・水道代は全て父持ちなのだ。そのため、料理のしやすさについては文句の付けようがない。
 台所と呼べる設備は二箇所ある。一つは日頃使っているダイニングに併設のカウンターキッチン。もう一つは、厨房と言った方がしっくりくる部屋の中。カウンターキッチンは自分が生まれると分かった頃に増設したもので、「厨房」の方は、自分が生まれる前に使用人が何人もいた頃の名残だという。今では全く使われておらず、少し勿体無いとは思うが基本的な料理をする程度であればカウンターキッチンで全て事足りてしまうのだった。
 帰宅したらカバンとジャケットはダイニングに置いてあるコートハンガーに掛けておく。
食材と調理器具を一通り調理台の上に並べたら自宅から持参したエプロンを着用し、袖をまくって手をよく洗い調理を始める。
 まずは米を二合、父の帰宅予定時間に合わせて炊く。
 おかずの用意は野菜の小鉢から。
 ほうれん草を色鮮やかになるまで茹でて、すぐに冷水でしめる。水を絞ったら五センチ程度の長さに切り揃え、タッパーの中に入れる。更にタッパーの中に作り置きしてあるだし汁に醤油を少し混ぜた調味液を浸る程度まで注ぎ、タッパーは蓋をして冷蔵庫の中へ。一時間ほどすればほうれん草のおひたしが完成する。これは食べる直前にすりごまと混ぜて簡単なごま和えにする。
 続いてきゅうりとキャベツを一口大に、人参を細切りにしてジップ付きの袋へ。塩、細切りにした昆布、香り付けの柚子の皮を入れ、中の空気を抜きながらジップを閉じる。袋をバットに入れて、その上に重石替わりにバットを上から重ねてこれも冷蔵庫の中。
それから今のうちにお茶漬け用に薬味を用意する。生姜と軽く火で炙った海苔を細切りにして、薬味皿の中に。ほうれん草と混ぜ合わせるごまもしっかりと力を入れて磨る。
 続いて肉・魚用のまな板と包丁を出して本日のメイン、サンマの用意に移る。
 サンマは三枚におろしてから、蒲焼にした時食べやすいよう半分に切る。それからペーパータオルで水気を取り、塩を振って臭み抜き。
 臭み抜きをしている間に蒲焼のタレを作る。醤油と砂糖とみりんを混ぜ合わせるだけなのでそう時間は掛からない。
 父の霊圧の方を伺ってみると、とうに退勤予定時刻は過ぎているはずなのだがまだ病院にいた。霊圧の揺らぎ方を見るに相当疲れているようだ。こういった日は初めてではないが、あの体力精神力が化け物じみている父がここまで疲れる病院勤務とは一体、と思わなくもない。父には多少ワーカホリックの気があるとは言え。
 炊飯器からはとっくに炊きたてのご飯のいい匂いがしている。
 この待っている時間も勿体無いからもう一品足そうか、でも多分そうしてしまうと向こうには量が多い、と悩み始めた所で父の霊圧が病院から移動を始めた。
 雨竜はすかさず冷蔵庫を開けて、ほうれん草と浅漬けを出す。ほうれん草は食べる分だけボウルに入れてから、さっとすりごまと和える。
 ほうれん草のごま和えを小鉢に入れて、そちらはもう食卓に並べておく。残った分は別のタッパーに詰め替えていつでも食べられるよう冷蔵庫の中へ。
 続いて鍋で出汁茶漬け用の出汁を温めるのと並行してサンマの蒲焼を焼き始める。
 表面に軽く小麦粉をはたいたサンマを、油を敷いたフライパンで焼き、ある程度火が通ったら蒲焼のタレをまずは半分、皮に照りが付いたらもう半分絡めていく。
 サンマをひっくり返すとじゅわ、という音と共にサンマの皮がタレと共に焼ける香ばしい匂いが台所に満ちた。これは間違いなく上手くいった、と雨竜は思わず笑みを浮かべる。
 出汁は沸騰する寸前まで温めたら火を止め、後は余熱に任せる。
 父の霊圧が自宅の駐車場に到着した。それとほぼ同時にサンマが焼き上がり雨竜はフライパンの火を止める。
 エプロンを着たまま小走りで玄関へ。ちょうど、玄関のドアが開いた。
「……ただいま」
「お帰り」
 いつの間にか当たり前になっていた挨拶を交わしながら、霊圧の揺らぎの割に父の足取りはしっかりしていることを確認して内心で胸を撫で下ろす。
「ご飯出来てるけど、食べられそうか?」
「ああ、食べる」
 帰宅に合わせて食事を用意すればだいたい竜弦は断らない。
 父が一度自室に向かうのを見届けてから、雨竜は台所に戻って急いで最後の仕上げ──盛り付けにかかる。
 少し大きめの茶碗にほかほかの白いご飯をよそい、熱い出汁をたっぷりとかけた。サンマは浅漬けと一緒に皿に乗せる。
 配膳を終えた頃に、ジャケットを脱ぎネクタイを外した父がダイニングに姿を見せた。
「随分疲れてるみたいだな、大きい手術でもあったのか」
「そんな所だ」
 コップに麦茶を注いで渡すと、竜弦は一息に飲み干す。
「今日が術日だった」
「そう……お疲れ様」
 雨竜がエプロンを脱いで食卓につくと、竜弦は手を合わせた。
「……いただきます」
「いただきます」
 雨竜はまずサンマの蒲焼に手を付けた。一口噛めば、程よくパリッと焼けた表面と甘辛いタレが柔らかい身と口の中でよく絡む。これはこれで美味しいが、胡椒か山椒を合わせてもきっと美味しくなる。蒲焼の味付けが濃いめなので、合わせている浅漬けの柚子の香りが爽やかで丁度いい。
 出汁茶漬けはまずご飯を生姜と共に一口。出汁汁を吸って柔らかくなったご飯と薄めにしてある出汁で体が芯から温まる中で生姜の食感とピリリとした風味が良いアクセントとなっている。続いてほうれん草の胡麻和えを乗せて食べてみても、胡麻とほうれん草の風味が出汁とよく馴染む。
 さて竜弦の反応は、と父の様子を見ると、頬が僅かに緩んでいた。ゆっくりだが止まらない箸も、感想を雄弁に語っている。よかった、と雨竜はひと安心する。
「ほうれん草と浅漬けは、冷蔵庫にまだ残ってるから。適当に食べてくれ」
「ああ、そうする」
 食べ終わるのは、いつも雨竜の方が少しだけ早い。
