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【竜叶】AM00:09

※描写はないが一応事後、雨竜を授かる前の話

「虚も滅却師も死神も居ない世界に生まれてみたかったよ」
 ベッドの上で体を起こしてペットボトルを開けながら、竜弦がぽつりと呟く。
「生まれた時から何かに監視されているかもしれない、何かすれば殺されるかもしれない、何もしなくても殺されるかもしれない、そんなことを考えなくてもいい世界に」
 それから竜弦は水を飲む。独り言のようなその言葉は、彼の隣にいる女に届いていた。
「……私はそのようなこと、考えたこともありませんでした」
 竜弦の隣、ベッドに横たわり体をシーツで包んだ叶絵は、伏し目がちに応える。
「そんな世界は、物語の中でしか有り得ないだろうと……」
「そうだな、物語の中でしか有り得ない。自分の境遇を世界のせいにして、その上でいい年して物語の世界を本気で羨んでいるなんて、あまりにも子供だろうと自分でも思う」
 竜弦の口ぶりは自嘲するようだったが、叶絵は何も言えなかった。それが彼にとって、笑い飛ばすにはあまりに切実な願いであることを理解していたからだ。
 こんな世界に生まれてさえ来なければ、というあまりに強烈な自己否定。大切な人達の幸せを願いながらも自分の存在を否定しようとするどこか拗れたそれは、この世界と己に流れる血の残酷さを彼が身に沁みて知っているからに他ならない。
「……どうしても考えてしまうんだ。こんな世界でさえなければ、母様はもっと幸せでいられたのだろうか、って」
 悔いたところで彼にはどうしようもない……竜弦も叶絵も、それは承知の上だ。ただ、この世界で滅却師が滅却師の家を保持したまま家庭を持つことのままならなさを竜弦は両親の姿を通して知っていた。それ故に、叶絵と結ばれることを選択して改めて思うところがあるのだろう。
「……だから竜弦さまは、ご自身の代で滅却師を終わらせようとなさっているのですか?」
 幾年も続いた純血滅却師としての石田家を自分の代で終わらせるという決断。生まれた頃より石田家の跡取りとして育てられた竜弦にとって、それにどれほどの覚悟と勇気が必要なことか。
 叶絵が体をシーツで隠しながら起き上がると、竜弦は叶絵を見た。天蓋の布越しの間接照明の柔らかなオレンジの光がその瞳に映る。優しくも哀しい色に、叶絵は思わず息を呑む。
「もう見たくないんだ、滅却師であるがために人が不幸になるのは。それが生まれてくるかもしれない僕達の子供ならなおさら。世界の方をどうしようもないのなら、僕が僕自身の有り様を変えるしかないだろう」
「……」
 叶絵は知っている。
 幼い頃の竜弦は滅却師としての自身の有り様を誇りに思っていたことを。
 例え世界に必要とされていないのだとしても、この力で誰かを護れるのであればそのために強く有りたいのだと。
 けれどその誇りは十年以上の時間を掛けて世界の歯車にゆっくりと圧し潰され、家庭内不和により罅割れ、あの雨の日に「誰よりも護りたい人を自分の力で護れなかった」という現実によって崩れ落ちた。
 滅却師であるがためにひどく傷ついた男は、それでも立ち続け、「自分の代で」滅却師を終わらせるという選択をした。
 竜弦はまだ滅却師であることをやめるつもりがない。そう有り続けなければならない理由があるのだ──叶絵はそう察しながらも、何故竜弦自身が滅却師であることをやめようとしないのか、聞くことは出来なかった。
 叶絵は思わず竜弦の手を握る。 
「……竜弦さまは、今、幸せですか」
 叶絵の問いに竜弦は少し目を見開いてから、微かに目元を緩めて叶絵の手を握り返した。
「……幸せだよ、泣きたくなるほど」
 
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Moment of disappearance

※千年血戦篇アニメ11話Cパートの会話の妄想

◆◆◆

 痩せ細っている、というのが、第一印象であった。
 僅かな灯りのみが道を照らす夜闇に降りしきる雨の中、外套も羽織らずにユーグラムの生まれた頃から千年ほど下った時代の服を着たその男は、憔悴したような目で数メートル先に立つハッシュヴァルトを見ている。
「……もう一度言おう、石田雨竜。陛下はお前を必要としておられる」
 雨音の中でも確かに届くよう、言葉に術式を乗せる。
 彼が今、何を考え何を思っているのかはハッシュヴァルトが考慮するべきことではない。ただ命じられた通りに、この石田雨竜という名の男を帝国へ連れて行くことのみが現在の彼に課せられた使命であり責務であった。
「拒絶する権利はお前にはない。お前に選択肢はなく、全ては陛下がお決めになることだ」
「……何故……」
 初めて石田雨竜が口を開いた。
「何故、父ではなく僕なのですか」
「……」
 雨に打たれ下がった体温故かその声は震えていたが、確かな芯を持っていた。
 己が何者であるか、滅却師の定めとは何か。それらを何も知らされることなく、狭い箱庭の中で育てられた男。真実を知り、雨の中立ち尽くしていた男。だが、決して愚かではない。ハッシュヴァルトは、石田雨竜に対する認識を僅かに引き上げる。
「その問いへの答えを、私は持たない」
「『陛下』のみが、それに答えられると?」
「その問いに答える権利を、私は持たない」
「………」
 石田雨竜は沈黙し、ハッシュヴァルトから視線を逸らすように俯いた。
 ハッシュヴァルトもまた、黙って石田雨竜の返答を待つ。
 しばし、雨音だけが空間を包む。ハッシュヴァルトの外套が雨を吸って重くなり始めた頃、石田雨竜が顔を上げた。 
「……分かりました」
 その言葉と共にひどく静かな瞳が、真っ直ぐにハッシュヴァルトを見た。
「案内してください、陛下の下へ」
 雨音の中、何の術式にも乗せていないはずの声はやけにくっきりとハッシュヴァルトの耳に届く。
 そして一歩、石田雨竜がこちらに向けて足を踏み出した。
 その顔にはあらゆる感情もなく、声に震えはなく。ただ研ぎ澄まされた刃のような、静かで強固な意志だけがあった。
「────」
 あまりに迷いのないその姿に、ハッシュヴァルトは言葉を失いかけた。しかし己を押し殺し、頷く。
「それで良い」
 ──この男に、『陛下に従う』以外の選択肢はない。
 ──だが、本当にそうなのか?
 浮かぶ疑念に蓋をして、すぐ真正面まで近付いてきた石田雨竜を見下ろす。
「これよりお前は、その人生において築いたもの全てと訣別し、陛下の御為に身を捧げることのみが許される」
「構いません」
 用意していた言葉にも、石田雨竜は迷う素振りも見せず首肯してみせた。そして濡れそぼった前髪の向こうから、真っ直ぐにハッシュヴァルトを見る。
 その目に、胸の奥がざわめく。それでもハッシュヴァルトは己を殺す。
「……それでは、お前を『影』に迎え入れよう」
 ハッシュヴァルトは『影』を呼び出す。その刹那に解放される力をこの男の父親に気取られるのに、そう時間は掛からないだろう。だが、初めから盤の外に弾き出されている者に用はない。
 ハッシュヴァルトはこちらに近付くその霊圧を無視し、石田雨竜ごと自身を『影』で覆う。
 その霊圧には石田雨竜も気付いていたであろう。しかし彼は何も言わなかった。
 視界が『影』に鎖され、雨音もその霊圧も感覚から消える。
 この瞬間がこの男にとって、慣れ親しんだ筈の世界との永劫の別れになる──それを指摘したところで、今更この男は自分に付いて来ることをやめはしないだろう。
 奇妙ではあるが、ハッシュヴァルトはただそれだけを確信していた。

