chapter:2
右手の指にクリームを延ばし終えた時、僅かに愁の右人差し指が震えた。気がした。
「っ! ……愁!」
思わず立ち上がって愁の顔を覗き込み、右手をぎゅっと握りながら名前を呼ぶ。
愁の長い睫毛が震えた。そしてゆっくり、瞼が上がって。
綺麗な菫色の瞳が、俺の顔を映した。
「……おはよ、愁」
泣き出したくなるのを堪えながら愁の頭を撫でると、少しだけ両の口角が上がって、その目が細められる。
「今日は起きるの遅かったじゃん、いい夢でも見てたの?」
ぱち、ぱち。まばたき二回は否定の意味。
「じゃあ悪い夢」
ぱち、ぱち。
「夢見なかったってこと?」
ぱち。まばたき一回は肯定を意味する。
「そっかー。愁のことだからてっきり可愛い夢でも見てるのかと思った」
茶化すように言ってやると、目頭が少しだけ、むっとしたように寄せられた。
起きている時の愁とこうやって意思疏通が取れるようになったのは、ここ一ヶ月でのことだ。目を覚ます頻度も上がっているので、少しずつ回復に向かっているのが手に取るように分かる。
「ちょっと待ってて、椅子こっちじゃないから」
俺はそっと愁の右腕をベッドの上に置いて毛布を元に戻すと立ち上がり、そのついでに腕時計が示す時刻を見る。愁の左手側に回り込んで椅子に座り、その左手を握った。
愁はまだ首を上手く動かせないので、身を乗り出して愁の顔を覗き込む。
「昨日の夜さ、星谷と飲んだんだ。鳳先輩もうすぐ日本に帰ってくるってさ。そしたらここにも来てくれるって」
愁の目が少し見張られ、そして嬉しそうに目尻が緩む。
愁は今、声を出すことが出来ない。体を動かすこともほとんど出来ない。表情を変えるくらいは出来るようになってきたけどそれだって疲れるみたいで、芝居をする時以外は固い愁の表情筋は今はいっそう固い。でも愁と俺は長い付き合いだから、俺には愁の表情の変化がよく分かる。
それだけ、今の愁が何も話せないのが苦しくはあるけど。
「な、愁。治ったらどっか行きたいとこある? 昨日テレビでやってた温泉宿がいい雰囲気だったんだよな~。今は紅葉が綺麗らしいけど、冬は雪、春は桜ってさ」
愁は淡く微笑んで、俺の話を聞いている。俺は愁にたくさんの話をする。愁が眠っている間にした話、ふと思い付いた話、綾薙にいた時の仲間の近況、そして、愁が心配しないように、俺の仕事の近況。
「昨日もさ、小児科の階でエレベーター乗ってきた男の子にばれちったよ、俺の正体」
愁に今の俺の仕事の話をするのは、少しだけ気が重い。でも愁にはちゃんと伝えないといけないから、正直に言うことにしてる。
「ヒーローってのも辛いよなあ。愁も元気になったらなれよ、ヒーロー」
俺、俳優・虎石和泉の代表作。愁が一番に受かっていたオーディションの、あの役。二番手だった俺は、代役として選ばれた。同じ事務所にいるのに、同じオーディションを受けることはオーディション会場で出くわして知った。
今日は遅刻しなかったじゃん、なんて驚きを隠して笑って言ってやったら愁は、負けないからな、って不敵な笑みを浮かべてきた。
そう、愁は負けなかった。負けず嫌いで意外と強情な愁はいつだって負けようとしないし、そんな愁に俺が勝てることなんてなかなかない。
「いつか愁も撮影に連れていきたいんだけどなあ、今は無理だから昔愁が描いた絵持ってってる」
そう言うと、愁が少し心配そうな目をする。
なんでそういう目をするのかは、考えずとも分かる。
「愁に囚われて俺が俺の演技を出来ないんじゃないかって心配?」
この役を受ける時に俺も心配になって、思わず柊先輩に相談したくらいだ。俺が心配になるんだから、愁が心配になったっておかしくはない。
一拍置いてから、愁はぱちりとまばたき一回。
「大丈夫だよ、俺だってプロなんだから。半端な演技しちゃ、スター・オブ・スター枠の名が廃るっての」