「ごちそうさま」
 だが雨竜は食卓を立たず、座ったまま食後の麦茶を飲む。
 家を出る前は食べるペースは同じくらいだったような気がする。母が亡くなって父を避けるようになって以降、食事を共にする回数は激減したし、母が元気だった頃も父の仕事が忙しくて共に食事をする機会は少なかったのだが。
 友人達と食事をした時に食べるペースの遅さを言われた事はあるが、その友人達と過ごす内に彼らと近いペースで食事をするようになって行ったのだろう、と雨竜は思う。
 竜弦が浅漬けの最後の一口を飲み込み、手を合わせた。
「ごちそうさまでした。美味かった」
「それはどうも」
 雨竜は立ち上がると二人分の食器を片付け始める。ここの家には食洗機があるので片付けが楽なのがいい。フライパンや鍋以外は軽く水で濯いで食洗機に入れて、洗剤をセットするだけでいいので大変に楽である。やや年代物なのでたまに変な音がするが。買い替えた方がいいのではないだろうか。
「今日は泊まっていかないのか」
「ああ、家でやる事があるから」
「そうか。勉強は進んでいるか」
「当たり前だろ」
 正直、勉強とアルバイトを併行しているとやらなければなら無い事が多すぎて忙殺されかけてはいるのだが。竜弦が雨竜の父親になったのは、確か今の雨竜と同じくらいの年頃の筈だ。昔母が言っていたところによると育児はかなり積極的に手伝ってくれていたらしい。学生だから育休なんてないだろうにいったいどういうタイムスケジュールで生活していたんだ、と雨竜は密かに若い頃の父親を尊敬せざるを得無くなっていた。
 鍋とフライパンを洗って水切りかごに置き、コンロ周りを水拭きすれば片付けは終わる。
 帰る前に少し一息、と立ったまま麦茶を飲んでいると竜弦がふと思い出したように口を開いた。
「そうだ雨竜、一つ聞きたいのだが」
「なに」
「お前、恋人だとかはいるのかいないのか」
「……?!」
 麦茶が若干気道に入って派手に噎せる。シンクにかがんで盛大に咳き込む雨竜を見て竜弦は首をかしげた。
「大丈夫か。で、いるのかいないのか」
「……っ、いない! なんで人がお茶飲んでる時に急にそんなこと聞いてくるんだあんた!」
 喋れるようになってから思い切り睨むと涼しい顔で「すまん」と返ってくる。
「いや、そろそろ誰かしらいてもおかしくないと思っただけだ」
 父の問の意図を考え、雨竜は一つため息をついた。自分が生まれた時の父の歳と自分の今の歳が近い事に思う所があるのは自分だけではない。
「……そんなに心配か?」
「ユーハバッハは死んだ。それでも奴に刻み付けられた『A』の刻印はお前の中に残っている。お前が滅却師として今後も生きる事を選ぶ以上、人間としての人生にも恐らく影響は出る」
 そんな刻印剥がせるものなら今すぐにでも剥がしたい、とその顔にははっきり書いてある。
「人間の恋人が出来たとして、相手にどこまで伝えるべきなのかは考える必要があるのだろうと思っているのだが……まだ気が早いか」
「……心配してくれてるのは分かるけど。僕は自分にそういった相手が出来るかどうかはまだ考えられない。一生独り身で生きる可能性もあると思ってるくらいだし」
「そうか。……それもまた選択肢だろうな」
「……孫の顔が見たいとか、あんたにもあるのか?」
「いや、特にない」
 竜弦はきっぱりと言って、麦茶のグラスを傾ける。
「お前の好きに生きるといい」
「……そうする」
 生まれてから人生の半分以上の期間において自由が許されず、ようやく手にした平穏な幸せは唐突に奪われ、復讐の為に生き続けてからようやく人間らしい人生を獲得した父の言葉は、ひどく堪えた。
 そしてその父に、自分が家庭を築く姿を見せられないかもしれないというのは少しだけ後ろめたかった。一生独り身で生きる可能性もある、というのは本心である。きっと父はそんな事気にしないし、ただ生きているだけで僥倖、と口には出さずとも思ってくれているのだろうが。
「……竜弦、来週は何が食べたい」
「ロールキャベツ」
「分かった、ロールキャベツだな」
 ロールキャベツは母がよく作っていた料理だ。忘れないようにと携帯電話のメモ帳に「来週 ロールキャベツ」と記しておく。
 仮に自分が家庭を持つ事が無かったとしても、今ある家庭を自分なりに大切にしたいと思えている。今はきっとそれで十分なはずだ。
「それじゃ、帰るから」
 上着を羽織ってカバンを肩に掛けると、竜弦が立ち上がった。雨竜が帰る時は、竜弦は門扉を閉めるためにと門まで送りに来る。門扉の鍵は雨竜も持っているのだが。
「あ、聞くの忘れてた。来週何曜日なら都合がいい?」
「月水木が日勤だ。月曜日は手術があるので遅くなる」
「分かった、じゃあ月曜か木曜に来る。決まったら連絡する」
 玄関を出て玄関ポーチを降り、前庭を抜ける。門扉を開けて振り向くと、門灯に照らされた父は僅かな笑みを浮かべていた。
「せいぜい帰りに虚に襲われないようにな」
「あんたもせいぜい不摂生で死なないようにな」
 憎まれ口の挨拶を交わして、門を出る。
「……それじゃ、また来週」
「……ああ、また」
 自分の住む地区に比べれば街灯の多い通りを歩く。
週に一、二度実家に帰って、父と自分二人分の夕食を作って食卓を共にする。傍から見れば奇妙に映るかもしれないが、互いに互いを避け続けていた数年前までと比べればだいぶましになったと思う。まだ父に対する何となくの苦手意識はあるから週に一、二度しか帰れていないのだが。
 それでもこれは、十年近い時間を掛けなければ手に入れる、否、取り戻す事が出来なかった時間であって。
 ──あの時間を愛おしいと思うから、僕はきっと来週もこの道を歩くのだろう。
 雨竜は微かに星が光る空を見上げて、笑みを零した。
 その笑顔は、見る者が見ればきっとこう言っただろう──笑った顔が親子でそっくりだ、と。