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絵本の話

「おとうさんおとうさん、どうしてこのえほんのれいは、むかしの人のふくをきているの」
「ん? ああ……」
 とある日曜日の昼下がり。
 夜勤明けの就寝からつい先程起床してきたばかりでソファにぼんやりと座っていた竜弦は、足元で絵本を読んでいる幼い息子に目を向けた。
 それは怪談の絵本のようで、開かれたページでは白い着物を着たテンプレートな女の幽霊が描かれていた。
「ぼくがようちえんに行くときに見るれいは、ぼくたちみたいなようふくだよ」
「まあ……そうだな」
 この屋敷は竜弦が貼っている結界に覆われているために「整(プラス)」や「虚(ホロウ)」の類が入り込んでくることはない。そのため雨竜が幽霊を目にするタイミングは家の外にいる時のみとなる。それらは基本的に虚化する前の「整」であるのだが……
「そうだな雨竜、お前が目にする霊は比較的最近に命を落とした者の例だ。だから洋服を着ている。今現在を生きている私達のようなファッションなわけだ」
 どこまで教えるべきか、と考えながら竜弦は身をかがめて絵本のページをつつく。
「一方でこの絵本は……ベースは四谷怪談だったな。ならば江戸時代、今からざっと二百年ほど前に書かれた話だ。その頃に出現する幽霊は、当然その時代に死んだ者の霊。着ているのはその時代のファッション……つまり着物だ。『着物を着た幽霊が出て来る話』が二百年間ずっと語られている、現代になってもその幽霊のイメージが多くの人の中にある、というだけの話だよ」
「うーん……」
 竜弦としては可能な限り簡単に説明したつもりであったが少し難しかったのか、雨竜は考え込んでいる。
「……まあ、幽霊のことはあまり気にしないことだ。良くないものに取り憑かれてしまう」
「そうなの?」
「そうだ」
 好奇心旺盛なのは雨竜の良いところだが、あまり霊のことを気にするようになっては今後何が起きるか分からない。
 「見える」のはどうしようもない以上、フィクションにおける霊と本物の霊の違いを知るのも必要かもしれないと絵本を何冊か買い与える時に四谷怪談を入れた記憶はある。だが少し早かったのかもしれない……竜弦のそんな心配を他所に、雨竜の興味は別の絵本に移ろうとしていた。
「おとうさん、このほんよんで」
「……どれどれ」
 雨竜が差し出して来た絵本の表紙には小さな魚の絵が描かれている。雨竜から絵本を受け取るとソファの上によじ登って来たので、隣に座らせる。
「……この絵本、前は母さんに読んでもらっていなかったか」
「おとうさんもよんで! 今日はおかあさん、おでかけしてるから!」
「仕方ないな……」
 そう言いつつ思わず口元を緩めながら、竜弦は絵本のページを開いたのだった。

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続・竜弦が雨竜に名古屋土産でぴよりん買ってきた話

竜弦が雨竜に名古屋土産でぴよりん買ってくる話」の続きです。

◆◆◆

「わあ、ぴよりんだ!」
箱から覗くひよこ型のケーキに最初に声を上げたのは井上だった。
「本物は初めて見たな、可愛い〜……」
「可愛いな……」
その可愛らしさに井上と茶渡が夢中で写真を撮る中で黒崎は、どこかむず痒そうな顔をしながらテーブルにカトラリーとコーヒーセットを並べている石田を見た。
「……で、これ買ってきたのがお前の親父さんと」
「……そうだよ」
「………………なるほど」
「な、何だその目は!」
「ぴよりんってすぐに崩れちゃうから、持ち帰るの大変なんだって。だから凄いね、石田くんのお父さん」
「ぴよりんの持ち帰りは箱の形の都合で偶数個が適している……だから四つ買ってきたんだろう」
「井上もチャドも詳しいな……」
ならば何故「二つ」ではないのか……それは石田以外の三人が思ったことだが、あえては言わない事にした。
石田は綺麗な白い皿にぴよりんを一つずつ乗せ、四人分のカップにコーヒーを注いでいく。
「……上がっちまって良かったのか?」
石田の実家に三人が足を踏み入れるのは初めてであった。黒崎に尋ねられた石田は事も無げに答える。
「竜弦に連絡はした、その上で何も言ってこないんだから問題ないさ」
「……ならいいんだけどな」
黒崎はまだ少し気になっているようであったが、石田は全員分のぴよりんとコーヒーをテーブルに並べ終えた。
「甘そうだからコーヒーにしたんだけど……良かったかな」
「大丈夫だよー」「問題ない」「ありがとな」
石田は三人の返答に少しホッとしたような顔をしてから席につき、各々がスプーンを手に取る。
「……おいチャド、大丈夫か」
「た、食べられない……」
「本当になんでこんな可愛いもの買ってきたんだあいつ……?」
「いいじゃねーか、せっかく親父さんが買ってきてくれたんだ、食おうぜ」
躊躇する茶渡と改めて訝しむ石田を促すように黒崎は真っ先にぴよりんの背中側にスプーンを入れた。そしてそのまま口に運ぶ。
「ん、美味いぞこれ」
「……わあ、本当だ! 美味しい〜!」
織姫も幸せそうにぴよりんを口に運ぶ。
二人に後押しされるように茶渡もぴよりんに背中側からスプーンを差し、最後に石田もどこか渋々とぴよりんにスプーンを伸ばす。
まず茶渡が素直な感嘆の声を漏らす。
「厶……美味い」
「でしょ?」
それから三人は石田の方を見る。石田はぴよりんに小さくスプーンを差し入れ、それを口に運んだ。
そしてその表情がふわりと解けたのを見て、井上が素早く携帯端末を手に取った。
「石田くん、写真撮るね!」
「?!」
石田がなにか言う前に井上は素早くシャッターを切り終えていた。
「井上さん?!」
ぴよりんを飲み込んだ石田が叫ぶが、その時にはその場の全員の端末が震え、あるいは通知音を鳴らし、あるいは通知ライトを光らせていた。
「石田くん、すごくいい顔してたよ」
「だ、だからって……じゃあ君達も撮らないと不公平じゃないか?!」
そう来るか。
そう来るか……。
黒崎と茶渡は、奇しくも内心で全く同じことを呟いた。
「うんうん、だから皆で撮ろう!」
当然ながら、井上は満面の笑みでそれに応じる。
しっかりと四人全員収まるように写真を撮り、その写真もグループトークに共有される。
そうして四人はぴよりん&コーヒータイムに戻るが、雨竜だけはやや恨めしそうに井上を見た。
「……僕の写真をわざわざ上げる必要があったのかい?」
「もし石田くんが良かったらなんだけど、石田くんのお父さんに送ってあげたら喜ぶかなぁって」
「喜ぶかなあ……?」
石田は訝しむが、黒崎と茶渡は井上に同調する。
「喜ぶだろ」
「喜ぶな……」
「な、なんなんだ君達は……」
不服であることを隠そうともしない石田だが、その頬はうっすらと赤くなっていた。
それから四人はぴよりんとコーヒーを伴に常と変わらぬなんてことはない雑談をする。陽が傾き始めた頃には何とはなしに解散する流れとなった。
そうして三人を玄関で見送り、その背中が見えなくなってから石田はこめかみを押さえて呟いたのだった。
「写真送ったほうが良いのか……?」

それから凡そ一時間後。
「院長、本日のカンファについて確認が……」
空座総合病院の内科部長が院長室に足を踏み入れた時、部屋の主たる院長はじっと携帯端末の画面を凝視していた。
その様子がどこかただならぬ雰囲気であったので、内科部長は恐る恐る声を掛ける。
「……どうかしましたか、院長?」
「いや……」
院長・石田竜弦は端末をテーブルに伏せ、僅かに目を細めながら呟いた。
「生きていれば良いことがあるな、と」
「はあ……」

