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【一心と竜弦】院長室、一人と一人

※藍染による空座町侵攻直前の話

「よお、調子はどうだ?」
 その声は、院長室の入口のドアではなく壁際から聞こえた。
 デスクでノートパソコンと大きなサブディスプレイに向かい合っていた竜弦は、声のする方には顔を向けず指はキーボードから離さず、ただ言葉だけを返す。
「何の用だ」
「様子を見に来た」
「貴様は貴様でやることがある筈だろう、さっさと帰れ」
「つれねえなあ」
 声の主はそうぼやくが気にした風もなく、デスクの方に歩み寄ってきたかと思うと竜弦のノートパソコンとディスプレイを肩越しに覗き込んできた。
 男の体で光が遮られて視界が暗くなるが、退かせるのも面倒なので竜弦は打鍵とマウス操作をやめない。
「……入院中患者のリストか」
「万が一目を覚まされたところで私しか対応出来ん」
「……そうだな、頑張れよ」
「余計な仕事を増やしてくれたものだ……」
『この町にとある悪党の手が迫っています。
 なのでこの町を守るために丸ごと尸魂界に転送します。
 住民の皆さんにはその間眠っていただきますが、強い霊力をお持ちのアナタには全く効かないでしょうから事前にお伝えしておきます。
 アタシ以外にアナタのこと知られるとアナタも何かと面倒でしょうから、なるべく病院から出ないでおいてください☆』
 駄菓子屋店主が隠し倉庫に残して行ったあのふざけたメッセージのことを思うと頭が痛くなる。この病院にどれだけの人間が入院していると思っているのか。
「……何だか知らんが、人間を巻き込むな」
「……ああ、そうだな」
 思わず溢れた独り言に返ってきた相槌がひどく重苦しいものに聞こえたので、竜弦は初めてディスプレイから視線を外して振り向いた。
 黒い着物を身に纏ったその男は、腕組みをして竜弦の背後に立っていた。
 その表情は険しかったが、すぐに取り繕うような笑顔に変わった。
「それ、手伝うか?」
 作り笑顔がひどく癇に障るので竜弦は視線をディスプレイに戻した。
「要らん。貴様は自分の家にいろ」
「……そうかい、ありがとよ」
 礼を言われる覚えはないので無視してパソコンの操作を続ける。
「そんじゃ、俺は帰るわ」
「さっさと帰れ」
「おーおー、それじゃあな」
 男の気配が背後から離れていく。
「黒崎」
 名前を呼ぶと、壁をすり抜けてきたくせに律儀にドアから出ようとしていたらしい男……黒崎一心が振り向く。
 最初に名前を呼んだ時は驚いていた癖に、あれから一週間と経っていないにも関わらず今では驚きもしていない。
 人間的なものか年長ゆえのものか分からないが、その余裕に僅かに苛立ちを覚えながらも、竜弦は言葉を続けた。
「死ぬなよ」
 この頑丈な男が死ぬと本気では思っていない。
 ただ、必要があれば自分の命の優先度を下げることに躊躇いのない男であろうことは分かっている。なのでその言葉を投げ掛けた。大した抑止にもならないだろうが、言わないよりはマシであろうと。
 一心は竜弦の言葉に目を見開いたが、すぐにニヤリと破顔した。先の作り笑いとはまるで違う笑顔だった。
「命は賭ける予定だが死なねえよ。……お前と仲良くしてくれって、真咲に頼まれてるからな」
 思いがけず出てきた従姉妹の名、そして何故自分と『仲良く』することが一心が死なないことに繋がるのか理解できず、思わず眉をひそめる。
「……初耳だが」
「二十年近く俺の名前呼ぼうとしなかった奴にそんなこと言えるわけねえだろ……じゃあな、本当に帰るぞ。そろそろ午後の診療が始まっちまう」
 一心はひらひら手を振って、ドアをすり抜けて院長室から出て行った。
 邪魔をするだけして、一体なんだというのだ。竜弦は一つ溜息を吐いて、仕事を再開した。
 あの男が去り際に見せた無遠慮な笑顔。それを見て少なからず安心している自分に気付いたが、思いの外悪い気はしなかった。