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衛〇さん家の今日のご飯の一挙放送を見ていたら無性に親子のこう言う話が書きたくなったので書きました。
シリアスな親子も書きたいですがこういう幸せな親子を書いている方が落ち着きます。

ちなみに〇宮ご飯はちらし寿司回とハンバーグ回が好きです

【一護+雨竜】「ただの友達」【最終巻まで読んだ人向け】

「……先生達、すげえ大騒ぎだったな」
「騒ぎすぎだと思うけどね」
 昨日図書館で借りたヴィトゲンシュタインのページを捲りながらそう答えると、屋上の柵に凭れて座る黒崎は「落ち着いてんなあ……」とぼやいた。
 事の始まりは、ずっと提出を催促されていた進路希望の紙を登校時に提出した時まで遡る。どうも、3年の秋になってから医大を第1志望に決めるというのはなかなかに大それた事らしかった。それから担任を発端に職員室は現高3を担当した教師を中心に大騒ぎ。あまり好ましくない事だと思うのだが。
 教師達が動揺しているのは生徒達にも伝わり、流石に心配されたので黒崎達には事情を話したら、絶句された。それが朝の出来事。
「お前が医大に行くって決めたんならいいけどさ、もう秋だぞ?流石のお前も医大対策の勉強とかしてないだろ?」
「医大対策……?赤本を解いてみたら合格圏内だったから、行けるだろうと判断しただけだ」
「うん、そうか、悪い。聞いた俺が馬鹿だった」
 黒崎がパンの袋を開ける。そこで僕が昼ご飯を持っていない事に気付いたらしかった。
「お前今日昼飯は?」
「……忘れた」
「は?珍しいな」
「いいだろ、別に」
「悪いなんて言ってねえだろ。……ほら」
 ずい、と黒崎が目の前にパンを差し出してくる。見れば、半分になったコロッケパンだった。何のつもりだ、と半目で睨むと、そんな顔すんなって、と黒崎は呆れたように言う。
「6時間目お前のクラスとうちのクラスと合同で体育だし、流石のお前でも昼飯抜きで体育はキツいだろ。なんか食っとけ」
「……分かった、ありがとう」
 本を閉じて渋々受け取ると、黒崎は自分の分をコロッケパンをほぼ一口で平らげた。
「君も購買のパンなんて珍しいな」
「昨日から遊子が校外学習でいねえんだよ」
 コロッケパンを1口齧り、無視していた空腹感をなんとか宥める。何だかんだで、黒崎の気遣いは有難かった。僕にパンを分ければ君には足りなくなるだろうに。うん、黒崎は本当に馬鹿だ。……そんな馬鹿のお陰で、僕はここにいる訳だが。 
「なあ、黒崎。君、前にここで僕に医者にならないのか聞いてきた事あっただろ」
「……ああ。あったな、そんな事」
 黒崎がもう1つパンの袋を開けながら頷く。
 パンの礼と言う訳では無いのだが、僕が自分の行く先を決めた以上、これは黒崎にだけは伝えておくべきなのだと思う。
「あの時の僕は、自分が何者になるべきなのか分からなかった。そもそも自分が何者なのかも、実はよく分かってなかった」
「……」
 黒崎は何も言わない。何か言ってくれた方がこちらの気は楽なのだが。けれど集中して聞かれるより今みたいにパンを食べながら聞いてくれるくらいで丁度いい。
「多分、よく分からないままでも良かったんだ。君達といると、それが気にならなくなるし、些細な問題に感じるから。君達は、僕が何者かなんて気にしないだろ。……実際はそうもいかなかったけど」
 自分の立っていた筈の世界の足元が揺らぐ位の事が起きて、答えを必要としていなかった筈の、自分が何者なのかという問に答えられない事が無性に不安に感じた。