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◆◆◆◆◆

特に知っていてもいなくてもいい裏話:出張先で竜弦にコーヒー受けとしてぴよりんを差し出した剛の者がいたらしい。

【雨竜視点】とある夏の日

 昨晩までの雨なんて降っていなかったかのような顔をした青い空から刺すように降り注ぐ日差しとまとわりつくような熱気に、玄関から一歩足を踏み出すなり顔をしかめる。
 玄関の鍵を閉め、日傘を差して朝八時の住宅街を歩く。目的地のバス停からなるべく早くバスに乗れることを願いながら、少しだけ早足で。
 屋根のないバス停に辿り着くと、バスはすぐにやって来た。冷房の効いた車内はがらんとしていて、後部座席に座ってようやく一息つく。流れる窓の外の景色を見ながら、今年も夏がやって来たのだなと意識の上澄みで考えた。
 目的地の図書館前でバスを降りて、建物内に足を踏み入れた。開館直後の人気の少ない図書館は、エアコンがよく効いて少し寒いくらいだ。立ち並んだ書架にはひとまず目もくれず、自習スペースの方へ足を運ぶ。
 自習スペースは既に埋まりかけており、なんとか一席空いた場所を確保した。
 ノートと問題集をカバンから出し、問題集に取り組みながらふと考える。
 ──そういえば、今年の夏休みは図書館で茶渡くんと井上さんに会ってないな。
 自分と同じように涼を求めた二人の友達と図書館に自然と集まって宿題や読書をして、近くの店で一緒に食事をして……昨年はそれが「夏休み」であった。無論毎日ではなかったが、週に三回はそうしていたような気がする。
 ──二人共、進学はしない予定だと言っていたから、そうなるのか。
 同じ町に住んでいるのだから、今はまだ会おうと思えばいつでも会えるものの。
 ──今年が高校最後の夏休みと考えたら、そんな機会は今しかないのかもしれないのか。
 ──……少し、寂しいな。
 どこか上の空の心で、解いた問題を淡々と答え合わせしていく。正答率は九割、恙無い。
 腕時計を見ると、既に正午を回っている。何か食べに出ようかと荷物をまとめて図書館を出たところ、来た時と比べて日差しが弱い。空を見上げると、あんなに晴れていた空が重たい雲に覆われ始めていることに気付く。
 ──ひと雨来るのかもしれない、洗濯物が心配だから帰ろう。
 思案の結果そんな決定を下して、バス停に足を向けた時。
「よう、石田」
 慣れた霊圧、聞き慣れた声。立ち止まり、道の数メートル先を見る。夏の暑気で少しだけその姿が揺らいで見えるような気がしたが、見間違える筈もない。
 歩きながら、その男に声を掛ける。
「……やあ、黒崎」
 何故ここにいるのか、と聞く必要はない。
 得意でもない霊圧探知でこの場所を探したのだろう。
「なんでここまでわざわざ僕に会いに来たんだ? 僕は今、帰ろうとしているところなんだけど」
 歩みを止めずに問い掛けると、黒崎は当然のように付いてくる。
「午前中は多分スマホ見てないって井上に言われたんだよ、明日の夜暇か?」
 そんなに急を要する用事なのか、と僅かに身構えるが、黒崎は常と変わらず自然体で続ける。
「明日の花火大会、オマエも来るだろ?」
「……」
 ──そんな事を言いにわざわざ会いに来たのか。
「何かと思えば……君も受験生だろう」
「勉強勉強じゃ息が詰まるだろ……って啓吾がうるさいんだよ」
「浅野君は息抜きしすぎだろう……」
 受験生だというのに遊びたがる浅野も、そんな浅野に乗せられてかわざわざここまで誘いに来た黒崎にも。呆れると同時に、肩の力が抜ける。
「分かった、行くよ。どうせ今年で最後なんだ」
「それ啓吾の前で言うなよ、アイツ泣くから」
 彼なら本当に泣きそうではある、そう想像して思わず笑い出してしまいそうになると同時に。
「……僕も彼と似たようなものだよ」
 思わずこぼれたその言葉に、黒崎は「そうか」とだけ呟いた。
 いつの間にかバス停には辿り着いていて、バスが道路の向こうから姿を見せていた。
「じゃ、啓吾達には俺から伝えとく」
 バスに気付いた黒崎はひらりと手を振ると、背を向けて元来たのであろう道を歩いて引き返し始めた。
「あ……黒崎」
「ん?」
 バスが停まる前に思わず呼び止めると、黒崎が振り向いた。
「……また明日!」
 バスのドアが開く寸前で声を張り上げると、黒崎は少しだけ驚いたような顔をしてから唇の端を上げ、
「おう、明日な」
 その言葉を聞き届けて、バスのステップに足を掛ける。
 また明日と言って返ってくる声。こんな何でもないやり取りで何故だか胸の内がむず痒くなるが、それでも奇妙な晴れやかさを覚えた。
 運転手に回数券を渡し、空いている席に腰を下ろす。
 窓の外を見ると、黒崎はのんびりと歩道を歩いていた。
 君も日傘くらい差したらどうなんだと言うべきか、と思いながら窓から見えるよう小さく手を挙げると、気付いた黒崎がこちらに向けてひらりと手を振った。
 バスはすぐに黒崎を追い抜き、黒崎の姿は小さくなっていく。
 ──そう言えば黒崎に最後に会ったのは、一週間前の終業式以来だったか。
 ──明日になれば茶渡くんや井上さんにも会えるだろうか。
 ほんの一週間彼らに会わなかったというだけで寂しいと感じるだなんて、と内心で自分に苦笑しつつ、そんな自分が嫌いではないことにも気付く。
 ──楽しみだな。
 浮つき始めた心はそのままでバスに揺られながら、少しだけ頬を緩めた。
 
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石田家SS台詞オンリー9本ノック

「私からすればお前か叶絵の作った食事以外は全て等しく栄養以外の価値はない」
「それ絶対外で言うなよ……」
「冗談だ」
「冗談に聞こえないんだよ」

こんな感じで台詞オンリーのやつがひたすら続きます

【石田親子】6月某日

「私が父親で良かったと思うか」
 ほとんど酔い潰れて──連れて帰って来た黒崎のお父さんに何度も謝られた──ベッドの上に横になった竜弦は、どこかぼんやりとした目で僕の服の裾を掴んでそう小さな声で呟いた。
「良かったんじゃないのか、僕はこうして普通の生活を送れているわけだし」
 こんな事を言っても酔いが醒めたらどうせ覚えていないだろうしまた同じことで悩むんだろうこの父親は。そんなことを思いながら、裾を掴む指を解いて、掛け布団を竜弦の上に広げてやる。
「だから少なくとも今は、あんたが親で良かったと思っているけど」
「……そうか」
 竜弦は少しだけ安心したように呟いて目を閉じた。そのまま安らかな寝息が聞こえて来たので、僕は父の寝室を後にした。
 これから何度あんなことを言ってやれば良いのやら。いっそ素面の時に言ってやろうか……いや、恥ずかしいからやめよう。向こうだってあんなこと素面では聞けないのだから。
 全く、手の掛かる父親で困る……そう思いながら首を横に振る。
 よりによって父の日の前日に、そんなことで思い悩まなくてもいいだろうに。

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ハロウィン竜弦が吸血鬼だったらのIF

※ハロウィンソサエティ設定+独自設定
※CPではないが距離が近い

 父の血なら飲める。
 その思い付きは、突如天啓として石田雨竜に降り注いだ。
 滅却師であり吸血鬼、だが信念の都合により吸血出来ない。雨竜はそんな難儀な業をかかえている。
 牛乳を飲んではいるものの日頃から貧血に悩まされており、いい加減吸血をしろと友人のとあるフランケンシュタインの怪物に言われてしまう。
 己の全力を振るえないということは屈辱ではあるものの、死神の色である赤い血を飲むのもそれはそれで屈辱。
 だが同じ滅却師である父の血なら飲めるのではないか。飲める気がする。
 そんなわけで、雨竜は手っ取り早く父・竜弦(職業:モンスターハンター)の寝込みを襲うことにした。