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雨天、独白(竜弦の話)

※(12/16)タイトルが思い付いたので「無題」から修正しました

◆◆◆

 朝から雨が降っていた。
 夏の雨の蒸し暑さと秋の雨の冷たさのいずれでもない、心地よくすらある雨がしとしとと降りしきる中で、竜弦は病院の駐車場に車を停める。
 車のエンジンを止めながら病院のとある個室に意識を向けると、弱々しい脈動のような霊圧を感じた。日に日に弱々しくなっていくその霊圧に心の臓が冷える心地を覚えながら、雨に濡れるのも構わず車外に出る。
 後部座席に置いてある細長いビニール袋と鞄を手に取り、車の鍵を閉めて小走りで関係者用出入り口へ向かう。
 建物内に入ってそのまま院長室に向かい、鞄とスーツジャケットを放り出して白衣を羽織り、ビニール袋だけを手に入院病棟のその個室へと足を向けた。
 その個室には、三ヶ月前から一人の患者が入っていた。
「おはよう、叶絵」
 病室に足を踏み入れ、ベッドに横たわるその患者──彼の妻である叶絵に声を掛ける。返答はない。彼女は半月ほど前から、起きている時間より眠っている時間の方が長くなっていた。
 病室の中はひどく静かで、心電計の電子音がやけに大きく響いている。
 ビニール袋から花束を出し、花瓶に生ける。妻の好きな花を集めたその花束は、昨日花屋で作ったばかりだというのに色褪せて見え、竜弦はすぐに花瓶から目を逸らしてベッド脇の丸椅子に腰を下ろした。
 延命の為にチューブで機械に繋がれた妻の肌は白い。触れたその手は僅かに温かく、彼女がまだ生きようとしていることを訴えていた。
 加減を間違えれば折ってしまうのでは、と恐怖心を抱かせるほどに細い手を握る。熱が少しでも彼女に伝わるようにと祈りながら、妻の寝顔を見た。
 脳波を測定する電極と人工呼吸器さえなければすぐにでも目を覚ますのではないかと思うほどに、その寝顔は静かだ。
 彼女の先が長くないことを、竜弦は知っている。
 その時が来るのは今日か明日、あるいは一週間後かもしれない。ひと月は、恐らく保たない。希望を持つ余裕など無いほどに「それ」は着実に彼女の命を蝕んでいて、もうふた月待てば九歳になるひとり息子の誕生日を祝うことすら許さない。
 竜弦は毎朝そうしているように、病床の妻に息子の話をする。
「昨日、雨竜がずっと作っていたコサージュが完成したよ。今日の学校が終われば持って来るかもしれない」
 息子は母の命が長くないことに恐らく気付いているが、それに対する不安を口にすることはない。ただ、病床の母にプレゼントするための小物を毎日のように作り続けていた。
 手芸に没頭することで母に迫る死という現実から逃避しているのかもしれなかったが、竜弦はそれを責めることは出来なかった。
「とても美しく出来ていた……あいつには手芸の才能があるな」
 雨竜に手芸を教えたのは叶絵だ。サンルームで二人で手芸をしている時間が好きなのだと、叶絵は倒れる前に笑って言っていた。竜弦も、そんな妻と息子を見ているのが好きだった。
 ひと月ほど前にペンを握るのにすら苦労するようになったことを思うと、例え目を覚ましたとしても彼女がその手に針と糸を握ることはもうないだろう。
 竜弦はそれが悲しくてやりきれなかった。少しずつ生きる力を奪われていく妻に、自分の命を与えてしまいたいと思うほどに。
 ほんの数時間後の未来の話をすることすら、胸がつかえて苦しい。
「……見てやってくれ。君のために、本当に頑張って作っていたんだ」
 なんとか話し終えて壁に掛かった時計を横目で見ると、そろそろ業務の準備を始める時間だった。
 丸椅子から立ち上がり、妻の額と髪をそっと撫でる。
「そろそろ仕事だ……昼にまた来る」
 そうして竜弦は静かに病室を後にした。廊下で看護師に呼び止められ、妻の容態について昨日までと大きな変化がないことを聞かされる。
 院長室に向かいながら、ふとまた妻の霊圧に意識を向ける。ああ良かった、まだ生きている……そう安堵しながらも、意識を逸らせばその間にこのか細い霊圧が消えてしまうのではないかという冷たい刃のような恐怖が首筋を撫でる。
 乗り込んだエレベーターにはちょうど誰も乗っていなかった。竜弦は院長室の階のボタンを押し、壁にもたれて深々と息を吐き出した。
 恐怖で思考停止することは許されない。立ち止まることも逃げることもできない。そのような世界に自分は生きていて、自分ではなく息子を生かそうと決めた以上他に選択肢などないのだ。
 少なくともこの先の九年を、妻がこの世を去ったのちも自分は無理矢理にでも生きて、来るべき戦いに備えなければならない。でなければ、息子がその九年の先を真っ当に生きられる保証すら無いのだから。
 そして、九年の先に自分はいないかもしれないという予測以上に、九年の中に妻がいることはないのだという事実が竜弦の身を竦ませる。
 物心ついた時から竜弦の傍にいた彼女は竜弦にとって、そこにいて当然の存在だった。いつまでもそうあって欲しいと心から望んだ相手だ。
 だが残酷にも、彼女が死ぬことで、世界の崩壊を防ぐための父の計画のピースが揃うのだという。それを最初に聞いた時、怒りが心を芯から冷やしていくのに気付いた。
 何故、たかが世界のために彼女を失わなければならない?
 生まれて来ただけで苦痛を伴うこの世界に、自分が何かする義理があるのか?
 一方で、それを抑えようとする内なる声も確かに生まれた。
 だが、この世界には雨竜がいる。
 ただのそれだけだった。
 それだけで竜弦は、この最悪の世界のために自分の人生を捧げても良いと思えてしまった。
 息子のためであれば、この最悪の世界を救うために最悪な父親の計画に手を貸しても構わない。それが自分の九年から先の人生を捨てると同義であったとしても。
 そう何度も繰り返した筈の自問自答に、何という皮肉か、と乾いた笑いが溢れる。
(僕は、君を失わないと続いていけないこの世界が何よりも憎いというのに)
(僕がここで全てを投げ出したら、世界が終わるかもしれないだなんて)
 エレベーターはいつの間にか、目的の階に停止していた。

