「……なんだ、これは」
「何って、誕生日プレゼントだけど」
テーブルの上に置かれた物を見て、竜弦は眉間に皺を寄せている。
それが何なのかは知識として知っているが、自分の生活に入り込むことはまるで想像していなかった物体を目にして当惑しているといったところだろうと、雨竜は手にしたティーカップをソーサーに置きながら分析する。
掌に収まるほどの藍色の鉢に植えられた、小ぶりながらその枝葉を天に伸ばそうとしている松の木。
世間一般ではそれを「盆栽」と呼ぶ。
「渡す瞬間まで僕の部屋の方に置いていおくつもりだったんだけど、あんたの帰りが遅いからここまで持ってきた」
時刻は既に22時を回っている。帰りは20時と聞いていたのだが。
これは今日はここに泊まりだな、と、雨竜は立ったまま困惑する竜弦を他所に立ち上がる。
「夕飯温めてくるから、少し待ってろ」
そう言い残し、キッチンに足を向ける。
スープ、サラダ、ローストビーフと付け合せ、バゲットを皿に盛り、今日のために買ってきたワインを搭載したカートを押してダイニングに戻ってみれば、竜弦はまだ立ったまま盆栽と睨めっこしていた。
「まだ見てるのか?」
「……お前の考えることは分からん」
「分からないなら分からないでいいさ、大事にはして欲しいけど。道具も一緒に買ってあるから後で渡す」
雨竜はてきぱきと皿をテーブルに並べ、グラスにワインを注ぐ。
「……」
竜弦は盆栽から顔を上げて怪訝そうに雨竜を見たが、雨竜が食事を並べ終えたのを見てようやく椅子に腰を下ろした。雨竜も向かいの椅子に座る。
これだけじゃ伝わらないか、と、静かに食事をしている竜弦を見て思う。
(長生きして欲しいだけなんだけどな)
誕生日に松を贈るというのは我ながら直球すぎるかと思ったものの。
この松がもう少し育つ頃に伝わっていればそれで良いか、と、雨竜は飲みかけのカモミールティーに口をつけるのだった。
タグ: 石田家
フローライト(竜叶)
竜弦と叶絵が若い頃の話です。
竜弦がずっと暗いです。
◆◆◆
「お前に暇を出したい」
二人の間を挟むテーブルの上に置かれたのは、解雇予告通知書。
それを差し出した彼女の主は、淡々と言った。
「僕は、お前に幸せになってほしい。石田家に残り僕に仕え続ける限り、お前が幸せになることは出来ない。だから、石田家の外で幸せになってほしい」
そして、解雇予告を言い渡された彼女――片桐叶絵は、主の顔を見てはっきりと、こう言い切ったのであった。
「お断りさせていただきます」
「そうか、ありが……待て」
断られたことに気が付いた石田竜弦は、浮かべ掛けた安堵の表情を慌てて引き締めた。
「断ると」
「はい」
「……理由は言っただろう」
「はい。ですがそれは竜弦様の本意ではないとお見受けしております」
「っ……無理矢理にでも辞めさせると言ったら」
「出るところに出させていただきます」
「うっ……」
叶絵の言葉に、竜弦は小さく呻く。その内情を可能な限り外界から隠さなければならないこの石田家において、「出るところに出る」というのは非常に面倒な事態を引き起こしかねない。それは叶絵もよく理解している筈であり、つまり彼女は本当にここの使用人を――より正確に言えば、竜弦の側近としての務めを辞める気がないのだ。
「……本当に、辞める気はないんだな」
「以前も申し上げた筈です。片桐の務めは、生涯を掛けて竜弦様にお仕えすることだと」
「っ……お前だって分かっている筈だろう、そもそもお前が僕付きになったのは……!」
「初めから承知しております!」
声を荒げ掛けた竜弦に、叶絵も声を張り上げた。
「承知の上で、お断りすると申し上げたのです!」
ほとんど怒っているようなその声色に、竜弦は言葉を失った。
一方で叶絵は、これで話は終わりと言わんばかりに立ち上がる。
「そろそろお夕飯の支度にかかる時間です。失礼させていただきます」
叶絵は綺麗に一礼すると、部屋から立ち去った。後には解雇予告通知書と唖然とする竜弦だけが残された。
叶絵が厨房に足を踏み入れると、先に用意を始めていた年長の同僚が声を掛けてきた。
「叶絵ちゃん、さっき竜弦様と何かあったの?」
「はい、少し」
叶絵は調理用のエプロンを身に着けながら答える。
「お暇を出されそうになったので、お断りしました」
「えっ、竜弦様から?!」
「はい」
「理由は何か仰ってたの?」
「……それは、お答えできません」
叶絵が目を伏せたのを見て、勘のいい同僚は重ねてこう尋ねた。
「竜弦様が良くないパターンだったりする?」
「……そうかもしれませんね」
あら、と同僚は目を見張る。叶絵がこうもあっさりと主の非を認めるのは珍しい事だった。一方で叶絵は流しで手を洗いながら、どこか哀し気に呟いた。
「竜弦様は、ご自分の幸せというものを考えておられませんから」
◆◆◆
――混血統とは言え、あなたは滅却師。純血滅却師に劣ろうとも、竜弦の能力を後世に残す義務があるのです。
幼い頃、竜弦の母親にそう言われたことを叶絵は今でも覚えている。
滅却師とはそういうものなのだと幼いながら理解しているゆえに、叶絵は大人しく頷いた。
これから自分が使えることになる主に己の人生を捧げるという未来を、選択の権利すら与えられなかったにも関わらず、彼女は受け入れていた。そのように教育されて育ったのだ、小学校に上がる直前の幼い少女には、他の人生など想像しようもなかった。
そうして叶絵は、それを当然のこととして、彼女よりも年下の主――竜弦の側近となった。
――遠足って、どんな感じなの。
叶絵が小学校の遠足に行っていた日、就寝の準備をしている叶絵に当時小学一年生であった竜弦がそう尋ねた。
義務教育の期間中、叶絵は泊りがけでない校外学習に参加することを許されていた。
それは彼女が混血統であり、「混血統滅却師が外で多少血を流したところで問題ない」と、ある種雑に扱われているが故だったのだが……裏を返せば、純血滅却師である竜弦はあらゆる校外行事への参加を許されなかった。
「見ていないところで何かあっては困る」という、学校側からは過保護と捉えられ、一方石田家側からすれば「唯一の後継者に不慮の事故で傷を付けるわけにはいかない」という滅却師としての切実な理由であった。
遠足がある日は学校を休み、滅却師としての修行。それが竜弦にとっての当たり前であった。
その年、叶絵の学年は町外の動物園へ出かけていた。叶絵は、動物園で見た動物たちの様子や、お昼は芝生の上でレジャーシートを広げてお弁当を食べるのだということを話した。
叶絵の話を聞いた竜弦は、その日の修行で怪我をしたという左腕の包帯を撫でながら、全てを諦めたような笑顔で、こう呟いたのだった。
――行ってみたいな。
叶絵の目から見ても、竜弦は己の望みの何もかもを諦めて生きているような子供だった。
世間一般の子供たちが得ている「普通の幸せ」を、「石田家の後継者である」という理由でほとんど知ることなく育っている子供。「普通の幸せ」に憧れながら、自分は滅却師なのだからそれを与えられなくても仕方ないと自分に言い聞かせるようにしながら辛うじて立っている子供。それなのに、常に自分以外の誰か――それは彼の母であり、従妹の少女であり、時には叶絵であった――を慮り、優先し、常に己の意思を押し殺すことを覚えてしまった子供。
いつしか叶絵は、そんな竜弦に笑ってほしいと、少しでも幸せを感じてほしいと願うようになった。その感情がどのようなものであるかとは考えなかった。ただ竜弦が笑っていれば叶絵は幸福であったし、竜弦が悲しんでいれば叶絵の胸は張り裂けそうになった。それだけのことであった。
成長するにつれ、竜弦の顔に自然な笑顔が浮かぶことは少なくなっていった。朝の起床が遅いので起こしに向かうと、ベッドの上で体を起こしたまま瞳の焦点が定まらず虚空を見つめているようなこともしばしばであった。竜弦の心が限界に近づき始めていることは火を見るよりも明らかだった。それでも叶絵は、少しでもその支えになろうと、竜弦に仕え続けた。
叶絵には義務教育期間を経て学校に「普通」の友達がいたので、自分の置かれている境遇が「異常」であることを思い知る機会などいくらでもあった。
修学旅行には参加できず、高校進学もしなかったが、それでも彼女は竜弦に仕える己の人生は幸福であると感じていた。
黒崎真咲が竜弦の婚約者として石田家に迎え入れられた時も。
真咲の身に起きた例の「事故」後も。
真咲が石田家を出た後も。
竜弦の母・依澄が息を引き取った後も。
叶絵は変わることなく、竜弦に仕え続けた。それだけが、自分が竜弦のために出来ることであると信じていた。
何故自分が竜弦の側に置かれたのか、叶絵が自らの意思で竜弦に生涯を賭けて仕えるのだと決めている以上、そんなことには最早何の意味もなかった。
そして竜弦自身が自分の代で滅却師を終わりにするのだと決めた以上、竜弦にとってもそれは最早何の意味も成さない筈だった。
「片桐……」
解雇予告通知書を差し出し・あるいは差し出されたその日の夕食で、竜弦は食事を用意した叶絵の顔を見て何か言いかけた。
しかし叶絵は、主に対して頑なになることを選んでいた。
「先ほどの件でしたら、申し上げたことが全てです」
竜弦が困ったように眉を顰める。
その表情を見て、この人はまだ自分の意思を主張することに躊躇いがあるのだと、叶絵は胸が痛んだ。
竜弦にとってそれがどれほど苦しく負担が掛かることであるか、叶絵は知っている。それでも、彼の抱える本音を察することが出来る人間としての自覚がある以上、叶絵は引くことが出来なかった。
「……竜弦様が何かを隠していることが分からないほど、お仕えしている期間は短くないつもりです」
叶絵に言えることはそれだけだった。
◆◆◆
それからひと月の時が流れた。
相変わらず叶絵は竜弦の側近として仕えていたし、竜弦は叶絵に何か言おうとしては諦めることを繰り返していた。
叶絵以外の使用人達は、竜弦からいつでも辞めてもらって構わないと言われている中で誰も辞めずに屋敷に残っていた。だって他所の待遇を見ても結局ここが一番いいのだものねえ、竜弦様が当主名代になられてから更に働きやすくなったくらいですもの、と彼女らは言う。
竜弦の父・宗弦は、本来の当主であるにも関わらず、相変わらず屋敷に帰ってくることはほとんどなかった。