 そうして、あっさり返り討ちにされた。

「馬鹿なのか、お前は」
「っ……」
 ついさっきまで眠っていたはずの竜弦は恐ろしく機敏に雨竜の襲撃に対応し、その細い手首を掴んでいとも簡単にベッドに押し倒した。
 雨竜を見下ろす竜弦の色素の薄い瞳が、開け放たれた窓から差す月光を反射して鈍く光る。雨竜は竜弦を睨みながら抵抗しようとするが、どういうわけか体に力が入らず、拘束されていない足を動かすことすらままならない。
「なっ、これ……」
「催眠術の応用だ」
 掛けられてから気付くか、と竜弦は溜息を吐き出した。
「吸血鬼だというのに血も飲まず、馬鹿な拘りを持つからそうなる」
 吸血鬼の基本能力の一つである催眠術。それを父が使いこなしていることに、雨竜は戦慄する。
「あんたまさか、吸血鬼の力を……!」
「なんだ、吸血鬼の父親が吸血鬼で何かおかしいことがあるか?」
 竜弦は雨竜の顎に指を滑らせる。手首の拘束が解けてもなお、雨竜の手はベッドに投げ出されたままだ。
「さて、吸血鬼としてハンターを襲ったのだから、相応の報いを受ける覚悟はできているのだろうな」
 竜弦の瞳が光る。なす術もなく雨竜はその光を直視してしまい、ぷつりと意識の糸を途切れさせてしまった。
 瞼を閉じて力なく眠る雨竜の顔を竜弦はしばし眺めたのち、ベッドから下りるとサイドボードの引き出しから小さなナイフを取り出す。
「……『起きろ』」
 支配者としての竜弦の声に雨竜はゆっくりと瞼を上げ、そしてどこかぎこちなく上体を起こすと体の正面を竜弦に向けた。その瞳に光はなく、その心身が完全に竜弦の支配下に置かれていることを示していた。
 ちょっとした催眠のつもりがここまで強く効くとは、と嘆息したい気持ちを抑えながら竜弦はシャツの左袖を捲くりあげる。そして右手にナイフを持つと、躊躇いなく自身の左下腕にナイフの刃を滑らせた。
 赤い一直線の軌道に赤い雫が膨らむ。竜弦は左腕を雨竜の顔の前に差し出し、淡々と命じる。
「『我が血を啜れ』」
 雨竜は小さく口を開くと竜弦の白い腕に唇を寄せ、竜弦の傷口にゆっくりと舌を這わせ始めた。
 素直に言ってくれば催眠を使うこともなくこうしたものを……そんな竜弦の思いも知らず、雨竜はいずれ自身の力の源となる血を舐めている。肉親かつ真祖の血を濃く受け継ぐ竜弦の血は雨竜の力により強く働きかけるだろう。自分が何をされたのか、本人が気付くのは少し後になるが。
 雨竜の前では冷たい目を見せていた竜弦であったが、大人しく竜弦の血を舐めている雨竜の姿を見ながら目を細める。
「全く、手の掛かる……」
 呆れながらもどこか愉しそうに呟きながら、血を舐める雨竜の黒い髪を梳くように撫でる。その髪は、竜弦の亡き妻──雨竜の母親であった人間によく似ていた。
「『今日はここまで』」
 胸に押し寄せる寂寥を振り払って雨竜の耳元で囁くと、雨竜は竜弦の傷口から顔を上げた。
「『そのまま窓から出て、宿から一時間分飛べ。そうすればお前は眠りから覚める』」
 催眠の解除を仕込んでやってから、雨竜を帰らせることにする。雨竜は竜弦の言う通りに立ち上がり、窓枠に手を掛けた。
 催眠の中とは言え血を吸わせてやったのだ、蝙蝠に変化することくらいは出来るだろう……そう思いながら竜弦は窓枠に立つ雨竜を見送ろうとする。
 ふと、窓枠に足を掛けながら雨竜が振り向いた。
 その瞳に変わらず光はない。だが夜空にいつも浮かんでいる白い月の光がその瞳の青を浮かび上がらせた。
『──これが襲った報いだって言うなら、あんたは随分優しいんだな』
「な……」
 雨竜は口を動かしておらず、その表情は催眠を掛けた時と変わることなくひどく静かだ。
(テレパスだと……?)
 そのような能力、雨竜は持っていない筈だ。まさか父の血を取り込んだことで早くも新たな能力を開花させたというのか。何よりも今の雨竜は、まだ催眠の中にいるはず──。
 訝しむ竜弦を他所に、雨竜はふわりと窓の外へ身を踊らせる。竜弦が窓に歩み寄ると、一匹の蝙蝠が月の光の方へと飛び去っていくのが見えた。

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◆◆◆

原作49巻で雨竜が空座総合病院に担ぎ込まれたくだりあるじゃないですか、あの時絶対輸血受けてるけどその血多分竜弦の血だよね?と勝手に思い込んでいるところをいつか出力しようと思い続けた結果これになりました。
吸血鬼とか真祖の設定は月姫や吸死を参考に勝手に盛り盛りしました。
 

