はじめに(注意)
・二人が二十一になった頃を想定した上で未来を捏造して書いています。和愁の二人以外にも何人か他キャラの描写があります。
・病室で眠るり続け空閑君とそれを見守る虎石君の話です。死ネタではありません。
・以上の事項を踏まえた上でお読みください。
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chapter:1
いつものように病院の玄関をくぐり、入院病棟に脚を運ぶ。
病院にいる人は皆、自分や自分の家族のことで頭がいっぱいだから、サングラスをかけた俺に目を止める人はほとんどいない。時々すれ違う医者や看護師が俺の顔を見て何かに気付いたような顔になるけど、すぐに何事もなかったかのようにお互い通りすぎる。
病棟のナースステーションで、すっかり顔馴染みになった看護師さんが「こんにちは、虎石さん」と挨拶してくる。俺は仕事用の笑顔を浮かべ、「こんにちは」と返す。
面会受付を済ませ、いつもの病室へ向かう。
何度も何度も、毎日のように通った廊下。病棟の奥の個室に、俺が目指す病室はある。
「よっ、愁!」
サングラスを外して、いつものように挨拶をしてから、病室に入る。けれど、挨拶が返ってくることはない。いつものように。
個室に置かれた白いベッドに横たわり、体を白い毛布に覆われ、目を閉じて眠っているのは、俺の幼馴染み、空閑愁。
ベッド脇のサイドボードに置かれた文鎮で押さえられたメモには愁のお袋さんの筆跡で、今日看護師さんから聞いた愁の容態について書かれていた。数字の上だと愁の容態は昨日までと大して変わりはないようだ。
肩からかけていたバッグを床に置いてベッドのすぐ近くに置かれている面会用の椅子に座り、愁の顔を覗き込む。
長い睫毛に縁取られている固く閉じられた瞳、あまりに血の気の薄い眠っているような顔。布団をそっとめくって見れば呼吸していることが辛うじて分かる、わずかに上下する胸がパジャマに覆われている。
病院が用意しているパジャマに通してある腕は、俺が知るあの男らしくて逞しい幼馴染みの腕よりも細く、弱々しい。
愁がこうなったのは、半年前。バイク便のバイト中、バイクに乗っていたところを乗用車に追突されて、道路に投げ出されるという大事故だった。打撲以外に目立った外傷はなかった。奇跡的に内臓も無事だったらしい。でも頭を強く打ったせいで脳にダメージを受け、愁は昏睡状態に陥った。
最初に目を覚ましたのは事故から二ヶ月後。でもまたすぐに深い眠りに落ちてしまった。それから時々、愁は目を覚ますようになった。週に二・三回、初めは五分起きているかいないかくらいだったけど、最近は十分くらい起きてることもある。でも起きているだけでしんどいようで、喋ることはまだ出来ない。
俺はベッドで眠る愁の左手を取り、両手で握る。その冷たさに、ぎゅうと心臓が締め付けられた。でも俺は笑う。
「聞いてくれよ愁、今朝マネージャーに生活リズムが乱れてるって怒られてさあ」
そうして話すのは、とりとめのない、日常の些事。俺にとっては当たり前の、でも愁は知ることの出来ない、そんなことを思い付くままに話す。
「昨日の夜、星谷と飲んだんだ。鳳先輩、来週にでも帰国するってさ」
「申渡、連ドラのレギュラーやるらしいぜ。でも消灯時間より後に始まるから愁は見れねえな」
「カレーがすっげえ上手に出来たんだ、愁にも食わせてやりてえ」
話題は決して無限じゃない。それでも、愁に向けて話しかけ続ける。
そもそも今の愁に、俺が話していることが聞こえているのかなんて分からない。体は植物状態だけど外の世界は認識できている、なんて話はテレビで聞いたことあるけど。
だけどそうしないと、俺が折れてしまいそうだから。愁を繋ぎ止めようと何かしていないと、愁が一生俺の手の届かないところへ行ってしまいそうで、怖くて怖くて堪らない。
「……愁、髪伸びたなあ」
顔にかかる前髪をそっと退けてやる。一ヶ月くらい切っていない愁の髪は、もうすっかり長い。
ここにいる間の愁の髪は、愁のお袋さんや看護師さんに手伝ってもらいながら時々俺が切っている。
「愁、長い髪も似合うよな。でも俺は男の髪はもっと短い方が好き。今度髪切ろうな」
髭は週に二回は剃ってやれるけど、髪はなかなかそうもいかないんだ、ごめんな、と愁の額、そして頭をなでる。
指先と同様に、その体温は低い。
「……愁」
名前を呼んでも、やはり応える声はない。