そんなある日、大学の年度末の考査を終えたばかりの竜弦が起き抜けに熱を出した。
「39.5℃……」
体温計に表示された数字を叶絵が読み上げると、竜弦は天井を見つめたまま「そうか」とぼんやりした調子で呟いた。
「起き上がれそうですか?」
「なんとか……」
「では朝ご飯を食べて少し落ち着いたら病院へ行きましょう、私が車を出します。何か食べられそうでしょうか?」
「……少しなら」
「それではりんごをすりおろして来ますね」
竜弦の部屋から出た叶絵は、厨房で林檎を半分すりおろして叶絵が手ずから口に運んだが、実際に竜弦が口に入れられたのはその半分にも満たなかった。
叶絵の運転する車で竜弦は近くの診療所に連れて行かれ、インフルエンザの検査を受けたが結果は陰性。風邪ですね、お大事になさってください、と、人の好さそうな中年の医者は目を細めて笑って言った。
竜弦が通っているのは医大であり、すぐ近くに大学病院もある。運悪く質の悪い風邪を貰って来てしまったか、あるいは長年の様々な無理が祟ったか、そのどちらでもなくただただ運が悪かったのか。それを考えることは竜弦が望まないであろうと思ったので、叶絵は考えないことにした。
病院から帰宅した竜弦は、薬を飲んですぐに眠ってしまった。眠りながら魘されている様子もなく、静かなものだった。
叶絵は時折竜弦の氷嚢を変えたりタオルで汗を拭いながら、その傍に付いていた。それ以外の時間は、自分の部屋から持ってきた編み物を進める。竜弦が今よりもう少し子供であった頃、同じように風邪を引いた竜弦の看病を付きっ切りでしていたことがあり、その時に言われたのだ。「ずっとそこにいたら退屈だろうし何か本でも読んでいればいいのに」と。実際は退屈なわけがなく、数分おきに竜弦の様子を伺うことになるので本を読めるわけもないのだが、今回もきっと同じように言うだろうと思ったのだ。編み物であれば少しの時間でも進められる。
病院から帰ってきて二時間ほど経った頃、竜弦が静かに目を覚ました。
「おはようございます」
叶絵が声を掛けると、竜弦はまだどこかぼんやりとした声で、「何時だ?」と尋ねてきた。
「もうすぐお昼の十二時です」
失礼します、と断ってから、叶絵は竜弦の額に触れた。氷嚢で冷やし続けてはいたが、朝とそう変わらずまだ随分熱い。
「食欲はありますか?」
「……あまり、ないな」
「ではお昼は、果物かゼリーをお持ちします」
叶絵がベッドの前から踵を返そうとした時、竜弦がぽつりと呟いた。
「目を覚ましたら誰もいないかと思った」
「……」
「熱で霊圧知覚が馬鹿になっているんだ、きっと。でもお前がいて、安心した」
「……片桐は、どのようなことがあろうと竜弦様のお側にいますよ」
そう言って微笑む。叶絵はマスクをしていたし、ただでさえ視力が弱い上に熱で弱っている竜弦に見えているかは分からなかったが、竜弦は少しだけ安心したように目を細めた。
昼食として用意したのは、栄養補給用のゼリー飲料と少量のコーンスープであった。ゼリーを深めの皿に全て開けて叶絵が朝のようにスプーンを手にすると、竜弦が「自分で食べられる」と呟いた。竜弦にスプーンを渡すと、少し危なっかしい手付きながらもゆっくりとゼリーとスープを完飲したので叶絵は内心胸を撫でおろした。
食後の薬を飲んで、竜弦は目を閉じる。またすぐ眠りに落ちたことを霊圧で感じたが、その眠りが先と違うことに叶絵はすぐ気が付いた。
ひどく苦しそうな霊圧の震え。どこか悪くなったのか、と腰を浮かせたとき、固く瞼を閉じた竜弦の唇から言葉がこぼれた。
「ごめんなさい」
幼い子供のような声色で苦しそうに眉を寄せながら、竜弦はうわ言をこぼす。
「ごめんなさい、おかあさま、ごめんなさい」
その言葉を聞いて、叶絵は必死の思いで竜弦の手を取った。
熱い。だが、触れられる。両手で包み込むようにして、その手を握った。
「……奥様は、もうどこにもおられませんよ」
と、呟く。もう、この人がいくら悔いたところで、どうしようもないことなのだ……そう思った瞬間に瞼が熱くなり、視界が滲んだ。自然、堰を切ったように感情があふれる。
「旦那様が滅却師の修行に打ち込んで帰って来ないことも、奥様がそれを寂しく思っていたことも、真咲様の魂魄に虚の血が混ざったことも、貴方が生まれた時から望まぬ戦いを強いられているのも、そんなの、竜弦様ただ一人でどうにかなるわけがないではありませんか……!」
世界そのもの、そして一族のありとあらゆる理不尽を幼い頃からその身に受けて自分の幸せを全て諦めて、それでもなお自分以外の誰かの幸福を願ってしまう竜弦のあり様が、悲しくて苦しくてたまらなかった。
この人が自分の幸せを諦めたところでどうにかなるようなものではないのに、それでもこの人は自分の心を犠牲にしてまで今もなお苦しみ続けている。過去の影に、あるいは、幼い子供の自分によって。
叶絵を解雇しようとしていたのだって、叶絵を思っての行動だ。叶絵に側にいて欲しいと竜弦自身が願っているのにも関わらず、竜弦自ら自分の望みを諦めようとしていた。それが分かってしまったから、叶絵はそれを突っぱねたのだ。
どうしてこの人は、この人ばかり、いつもいつもいつも!
「……かたぎり?」
名前を呼ばれ、叶絵は涙を拭う間もなく顔を上げる。竜弦はゆっくりと瞬きして、まず叶絵が握っている手を見て、笑むように目を細めた。
「ああ、そうか。お前がいてくれたから」
「……?」
竜弦の言葉の意味がわからず叶絵が黙っていると、竜弦は叶絵が泣いていた事に気が付いたようだった。
「……泣かないでくれ、お前が泣いていると、僕も苦しい」
竜弦の言葉は平時に比べてどこかぼんやりとしていて、まるで夢を見ているようだった。熱に浮かされているのだろうと、叶絵は思う。
自分の声も泣いて掠れていたが、構うことはなかった。
「竜弦様が泣けないから、私が泣いているのだと言ったら、どうなさるおつもりですか」
「苦しいけれど……少し、嬉しい」
予想外の返答に驚いていると、竜弦はふわふわと言葉を紡ぐ。
「こんな僕にもお前は心を寄せてくれていて、手を握ってくれる……それがお前であることが嬉しい」
普段の竜弦であれば言わないようなその言葉に、叶絵は目を見張る。
だが、きっとそれだけ疲れているのだろうと、竜弦の額に汗で張り付いている前髪をそっと退けながらタオルで汗を拭った。
「……もう少し、お休みになってください。まだ、熱は下がっていないのですから」
「ああ、そうする」
水をひと口飲んでから、竜弦は目を閉じた。
その寝顔が今度こそ穏やかなものであることを確認し、叶絵は安堵した。
同時に、ここまでの状態にならないと幾重もの心の防壁を取り払うことも出来ない竜弦のあり方は、やはり悲しかった。
竜弦の熱は翌朝には下がり、結局竜弦が熱に魘されたのはその一度きりであった。
熱が下がったあとも、高熱のせいでひどく頭が痛い、と竜弦はベッドに潜っていた。
叶絵はその間も竜弦に付き添いながら、編み物をしていた。時折戯れのように言葉を交わし、穏やかで緩やかな時間が流れた。
この人の人生がしばらくずっとこうであれば、と叶わぬことを思ってしまううちに竜弦は回復し、二日目の夜には、平時より少ないながらも普段通りの食事を食べられるようになっていた。
◆◆◆
竜弦が風邪を引いて一週間ほどが経過した。
竜弦はすっかり回復して、屋敷はゆっくりと日常に戻っていった。
「少し、出掛けたい」
朝、いつものように食堂での朝食を終えた頃、片付けを進めている叶絵に向けて竜弦がそう言った。
「行ってらっしゃいませ。何時頃にお戻りになられますか?」
「いや、お前とだ」
手にした皿を取り落とさなくて良かった。
「そう、でしたか」
「片付けが終わってからでいい、玄関に来てくれ。……その、私服で」
「……かしこまりました」
食器を全て下げた後の片付けを同僚に任せた叶絵は私室でクローゼットを開けたものの、竜弦の前で叶絵が私服を着る機会はほとんどない。
本当にこれで良いのだろうか、と迷いながらも着替えて玄関に足を運ぶと、竜弦が階段の手すりにもたれるようにして立っていた。
竜弦は叶絵を見ると、穏やかな笑顔を見せた。
あの風邪以来、竜弦は時々こうして笑うようになった。まだ疲れが残っているのかと初めは思ったが、そういうわけでもないようだ。
助手席に叶絵を乗せて、竜弦は車を走らせる。
竜弦が車を止めたのは、町のはずれにある大きな公園の駐車場だった。叶絵が小学一年生の頃に遠足で来たことがある場所だったが、叶絵の記憶の限り竜弦はここに来たことが無いはずだった。ただ……
「修練場がこの近くだろう。小さい頃に、いつか来たいと思っていたんだ。すっかり忘れていた」
「……そうでしたね」
子供が芝生広場を駆け回り、大きな遊具ではしゃいでいる。そんなありふれた光景を何か眩しいものを見るような目で見つめてから、竜弦は掲示されている地図を見る。そして展望台の方へと足を進めた。
真冬、その上平日ということもあってか、園内の人影はまばらである。
展望台を一番上まで登っても、周りには誰もいなかった。
町全体を見下ろせる展望台は、春であれば周りに植わる桜に彩られていたのだろうが、 今は寒々しい風が枝を揺らすのみである。
「……お前と、一対一でちゃんと話をしたいとおもったんだ」
眼下の町を眺めることもなく、柵に背をもたれさせながら竜弦は叶絵を見た。
「片桐、これから言うことが僕の勘違いならすぐに否定してほしい。お前が僕に尽くしてくれるのは仕事だからか、それとも、それ以外の理由があるからなのか?」
その言葉に、叶絵は真っ直ぐ竜弦の目を見て答えた。
「……仕事というだけで尽くせるほど、私の立場は安いものではないと自負しております」
「……」
「他の誰かに譲る気もございません。……片桐叶絵は、たとえその始まりが強制されたものだとしても、自分の意志で、竜弦様ただひとりにこの生涯を捧げると誓ったのです」
本心からの言葉であった。竜弦はその言葉に、「そうか」とどこか哀しげに呟いてから続けた。
「僕の人生には、先がない。近くはないが遠くもない……そういう未来に、恐らく死ぬ。それでも、僕と共にいてくれるのか」
「当然のことです」
「……使用人ではなく、家族として隣にいて欲しいと言っても?」
「……え」
予想だにしなかった言葉に思わず声が漏れる。竜弦はどこか夢を見るような、それこそあの風邪を引いた日のような声色で呟いた。