【石田親子】痛みの話

 痛い。

 日常生活でも滅却師の修行でも、そのたった三音のその言葉をいくら発したところで父にも母にもろくに届かず、聞いてくれたのは後に妻となる専属のメイドだけであった。
 けれど自分が痛いと言えば彼女もとても痛そうな顔をすることに気付いたので、それ以来その言葉は言わなくなった。彼女のそんな顔は見たくなかったからだ。
 とは言え痛覚は変わらず備わっているので、痛い時は痛い。静血装で外傷を防ぐことが出来ても、頭痛や腹痛が体の不調を訴えてくる。結局体のどこかに痛みを覚えても我慢して自分で「処置」する事を覚えたのは、小学校中学年になる頃だった……などと。
 石田竜弦にとっては遠い過去であり、今更問題にもならないような事を思い起こしてしまったのには理由がある。
「どこか痛む箇所は?」
「…………」
「だんまりでは困るな。痛むなら痛む箇所を、痛む箇所がないのならそうはっきり言え。患者なら主治医にもう少し協力的になった方が身の為だぞ」
 今度は何かと思えば、横断歩道を渡ろうとした子供が信号無視の車に轢かれそうになったところを助けようとして自分が車に撥ねられたのだという。
 竜弦が外来患者の診察をしている最中に搬送されて来たという息子は既に検査と処置を終えて足や腕にギプスや包帯を巻かれ顔や手に医療用ガーゼを当てられた状態で玄関ロビーの待合室のソファベンチに座っており、こちらの顔を見るなりバツが悪そうに視線を逸らした。
 一つ溜息を吐いてから、やや距離を空けて隣に座る。
 しばらく返答を待っていると、雨竜はようやく口を開いた。
「……治療ならもう終わったし、薬も受け取った」
「処置が終わっただけだ。両腕両足の打撲と右膝の靭帯損傷、全身の擦過傷が完治するまでは治療を終えたとは言えない」
「それにしたって大したこと無い、もう歩いて帰れる。なんで引き留めるんだ」
 時速40kmで突っ込んで来た信号無視の車に撥ねられてその程度で済んでいる幸運あるいは異常性を医者として指摘するべきか、もっと軽い怪我で済んだ筈であると滅却師として指摘するべきか。
 そう考えた時、その言葉はすぐに口から出て来た。
「何故避けなかった」
 雨竜の能力を考えれば公道を走る乗用車程度、避けられない筈はない。その問いに対する雨竜の答えはとてもシンプルだった。
「僕が避けたら車があの子に直接突っ込んでた」
 予想出来た筈の答えとは言え、その答えを聞いた竜弦はひどく苛立ちを覚えた。
 自分を優先しろ、と。
 そう口で言うのは簡単でも、雨竜がそんなことを出来るような性格をしていないことくらい理解している。自分の安全よりも目の前の他人の安全。助けた子供やその親からは感謝され、世間から称賛を浴びる立派な精神であろう。
 だがその判断を正しいと認めるなど出来たものではない。例え、最大限軽い傷で済むよう当人が受け身を取っていたとしても。子供の自己犠牲など親が褒めるべき物ではない。
「だとしてもどうにかして避けろ。他者の安全を確保したいなら自分の安全も等しく扱え、出来ないとは言わせんぞ。回避できた筈の怪我をわざわざ負うような人間にかかずらっていられるほど病院は暇ではない」
「……それは、反省してる」
 雨竜の表情が曇る。ここまで搬送してきた救急隊員や、処置にあたった医師・看護師のことを思い返したのだろう。院長の息子が車に撥ねられて担ぎ込まれて来たのだから、対応にあたったという研修医はさぞ緊張していた筈だ。
「怪我への感覚が麻痺しているところはあるかもしれない」
 その言葉を聞いて、麻痺しているという自覚が雨竜にあることに密かに安堵する。
「この程度なら自分でも治せるから、救急車も断ろうと思ったくらいだ」
「……それはやめておいて正解だ。医者が診なければ気付かない異常はある。そしてここでお前を担当した医者に診断書を書かせれば被害者・加害者双方にメリットがある」
 まあ加害者にメリットなんぞ無くとも良いのだが、雨竜本人がピンピンしている上に念の為撮ったMRIでも異常は見受けられないので必要以上に加害者を追い詰める必要はないだろう。取るべき責任は取ってもらうが。
「加害者側や保険会社とのやり取りは私が行う。さっさと治したいのならお前は大人しくしていろ」
「……分かった」
 まだ雨竜に言うべきことはあるが、これ以上の話は他人の目のある場所でするべきではない。
「もう帰っていい、車で送る」
「自分で帰れる」
「大人しくしていろと言ったのが聞こえなかったのか?」
「…………」
 雨竜はムッとした顔をしたが、竜弦がベンチから立ち上がると大人しく付いて来た。松葉杖の扱いに慣れないためか、その足取りは少しばかりぎこちない。左肩に掛けているトートバッグは撥ねられる時に持っていたものか。バランスを崩しそうなものだからバッグをこちらに渡すよう竜弦が言うと、雨竜は渋々と頷いてバッグを差し出した。
 少し時間を掛けながら病院内を歩き、竜弦は雨竜を後部座席に乗せて雨竜のアパートへと車を走らせる。運転はいつもより少しだけ丁寧に、なるべく交通量の少ない道を選ぶ。
「最後にもう一度聞いておく。どこか痛む箇所は」
 アパートに程近い通りで信号が青に変わるのを待ちながら改めてそう尋ねると、雨竜はぽつりと呟いた。
「……右腕と右膝は、少し」
 返答があったことに驚きと安堵を同時に覚える。
 この子は自分相手に痛みを曝け出してくれるのか、そして、この子はまだ痛みを訴えることができるのだ、と。
「生活に支障は出そうか」
「立ち仕事が少し辛くなるかな」
 信号が青に変わった。車を雨竜のアパートがある住宅街へと走らせる。
「貼り薬の他に痛み止めは処方されているな? 言われただろうが、あまり無理な動きはするな」
「……分かってる」
 どこか不貞腐れたような声音だが、運転中なので後部座席の様子を伺うわけにも行かない。
「言っておくが、虚退治もするんじゃない」
「するわけないだろ、こんな怪我してるときに」
 果たして本当に分かっているのか。そう問い詰めたいのを堪えながら、竜弦はアパート前で車を停めた。
 先に降りてから後部座席のドアを開けると、そろそろと雨竜が降りて来た。
「一階だったか?」
「そうだけど」
「登下校に送迎は」
「流石にそこまでしてもらわなくていい」
 二人で雨竜の部屋の玄関前まで来ると、雨竜が「鍵、そのバッグの中」と言いながらこちらを振り向いた。
「どこに入れてある?」
「バッグの口広げてくれればいい、自分で出す」
 バッグの口を広げると雨竜はバッグに手を突っ込み、迷わず鍵を引っ張り出してみせた。
「……送ってくれてありがとう」
 鍵穴に差した鍵を回しながら雨竜が小さな声で言う。
「意外と歩きづらいな、これ」
「そう思うなら次はもう少し上手くやることだ」
「そうする」
 カチャリ、と錠から音がした。鍵が開いたようだ。部屋のドアを開けてやり、雨竜が屋内に入るのを見届けてから預かっていたバッグを手渡す。
 部屋のドアを押さえて開け放したまま屋外に立つ私から、室内に立つ雨竜の顔は陰の中に立っているように見えた。向き合った雨竜の顔は慣れない松葉杖で少し疲れているようだが、辛そうな色は見えない。
 後はもう雨竜一人にしても問題ないだろう。
「では私はもう戻る。お前は当分大人しくしていろ」
「何回も聞いた……」
 雨竜の顔には呆れが浮かんでいるものの、こちらを拒絶しているわけではなさそうである。
 胸の内を締め付けるような情感がふと湧き上がり、背丈は自分と大して変わらない筈だが今は松葉杖でやや低い位置にある頭を思わず軽く撫でた。
「なっ、」
 カッと雨竜の頬が赤くなる。
「なんだ急に?!」
「…………」
 赤面した時に肌の白さが際立つのはお前の母親に似ている、などと言える筈もないので黙っておくことにした。撫でられるがままの雨竜は目を白黒させているが気付かない振りをしながら一頻り頭を撫でて満足する。
「ではな」
 少し乱してしまった髪を軽く整え直してから手を離すと、睨みながらほとんど噛み付かんばかりに叫ばれた。
「さっさと帰ってくれ!」
 これ以上嫌われる前に身を引き、アパートのドアを静かに閉める。
 玄関前に長居はせず、アパート前に停めている車へと戻り、運転席に腰を下ろしてから携帯端末を取り出す。
 訳あって携帯電話番号を知っている息子の友人達にショートメッセージを送り、あいつが怪我をしていることを伝える。また顔を合わせた時にあいつから文句を言われるのは目に見えているが、これくらいはさせて欲しいものだ。
 端末をしまい、車を発進させる。病院へと戻る道中で口角が僅かに緩んでいることに気付いたが、引き締めようという気にはならなかった。

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とある金曜日の夜

 父には甘え癖があるのではないか。
 雨竜は時々、そう考える。
「おい竜弦、離せ」
 リビングの大きなソファの上、自分を背中からしっかりホールドしたまま寝落ちてしまった父・竜弦の手をぺちぺち叩きながら雨竜はため息混じりにそう訴えた。しかし竜弦が離れる様子はなく、聞こえてくるのは静かな寝息のみ。
 竜弦は酒に酔うとこうして雨竜に抱き着いてくることがある。それだけならまだ良いのだが、抱き着いたまま寝落ちられるともうどうしようもない。
 悲しいかな、身長は大して変わらず雨竜の方が若くて体力があるのにも関わらず、竜弦の方が筋力は強いのだ。
「……ああもう、この酔っ払い……!」
 雨竜は小さく毒づいた後に父の腕をほどくのを諦めて、体から力を抜いた。
 そうすると背中から密着する体温が意識される。ぬるま湯に浸かるような心地よさを伴いながら忍び寄る眠気に、自分も身を任せてしまうことにした。
 残した家事は全部、明日の朝になってから。
 たまには、こういう週末があっても良い筈だ。

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before time

 学会ついでに横浜に泊まるつもりだがお前もどうだ、などと言われた時は流石に面食らった。
 確かに来週は横浜で学会がある。だけど横浜なら車で一時間も掛からず帰って来れるだろ、と。
 しかしこの父親が金で解決できることは金で解決する性質であることを考えると、恐らく「学会での人付き合いに疲れてそのまま車を運転したくない」というのが本音であるのだろう。
 そう思い至った雨竜は、自分も学会を聴講しに行く身であること、多少父に付き合って挨拶回りをする必要があることを考えた。
 そうして、半ば渋々と頷いたのだった。
 この先の展開が読めたぞ、などと思いながら。