 けれどあの戦いを経て、迷い続けたそれにようやく出せた答えは、あまりにシンプルな物だった。
「在り来りな答えだけど、僕は僕でしかない。何者になるのか決められるのも、僕しかいない」
 後はもう自分で片を付けるために死ぬしかない、なんて所まで追い詰められなきゃ気付けなかったんだから、大概馬鹿だけど。
「だけど、実は何者になりたいかについてはまだ全然決まってない。でも、何になるかそろそろ考えないといけないし……だから、昔なりたかった物になろうと思った。そう、昔確かに僕は医者になりたかったんだ。……生きている人も死んでいる人も、救えるようになりたかった。それが僕の出発点だったって思い出して、まだそれは僕の原動力だと思えた。それだけさ」
「……そうか」
「それに医師免許を取っておけば後々何かと潰しが効くし、就職に困る事も無い。収入も見込める」
「それで医大に受かる自信があんだからすげーよなお前……」
 黒崎は呆れ果てているようだし、朝方茶渡君や井上さんすら絶句したのは黒崎と同じような理由なのだと思う。
 僕とて、医大が狭き門だと言うのは承知している。それでも僕の学力ならばこのまま過去問で対策を進めれば合格圏内に入れるのは事実なのだし。むしろ、過去問の点数だけ見れば既に入ってはいるのだし。
 いつの間にかパンは残り一口分になっていた。
「お前の言う通り、オレはお前が何者なのかなんて気にした事ねーけどな。でもお前が自分でそう思えたんなら、良かったんじゃねーか?」
「少し時間はかかったけどね」
 僕はパンの最後の一口を口に入れ、咀嚼して、飲み込む。
「……君達がいないと気付けなかったとは思う」
 結局僕にとっては、黒崎達がただの友達でいてくれた事が、何よりの救いだったのだ。僕をただの石田雨竜として認めてくれる彼らがいてくれた事が。だから僕は僕でしかないのだと今ならはっきり自覚出来る。
 それを黒崎に面と向かって言うのは少し口惜しいので、言わないでおくが。
「……そうだ石田、今日うちで飯食ってかねえか?」
「ん?良いなら行くけど、なんで」
「遊子も夏梨もいねえから今親父が飯作ってんだけど、野菜が傷みかけてるからどうせならまとめて鍋にしようって朝なったんだよ。量がかなりあるから、チャドと井上にも声掛けようと思うんだけどよ」
「なんでそんな量の野菜を一気に駄目にしかけるんだ……」
「親父に聞いてくれよ……」
 黒崎はいつの間にか3個目のパンの袋を開けていた。
 僕はまた読み掛けのヴィトゲンシュタインを開く。今日中には読み終わりそうだ。倫理の授業で興味を持ったから何となくで読み始めたが、これからはもう少し理系分野か洋書に比重を置いた方が良いだろうか。
 しかし何となく読み進める気にはなれず、ページを開いたままぼんやりと時間だけが過ぎる。黒崎は対面にいる僕を気にすることも無くチョコがかかったパンを食べていた。僕はそのまま視線を空へと向ける。
 空は抜けるように青い。5階分下の校庭からは、昼休みに興じる生徒達の声がする。
 会話は無くとも、何となく居心地が良くて。
 ああ、これが僕が諦めようとしていた物なのだ、と急に胸が締め付けられた。
 けれど同時に、諦めていたら先行きを決めることも出来なかったけれど、今の、諦めていたら決して得られなかった当たり前の1秒1瞬が、とても愛おしく思えて。
 柔らかな風が頬を撫でる。その風の中に秋が暮れていく気配を感じて、不思議と頬が緩んだ。

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この話の対として書きました。
この二人の距離感がとても好きです。