「僕の短い未来の中にお前がいて欲しい。僕の前からいなくなって欲しくない。……だけど」
くしゃりと、竜弦の顔が歪む。ひどく苦しげに、痛みを堪えているかのように。
「それを望んでしまったら、僕は子供のお前から未来を奪ったお母様と同じになってしまうじゃないか……!」
ああそうか、と、叶絵は得心が行った。この人は心の底から、私という女があの屋敷で決められた役割を全うして生涯を過ごすことを痛ましく思っていたのだ。
だからこそ、誰よりも長く共に過ごしている自分だけはそれを強制させた母親と同じでありたくないと、この人は願ったのだ。
「……同じなどでは、ありません」
叶絵は呟き、ちらりと展望台の眼下の町を見た。
遠足にも行くことも許されなかったあの頃の主に唯一与えられた、広くて狭い世界。
その世界から目を逸らし、また竜弦の目を見る。
「私は、ただ貴方との子を残すためだけの装置でも、貴方が私に見向きもしなくなっても、お側にいられればそれで構わないと思っていました」
外の世界を知り、自分と竜弦を取り巻く環境の異常性を思い知る機会ならば、いくらでもあった。竜弦より多いと言っていいだろう。
それでも叶絵は、竜弦に仕えることを選んだ。
「申し上げた筈です、全て承知の上だと。だから……貴方が私を望んでくださるならば、私にとってそれは望外の喜びなのです」
あの日のように、竜弦の手を取った。手袋をしておらず冷え切った右手を、両手で包み込む。触れている先から少しずつ熱を分かち合い始める手を見ながら、竜弦は呟く。
「死にたくなったことがいくらでもある。でも滅却師である以上、死が救済である確証なんてどこにもない。それにお前が作ってくれた食事が美味しくて、真咲が笑っていて……だから死ぬのをやめた、何回も。そんな面倒な男だぞ、僕は」
「よくよく存じ上げています」
「何度もあの家を出ようと思ったが実行出来なかった臆病者だし、あの家を出たところでまともな生活を送る自信もない」
「貴方は、優しすぎるのです。もう少し私に頼ることを覚えてていただきたいと、常々思っております」
「医大に入れたのも、結局現実から逃避したくて勉強し続けていたからだ」
「きっかけがそうであっても、お医者様は立派なお仕事です。苦しむ人を救いたいという貴方の本質の顕れだと私は思っております」
「……早く楽になりたいと、ずっと薄らぼんやり考えていたのに」
そこまで言ってから、竜弦は大きなため息を吐き出した。
「お前には、あんな家からも僕からも解放されて幸せになって欲しい。だから辞めろと言ったんだ」
言葉とは裏腹に、何かの憑き物が落ちたような、どこか晴れやかな声色だった。
「それで私が幸せになれるとお思いなら、竜弦様は少し頭を冷やされたほうがよろしいです」
「……一度冷やしたつもりだったんだが。お前がそこまで言うのなら、そうなのかもしれないな」
竜弦は左手を叶絵の手に重ね、そして握った。
「改めて、ちゃんと言わせてほしい。……僕の未来になってくれ、片桐」
「貴方がそう望むのであれば」
自然と頬が綻ぶ。ふと、竜弦の頬に微かに朱が差した。寒いのか、それとも別の理由か。
だがすぐに、竜弦は俯いて肩を震わせた。
「ふふ、ああそうか……」
「竜弦様?」
「ずっと忘れていたよ」
竜弦が顔を上げた。
その顔に浮かんでいるのは、泣き出しそうなほどの希望に満ちた、笑顔。
「これが『喜び』なんだ」
《自らが輝く》、ヤエヤマヤシ、それから(石田親子)
※雨竜が二十越えたあたりの話
◆◆◆
『昼十一時に迎えに来る』
まだ何も予定がないのであればこの日は丸一日空けておけ、と父に言われたのが二週間前。そして、具体的に何があるのかも伝えられないままにそう短いメッセージが送られてきたのが、今……つまり、約束の日の前日の夕方六時。
本当にこっちの都合を考えないな、と呆れつつ、何か服装の指定とかは、と返信する。返信が送られてきたのは三十分後であった。
『度を過ぎたカジュアルでなければどうとでも』
さてどこへ連れて行かれるのやら。
竜弦の指定でまず思い出したのが、誕生日だからと少し前に竜弦から贈られた服に含まれていたセットアップであった。高級ブランドのショップに連れて行かれ、着せ替え人形のようにあれこれ着せられては店員と竜弦の間でお似合いですよ否こうではないと言葉が飛び交い、気が付けば全身竜弦の好みにコーディネートされ、目の飛び出るような総額のそれを丸ごと贈られた。それはどういうわけか「雨竜の」誕生日ではなく、「竜弦の」誕生日に発生したイベントなのだが、こういったイベントはその後も何度か発生している。
竜弦は三月生まれなのであの時は春物中心のコーディネートとなったが、今は寒波襲来と連日ニュースで騒がれる真冬である。しかし幸いにもあのセットアップはオールシーズン使えますよと言われた記憶があるし、真冬に別のブランドのショップに連れて行かれたこともある。
とにかくあれを中心にすれば何か言われるようなこともないだろう……と、雨竜はセットアップほか竜弦から事あるごとに贈られている服でコーディネートを組み立て、翌朝十時五十分には綺麗に身支度を終えて自宅アパートで待機していた。
父の金遣いは決して荒いわけではないのだが、根本的に金銭感覚が世間ずれしているというのは家を出て一人暮らしを始めてから実感したことだった。
病院経営だけでなくどこぞに持っている土地やマンションあるいは株なんかの資産運用によって得ている莫大な収入の使い道と言えば、今は竜弦が一人で暮らしている屋敷の維持費用(馬鹿にならない額である)と食費に水道代に光熱費といった基本的な生活費が中心で、それ以外は竜弦が必要最低限の社会生活を営むのに必要な細々とした出費……と聞いている。
どうもその「細々とした出費」の中には息子を着せ替え人形にするあの奇怪な趣味費が含まれているらしく、その一回分の値段だけで雨竜からしたら数か月分の食費を賄えてしまうところを、竜弦は些細な出費だと涼しい顔をしているのだった。もっと他の趣味を見つけろと一度思わず怒鳴ってしまったが、竜弦の顔はやはり涼しいものだった。
あいつ家計簿とか付けてるのかな、と本人に言えば余計なお世話と一蹴されそうな心配を巡らせていると、竜弦の霊圧が近付いて来るのに気が付いた。
竜弦を玄関で出迎えると、まず竜弦は雨竜を頭のてっぺんから爪先まで眺め、そしてどこか満足げに頷いた。
「……よし。行くぞ」
「殴られても文句言えないからな、今の」
踵を返して近くに停めている車の方へ向かう竜弦に呆れながらそう声をかけ、雨竜は後を追いかけた。
本気で息子を着せ替え人形にしたいのかこの男は。
学生向けや単身者向けのアパートが多く立ち並ぶ住宅街にはどこか不釣り合いな高級車は、そのまま駅前を通り過ぎて都心方面へと雨竜を連れて行く。
「で、どこに行く気なんだ?」
晴れ渡った冬空の下のクラシカルな巨大駅舎を窓の向こうに認めながら訪ねると、竜弦は短く「まずは昼食だ」とだけ答えた。
竜弦は駅の近くの立体駐車場に車を入れると、近くの高級ホテルの方へと雨竜を連れて来た。雨竜の誕生日にこうした場所のレストランに連れて行かれたことはあるが、今日のような「何でもない日」に来ることは初めてであった。
「ランチってまさかここ……」
「他に何だと?」
上階へと向かうエレベーターに乗る竜弦の表情は平然としている。この父らしいと言えばこの父らしいが、と雨竜は思わず溜息を一つ。
エレベーターが止まった階にあったのは、ビュッフェ形式のレストランであった。竜弦が受付で名前を告げると席に案内される。東京の街を見下ろせる窓辺の席に通された。
「意外だな。あんたは食べ放題とか好きじゃないのかと思ってたけど」
「今日は私の都合でお前を連れ回すのでな」
「……ふうん」
ランチくらいは好きなものを食べろ、ということらしい。気の使い方がどうにもずれている気はするが、そういうところは今に始まったことではない。
雨竜は遠慮なく(ただし上品に)、好きなものを好きなだけ食べることにした。
これは自分でも作れそう、味付けは、これ後でもう一度食べよう……などと考えながら取ってきた料理を丁寧に食べている雨竜を、竜弦は雨竜に比べて少ない量を食べながら、険の無い──何か掌の上で小さく輝いているものを見るような目で見ていた。
食事を終えると、そのまま徒歩で向かったのは現代的な外観をした高層ビル――その中にある美術館だった。
「今日の目的ってここ?」
「そのうちの一つだ」
さてこの父に芸術を嗜む感性があったのだろうか……と雨竜は若干失礼なことを考えながら、事前に予約していたらしいネットチケットで入館する竜弦の後に続いた。
壁に掛けられているキャプションを見るに、この美術館に収蔵されているのはどうやら近現代の作品が中心らしい。
雨竜はこうした美術館に自発的に足を運ぶことはほとんど無かった。小学校から高校にかけての校外学習の類で連れて来られて目にした絵や彫刻を何となくいいな、と思うことはあれど、私生活においては美術館から縁遠い。
竜弦はどのような絵を好むのだろう、と横目で観察しているうちに分かったのは、どうも人物画や静物画よりも風景画や抽象画を好むらしいということだった。明らかに絵の前にいる時間が長い。
「こういうの好きなんだな」
種々の色鮮やかな図形がキャンバス上に配置されたカンディンスキーの絵をじっと見ている竜弦の隣に立って話しかけてみると、竜弦は雨竜を見た。
「可笑しいか」
「そうは言ってないだろ。意外ではあるけど」
竜弦は絵に視線を戻すと、呟くように言った。
「……こういった絵には、物語も信仰もない」
理由を言ってきたことに驚きつつ、なるほど、そうなると風景画や抽象画なのかもしれない……と、雨竜は納得する。そして、この美術館に展示されている時代以前の絵画は宗教色の強いものが多いという漠然とした知識を思い出す。
「そうか、そういう絵が好きなんだ」
「嫌いではない」
竜弦らしい……雨竜はそう思い、そのまま竜弦の隣りに立って絵を眺めた。
そうやって一時間ほど掛けて、ゆっくりと館内の絵を全て見て巡った。
ミュージアムカフェを見つけたので、次に行く前に少し休憩しよう、と雨竜が提案すると、竜弦はあっさり承諾した。
「次はどこに行くんだ?」