俺の変身ポーズ見る? とウインクしながら聞くと、まばたき二回。そりゃそうだ、愁の前でもう何回「変身!」って言ったことか。だいたい愁からやってと頼まれてやったやつだけど。こう見えて愁は、昔はヒーロードラマが大好きだったからな。
「いつか愁と並んで変身してえなあ。愁、絶対ヒーロー役似合うぜ?」
まばたき一回。
「そのためにも、早く元気になってくれよ。ずっと待ってるから」
愁の手を撫でると、愁が物欲しそうな目をした。
「どしたの? 何かしてほしい?」
ぱちり。
「キスとか?」
ぱちぱち。
「なんだ違うのかよ、ちょっとがっかり。うーん……」
ぱち。
「え、やっぱしてほしいの」
ぱち。
キスして、なんて愁から積極的にせがんでくることは珍しい。普段は俺が誘う側だったし。愛しさと嬉しさが込み上げてきて、思わず愁の髪をくしゃりと撫でる。
「欲張りだなあ愁ちゃん。で、キスの前に何して欲しかったのかな……抱っことか?」
ぱち。
「おっ、せいかーい。それじゃ……」
俺は身を乗り出して愁にかかっている毛布をめくり、愁の背中とベッドの隙間に左手を、首の下に右手を差し込む。力無い体をそっと抱き起こし、覆い被さるようにして抱き締めた。
加減を間違えれば壊れてしまいそうなくらい、今の愁の体は細い。今にも消えてしまうんじゃ、そんな不安に襲われ、愁をもっと強く抱き締めたい衝動に駈られるけど、我慢する。
「愁が治ったら、一緒にやりたいことたくさんあるから。さ……」
頑張れよ、愛してる、なんてありきたりな言葉しか言えない。こういう時、辰己や申渡くらい頭が良ければもっと気の利いたことが言えるのだろうか。
腕の中の微かな温もりをいつまでも感じていたくてしばらく愁を抱き締めていたが、やがて愁をそっとベッドに下ろす。
そして愁の顔の両脇に腕を突き、間近で菫の瞳を見ながら聞く。
「おでこがいい?」
ぱち。
「唇は?」
ぱち。
「おっけー。それじゃ」
愁の前髪をどけて額に唇を落とす。気持ち良さそうに愁は目を細めた。頬に手を滑らせ、柔らかい唇にも俺のそれを重ねる。触れるだけのキスだけど、ふわふわとからだが浮くような幸せを感じる。愁にキスをせがまれること自体珍しいし、こうやってまた互いの思いを確かめ合えるようになったことがただ嬉しい。
深いキスをするわけにもいかないので唇を離す。至近距離で愁を見つめると、愁の目元は幸せそうに蕩け、白い頬には僅かに赤みが差していた。その唇は弧を描き、確かな笑みが浮かんでいて。
ああ、なんて綺麗なんだろう。
抱き締めたい、目の前のこの愛しい男を目茶苦茶に強く抱きたい。そんな衝動は、頬にそっとキスすることに代えた。
ぱちり、とゆっくりまばたきをする愁。そして、その瞼が重そうに閉じられた。薄い胸が呼吸でゆっくり上下する。それから、愁が目を開けることはなかった。
おやすみの時間だ。
「……おやすみ」
その頭を撫でて、俺は体を起こした。
愁は何を肯定してくれたんだろう。ありがとう、ってことなのかな。
俺はめくれていた毛布を元に戻し、愁の髪を整えた。
腕時計を確認し、サイドボードに置かれたメモ用紙に、今日の日付と愁が目を覚ましていた時間を書く。今日は一昨日に目を覚ました時より五分近く長い時間起きていたことになる。
一度目を覚ましてから次に眠るまでの時間が長くなってきている。それを数字で確認して、愁が頑張っているのを感じる。
愁がこんなに頑張ってるんだ。俺も頑張らねえと。
「……よっし! それじゃ愁、俺そろそろ次の仕事あるから」
愁の頬に指を滑らせる。
「明日もまた来るよ」
だから、俺がいない間に勝手にいなくなったりしないでくれよ。頼むから。
俺は愁が眠るベッドから背を向ける。サングラスをかけ、最後にもう一度だけ愁のベッドを振り向いてから、病室を後にした。