【実写版軸一護+雨竜】「ただのクラスメイト」【映画見た人向け】

「なあ、オレとお前ってなんで知り合いになったんだ?」
「……」
まず目に入ったのは目の前に突き出された購買部のビニール袋。中身はパンと紙パックのジュース。視線を上げれば、オレンジの髪が目に入る。
詰まる所、昼休みに屋上で静かに本でも読もうと思っていたら急に黒崎に絡まれた。
僕は一つため息を吐き出す。
「またその話か……自分で思い出せって何回も言ってるだろ。それとそのパンは何だ」
「思い出せそうで思い出せないから聞いてんだ。パンは俺の奢りだ。お前、たまに昼飯食ってないだろ」
僕の返答を待たずに、ビニール袋が音を立てて僕の太腿に置かれる。今日昼食を持って来ていないのもたまにそういう日があるのも事実なのだが、黒崎に気を遣われているという点も奢りで釣ろうとしている向こうの魂胆もなんとなく癪である。
「気にすんな、俺も今日は購買で買ったからついでだ。6時間目体育だろ、食わなきゃ倒れるぞお前」
そう言いながら黒崎は僕の向かいに座り、自分の分の袋からコロッケパンを取り出した。
「……生憎、君が思ってるほど僕は虚弱じゃない」
「飯を抜くのはそれ以前の問題だろ」
本当にお節介だな、この男は。
しかしありがたいのは事実だし、突き返すのも申し訳ない気がしてしまって、僕は袋の中を見た。焼きそばパン、ジャムパン、りんごジュース。焼きそばパンとりんごジュースのパックを取り出す。
焼きそばパンを齧ると、無視していた空腹感が存在を訴え、しかし直ぐに薄れていく。
「……まあ、少しなら質問に答えてやらなくもない」
本当は、黒崎が自力で思い出すのが1番だと思うが。
黒崎は少し考え込んだ後、口を開いた。
「聞き方変える。お前さ、どうしてそんな急にオレの事気にして来るようになったわけ?」
「…………」
そう来たか。
「オレとお前は、1週間前まではただのクラスメイトだった。なのに急にお前が朝挨拶して来るようになって……てか、その1週間前までの記憶もちょっとモヤモヤしてんだよ。なあ、何があったんだよ」
黒崎が身を乗り出してくる。ここ一週間毎日のように聞いた質問だ。
「……何があったかについては、何回も言ってるけど君が自分で思い出すべき事だ」
「ああ、何回も聞いた。だから、せめて何でオレとお前がダチみたいになってるのかは知りたい」
「は?」
ダチ。友達?君と僕が?
「それは無い。君と僕はただのクラスメイトだ」
友達では、ない。断じてない。
この男の持つ力や人の良さは認めていない事も無い、だが彼が一時とはいえ死神だった以上、友達になる事は無い。例え戦場で力を貸し合う事はあってもだ。
「……そっか。違うのか。オレはなんか、お前とダチになったような気がしてたんだけどな」
黒崎はやや不満そうな顔をしながらコロッケパンの最後の一欠片を口に押し込んだ。
「…………」
ダチになったような気がしていた、って。なんだそれは。そこまで思い出していながら朽木ルキアの事は思い出せないのか。やはり馬鹿なのかこの男。
少し腹が立ってきたが、わざわざそれを言ってやる事も無い。
思い出すべき時が来たら思い出すだろうし、思い出せなければそれで終わり。これは多分、それだけの話だ。後者であれば黒崎は、ただの霊感が強い人間として生きていくのだ。死神になりさえすれば誰でも守れるようなその力を振るうことなく。
……その事を、死神を憎みながらも惜しいと思ってしまうのは、僕のエゴなのだろう。今はただの人間である黒崎が虚と戦う必要なんて、どこにもないのに。
「……一つだけ、教えてやる」
「ん?」
「僕は、君に記憶を取り戻して欲しいと思っている」
だから、これを言わないのは、酷く不誠実な気がした。
別に、黒崎が僕の言わんとする事の意味を理解する必要は何処にもないのだが。最悪一生理解しなくても良い。
ほら、現に黒崎はキョトンとした顔をしている。人の気も知らないで。
やっぱり腹が立つ。
「……なあ石田」
「何」
「お前、分かり難いだけで良い奴なのか……?」
「はあ?」
急に何を言い出すんだこいつ。
唖然とする僕を尻目に、黒崎はチョコパンの封を開ける。
「いや、お前が1番詳しいんだと思ったんだけどさ。お前がそう言うなら多分オレは自分で何とかした方が良いんだろうな。もうお前に聞くのやめるわ、自分で思い出せるようにしてみる」
そう言って、黒崎は何でもなかったかのようにパンを齧る。
何でもないような顔をしてはいるが、きっと本気で僕のことを頼りにしていたのだろう。僕は胸にちくりとした痛みを覚えながらそれに目を瞑り、残半分となった焼きそばパンに齧り付いた。

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原作軸のこの話と対にしています。
この2人は媒体が変わってもこうなんだろうなあ、と思います。

実写版すごく良かったんですけどもうこの2人が最高すぎましたね……ええ……映画その物の出来も良かったしアクションは本当にカッコよかったし何はともあれ石田の顔が良かったのが最高でした……見事なガワの実装本当にありがとうございました……