そう尋ねると、竜弦はアールグレイのカップを傾けながら「黙ってついてこい」とだけ答えた。
さっきの素直さはどこに行ったのやら、と雨竜は呆れながらもハーブティーを味わうのだった。
◆◆◆
竜弦の車は雨竜を乗せて、湾岸部へと向かう。
竜弦が車を停めたのは、海からほど近い大きな公園の駐車場であった。
駐車場から少し歩いて、竜弦は大きなドーム型の屋根を持つ建物の前で足を止めた。ドームから透けている緑色を見て雨竜はすぐその建物の正体に気が付く。温室──植物園だ。
入り口で二人分のチケットを買った竜弦は、建物に入る前に一度振り向いた。
「中は暑いぞ」
「来たことあるのか?」
「お前が生まれる前に一度と、お前が一歳にならないくらいの頃に」
その言葉とどこか懐かしむような目に、成程と合点がいった。
「もしかして、あの美術館も?」
「前の建物だった頃に一度。お前は生まれていなかった」
「……そう」
つまり今日巡っているのは、父と母がデートした場所で……その中でも、父がもう一度足を運びたいと思っていた場所、ということだ。
そのことに僅かなむず痒さを覚えるが、同時にこれは竜弦なりに心を開いているのだと分かるので、可愛いところあるな、と一歩先を歩く背中を見て思ってしまった。
建物に足を踏み入れ、ショップやカフェのあるロビーを通って温室の方へと入っていく。
竜弦の言う通り、緑の草木が生い茂るドームの下は外の冷気とは裏腹に南国の如き暑気に満ちていた。なるほどこれは……と、雨竜は早々にコートを脱いだ。
「僕は流石に覚えていないんだけど……アルバムを探せばここに来た時の写真はある?」
「何処かにあるだろうな」
背の高い熱帯植物や色鮮やかな花がそこかしこに咲いている。人工滝の水音も聞こえて来て、どこか日本ではないような雰囲気を醸し出していた。
「南国の植物が好きなんだ?」
「冬でなければ、別の場所も候補に入った」
「……植物が好きなのはなんとなく感じていたけど。そういえば動物はそんなに好きじゃないよな、あんた」
「何を根拠に」
「小さい頃、母さんやお手伝いさんと一緒に動物園に行った記憶はあるんだけど。あんたはいなかったなっていうのも覚えてて」
「……仕事があった」
「ふうん……まあ、いいんだけど」
温室の中をゆっくりと見て回る。ところどころに立っている解説パネルも、竜弦は丁寧に読んでいた。
ふと、ドームの天井まで届くほどのヤシの木を見上げる竜弦に尋ねてみる。
「で、植物だとどういうのが好きなんだ?」
すると竜弦はまた素直に答えてきた。
「……木と、長い葉」
「木と長い葉」
「それと、花。あまり主張しない花がいい」
「大雑把だな……」
「詳しいわけではないのでな」
「……だとしたらここ、あんたの好みと逆じゃないか?」
木と葉はともかく、この温室の中で咲いている花はどちらかといえば大ぶりで派手なほうだ、と思う。
「そうでもない、今は冬だ。……それに、叶絵がここを気に入っていた」
「……冬以外にここに来たことがあるのか?」
「いや、冬にしか来たことがない」
「じゃあ次は、別の季節に来よう」
雨竜の提案に、竜弦はヤシの木から視線を外して雨竜を見た。
「別の季節に来れば、違う花が見られるだろ。まあ、あんたの好みではないかもしれないけど、少なくともこの木は変わらずここにあるんだろうし」
そのような提案を思い付いたことに、雨竜も少し驚いていた。だがすぐに自分が以前竜弦に対して趣味を見つけろと怒鳴った時のことを思い出し、苦笑しながら続けた。
「今日のルート、あんたの好きなもの……というか、趣味候補とかだろ。年に何回か来てもいいんじゃないのか。少しくらいは付き合うさ。趣味を見つけろってあんたに言ったのは僕だからね」
「……随分邪推が上手くなったものだな」
「あんたの息子やってれば嫌でもそうなるよ」
竜弦はしばらく何も言わなかったが、やがて、何か諦めたようなため息を吐き出してヤシの木の前から踵を返した。
そして温室内を眺めながら、どこか独り言のように、しかし隣を歩く雨竜に向けて語り始めた。
「私は長く、世界を知らなかった。学校には通っていたが、通っていただけだ。初めて空座町から出たのは、大学入試の日だった」
「ああ、だから無趣味な上たまに世間知らずなんだ」
「……」
思い切り苦虫を噛み潰したような顔をされた。竜弦にしては珍しく感情がありありと表に出ているが、雨竜は先を促した。
「で?」
「……私よりは、叶絵の方が世界を知っていた。だから彼女は、私がただの人間でいられるようなものを見つけようとしてくれた。結局仕事にばかりかまけてしまい、何も定着しなかったが」
「酷いなあんた……」
「全くだ……お前に言われるまで忘れていたのだから」
今日訪れた場所も、それ以外に行ったのであろうデートの場所も、母が不器用で世間知らずの父のために選んだのだろう。
母さんはそういう人だ……と、雨竜は遠い記憶の中の母の顔を思い出す。家にいる時も仕事ばかりの父をいつも心配していた。
「……良かったな、母さんがあんたを見捨てないでくれて」
「……そうだな」
ほんの少しだけ、竜弦の口角が上がった。
おや、と思ったが、それはほんの一瞬のことで、竜弦はすぐにいつもの仏頂面に戻っていた。
「それじゃあここ以外も手伝おうか、あんたの趣味探し。まずは今日の美術館とここを起点にしてさ。いいじゃないか、あんたの人生はまだ先も長いんだし」
「……服を見立てられるのがそんなに嫌だったか……」
「いい歳した男の趣味が二十過ぎの息子依存なのは如何なものかと思っただけだ」
気恥ずかしいと言うのは、勿論多分にあるが。
「せめて頻度をなんとかしろ……年に一回くらいなら付き合ってやるから」
「……そうか」
その声色は随分と柔らかかった。
温室の出口に近付いた頃、竜弦がふと思い出したように言った。
「……幼い頃のお前をあちこち連れて行こう、何でもさせてみようと最初に提案したのも叶絵だった」
「そうなんだ」
「そうしたらお前にはしっかりと残った」
「……手芸のこと?」
手芸を始めたきっかけは母だ。幼い頃、母と一緒に簡単な編み物をした記憶が微かに残っている。
「ああ」
竜弦は頷いてから、ぽつりと呟いた。
「……お前が私のようにならなくて良かった」
その声はとても小さく、雨竜に聞かせるつもりもなかった言葉が無意識に零れたもののように聞こえた。なので雨竜は、聞こえなかった振りをした。
温室から出ると、あんなに青かった空の大部分がオレンジ色に染まっていた。吹き抜ける冷たい風に、思わず肩を竦ませる。
「で、今日はもう終わり?」
「そのつもりだが」
「夕飯はどうするつもりなんだ?」
「……何が言いたい」
「作ってやるよ、そっちが何も考えてないならだけど」
「……お前に任せる」
「じゃあ鍋にするから、帰りにスーパー寄ってくれ」
竜弦の運転する車は海に背を向けて、空座町へと帰っていく。
雨竜は窓の外を流れていく景色が少しずつ暗く、そして電気の灯が灯り始めるのを眺めながら、今日の竜弦の様子を思い出す。
竜弦が、雨竜が生まれる前……それどころか母と結婚する前、まだ家の管理下にある子供でしかなかった頃の話を自発的にするのは珍しいことだった。黒崎家と親戚関係にあったことは知っているが、それにしたって黒崎一心に教えてもらったくらいで、竜弦本人の口からほとんど何も聞いていない。なので、竜弦が初めて空座町を出たのが大学入試の日、というのは初耳だった。つまり小学校から高校に至るまで、いや、幼稚園まで遡って、遠足も修学旅行も行ったことがなかったのだろう。
そりゃ世間知らずにもなるわけだ、と、無論それ自体は竜弦に責任がないとは言え雨竜は納得してしまった。
竜弦としてもその話をするつもりは無かったのだろうが……息子に対してもう少し心を開く気になれた、というところなのだろうか。あるいは、そういう重苦しい過去を出汁にしてまで惚気話をしたかったか。案外後者かもしれない。
「なあ竜弦」
「なんだ」
「結構頑張ってたんだな、あんた」
「……どうだかな」
そう呟いた竜弦の顔がどこか晴れやかだったので、雨竜は思わず父さん、と呼び掛けそうになった。だが慌てて口をつぐむ。
こんないい日に事故でも起こされては堪らない、と思ったのだ。
11/6
最初に抱きかかえた時、両腕にかかる確かな重みと温度に一瞬思考が止まった。
新生児の平均体重は知識として知っていても、腕の中で眠るその赤子は思っていたより重く、同時に思っていたより軽かった。
自分のたった二本の腕にこの子の命が乗っていて、そしてそれは自分がこの子を抱きかかえられなくなったとしても続いていくのだ──そう実感した途端に、蓋をしていたものが溢れ出るように目頭が熱を帯び、思わず腕の中の赤子に顔を寄せる。
大切なものを守れないでばかりいる惨めな人生。それでも今度こそ、妻と我が子だけは。
──どうかこの子に、喜び溢れる生を。
願いを込め、そっと名前を呼んだ。
「……雨竜」
今年の11/6当日につぶやきページの方に投げたものです。
【竜叶】AM00:09
※描写はないが一応事後、雨竜を授かる前の話
「虚も滅却師も死神も居ない世界に生まれてみたかったよ」
ベッドの上で体を起こしてペットボトルを開けながら、竜弦がぽつりと呟く。
「生まれた時から何かに監視されているかもしれない、何かすれば殺されるかもしれない、何もしなくても殺されるかもしれない、そんなことを考えなくてもいい世界に」
それから竜弦は水を飲む。独り言のようなその言葉は、彼の隣にいる女に届いていた。
「……私はそのようなこと、考えたこともありませんでした」
竜弦の隣、ベッドに横たわり体をシーツで包んだ叶絵は、伏し目がちに応える。
「そんな世界は、物語の中でしか有り得ないだろうと……」
「そうだな、物語の中でしか有り得ない。自分の境遇を世界のせいにして、その上でいい年して物語の世界を本気で羨んでいるなんて、あまりにも子供だろうと自分でも思う」
竜弦の口ぶりは自嘲するようだったが、叶絵は何も言えなかった。それが彼にとって、笑い飛ばすにはあまりに切実な願いであることを理解していたからだ。
こんな世界に生まれてさえ来なければ、というあまりに強烈な自己否定。大切な人達の幸せを願いながらも自分の存在を否定しようとするどこか拗れたそれは、この世界と己に流れる血の残酷さを彼が身に沁みて知っているからに他ならない。