 果たして雨竜の予想通り、竜弦は横浜・みなとみらいの高級ホテルの一室を予約していた。
 学会後にチェックインしたホテルで足を踏み入れた部屋は雨竜が暮らすアパートの一室より広く、成人男性二人で寝てもなお余裕がありそうな広々としたベッドが一つ。
 ツインとダブルを間違えたのかわざとやっているのか、部屋を見た竜弦の表情を横目で見ても何も読み取れない。疲れの色こそ見えるがいつもと変わらぬ無表情だ。
 大きな窓の外には、みなとみらいの美しい夜景が広がっている。だが竜弦はそちらには一瞥もせず、さっさとジャケットを脱いでネクタイを外している。
「先に構わないか」
「どうぞ」
 よほど疲れているのか、竜弦はさっさとバスルームに行ってしまった。
 雨竜も少しばかりの疲労感を覚えながらジャケットを脱ぎ、大きなベッドに腰を下ろした。
 防音設備の整った室内は静かで、聞こえてくる音はバスルームの方から微かに聞こえるシャワーの音のみだ。それがなんだか気まずくて、雨竜はすぐに立ち上がるとテレビのリモコンを探し、夜のニュース番組を付けた。
 淡々とニュース原稿を読み上げるキャスターの声に意識を向けつつ、竜弦がバスルームから出てくるのを待つ。
 程なくして竜弦は戻ってきた。
 部屋に備え付けのガウン型パジャマを着てはいるが、髪は生乾きで目の焦点がなんだか合っていない。疲れているのは仕方ないとして髪が生乾きなのは見逃せず、雨竜は呆れながら立ち上がった。
「髪が濡れてるじゃないか……寝る時に跡になるだろ」
 竜弦を部屋に備え付けの椅子に座らせ、洗面所に置いてあるドライヤーとヘアブラシを取りに行く。
「明日も仕事なんだから疲れていても髪くらいは……全く……一旦眼鏡外してくれ」
 雨竜の言葉に竜弦は大人しく眼鏡を外した。
 雨竜はドライヤーのスイッチを入れ、竜弦の髪に温風を当てて乾かしていく。
 竜弦の髪質は雨竜と比べると柔らかく、やや癖がある。髪の色も違うし、親子でもここまで違うものかと竜弦の髪に触れながら雨竜は思う。
「ほら、終わった」
 髪を乾かし終えたのでドライヤーを止めて言うと、竜弦はぼんやりと髪に触れながら眼鏡を掛けた。
「僕もシャワー浴びて来るから、もう寝ろよ」
「ん……」
 竜弦は普段と比べると若干覚束ない足取りでベッドに向かい、あっという間にシーツの中に潜り込んでしまった。
 何十時間ぶっ通しで霊弓を撃ち続けることは出来るのに学会とほんの二、三時間の人付き合いは駄目なのか、などと考えながら雨竜は大きな窓のカーテンを閉めてからバスルームにシャワーを浴びに向かった。
 シャワーを終えてバスルームから戻ってみれば、竜弦は相変わらずシーツの中で丸くなっていた。その霊圧が穏やかなので、もう眠ってしまったのだろうと検討をつけた雨竜はやれやれと首を横に振った。
 自分もベッドに潜り込み、サイドボード備え付けのスイッチで部屋の灯りを落とす。室内にはたちまち暗闇が立ち込めた。
 広いベッドと言えど、その中に入ってしまえば数センチ向こうには父の体温がある。雨竜が少しだけそちらに体を寄せると、竜弦は小さく身じろぎした。起こしてしまったかと思った矢先、竜弦は寝返りを打って雨竜の方に体を向けた。竜弦の表情はほんの数センチ先でも見えない。
 腰に腕が伸びてきたかと思えばそのまま抱き寄せられ、雨竜の細い体は竜弦の腕の中にすっかり収まった。
「起きてたのか……ん」
 額に小さく唇を落とされ、髪を梳きながら頭を撫でられる。その心地好さに身を委ねながら竜弦の顔を見上げると、暗闇に慣れ始めた目が数センチ先の父の白い肌といつもと変わらぬ無表情を微かに捉えた。
 輪郭をなぞるように、竜弦の指がゆっくりと雨竜の体の上を這う。腰から背中、背中から脇、脇から胸、胸から首、首から顎、そして最後に唇へと。
 唇を撫でる指に雨竜が僅かに歯を立てると、竜弦が笑ったのが気配で分かった。
「……悪い子だ」
「誰のせいだと……」
 全てを言い終わる前に顎を掬われ、唇を塞がれた。唇の重なる感触は安らぎをもたらし、体の力が抜けて行く。何度か唇を重ね合わせるうちに自然と舌が絡み合い、口付けは深くなっていく。そこに性急さはなく、二人はぬるま湯のような心地良さに浸りながら穏やかに熱を分け合った。
 暫しそうして何度もキスをしてから、互いの唇を離す。その頃には雨竜は意識が溶かされるような心地になり、竜弦にしがみつきながら目を閉じていた。
 竜弦はまた雨竜の頭を撫でながら緩く抱き締めた。パジャマが邪魔だな、と全身を包む体温と揺蕩うような意識の中で雨竜は思う。だが竜弦が目を閉じて微睡み始めているので、この先は諦めることにする。
 代わりに竜弦のパジャマの合わせから覗く首筋に小さく唇を落とす。すると竜弦が僅かに目を開けて、雨竜の耳元で囁いた。
「……続きは、帰ってからだ。明後日はお前も休講日だろう」
「……破るなよ」
「破るものか」
「ならいい、明日は夕飯作って待ってる」
 竜弦は返答代わりに雨竜の瞼に唇を落としてすぐに離したきり、何も言わなくなった。本当に眠ってしまったようだ。
「……お疲れ様」
 小さく呟き、目を閉じる。穏やかな波のような微睡みに身を任せてしまえば、意識はあっさりと眠りに落ちていく。
 ──やっぱり家の方が良いな。
 意識が暗転する直前に思ったのは、そんな何でもないことだった。