【一心と竜弦】カウントダウンのはじまり

「九年前」の竜弦の話。一心視点。ちょっと暗い。

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 一ヶ月ぶりに会ったその男は、黒崎一心の目には酷く憔悴しているように見えた。
「よう!」
 でかい声で呼び掛けながら近付くとじっとりした目で睨まれた。青白い顔、こけ気味の頬、目の下の隈、スーツの下からでも分かるやせ細った体躯、そして体の重心が安定していない。不健康の権化だなこりゃ、と内心溜め息をつきながら自販機で買った温かい緑茶のペットボトルを差し出す。
「元気そうには見えねーな」
「…………」
 渋々といった感じでペットボトルを受け取られる。
 学会の後の懇親会……という名のパーティでこの顔馴染みの姿が見えないので探しに来てみれば、会場の複合施設の中庭のベンチでぐったりと座っていた。
 人付き合いを面倒がる癖に上司に呼ばれればすぐ向かえるようにここにいるんだろう。こいつらしいな、と思いながらその隣に勝手に腰掛ける。
「講演お疲れさん、石田」
「……大したことではない」
「何言ってんだ、お前の歳で講演任されるなんて大したことだろ」
 それどころじゃなかっただろうにな、と心の内で付け加える。
 自分が百年以上生きている事を差し引いて人間の尺度で見ても、目の前で憔悴している石田竜弦という男はまだ若い。正式に医者になったのだってまだ三、四年前というところだ。
 そしてこの男はつい半年前に妻を亡くしている。一人息子のこともあるだろうし、他にも色々と背負い込む羽目になっている。自分も似たような状況ではあるが、この顔馴染みが会う度にやつれていくのは見逃せなかった。
「随分やつれたな。ちゃんと寝てるか?」
「毎日三時間は寝ている」
「それは寝てるとは言わねえ」
「時間が足りない。そうでもしなければ……」
「その前にお前が潰れるぞ。お前が潰れたら雨竜君はどうなる? うちの長男と同い年ならまだ小学三年生だろ」
「…………」
 痛いところを突かれたように竜弦は黙り込む。この男も頭では分かっているのだ。それでも焦りが彼を掻き立てている。
「体の不調があったりは?」
「生憎、体だけは昔から丈夫だ」
「そいつは良かった。だがもうそろそろ若さで無茶出来る歳じゃねえだろ」
「……それでも、私しかいない」
「……ああ、そうだな」
 自分を相手にしているというのに暴言も辛辣な言葉も飛んで来ない。こりゃ相当参ってるな、と一心は判断を下す。
 それでも死神の力を失っている自分に出来る事など、適度にガス抜きをさせてやることくらいなのだ。余計なお世話かもしれないが。
 竜弦が受け取ったまま手に持っているだけだったペットボトルのキャップを開けようとする。余程手に力が入らないのか、少し手間取った挙げ句になんとか開封して一口だけ喉に流し込んだ。
「……お前今日車か?」
「タクシーだ」
「うっわ、金ある……」
「車がどうかしたか」
「いや、それじゃハンドル握るのも怪しいだろ」
「今日は調子が悪いだけだ」
「どうだかなあ……調子悪けりゃいつでもうち来い、診てやるよ」
「……夕べ、夢を見た」
「は?」
 リアリストの極地にいるような眼の前の男が突然夢の話など始めるものだから、一心は目を丸くする。竜弦は地面のどこか一点を見つめながら独り言のような口振りで続けた。
「……雨竜を殺す夢だった」
 竜弦は、言葉を失った一心を見ない。
「目が覚めて、真っ先に雨竜の霊圧を確認した。雨竜は部屋で寝ていて、朝になるときちんと起きて学校に行った。……それでも、夢で私は一度息子を殺した。この手で……」
 竜弦な両手を組んで俯き、ペットボトルを強く握り込む。ペットボトルが僅かにへこむ音を立てた。絞り出すような震える声は懺悔のようだった。
「私はあいつが無事で安堵した筈だった、雨竜だけでも無事で良かったと、そう思ったはずだった。叶絵が倒れてからは毎朝雨竜に異常がないことを確認した、叶絵が死んだ後も雨竜が生きているならば叶絵の思いは無駄にならないと、何事にも関わりなく真っ当に生きて欲しいから霊力を奪おうとすら思った、それなのに……」
「なあ石田、夢の中のお前は、雨竜君を殺した後どうなった?」
 一心がなんとか尋ねると、静かに答えた。
「死んだ。……自分で自分の大動脈を切って、死んだ」
「……そうか。夢の中のお前は、自分を許せなかったんだな」
「…………」
 竜弦は黙りこくる。一心はひどく小さく見えるその背中をぽんぽんと軽く叩いた。
「お前はちゃんと戦えてる」
「夢で息子を殺した男がか」
「夢は夢だ。その夢を見た自分をお前は許せない、今はそれでいい。後は自分でしっかり解決しろ」
「……宗弦が言っていた。雨竜はこのままだと、私に並ぶ滅却師になると。……突然変異的な天才だと」
「それが嫌なんだな、お前は」
「叶絵が倒れてから、何度も雨竜から霊力を奪おうとしたが、出来なかった。封印しようとしても効果はなかった。そうしている間にも雨竜は滅却師として確実に能力を身に付け始めている」
「……子供の成長ってのは、俺らが思ってるよりずっと早いもんだ。どう向き合うかきちんと考えた方がいい」
「……どう向き合うか、か」
 あらゆる能力はひどく優秀でありながらひどく不器用なこの男のあり方を、一心は嫌いになれない。きっと「九年後」に迫ったタイムリミットまで人知れず死に物狂いで戦うつもりなのだろう。誰にも頼らず、たった一人で。だからこそ放っておけないと思うし、既に潰れかけているのを何とか支えたいと思う。
 無論、死神の力を失っている自分に出来る事はひどく限られているが。
「ようし石田、パーティーフケてラーメンでも食って帰るか!」
 そう高らかに宣言してベンチから立ち上がると、竜弦は深々と溜め息を吐き出してから顔を上げて冷たい目で一心を見た。
「学生か貴様は。……生憎、私はお前と違って病院の経営者一族の人間としてある程度挨拶回りや情報交換の必要がある。帰るならお前一人でさっさと帰れ」
 調子が戻ってきたみてえだな、とニヤニヤ笑うと「気色が悪い」とばっさり斬られた。

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このおっさん二人の関係性が好きです。

【石田親子】三月某日(再録)