「……どうしても考えてしまうんだ。こんな世界でさえなければ、母様はもっと幸せでいられたのだろうか、って」
悔いたところで彼にはどうしようもない……竜弦も叶絵も、それは承知の上だ。ただ、この世界で滅却師が滅却師の家を保持したまま家庭を持つことのままならなさを竜弦は両親の姿を通して知っていた。それ故に、叶絵と結ばれることを選択して改めて思うところがあるのだろう。
「……だから竜弦さまは、ご自身の代で滅却師を終わらせようとなさっているのですか?」
幾年も続いた純血滅却師としての石田家を自分の代で終わらせるという決断。生まれた頃より石田家の跡取りとして育てられた竜弦にとって、それにどれほどの覚悟と勇気が必要なことか。
叶絵が体をシーツで隠しながら起き上がると、竜弦は叶絵を見た。天蓋の布越しの間接照明の柔らかなオレンジの光がその瞳に映る。優しくも哀しい色に、叶絵は思わず息を呑む。
「もう見たくないんだ、滅却師であるがために人が不幸になるのは。それが生まれてくるかもしれない僕達の子供ならなおさら。世界の方をどうしようもないのなら、僕が僕自身の有り様を変えるしかないだろう」
「……」
叶絵は知っている。
幼い頃の竜弦は滅却師としての自身の有り様を誇りに思っていたことを。
例え世界に必要とされていないのだとしても、この力で誰かを護れるのであればそのために強く有りたいのだと。
けれどその誇りは十年以上の時間を掛けて世界の歯車にゆっくりと圧し潰され、家庭内不和により罅割れ、あの雨の日に「誰よりも護りたい人を自分の力で護れなかった」という現実によって崩れ落ちた。
滅却師であるがためにひどく傷ついた男は、それでも立ち続け、「自分の代で」滅却師を終わらせるという選択をした。
竜弦はまだ滅却師であることをやめるつもりがない。そう有り続けなければならない理由があるのだ──叶絵はそう察しながらも、何故竜弦自身が滅却師であることをやめようとしないのか、聞くことは出来なかった。
叶絵は思わず竜弦の手を握る。
「……竜弦さまは、今、幸せですか」
叶絵の問いに竜弦は少し目を見開いてから、微かに目元を緩めて叶絵の手を握り返した。
「……幸せだよ、泣きたくなるほど」
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絵本の話
「おとうさんおとうさん、どうしてこのえほんのれいは、むかしの人のふくをきているの」
「ん? ああ……」
とある日曜日の昼下がり。
夜勤明けの就寝からつい先程起床してきたばかりでソファにぼんやりと座っていた竜弦は、足元で絵本を読んでいる幼い息子に目を向けた。
それは怪談の絵本のようで、開かれたページでは白い着物を着たテンプレートな女の幽霊が描かれていた。
「ぼくがようちえんに行くときに見るれいは、ぼくたちみたいなようふくだよ」
「まあ……そうだな」
この屋敷は竜弦が貼っている結界に覆われているために「整(プラス)」や「虚(ホロウ)」の類が入り込んでくることはない。そのため雨竜が幽霊を目にするタイミングは家の外にいる時のみとなる。それらは基本的に虚化する前の「整」であるのだが……
「そうだな雨竜、お前が目にする霊は比較的最近に命を落とした者の例だ。だから洋服を着ている。今現在を生きている私達のようなファッションなわけだ」
どこまで教えるべきか、と考えながら竜弦は身をかがめて絵本のページをつつく。
「一方でこの絵本は……ベースは四谷怪談だったな。ならば江戸時代、今からざっと二百年ほど前に書かれた話だ。その頃に出現する幽霊は、当然その時代に死んだ者の霊。着ているのはその時代のファッション……つまり着物だ。『着物を着た幽霊が出て来る話』が二百年間ずっと語られている、現代になってもその幽霊のイメージが多くの人の中にある、というだけの話だよ」
「うーん……」
竜弦としては可能な限り簡単に説明したつもりであったが少し難しかったのか、雨竜は考え込んでいる。
「……まあ、幽霊のことはあまり気にしないことだ。良くないものに取り憑かれてしまう」
「そうなの?」
「そうだ」
好奇心旺盛なのは雨竜の良いところだが、あまり霊のことを気にするようになっては今後何が起きるか分からない。
「見える」のはどうしようもない以上、フィクションにおける霊と本物の霊の違いを知るのも必要かもしれないと絵本を何冊か買い与える時に四谷怪談を入れた記憶はある。だが少し早かったのかもしれない……竜弦のそんな心配を他所に、雨竜の興味は別の絵本に移ろうとしていた。
「おとうさん、このほんよんで」
「……どれどれ」
雨竜が差し出して来た絵本の表紙には小さな魚の絵が描かれている。雨竜から絵本を受け取るとソファの上によじ登って来たので、隣に座らせる。
「……この絵本、前は母さんに読んでもらっていなかったか」
「おとうさんもよんで! 今日はおかあさん、おでかけしてるから!」
「仕方ないな……」
そう言いつつ思わず口元を緩めながら、竜弦は絵本のページを開いたのだった。
続・竜弦が雨竜に名古屋土産でぴよりん買ってきた話
「竜弦が雨竜に名古屋土産でぴよりん買ってくる話」の続きです。
◆◆◆
「わあ、ぴよりんだ!」
箱から覗くひよこ型のケーキに最初に声を上げたのは井上だった。
「本物は初めて見たな、可愛い〜……」
「可愛いな……」
その可愛らしさに井上と茶渡が夢中で写真を撮る中で黒崎は、どこかむず痒そうな顔をしながらテーブルにカトラリーとコーヒーセットを並べている石田を見た。
「……で、これ買ってきたのがお前の親父さんと」
「……そうだよ」
「………………なるほど」
「な、何だその目は!」
「ぴよりんってすぐに崩れちゃうから、持ち帰るの大変なんだって。だから凄いね、石田くんのお父さん」
「ぴよりんの持ち帰りは箱の形の都合で偶数個が適している……だから四つ買ってきたんだろう」
「井上もチャドも詳しいな……」
ならば何故「二つ」ではないのか……それは石田以外の三人が思ったことだが、あえては言わない事にした。
石田は綺麗な白い皿にぴよりんを一つずつ乗せ、四人分のカップにコーヒーを注いでいく。
「……上がっちまって良かったのか?」
石田の実家に三人が足を踏み入れるのは初めてであった。黒崎に尋ねられた石田は事も無げに答える。
「竜弦に連絡はした、その上で何も言ってこないんだから問題ないさ」
「……ならいいんだけどな」
黒崎はまだ少し気になっているようであったが、石田は全員分のぴよりんとコーヒーをテーブルに並べ終えた。
「甘そうだからコーヒーにしたんだけど……良かったかな」
「大丈夫だよー」「問題ない」「ありがとな」
石田は三人の返答に少しホッとしたような顔をしてから席につき、各々がスプーンを手に取る。
「……おいチャド、大丈夫か」
「た、食べられない……」
「本当になんでこんな可愛いもの買ってきたんだあいつ……?」
「いいじゃねーか、せっかく親父さんが買ってきてくれたんだ、食おうぜ」
躊躇する茶渡と改めて訝しむ石田を促すように黒崎は真っ先にぴよりんの背中側にスプーンを入れた。そしてそのまま口に運ぶ。
「ん、美味いぞこれ」
「……わあ、本当だ! 美味しい〜!」
織姫も幸せそうにぴよりんを口に運ぶ。
二人に後押しされるように茶渡もぴよりんに背中側からスプーンを差し、最後に石田もどこか渋々とぴよりんにスプーンを伸ばす。
まず茶渡が素直な感嘆の声を漏らす。
「厶……美味い」
「でしょ?」
それから三人は石田の方を見る。石田はぴよりんに小さくスプーンを差し入れ、それを口に運んだ。
そしてその表情がふわりと解けたのを見て、井上が素早く携帯端末を手に取った。
「石田くん、写真撮るね!」
「?!」
石田がなにか言う前に井上は素早くシャッターを切り終えていた。
「井上さん?!」
ぴよりんを飲み込んだ石田が叫ぶが、その時にはその場の全員の端末が震え、あるいは通知音を鳴らし、あるいは通知ライトを光らせていた。
「石田くん、すごくいい顔してたよ」
「だ、だからって……じゃあ君達も撮らないと不公平じゃないか?!」
そう来るか。
そう来るか……。
黒崎と茶渡は、奇しくも内心で全く同じことを呟いた。
「うんうん、だから皆で撮ろう!」
当然ながら、井上は満面の笑みでそれに応じる。
しっかりと四人全員収まるように写真を撮り、その写真もグループトークに共有される。
そうして四人はぴよりん&コーヒータイムに戻るが、雨竜だけはやや恨めしそうに井上を見た。
「……僕の写真をわざわざ上げる必要があったのかい?」
「もし石田くんが良かったらなんだけど、石田くんのお父さんに送ってあげたら喜ぶかなぁって」
「喜ぶかなあ……?」
石田は訝しむが、黒崎と茶渡は井上に同調する。
「喜ぶだろ」
「喜ぶな……」
「な、なんなんだ君達は……」
不服であることを隠そうともしない石田だが、その頬はうっすらと赤くなっていた。
それから四人はぴよりんとコーヒーを伴に常と変わらぬなんてことはない雑談をする。陽が傾き始めた頃には何とはなしに解散する流れとなった。
そうして三人を玄関で見送り、その背中が見えなくなってから石田はこめかみを押さえて呟いたのだった。
「写真送ったほうが良いのか……?」
それから凡そ一時間後。
「院長、本日のカンファについて確認が……」
空座総合病院の内科部長が院長室に足を踏み入れた時、部屋の主たる院長はじっと携帯端末の画面を凝視していた。
その様子がどこかただならぬ雰囲気であったので、内科部長は恐る恐る声を掛ける。
「……どうかしましたか、院長?」
「いや……」
院長・石田竜弦は端末をテーブルに伏せ、僅かに目を細めながら呟いた。
「生きていれば良いことがあるな、と」
「はあ……」
◆◆◆◆◆
特に知っていてもいなくてもいい裏話:出張先で竜弦にコーヒー受けとしてぴよりんを差し出した剛の者がいたらしい。
石田家SS台詞オンリー9本ノック
「私からすればお前か叶絵の作った食事以外は全て等しく栄養以外の価値はない」
「それ絶対外で言うなよ……」
「冗談だ」
「冗談に聞こえないんだよ」
こんな感じで台詞オンリーのやつがひたすら続きます
【石田親子】6月某日
「私が父親で良かったと思うか」