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【竜叶】約束、二つ

※真咲が石田家を出た後と雨竜が生まれる間くらいの出来事については完全に捏造と妄想

 母が逝去して二ヶ月ほど経過した頃、竜弦は屋敷の使用人達に解雇を告げた。
 再就職先と新たな入居先が見つかるまではここで働いて構わないが、見つかり次第屋敷を出て欲しいと。
 使用人達はこの石田家の事情を理解していたので、ただ一人を除いて屋敷を去って行った。
 そうして広い屋敷には、ただ一人の使用人と年若い事実上の現当主だけが残された。実際の当主である父は死んでいる訳では無いが、昔から滅多に帰って来ない。こんな時ですらそうなのだから、竜弦は父をほとんどいないものとして扱うようになっていた。
 屋敷はすっかり人の気配が薄くなったが、これでいいのだと竜弦は思う。
 この家は元々こうあるべきだったのだ。誰かの人生を縛ってまで続いて良い家ではない。そう思いながら寒々しい廊下を歩いて食堂に足を踏み入れると、ただ一人残った使用人がてきぱきとテーブルセッティングをしていた。
「……片桐」
 声を掛けると、彼女はふっと顔をあげて微笑んだ。
「竜弦様、もうすぐお食事の用意が出来ますのでもうしばらくお待ちください。紅茶を入れましょうか?」
「いや、いい……ここで座って待つ」
「畏まりました。もう五分ほどで、グラタンが焼き上がりますから」
 自分以外の使用人がいなくなり仕事が増えるばかりだろうに、片桐はこの家の使用人としての仕事の全てを行っていた。
 掃除、洗濯、炊事。竜弦が派遣のハウスキーパーを呼ぼうとしても、片桐は頑なに首を横に振り、それらをこなし続けた。
 私が一番この家を理解しています、と。
「……やっぱり、お前はここを去るつもりはないんだな」
「私はいかなる時も、竜弦様のおそばにおりますから」
 何度も投げ掛けた問いに、片桐は毎回同じ答えを返す。そしてその言葉を聞いて安心している自分はあまりにも卑怯だ、と竜弦は思う。
 結局いつまでも彼女に甘えているのだ。昔から彼女に何かを返すことも出来ないまま、与えられてばかり。
 だから、彼女には自由になってほしいのに。彼女は、自分のそばにいることが何よりの幸福なのだと笑うのだ。
 片桐が竜弦の夕食をカートに乗せて運んで来た時、竜弦は思わず声に出していた。
「片桐、一緒に食べないか」
「え?」
 その言葉を聞いた片桐は驚いて目を見開いている。
「どうせこの屋敷には僕たちしかいない。……お前も、疲れているだろ」
「ですが……」
 片桐は困惑している。十年以上、食事をする竜弦の後ろで控えるのが日常だったのだ。その反応は当然だろう。
 だが、広々としたテーブルで片桐を立たせたまま一人で食事をするのが、もう自分ではどうしようもないほどに嫌だった。
「……お前と一緒に、食事をしたいと思ったんだ。嫌なら無理にとは言わない」
 これが結局片桐への甘えならもうそれで構わないと竜弦は思った。どの道、彼女が自分の頼みを断れないと理解した上で言っているのだから。
 果たして、片桐はおずおずと頷いた。
「分かり、ました……では、十分程お時間をいただきます」
 片桐は竜弦の分の夕食をセッティングし、「先に召し上がっていてくださいね」と言い残して食堂を後にした。
 竜弦は食事には手を付けず、片桐が来るのを待った。
 片桐が竜弦のメニューとほぼ同じ、だが少し量の少ない食事を持って食卓に戻って来る頃には、グラタンはすっかりぬるくなっていた。
 片桐から温め直しを提案されたが竜弦は断り、片桐に自分の向かいの席へ座るよう促した。
 そうして食卓に向かい合った二人は食事に手を合わせ、竜弦はサラダ、片桐はスープから口に運ぶ。
 片桐は竜弦の食事姿など見慣れているだろうが、竜弦が片桐の食事姿を見るのは初めてだった。
 片桐の所作は物静かだ。一口一口が小さく、食べるペースも遅い。袖口から覗く細い手首も相まって、やはり体の弱い彼女に無理をさせているのではないかと思ってしまう。
 片桐の唇にスプーンが運ばれていく様に思わず見入っていると、片桐がどこか気まずそうに肩を竦ませた。竜弦は慌てて目を逸らし、自分の食事に集中する。
 そうして食事は無言のまま続いた。無言だがそこに冷たさやよそよそしさはなく、穏やかな時間が流れる。
 自分の食事を終え、片桐の皿も空になった頃、竜弦は口を開いた。
「……今日も美味かった。ありがとう」
「お粗末様でした」
 片桐の料理の腕に間違いはない。不味い食事が出て来ることなど有り得ないのだが、今日の食事はいつにもまして美味に感じた。
 彼女がそこにいてくれることの有難さと温かさが全身に染み入るようで、竜弦は改めて片桐を真っ直ぐ見た。
「片桐、やっぱり僕はお前の負担を減らしたい」
 その言葉を聞いた片桐の表情が引き締まる。
「結局僕はお前に甘えてばかりで、お前がいないと日々の食事すらままならない。だから……せめて雇用主として、お前に無理なく働いて欲しい。そのために、この家の事を何も知らないハウスキーパーにも来てもらおうと思っている。それで……」
 この先を言っていいのかと迷い、言葉に詰まる。
 しかし片桐が真っ直ぐに自分を見ていることに気付き、ふと。
 その言葉が口からこぼれた。
「結婚しないか」
「えっ?」
「っ!」
 片桐の反応で、竜弦は自分が何を言ったのか気付く。 
「っ……すまない、」
 竜弦の突然の告白に片桐は固まっており、何を言われたのか分からないといった様子だ。
 言うとしても今ではないだろう、と竜弦は己の迂闊さを激しく呪う。
 動揺で心臓が早鐘を打ち始めるのをなんとか呼吸でなだめて言葉を絞り出すが、声が震えていた。
「……一旦、忘れてくれ」
「か、畏まりました……」
 片桐も声が震えていた。胸を手で押さえて竜弦と同じように呼吸をなだめようとしている。
「……どうぞ、お続けになってください」
「あ、ああ……」
 竜弦は一度深呼吸して、本来言おうと思っていた言葉を頭の中で整理した。今度こそ間違えないようにと注意しながら言葉を選ぶ。
「また今日みたいに、一緒に食事をしてほしい。食事が楽しいと感じたのは、久しぶりだ」
 空になった二人分の食器を見ながらそう口に出してしまえば、動悸は少しずつ落ち着いて来る。
 こうして誰かと食卓を共にしたのはいつが最後だっただろうか。食卓とは、こんなに温かく感じる場所だっただろうか……それを片桐にきちんと伝えられれば良かったのだ。
 それをまさか一足飛びに求婚してしまうとは、とあまりにも性急な自分を責めるしかない。そんなに嬉しかったのかと問われると、そうとしか回答しようがないほど、二人で食卓を囲む食事は竜弦の心に染み入っていた。
「竜弦様がお望みなら」
 片桐は微笑みながらそう答える。それを少しだけ悲しく思いながら、竜弦は言葉を重ねた。
「……毎日、でもか」
「お断りする理由が、私にはありません。……竜弦様の喜びが、私の喜びです」
 片桐はしっかりと頷き。
 竜弦は「そうか」と呟いた。
「すまない。……ありがとう」
 結局彼女をこの家に縛り続けてしまうという自責による胸の痛みと、彼女は自分を一人にしないままでいてくれるという子供じみた安堵を同時に覚える。
 それでも彼女がそれを幸せだと笑うのならば、自分が今考えるべきは彼女を働かせすぎないことだろう。竜弦は自然とそう考えた。
「とにかく、ハウスキーパーは呼ぶ。これはもう決定事項だ、いいな」
「畏まりました」
「時々休みも取ってくれ。お前は昔から働きすぎだ」
「お休み、ですか……」
 片桐の表情に、困惑が浮かぶ。
「私、お休みの日はいつも、何をすればいいのか分からなくて……結局、お仕事をしている時間が一番落ち着くのです」
「そうか……」
 昔から放課後と学校のない日は滅却師の修行漬けだった自分も似たようなものだ、と竜弦は片桐の言葉を受け入れる。
 医大に通い始めてニ年以上になる今ですら、周囲の同級生は空いた時間に勉強以外の何をしているのだろうと不思議に思うのだ。
「それは僕も同じだな。大学で改めて、自分がいかに異常な環境で育っているか実感した」
「竜弦様……」
「……そうだ、どこか行きたい場所はないか」
 最近取得したばかりの普通免許の存在を思い出す。車ならほとんど使っていないものが車庫にあるはずだ。業者にメンテナンスしてもらえば動くだろう。
「車ならあるんだ、どこでも僕が連れて行く。休みの日も僕が一緒だと休まらないかもしれないが……」
「! いえ、そんなことはありせんっ」
 少しだけ片桐の語調が強くなった。
「どこに行こうと、竜弦様がいてくださった方が、心が休まります」
「そ、そうなのか……?」
 片桐には珍しい気迫のようなものを感じて、竜弦は少しだけ気圧される。
 だが、一緒に出掛けること自体は拒絶されなかったので安堵する。
「それなら……どこに行きたい?」
「そう、ですね……」
 片桐は少し考え込み、ぽつりと呟いた。
「紫陽花……」
「紫陽花?」
「はい。その……小さい頃に、ニュースか何かで見たのです。どこかのお寺で紫陽花が沢山咲いていて、とても綺麗で……。どこだったかまでは覚えていませんし、紫陽花の季節は随分先ですけれど」
「紫陽花、寺……調べてみようか。季節になったら一緒に行こう」
「! は、はいっ」
 片桐の表情がぱっと明るくなった。釣られて竜弦も思わず頬が綻んだ。
 約束を一つ心に留め置きながらも、これだけでは駄目だと竜弦は考える。
 紫陽花の季節まではまだ半年近くある。片桐のことなのでそれまで休みなしで働こうとしかねない。
「では他に、どこか行きたい場所は?」
「他に、ですか……その、竜弦様が行きたい場所はないのですか?」
「え?」
 思い掛けない切り返しに、竜弦は思わず反駁する。
「僕の行きたい場所?」
「はい。竜弦様は幼い頃から、ご自宅・学校・修練場を行き来してばかりなので……私ばかり行きたい場所に連れて行っていただくわけにはいきません」
「そ、そうか……」
 今度は竜弦が考え込む番になった。
 こちらを見ている片桐がどこか楽しそうに見えるのは気のせいか、と若干の気恥ずかしさを覚えながら、竜弦は片桐と同じように、この目で直接見たことのない場所を挙げた。
「今の季節だと……北海道、だろうか……」 
「北海道、ですか」
「車では行けないし、一日や二日で行くのも難しいかもしれないが……雪原と白鳥を、一度この目で見てみたい」
 広大な白銀の雪原、湖に集まり優雅に翼を広げる白鳥達。
 写真だったかニュース映像だったかは忘れたが、自然界の美しい白を映す漠然としたそのイメージに対する幼い頃の憧れを、片桐と話していてふと思い出したのだ。
 「素敵です」と、片桐は目を輝かせて頷いた。
「沢山、暖かくして行かないといけませんね。冬の北海道は寒いと聞きますから」
「そうだな……」
 お互い滅却師の家に生まれた時点で旅行などしたことはなく、通学や買い物以外で空座町の外に出ることもほとんどない。修学旅行も半ば強制的に欠席させられた。北海道など余りにも未知の場所だ。
 未知の場所へ行く恐怖はあるが、それよりも目の前にいる片桐を喜ばせたいという思いの方が大きかった。
「年が明けて少しすれば、大学は休みに入る。その時期を使って行こうか」
「はいっ」
 弾む片桐の声に、竜弦の心も自然と軽くなる。
「氷点下でも過ごせるような暖かいお洋服の準備などしなくてはいけませんね。それに飛行機や宿、現地での移動手段も」
「そうだな、手分けして準備しよう」
 思い掛けず決まった旅の約束。片桐は弾む声のまま「紅茶を入れて来ますね」と立ち上がり、空になった二人分の食器をワゴンに乗せてダイニングから出て行った。その背中もなんだか嬉しそうに見える。
 少しでも彼女に何かを返すことが出来たようで良かった。そう思うと同時に、結局彼女に貰ってばかりだと痛感する。
 ほんの少し先の未来を楽しみにすることすら、かつての竜弦には出来なかった。その楽しみを自分に与えてくれたのは、他でもない片桐だ。
 人として欠陥だらけの自分を支えることを、片桐は選んでくれたのだ。
 ──貰ったものを、同じだけ与えていこう。僕の人生全てを使ってでも。
 片桐がそれを望むのか、自信はない。
 彼女は時々、ひどく苦しそうな目をする。与えられることが彼女の負担になっているのかもしれない。
 しかし、与えられるものは全て与えたいと心の底から思えるほど、竜弦には片桐のいない人生が考えられなくなりつつあった。
 あの時彼女が迎えに来なければ、こうして生きていたかどうかすら分からないのだから。
 ──僕はもう、君がそばにいればそれだけでいいのかもしれない。
 胸に浮かんだその仮説は、あまりに違和感なく腑に落ちた。