「……遅い」
「は?」
 むっとしながら玄関で家主を出迎えると、随分間の抜けた返答が返って来た。
「とりあえずお帰り。ご飯なら用意してある、お風呂も用意してあるけど今のあんたは入浴してそのまま寝て溺れそうだから駄目だ。まずはさっさと、ちゃんとご飯を食べろ」
「……分かった」
 何が起こっているのか分かっていなさそうな顔で頷かれる。仕事が余程忙しくて帰宅するなり頭の回転が鈍ったのか、それとも今日は僕がいるということを完全に忘れていたのか。後者だな、と一人で納得しながら竜弦から鞄と薄手のコートを受け取った。
 ダイニングで待っているよう言ってからそれらを竜弦の寝室まで運んでやる。
 広い家だ。僕が生まれる前までは使用人も何人かいたらしい。二年と少し前までは僕と竜弦の二人だけが住んでいて、最近は僕がたまに帰るようになった。つまりその間はあいつ一人だったわけだが。
 ──本当に、僕がいない間どうやって生きていたんだこの父親は。
 率直に言って、久し振りに足を踏み入れた時のこの家にはあまりにも生活感がなかった。僕が嫌々ながらまだこの家で生活していた中学時代までの方が僕が家事をしていた分まだまともだった。掃除も洗濯も何もかもが家事代行サービス任せで食事は基本外食だと言われた時は流石に頭が痛くなったし冷蔵庫にもなんとペットボトルの水と酒しか入っていなかったのだが、同時に竜弦が二年間どれだけ家に帰らなかったのかも感じて少しだけ罪悪感は湧いた。竜弦に、ではなくこの家に対して、だけど。
 竜弦は家事が出来ない。いや、正確には、出来ないことはないがやっても出来が酷い。母さんは体が弱かったから、たまに母さんが体調を崩した時に手伝おうとしていた記憶はあるにはあるのだが、竜弦が何かしようとすると母さんが起き出して来た。あれは多分不安で見ていられなかったんだと思う。
 母さんが死んですぐの頃は、定期的に竜弦の知り合いの人が家に作り置きのおかずなんかを持って来てくれていた。その間に僕も家事に色々慣れることが出来た。元より母さんから色々教わっていたのもある。……あの時の「知り合いの人」が黒崎のお父さんだったと知ったのは、ついこの前のことだ。
 一人で生きていけそうなこの父親が意外と色々な人に心配されて生きてきたことを、家に帰るようになってから実感した。
 鞄とコートを然るべき場所に置いてからそそくさとダイニングに戻る。
「そうか、今日はお前がいる日だったな」
 ようやく頭が動いてきたのか、ダイニングテーブルに着席していた竜弦は僕を見るなりそう言った。
「そうだ。最近随分物忘れが激しいんじゃないか」
 僕が帰ってくる日も忘れるなんて、気が抜けすぎだ。
 呆れてそう返してやりながらダイニング併設のキッチンで鍋の中のスープを温め始める。冷蔵庫から下拵えした魚と白ワインと適当に作ったおつまみを出して、ワインとおつまみは竜弦のところへ持って行く。
「……気が抜けている、か」
 僕がワインをグラスに注いでいるのを見ながら竜弦は呟いた。
「もう常時気を張る必要もないだろう」
「…………」
 それを言われてしまうと、何も言い返せなくなりそうになる。それでも言わないといけないことはあるのでしっかり言わせてもらうことにする。
「だとしても僕がいる日くらいは把握しておいてくれないか、僕がやりづらくなる。僕が食事を用意しているのに外で食べてきたとかやられても困るんだよ」
「善処する」
 これは反省していないな、と全く悪びれていない顔を見て判断する。
 そういう時のために、こういう日でも無いときは意識的に作り置き出来る物ばかり作っている。幸いにも今までは、その日の夕飯のために作ったものは全てその日のうちに完食されているが。
 僕はキッチンに引き返すとさっさと夕飯を仕上げた。
 魚はホイル焼きにして、付け合わせの野菜で彩りを添える。スープはコンソメとタマネギ。洋風のメニューに合わせて皿にご飯を盛る。量は控えめだがもう夜九時を回っているからこれくらいの方が良い。自分はともかく向こうはもう若くないと言われ始める年だ。……本当は七時に帰って来ると聞いていたのだが、それはともかく。
 二人分の皿をテーブルに並べていくと、竜弦が意外そうに僕を見た。
「お前もまだ食べていないのか」
「あんたが帰って来るのを待ってたんだから当たり前だろ」
「……そうか」
 何故だかその声はいつもより少しだけ柔らかく聞こえた。夜遅い帰りにしては珍しく機嫌がいいみたいだ。
「いただきます」
「……召し上がれ」
 竜弦が静かに食卓に手を合わせる。家に帰るようになって思い出したことなのだが、世の全てを嫌っていそうなこの男でも、食前には手を合わせる。
 二人きりの食卓に、会話はほとんどない。それでも、僕が中学生になってからは二人で食卓につくこと自体がほとんどなく、高校に上がると同時にそのまま家を出たことを考えると大した進歩だと思う。
 竜弦は黙々と食べている。普段竜弦から料理に対してまともな反応を貰えることなどない。ただ作ったものは毎回完食するし作り置き用にタッパーに詰めて残しておく物も必ず全てなくなるので、それが答えだと思っている。
 それでも今日のホイル焼きは思うところあって選んだ料理だったので、僕も食事を進めながらそっとその様子を伺った。
「……雨竜」
「な、何」
 唐突に竜弦が声を出したので思わず声がつかえる。竜弦は口元に手を当て、真剣な目でホイル焼きが乗った皿を見ていた。
 しばしの沈黙の後、竜弦はまたナイフとフォークを手に取った。
「……いや、なんでもない」
「そう、か」
「……うまいな」
「えっ」
 ぽつりと、こぼれるような言葉だった。それでも初めて聞く言葉に思わず心臓が跳ねる。
 竜弦は一口、また魚を切って口に運ぶ。咀嚼して、喉を上下させ、
「うまい」
 噛み締めるように竜弦はもう一度呟いて、微かに口元を緩めた。
 それはもう何年も見ていない、いや、ほとんど生まれて初めて見る竜弦の笑顔で。
 頭が真っ白になった僕は、床から響いた金属音でフォークを手から滑り落としたことに気が付いた。