ほとんど酔い潰れて──連れて帰って来た黒崎のお父さんに何度も謝られた──ベッドの上に横になった竜弦は、どこかぼんやりとした目で僕の服の裾を掴んでそう小さな声で呟いた。
「良かったんじゃないのか、僕はこうして普通の生活を送れているわけだし」
こんな事を言っても酔いが醒めたらどうせ覚えていないだろうしまた同じことで悩むんだろうこの父親は。そんなことを思いながら、裾を掴む指を解いて、掛け布団を竜弦の上に広げてやる。
「だから少なくとも今は、あんたが親で良かったと思っているけど」
「……そうか」
竜弦は少しだけ安心したように呟いて目を閉じた。そのまま安らかな寝息が聞こえて来たので、僕は父の寝室を後にした。
これから何度あんなことを言ってやれば良いのやら。いっそ素面の時に言ってやろうか……いや、恥ずかしいからやめよう。向こうだってあんなこと素面では聞けないのだから。
全く、手の掛かる父親で困る……そう思いながら首を横に振る。
よりによって父の日の前日に、そんなことで思い悩まなくてもいいだろうに。
ハロウィン竜弦が吸血鬼だったらのIF
※ハロウィンソサエティ設定+独自設定
※CPではないが距離が近い
父の血なら飲める。
その思い付きは、突如天啓として石田雨竜に降り注いだ。
滅却師であり吸血鬼、だが信念の都合により吸血出来ない。雨竜はそんな難儀な業をかかえている。
牛乳を飲んではいるものの日頃から貧血に悩まされており、いい加減吸血をしろと友人のとあるフランケンシュタインの怪物に言われてしまう。
己の全力を振るえないということは屈辱ではあるものの、死神の色である赤い血を飲むのもそれはそれで屈辱。
だが同じ滅却師である父の血なら飲めるのではないか。飲める気がする。
そんなわけで、雨竜は手っ取り早く父・竜弦(職業:モンスターハンター)の寝込みを襲うことにした。
そうして、あっさり返り討ちにされた。
「馬鹿なのか、お前は」
「っ……」
ついさっきまで眠っていたはずの竜弦は恐ろしく機敏に雨竜の襲撃に対応し、その細い手首を掴んでいとも簡単にベッドに押し倒した。
雨竜を見下ろす竜弦の色素の薄い瞳が、開け放たれた窓から差す月光を反射して鈍く光る。雨竜は竜弦を睨みながら抵抗しようとするが、どういうわけか体に力が入らず、拘束されていない足を動かすことすらままならない。
「なっ、これ……」
「催眠術の応用だ」
掛けられてから気付くか、と竜弦は溜息を吐き出した。
「吸血鬼だというのに血も飲まず、馬鹿な拘りを持つからそうなる」
吸血鬼の基本能力の一つである催眠術。それを父が使いこなしていることに、雨竜は戦慄する。
「あんたまさか、吸血鬼の力を……!」
「なんだ、吸血鬼の父親が吸血鬼で何かおかしいことがあるか?」
竜弦は雨竜の顎に指を滑らせる。手首の拘束が解けてもなお、雨竜の手はベッドに投げ出されたままだ。
「さて、吸血鬼としてハンターを襲ったのだから、相応の報いを受ける覚悟はできているのだろうな」
竜弦の瞳が光る。なす術もなく雨竜はその光を直視してしまい、ぷつりと意識の糸を途切れさせてしまった。
瞼を閉じて力なく眠る雨竜の顔を竜弦はしばし眺めたのち、ベッドから下りるとサイドボードの引き出しから小さなナイフを取り出す。
「……『起きろ』」
支配者としての竜弦の声に雨竜はゆっくりと瞼を上げ、そしてどこかぎこちなく上体を起こすと体の正面を竜弦に向けた。その瞳に光はなく、その心身が完全に竜弦の支配下に置かれていることを示していた。
ちょっとした催眠のつもりがここまで強く効くとは、と嘆息したい気持ちを抑えながら竜弦はシャツの左袖を捲くりあげる。そして右手にナイフを持つと、躊躇いなく自身の左下腕にナイフの刃を滑らせた。
赤い一直線の軌道に赤い雫が膨らむ。竜弦は左腕を雨竜の顔の前に差し出し、淡々と命じる。
「『我が血を啜れ』」
雨竜は小さく口を開くと竜弦の白い腕に唇を寄せ、竜弦の傷口にゆっくりと舌を這わせ始めた。
素直に言ってくれば催眠を使うこともなくこうしたものを……そんな竜弦の思いも知らず、雨竜はいずれ自身の力の源となる血を舐めている。肉親かつ真祖の血を濃く受け継ぐ竜弦の血は雨竜の力により強く働きかけるだろう。自分が何をされたのか、本人が気付くのは少し後になるが。
雨竜の前では冷たい目を見せていた竜弦であったが、大人しく竜弦の血を舐めている雨竜の姿を見ながら目を細める。
「全く、手の掛かる……」
呆れながらもどこか愉しそうに呟きながら、血を舐める雨竜の黒い髪を梳くように撫でる。その髪は、竜弦の亡き妻──雨竜の母親であった人間によく似ていた。
「『今日はここまで』」
胸に押し寄せる寂寥を振り払って雨竜の耳元で囁くと、雨竜は竜弦の傷口から顔を上げた。
「『そのまま窓から出て、宿から一時間分飛べ。そうすればお前は眠りから覚める』」
催眠の解除を仕込んでやってから、雨竜を帰らせることにする。雨竜は竜弦の言う通りに立ち上がり、窓枠に手を掛けた。
催眠の中とは言え血を吸わせてやったのだ、蝙蝠に変化することくらいは出来るだろう……そう思いながら竜弦は窓枠に立つ雨竜を見送ろうとする。
ふと、窓枠に足を掛けながら雨竜が振り向いた。
その瞳に変わらず光はない。だが夜空にいつも浮かんでいる白い月の光がその瞳の青を浮かび上がらせた。
『──これが襲った報いだって言うなら、あんたは随分優しいんだな』
「な……」
雨竜は口を動かしておらず、その表情は催眠を掛けた時と変わることなくひどく静かだ。
(テレパスだと……?)
そのような能力、雨竜は持っていない筈だ。まさか父の血を取り込んだことで早くも新たな能力を開花させたというのか。何よりも今の雨竜は、まだ催眠の中にいるはず──。
訝しむ竜弦を他所に、雨竜はふわりと窓の外へ身を踊らせる。竜弦が窓に歩み寄ると、一匹の蝙蝠が月の光の方へと飛び去っていくのが見えた。
◆◆◆
原作49巻で雨竜が空座総合病院に担ぎ込まれたくだりあるじゃないですか、あの時絶対輸血受けてるけどその血多分竜弦の血だよね?と勝手に思い込んでいるところをいつか出力しようと思い続けた結果これになりました。
吸血鬼とか真祖の設定は月姫や吸死を参考に勝手に盛り盛りしました。
【石田親子】痛みの話
痛い。
日常生活でも滅却師の修行でも、そのたった三音のその言葉をいくら発したところで父にも母にもろくに届かず、聞いてくれたのは後に妻となる専属のメイドだけであった。
けれど自分が痛いと言えば彼女もとても痛そうな顔をすることに気付いたので、それ以来その言葉は言わなくなった。彼女のそんな顔は見たくなかったからだ。
とは言え痛覚は変わらず備わっているので、痛い時は痛い。静血装で外傷を防ぐことが出来ても、頭痛や腹痛が体の不調を訴えてくる。結局体のどこかに痛みを覚えても我慢して自分で「処置」する事を覚えたのは、小学校中学年になる頃だった……などと。
石田竜弦にとっては遠い過去であり、今更問題にもならないような事を思い起こしてしまったのには理由がある。
「どこか痛む箇所は?」
「…………」
「だんまりでは困るな。痛むなら痛む箇所を、痛む箇所がないのならそうはっきり言え。患者なら主治医にもう少し協力的になった方が身の為だぞ」
今度は何かと思えば、横断歩道を渡ろうとした子供が信号無視の車に轢かれそうになったところを助けようとして自分が車に撥ねられたのだという。
竜弦が外来患者の診察をしている最中に搬送されて来たという息子は既に検査と処置を終えて足や腕にギプスや包帯を巻かれ顔や手に医療用ガーゼを当てられた状態で玄関ロビーの待合室のソファベンチに座っており、こちらの顔を見るなりバツが悪そうに視線を逸らした。
一つ溜息を吐いてから、やや距離を空けて隣に座る。
しばらく返答を待っていると、雨竜はようやく口を開いた。
「……治療ならもう終わったし、薬も受け取った」
「処置が終わっただけだ。両腕両足の打撲と右膝の靭帯損傷、全身の擦過傷が完治するまでは治療を終えたとは言えない」
「それにしたって大したこと無い、もう歩いて帰れる。なんで引き留めるんだ」
時速40kmで突っ込んで来た信号無視の車に撥ねられてその程度で済んでいる幸運あるいは異常性を医者として指摘するべきか、もっと軽い怪我で済んだ筈であると滅却師として指摘するべきか。
そう考えた時、その言葉はすぐに口から出て来た。
「何故避けなかった」
雨竜の能力を考えれば公道を走る乗用車程度、避けられない筈はない。その問いに対する雨竜の答えはとてもシンプルだった。
「僕が避けたら車があの子に直接突っ込んでた」
予想出来た筈の答えとは言え、その答えを聞いた竜弦はひどく苛立ちを覚えた。
自分を優先しろ、と。
そう口で言うのは簡単でも、雨竜がそんなことを出来るような性格をしていないことくらい理解している。自分の安全よりも目の前の他人の安全。助けた子供やその親からは感謝され、世間から称賛を浴びる立派な精神であろう。
だがその判断を正しいと認めるなど出来たものではない。例え、最大限軽い傷で済むよう当人が受け身を取っていたとしても。子供の自己犠牲など親が褒めるべき物ではない。
「だとしてもどうにかして避けろ。他者の安全を確保したいなら自分の安全も等しく扱え、出来ないとは言わせんぞ。回避できた筈の怪我をわざわざ負うような人間にかかずらっていられるほど病院は暇ではない」
「……それは、反省してる」
雨竜の表情が曇る。ここまで搬送してきた救急隊員や、処置にあたった医師・看護師のことを思い返したのだろう。院長の息子が車に撥ねられて担ぎ込まれて来たのだから、対応にあたったという研修医はさぞ緊張していた筈だ。
「怪我への感覚が麻痺しているところはあるかもしれない」
その言葉を聞いて、麻痺しているという自覚が雨竜にあることに密かに安堵する。
「この程度なら自分でも治せるから、救急車も断ろうと思ったくらいだ」
「……それはやめておいて正解だ。医者が診なければ気付かない異常はある。そしてここでお前を担当した医者に診断書を書かせれば被害者・加害者双方にメリットがある」
まあ加害者にメリットなんぞ無くとも良いのだが、雨竜本人がピンピンしている上に念の為撮ったMRIでも異常は見受けられないので必要以上に加害者を追い詰める必要はないだろう。取るべき責任は取ってもらうが。
「加害者側や保険会社とのやり取りは私が行う。さっさと治したいのならお前は大人しくしていろ」