 ◆◆◆

 心臓がまだバクバクと鳴っている。
 空の食器の乗ったワゴンを押して厨房へ向かいながら、片桐は胸を手で押さえてた。
『結婚しないか』
 あの時、確かに竜弦はそう言った。
 その言葉に嘘も打算もないことは嫌でも分かった。
 彼は片桐に対して嘘をつかない。つけない、と言ったほうが正しい。幼い頃から、竜弦の嘘を片桐は全て看破した。片桐はその上で彼の嘘にあえて乗ることもあれば、叱ることもあった。竜弦とてそれは理解している筈だ。 
 ──なぜ、私を?
 ──竜弦様にはもっと相応しい女性がいる筈だ。
 ──そう、例えば真咲様のような……
 かつての彼の婚約者を思い出す。
 その場にいるだけで場を明るくする、太陽のような女性。自分のような貧相で暗い女とは大違いだ、と片桐は思う。
 ──どうしようもなかったのだと、竜弦様は仰った。
 ──それでも私はあの時、真咲様が最早滅却師として生きることはないのだと知って喜んだ、卑怯な女なのに。
 自分を労る言葉も眼鏡越しの優しい瞳も、何より嬉しいもののはずなのに、それら全てが胸を苛む。嬉しいのに苦しくて、笑いながら泣き出してしまいたくなる。
 それらは本来、自分ではない人に向けられる筈の……
「……っ」
 息が苦しい。心臓が痛いほど鳴り、視界が白み始めた。ワゴンから手を離して、廊下の隅にうずくまる。
 過呼吸の対処なら慣れている。上手く回らない意識の隅で半ば無意識に、片桐はゆっくりと呼吸する。
 竜弦の優しさをよく知る片桐は、彼に気付かれないことだけを祈る。果たして数分掛けて呼吸を整え立ち上がるまで、竜弦は来なかった。
 ああ良かった、と安堵しながら、片桐はまたワゴンを押して歩き出す。幸い厨房はもう目の前だった。
 広い厨房で一人、食器を洗い場に下げてティーセットの用意をしながら、ふと昔を思い出した。
 片桐が風邪で臥せっていた時、修行を抜け出した幼い竜弦が片桐の部屋の窓から顔を見せて、こう言ったのだった。
『僕、医者になるよ。そうすれば、片桐がいつ風邪をひいても治せるでしょう』
 ──あの後竜弦様は、修行を抜け出したことを旦那様から、使用人の部屋に行ったことを奥様からひどく叱られていたけれど。
 あの日、片桐は竜弦にこう言ったのだった。
『私のことなど気にしなくてよいのですから、どうかお好きなお仕事を選んでください』
 それでも医者になるのだと、竜弦は言い張った。
 そして、今の竜弦は医大に通っている。あの時の言葉を覚えているのかまでは分からないが、彼は今でも医者を目指していた。
 優しい人だ、と思う。優しさ故に沢山傷付いてきた人だ。
 傷付いた分だけその人生が幸多いものであって欲しい。そう願う一方で、その人生に自分が寄り添い続ける資格があるのか分からなかった。
 それでも彼女の主は、迷うことなく彼女の存在を肯定する。傍にいてほしいと、幼い子供のように目と行動で訴えてくる。
 望まれる喜びも苦しみも同じだけ胸の内で渦巻いて、片桐を苛む。竜弦から離れれば苦しみが増幅されて息が苦しくなり、かと言ってそばにいれば喜びの鮮やかさで苦しみはいっそう強く際立つ。
 ──いけない。竜弦様の前で、苦しみを見せてはいけない。
 何度もそう自分に言い聞かせながら、ティーポットに竜弦の好きな紅茶を作る。
 二人分のティーセットをワゴンに乗せて食堂に戻ると、竜弦が携帯電話の画面を睨んでいた。
 竜弦は片桐にすぐに気付くと画面から顔を上げて、「おかえり」と微笑んだ。
 春の月に似たその柔らかな微笑みが嬉しくて、同時に悲しくて。それら全てを覆い隠すように、片桐は「ただ今戻りました」と微笑みを返した。
 
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第1クール最終話放送後のタイミングで投稿しようと思って用意していたものです。
アニメ凄かった……