【石田家】November 6th, PM11:06

「はい、今日の夜ご飯はオムライスとポテトサラダ、それから雨竜と一緒に作った雨竜の誕生日ケーキです」
「ありがとう、いただきます……今年も間に合わなかったな」
「雨竜、頑張ってたのよ。お父さんが帰ってくるまで起きてるんだって。結局、寝ちゃったけど」
「……息子の誕生日会にもろくに立ち会えない父親か。雨竜にはいつか怨まれるな」
「雨竜はちゃんと分かってるわよ、医者が忙しい仕事だってことくらい。それにプレゼントだってすごく喜んで……」
「それでもだ。父である私より祖父の方に懐いても仕方がない」
「竜弦さん……」
「もう少し、病院内での地位が上がれば休みも取りやすくなるんだろうがな」
「お願いだから、無理はしないでください。私も旦那様もいるとは言え……その、旦那様はお年を召していらっしゃるし……」
「ああ、分かっている。……叶絵、お前もしばらく体調はどうなんだ。寒暖の差が激しくなってきたが」
「私は最近は調子が良くて……きっと、晴れた日が続いているからね」
「そうか、それは良かった。……ところで、このポテトサラダ……」
「なに?」
「人参が随分と可愛らしい形をしているな。これは、星か?」
「雨竜の誕生日だもの、少しくらい特別にしてみるのもいいかしらって思って。型抜きも雨竜と一緒にやったのよ」
「そうか」
「雨竜は、私が縫い物をしている時ずっと傍で見てるから、きっとこういう細かい事とか、何かを作るのが好きなのね。幼稚園でも、工作は人一倍頑張ってやっているみたいだし」
「職人やデザイナーが向いているのかもしれないな」
「でもこの間、将来の夢はお医者さんだって絵に描いてたじゃない」
「……そうだったな」
「……ねえ、あなた……、!」
「! ……起こしてしまったか」
「雨竜の部屋まで聞こえるわけはないんだけど……」
「……んんー……おとうさん……?」
「雨竜、どうしたの? もう十一時よ」
「おとうさん、かえってきた……?」
「ああ、さっきな。ただいま」
「えへへ、おかえりなさい」
「……雨竜、お父さんが帰ってきたって、どうして分かったの?」
「……? わかったから……」
「……そうか。誕生日おめでとう、雨竜」
「おとうさん、プレゼントありがとう……」
「もう遅いから寝なさい」
「んー……」
「ほら、しっかり掴まって」
「うん……」
「寝かせてくるよ」
「ええ……」

「ほら、お休み雨竜」
「ねえおとうさん……」
「なんだ?」
「おかあさんとつくったサラダとケーキ、おいしかった?」
「もちろん、とてもおいしかったよ。さあ、明日も幼稚園だろう、もう寝なさい。ちゃんと布団を被って、目を閉じて」
「おやすみなさい……」
「ああ、おやすみ」
「ん…………。……」
「……眠ったか」

「お帰りなさい。……ねえ、さっきの雨竜……」
「分かっている。……霊圧感知能力の成長が、思っていたよりも早いな」
「私、ちゃんと確認したのよ。九時にはもうちゃんと……」
「眠っている間でも感覚として捉えてしまうんだろう。……雨竜が眠っている間は、もう少し霊圧を抑えた方が良さそうだな。それから、霊気避けの結界も用意しよう。私が帰ってくる度に起きるのでは、雨竜の体に良くないだろう」
「……早すぎる、と思うのは気にしすぎかしら? だって雨竜は純血じゃないのよ、なのにこんなに……」
「それでも滅却師としての能力は十分すぎると言うことだ……出来ることなら、滅却師としては育てたくないのだが」
「でもそれは、」
「分かっている。……分かっている、この町で生活する限り整も虚もついて回る、何も教えないのは酷だ」
「……それでも、あの子には滅却師になってほしくない。そうでしょう?」
「……」
「ごめんなさい、ご飯食べてる時にこんな話……」
「いいんだ、いつかはしなければならない話だ。……いつか雨竜自身が選択できるようになれば、それに越したことはないんだが」
「……そうね」
「……しかしこのケーキ、随分と甘いな」
「雨竜に合わせてるから……それにあの子、張り切ってクリームを厚く塗りすぎちゃったみたいで」
「だが随分丁寧に塗られているな……そうだ、雨竜になにか手芸でも教えてみたらどうだ。針を使わないことから何か……」
「それはいいかもしれないわね、もうすぐ寒くなるし、一緒に手編みのマフラーでも作ってみようかしら。あの子物覚えがいいから、きっとすぐ上手くなるわよ」
「それは楽しみだな。……ごちそうさま。うまかったよ」
「お粗末様でした、食器は私が片付けるからそのままにしておいて。お風呂湧いてますよ」
「ありがとう。お前もあまり遅くまで起きていると体に障る、片付けたら私のことは気にしないで早く寝た方がいい。……いつも言っているだろう、私の帰りは待たなくて良いと」
「ええ。でも今日くらいは、ね?」
「……まあ、そうだな」
「ふふ。明日は夜勤だったかしら?」
「そうだ。午前の間は家にいる」
「なら、今からゆっくり体を休めて」
「ああ、ありがとう……お休み、叶絵」
「……お休みなさい、竜弦さん」

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2016年の石田誕に間に合わせるために最終巻発売日から2日で特急で書きました。
真面目に計算していたら気付いたのですが雨竜が幼稚園児の時の竜弦って下手したらまだ研修医とかでは……?