「……分かった」
まだ雨竜に言うべきことはあるが、これ以上の話は他人の目のある場所でするべきではない。
「もう帰っていい、車で送る」
「自分で帰れる」
「大人しくしていろと言ったのが聞こえなかったのか?」
「…………」
雨竜はムッとした顔をしたが、竜弦がベンチから立ち上がると大人しく付いて来た。松葉杖の扱いに慣れないためか、その足取りは少しばかりぎこちない。左肩に掛けているトートバッグは撥ねられる時に持っていたものか。バランスを崩しそうなものだからバッグをこちらに渡すよう竜弦が言うと、雨竜は渋々と頷いてバッグを差し出した。
少し時間を掛けながら病院内を歩き、竜弦は雨竜を後部座席に乗せて雨竜のアパートへと車を走らせる。運転はいつもより少しだけ丁寧に、なるべく交通量の少ない道を選ぶ。
「最後にもう一度聞いておく。どこか痛む箇所は」
アパートに程近い通りで信号が青に変わるのを待ちながら改めてそう尋ねると、雨竜はぽつりと呟いた。
「……右腕と右膝は、少し」
返答があったことに驚きと安堵を同時に覚える。
この子は自分相手に痛みを曝け出してくれるのか、そして、この子はまだ痛みを訴えることができるのだ、と。
「生活に支障は出そうか」
「立ち仕事が少し辛くなるかな」
信号が青に変わった。車を雨竜のアパートがある住宅街へと走らせる。
「貼り薬の他に痛み止めは処方されているな? 言われただろうが、あまり無理な動きはするな」
「……分かってる」
どこか不貞腐れたような声音だが、運転中なので後部座席の様子を伺うわけにも行かない。
「言っておくが、虚退治もするんじゃない」
「するわけないだろ、こんな怪我してるときに」
果たして本当に分かっているのか。そう問い詰めたいのを堪えながら、竜弦はアパート前で車を停めた。
先に降りてから後部座席のドアを開けると、そろそろと雨竜が降りて来た。
「一階だったか?」
「そうだけど」
「登下校に送迎は」
「流石にそこまでしてもらわなくていい」
二人で雨竜の部屋の玄関前まで来ると、雨竜が「鍵、そのバッグの中」と言いながらこちらを振り向いた。
「どこに入れてある?」
「バッグの口広げてくれればいい、自分で出す」
バッグの口を広げると雨竜はバッグに手を突っ込み、迷わず鍵を引っ張り出してみせた。
「……送ってくれてありがとう」
鍵穴に差した鍵を回しながら雨竜が小さな声で言う。
「意外と歩きづらいな、これ」
「そう思うなら次はもう少し上手くやることだ」
「そうする」
カチャリ、と錠から音がした。鍵が開いたようだ。部屋のドアを開けてやり、雨竜が屋内に入るのを見届けてから預かっていたバッグを手渡す。
部屋のドアを押さえて開け放したまま屋外に立つ私から、室内に立つ雨竜の顔は陰の中に立っているように見えた。向き合った雨竜の顔は慣れない松葉杖で少し疲れているようだが、辛そうな色は見えない。
後はもう雨竜一人にしても問題ないだろう。
「では私はもう戻る。お前は当分大人しくしていろ」
「何回も聞いた……」
雨竜の顔には呆れが浮かんでいるものの、こちらを拒絶しているわけではなさそうである。
胸の内を締め付けるような情感がふと湧き上がり、背丈は自分と大して変わらない筈だが今は松葉杖でやや低い位置にある頭を思わず軽く撫でた。
「なっ、」
カッと雨竜の頬が赤くなる。
「なんだ急に?!」
「…………」
赤面した時に肌の白さが際立つのはお前の母親に似ている、などと言える筈もないので黙っておくことにした。撫でられるがままの雨竜は目を白黒させているが気付かない振りをしながら一頻り頭を撫でて満足する。
「ではな」
少し乱してしまった髪を軽く整え直してから手を離すと、睨みながらほとんど噛み付かんばかりに叫ばれた。
「さっさと帰ってくれ!」
これ以上嫌われる前に身を引き、アパートのドアを静かに閉める。
玄関前に長居はせず、アパート前に停めている車へと戻り、運転席に腰を下ろしてから携帯端末を取り出す。
訳あって携帯電話番号を知っている息子の友人達にショートメッセージを送り、あいつが怪我をしていることを伝える。また顔を合わせた時にあいつから文句を言われるのは目に見えているが、これくらいはさせて欲しいものだ。
端末をしまい、車を発進させる。病院へと戻る道中で口角が僅かに緩んでいることに気付いたが、引き締めようという気にはならなかった。
【竜叶】約束、二つ
※真咲が石田家を出た後と雨竜が生まれる間くらいの出来事については完全に捏造と妄想
母が逝去して二ヶ月ほど経過した頃、竜弦は屋敷の使用人達に解雇を告げた。
再就職先と新たな入居先が見つかるまではここで働いて構わないが、見つかり次第屋敷を出て欲しいと。
使用人達はこの石田家の事情を理解していたので、ただ一人を除いて屋敷を去って行った。
そうして広い屋敷には、ただ一人の使用人と年若い事実上の現当主だけが残された。実際の当主である父は死んでいる訳では無いが、昔から滅多に帰って来ない。こんな時ですらそうなのだから、竜弦は父をほとんどいないものとして扱うようになっていた。
屋敷はすっかり人の気配が薄くなったが、これでいいのだと竜弦は思う。
この家は元々こうあるべきだったのだ。誰かの人生を縛ってまで続いて良い家ではない。そう思いながら寒々しい廊下を歩いて食堂に足を踏み入れると、ただ一人残った使用人がてきぱきとテーブルセッティングをしていた。
「……片桐」
声を掛けると、彼女はふっと顔をあげて微笑んだ。
「竜弦様、もうすぐお食事の用意が出来ますのでもうしばらくお待ちください。紅茶を入れましょうか?」
「いや、いい……ここで座って待つ」
「畏まりました。もう五分ほどで、グラタンが焼き上がりますから」
自分以外の使用人がいなくなり仕事が増えるばかりだろうに、片桐はこの家の使用人としての仕事の全てを行っていた。
掃除、洗濯、炊事。竜弦が派遣のハウスキーパーを呼ぼうとしても、片桐は頑なに首を横に振り、それらをこなし続けた。
私が一番この家を理解しています、と。
「……やっぱり、お前はここを去るつもりはないんだな」
「私はいかなる時も、竜弦様のおそばにおりますから」
何度も投げ掛けた問いに、片桐は毎回同じ答えを返す。そしてその言葉を聞いて安心している自分はあまりにも卑怯だ、と竜弦は思う。
結局いつまでも彼女に甘えているのだ。昔から彼女に何かを返すことも出来ないまま、与えられてばかり。
だから、彼女には自由になってほしいのに。彼女は、自分のそばにいることが何よりの幸福なのだと笑うのだ。
片桐が竜弦の夕食をカートに乗せて運んで来た時、竜弦は思わず声に出していた。
「片桐、一緒に食べないか」
「え?」
その言葉を聞いた片桐は驚いて目を見開いている。
「どうせこの屋敷には僕たちしかいない。……お前も、疲れているだろ」
「ですが……」
片桐は困惑している。十年以上、食事をする竜弦の後ろで控えるのが日常だったのだ。その反応は当然だろう。
だが、広々としたテーブルで片桐を立たせたまま一人で食事をするのが、もう自分ではどうしようもないほどに嫌だった。
「……お前と一緒に、食事をしたいと思ったんだ。嫌なら無理にとは言わない」
これが結局片桐への甘えならもうそれで構わないと竜弦は思った。どの道、彼女が自分の頼みを断れないと理解した上で言っているのだから。
果たして、片桐はおずおずと頷いた。
「分かり、ました……では、十分程お時間をいただきます」
片桐は竜弦の分の夕食をセッティングし、「先に召し上がっていてくださいね」と言い残して食堂を後にした。
竜弦は食事には手を付けず、片桐が来るのを待った。
片桐が竜弦のメニューとほぼ同じ、だが少し量の少ない食事を持って食卓に戻って来る頃には、グラタンはすっかりぬるくなっていた。
片桐から温め直しを提案されたが竜弦は断り、片桐に自分の向かいの席へ座るよう促した。
そうして食卓に向かい合った二人は食事に手を合わせ、竜弦はサラダ、片桐はスープから口に運ぶ。
片桐は竜弦の食事姿など見慣れているだろうが、竜弦が片桐の食事姿を見るのは初めてだった。
片桐の所作は物静かだ。一口一口が小さく、食べるペースも遅い。袖口から覗く細い手首も相まって、やはり体の弱い彼女に無理をさせているのではないかと思ってしまう。
片桐の唇にスプーンが運ばれていく様に思わず見入っていると、片桐がどこか気まずそうに肩を竦ませた。竜弦は慌てて目を逸らし、自分の食事に集中する。
そうして食事は無言のまま続いた。無言だがそこに冷たさやよそよそしさはなく、穏やかな時間が流れる。
自分の食事を終え、片桐の皿も空になった頃、竜弦は口を開いた。
「……今日も美味かった。ありがとう」
「お粗末様でした」
片桐の料理の腕に間違いはない。不味い食事が出て来ることなど有り得ないのだが、今日の食事はいつにもまして美味に感じた。
彼女がそこにいてくれることの有難さと温かさが全身に染み入るようで、竜弦は改めて片桐を真っ直ぐ見た。
「片桐、やっぱり僕はお前の負担を減らしたい」
その言葉を聞いた片桐の表情が引き締まる。
「結局僕はお前に甘えてばかりで、お前がいないと日々の食事すらままならない。だから……せめて雇用主として、お前に無理なく働いて欲しい。そのために、この家の事を何も知らないハウスキーパーにも来てもらおうと思っている。それで……」
この先を言っていいのかと迷い、言葉に詰まる。
しかし片桐が真っ直ぐに自分を見ていることに気付き、ふと。
その言葉が口からこぼれた。
「結婚しないか」
「えっ?」
「っ!」
片桐の反応で、竜弦は自分が何を言ったのか気付く。
「っ……すまない、」
竜弦の突然の告白に片桐は固まっており、何を言われたのか分からないといった様子だ。
言うとしても今ではないだろう、と竜弦は己の迂闊さを激しく呪う。
動揺で心臓が早鐘を打ち始めるのをなんとか呼吸でなだめて言葉を絞り出すが、声が震えていた。
「……一旦、忘れてくれ」
「か、畏まりました……」
片桐も声が震えていた。胸を手で押さえて竜弦と同じように呼吸をなだめようとしている。
「……どうぞ、お続けになってください」
「あ、ああ……」
竜弦は一度深呼吸して、本来言おうと思っていた言葉を頭の中で整理した。今度こそ間違えないようにと注意しながら言葉を選ぶ。