一度愁から手を離し、俺は床に置いたバッグに手を突っ込んだ。藍色のベルベット張りの小箱を取り出し、そっと開いた。
中に収められているのは、指輪。
ダイヤが主張しすぎない程度にあしらわれた、メンズのシルバーリング。
愁に似合いそうだと思って。なんて、それだけじゃない。
また、愁の左手を取る。
「……役者じゃない時の愁を、俺にください」
このリングを渡しながら言うつもりだった言葉を呟きながら、すっかり細くなってしまった愁の左手薬指に、それを嵌める。
「……その代わり、役者でもモデルでもない俺を全部、愁にあげるから」
今の愁の指にはぶかぶかのリング。
今年の愁の誕生日にと、一大決心をして、どうにかこうにかして愁の指輪のサイズを調べ、片っ端からメンズジュエリーの店やホームページを回って愁のために選んで注文したリングだった。
でもリングがもうすぐ届くという時に、愁が事故に遭って。リングはまだ、俺の手元にある。
聞こえているか分からない愛の言葉を囁きながら、こうやって眠っている愁の指にこっそりリングを嵌めるのは、これで何度目になるんだろう。
愁を繋ぎ止めておきたくて、何度も何度も同じ言葉を囁いた。本当は毎日、ずっと愁の傍にいたい。でも俺も生活していかないといけない。本業の俳優だけじゃなくて合間のモデル業もこなしていかないと、きっと愁が元気になった時に怒られる。仕事しろ、って。
この事故がなければ、愁は今頃朝の特撮ドラマ出演が決まって、主人公ヒーローのちょっぴりダークな仲間をやってる筈だった。舞台を中心に活動してた愁が初めて受かったテレビ番組のオーディション。オーディションの結果が届いたのは、愁が事故に遭った数時間後で。そろそろ俳優だけで食っていけるようになりたい、っていうあいつの希望がもうすぐ叶うはずだったのに。
毎朝こいつのかっこいい姿を見て目を輝かせる子供達がいて、メディアへの露出も増えて、すれ違う子供からはヒーローの名前で呼ばれて。そんな愁が、いたかもしれないのに。
「……なんで、いつもお前なんだろうな」
俺をミュージカルの世界と出会わせてくれたのは、愁なのに。愁がいなきゃ、俺は役者になんてなろうとすら思わなかったのに。どうして愁だけが、いつも苦しい思いをするんだ。
ぶかぶかのリングがはまった左薬指。骨と血管が浮いている手の甲。骨と皮とわずかな肉だけの細い腕。そこに刺さる点滴の針。こんなの愁に似合わない。役者としてじゃない、ただの空閑愁はもっと逞しくて、かっこいい。代われるものなら俺が全部代わりたい。そんなこと言ったらきっと愁に怒られるけど。
鼻の奥がつんとして、目尻が熱くなり始めた。俺はそっと愁の指からリングを外し、ケースに収めるとバッグにしまいこんだ。
また、その寝顔を眺める。
眠っているような、今にもぱちりと目を開けて、眠そうな声でおはようと言ってくれそうな寝顔。もう半年、この形のいい唇から溢れる低くて甘いその声を聞いていない。
「……聞きてえな、愁の声」
指で愁の唇をそっとなぞると、少しかさついている。俺はサイドボードの引き出しから、ハンドクリームの缶とリップクリームを出して、まずリップの蓋を開ける。
リップクリームもハンドクリームも、愁は俺と違って匂いがするものをあまり好まない。だからリップクリームは無香料の薬用、 ハンドクリームは僅かにハーブの香りがするだけのやつを愛用している。香水の匂いもあんまり好きじゃないらしいので、高校の時に俺が愁のバイクにオンナノコ乗せてたせいかもな、なんて今更に思う。
上唇、そして下唇と、唇に薄くリップクリームを塗る。少しだけ愁の唇が潤いを取り戻したように見えた。
それからハンドクリーム。缶の蓋を開けて白いクリームを指で掬い、少しずつ愁の手に塗り込んでいく。手の甲から指先へ、少しずつ、薄く延ばしていく。少し力を込めただけで折れそうなくらい細い指は特に細心の注意を払う。左手を塗り終わったら立ち上がってベッドの反対側に回り込み、今度は右手。
愁は将来有望なミュージカル俳優だから、こういう時もケアを欠かしちゃいけない。
髪は定期的に切る。髭は週に二回剃る。爪は切った後もきちんと磨く。顔の保湿だって俺や愁のお袋さんが毎日やってる。だからここに眠っている愁はすごく綺麗だ。
でも愁が一番魅力的に輝ける場所はこんな病室の中なんかじゃない。スポットライトが当たるステージの上だ。それを思うと、こうやって愁を綺麗にしてる間も、どうしても胸が苦しくなる。