「また今日みたいに、一緒に食事をしてほしい。食事が楽しいと感じたのは、久しぶりだ」
空になった二人分の食器を見ながらそう口に出してしまえば、動悸は少しずつ落ち着いて来る。
こうして誰かと食卓を共にしたのはいつが最後だっただろうか。食卓とは、こんなに温かく感じる場所だっただろうか……それを片桐にきちんと伝えられれば良かったのだ。
それをまさか一足飛びに求婚してしまうとは、とあまりにも性急な自分を責めるしかない。そんなに嬉しかったのかと問われると、そうとしか回答しようがないほど、二人で食卓を囲む食事は竜弦の心に染み入っていた。
「竜弦様がお望みなら」
片桐は微笑みながらそう答える。それを少しだけ悲しく思いながら、竜弦は言葉を重ねた。
「……毎日、でもか」
「お断りする理由が、私にはありません。……竜弦様の喜びが、私の喜びです」
片桐はしっかりと頷き。
竜弦は「そうか」と呟いた。
「すまない。……ありがとう」
結局彼女をこの家に縛り続けてしまうという自責による胸の痛みと、彼女は自分を一人にしないままでいてくれるという子供じみた安堵を同時に覚える。
それでも彼女がそれを幸せだと笑うのならば、自分が今考えるべきは彼女を働かせすぎないことだろう。竜弦は自然とそう考えた。
「とにかく、ハウスキーパーは呼ぶ。これはもう決定事項だ、いいな」
「畏まりました」
「時々休みも取ってくれ。お前は昔から働きすぎだ」
「お休み、ですか……」
片桐の表情に、困惑が浮かぶ。
「私、お休みの日はいつも、何をすればいいのか分からなくて……結局、お仕事をしている時間が一番落ち着くのです」
「そうか……」
昔から放課後と学校のない日は滅却師の修行漬けだった自分も似たようなものだ、と竜弦は片桐の言葉を受け入れる。
医大に通い始めてニ年以上になる今ですら、周囲の同級生は空いた時間に勉強以外の何をしているのだろうと不思議に思うのだ。
「それは僕も同じだな。大学で改めて、自分がいかに異常な環境で育っているか実感した」
「竜弦様……」
「……そうだ、どこか行きたい場所はないか」
最近取得したばかりの普通免許の存在を思い出す。車ならほとんど使っていないものが車庫にあるはずだ。業者にメンテナンスしてもらえば動くだろう。
「車ならあるんだ、どこでも僕が連れて行く。休みの日も僕が一緒だと休まらないかもしれないが……」
「! いえ、そんなことはありせんっ」
少しだけ片桐の語調が強くなった。
「どこに行こうと、竜弦様がいてくださった方が、心が休まります」
「そ、そうなのか……?」
片桐には珍しい気迫のようなものを感じて、竜弦は少しだけ気圧される。
だが、一緒に出掛けること自体は拒絶されなかったので安堵する。
「それなら……どこに行きたい?」
「そう、ですね……」
片桐は少し考え込み、ぽつりと呟いた。
「紫陽花……」
「紫陽花?」
「はい。その……小さい頃に、ニュースか何かで見たのです。どこかのお寺で紫陽花が沢山咲いていて、とても綺麗で……。どこだったかまでは覚えていませんし、紫陽花の季節は随分先ですけれど」
「紫陽花、寺……調べてみようか。季節になったら一緒に行こう」
「! は、はいっ」
片桐の表情がぱっと明るくなった。釣られて竜弦も思わず頬が綻んだ。
約束を一つ心に留め置きながらも、これだけでは駄目だと竜弦は考える。
紫陽花の季節まではまだ半年近くある。片桐のことなのでそれまで休みなしで働こうとしかねない。
「では他に、どこか行きたい場所は?」
「他に、ですか……その、竜弦様が行きたい場所はないのですか?」
「え?」
思い掛けない切り返しに、竜弦は思わず反駁する。
「僕の行きたい場所?」
「はい。竜弦様は幼い頃から、ご自宅・学校・修練場を行き来してばかりなので……私ばかり行きたい場所に連れて行っていただくわけにはいきません」
「そ、そうか……」
今度は竜弦が考え込む番になった。
こちらを見ている片桐がどこか楽しそうに見えるのは気のせいか、と若干の気恥ずかしさを覚えながら、竜弦は片桐と同じように、この目で直接見たことのない場所を挙げた。
「今の季節だと……北海道、だろうか……」
「北海道、ですか」
「車では行けないし、一日や二日で行くのも難しいかもしれないが……雪原と白鳥を、一度この目で見てみたい」
広大な白銀の雪原、湖に集まり優雅に翼を広げる白鳥達。
写真だったかニュース映像だったかは忘れたが、自然界の美しい白を映す漠然としたそのイメージに対する幼い頃の憧れを、片桐と話していてふと思い出したのだ。
「素敵です」と、片桐は目を輝かせて頷いた。
「沢山、暖かくして行かないといけませんね。冬の北海道は寒いと聞きますから」
「そうだな……」
お互い滅却師の家に生まれた時点で旅行などしたことはなく、通学や買い物以外で空座町の外に出ることもほとんどない。修学旅行も半ば強制的に欠席させられた。北海道など余りにも未知の場所だ。
未知の場所へ行く恐怖はあるが、それよりも目の前にいる片桐を喜ばせたいという思いの方が大きかった。
「年が明けて少しすれば、大学は休みに入る。その時期を使って行こうか」
「はいっ」
弾む片桐の声に、竜弦の心も自然と軽くなる。
「氷点下でも過ごせるような暖かいお洋服の準備などしなくてはいけませんね。それに飛行機や宿、現地での移動手段も」
「そうだな、手分けして準備しよう」
思い掛けず決まった旅の約束。片桐は弾む声のまま「紅茶を入れて来ますね」と立ち上がり、空になった二人分の食器をワゴンに乗せてダイニングから出て行った。その背中もなんだか嬉しそうに見える。
少しでも彼女に何かを返すことが出来たようで良かった。そう思うと同時に、結局彼女に貰ってばかりだと痛感する。
ほんの少し先の未来を楽しみにすることすら、かつての竜弦には出来なかった。その楽しみを自分に与えてくれたのは、他でもない片桐だ。
人として欠陥だらけの自分を支えることを、片桐は選んでくれたのだ。
──貰ったものを、同じだけ与えていこう。僕の人生全てを使ってでも。
片桐がそれを望むのか、自信はない。
彼女は時々、ひどく苦しそうな目をする。与えられることが彼女の負担になっているのかもしれない。
しかし、与えられるものは全て与えたいと心の底から思えるほど、竜弦には片桐のいない人生が考えられなくなりつつあった。
あの時彼女が迎えに来なければ、こうして生きていたかどうかすら分からないのだから。
──僕はもう、君がそばにいればそれだけでいいのかもしれない。
胸に浮かんだその仮説は、あまりに違和感なく腑に落ちた。
◆◆◆
心臓がまだバクバクと鳴っている。
空の食器の乗ったワゴンを押して厨房へ向かいながら、片桐は胸を手で押さえてた。
『結婚しないか』
あの時、確かに竜弦はそう言った。
その言葉に嘘も打算もないことは嫌でも分かった。
彼は片桐に対して嘘をつかない。つけない、と言ったほうが正しい。幼い頃から、竜弦の嘘を片桐は全て看破した。片桐はその上で彼の嘘にあえて乗ることもあれば、叱ることもあった。竜弦とてそれは理解している筈だ。
──なぜ、私を?
──竜弦様にはもっと相応しい女性がいる筈だ。
──そう、例えば真咲様のような……
かつての彼の婚約者を思い出す。
その場にいるだけで場を明るくする、太陽のような女性。自分のような貧相で暗い女とは大違いだ、と片桐は思う。
──どうしようもなかったのだと、竜弦様は仰った。
──それでも私はあの時、真咲様が最早滅却師として生きることはないのだと知って喜んだ、卑怯な女なのに。
自分を労る言葉も眼鏡越しの優しい瞳も、何より嬉しいもののはずなのに、それら全てが胸を苛む。嬉しいのに苦しくて、笑いながら泣き出してしまいたくなる。
それらは本来、自分ではない人に向けられる筈の……
「……っ」
息が苦しい。心臓が痛いほど鳴り、視界が白み始めた。ワゴンから手を離して、廊下の隅にうずくまる。
過呼吸の対処なら慣れている。上手く回らない意識の隅で半ば無意識に、片桐はゆっくりと呼吸する。
竜弦の優しさをよく知る片桐は、彼に気付かれないことだけを祈る。果たして数分掛けて呼吸を整え立ち上がるまで、竜弦は来なかった。
ああ良かった、と安堵しながら、片桐はまたワゴンを押して歩き出す。幸い厨房はもう目の前だった。
広い厨房で一人、食器を洗い場に下げてティーセットの用意をしながら、ふと昔を思い出した。
片桐が風邪で臥せっていた時、修行を抜け出した幼い竜弦が片桐の部屋の窓から顔を見せて、こう言ったのだった。
『僕、医者になるよ。そうすれば、片桐がいつ風邪をひいても治せるでしょう』
──あの後竜弦様は、修行を抜け出したことを旦那様から、使用人の部屋に行ったことを奥様からひどく叱られていたけれど。
あの日、片桐は竜弦にこう言ったのだった。
『私のことなど気にしなくてよいのですから、どうかお好きなお仕事を選んでください』
それでも医者になるのだと、竜弦は言い張った。
そして、今の竜弦は医大に通っている。あの時の言葉を覚えているのかまでは分からないが、彼は今でも医者を目指していた。
優しい人だ、と思う。優しさ故に沢山傷付いてきた人だ。
傷付いた分だけその人生が幸多いものであって欲しい。そう願う一方で、その人生に自分が寄り添い続ける資格があるのか分からなかった。
それでも彼女の主は、迷うことなく彼女の存在を肯定する。傍にいてほしいと、幼い子供のように目と行動で訴えてくる。
望まれる喜びも苦しみも同じだけ胸の内で渦巻いて、片桐を苛む。竜弦から離れれば苦しみが増幅されて息が苦しくなり、かと言ってそばにいれば喜びの鮮やかさで苦しみはいっそう強く際立つ。
──いけない。竜弦様の前で、苦しみを見せてはいけない。
何度もそう自分に言い聞かせながら、ティーポットに竜弦の好きな紅茶を作る。
二人分のティーセットをワゴンに乗せて食堂に戻ると、竜弦が携帯電話の画面を睨んでいた。
竜弦は片桐にすぐに気付くと画面から顔を上げて、「おかえり」と微笑んだ。
春の月に似たその柔らかな微笑みが嬉しくて、同時に悲しくて。それら全てを覆い隠すように、片桐は「ただ今戻りました」と微笑みを返した。
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アニメ凄かった……