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竜弦が雨竜に名古屋土産でぴよりん買ってくる話

 名古屋に出張に行っていた父が、朝の新幹線で帰っては来たがその後またすぐに仕事で直接土産を渡せないのですぐ家に来て冷蔵庫の中の箱ごと持って行け、などと正午を回った頃に連絡してきた。
 なので雨竜が、その唐突さに呆れつつも実家に足を運んだところ。
 可愛らしくデフォルメされた鳥の形をした……薄黄色のケーキ? が、四つ。冷蔵庫の中に置かれていた箱の中に鎮座していた。
「……なんだ、これ」
 父のセレクトに対するイメージからあまりにかけ離れたそれに、思わず声が出る。
 白い箱に貼られていた黄色いシールには、そのケーキのイラストと共にこう書かれていた。
『ぴよりん』と。
「…………」
 ますますあの父っぽくない。
 父が名古屋土産で買ってきそうなお土産って、良くてキオスクの一番目立つところに置かれていたういろうとかじゃないのか。何故これを選んだのか。
 手元の携帯端末で調べてみたところ、どうやらこのぴよりんは名古屋駅構内の店舗でしか販売されていない新たな名古屋名物のひよこ型プリン、ということらしい。
 箱に貼られているシールを見ると、消費期限は今日になっている。
 箱ごと持って行け、と父は言っていた。つまりこの四つ全て好きにしろということなのだろう。
「……全く……」
 友達と食べなさいの一言くらい言えないのか、あいつは。
 雨竜は改めて父に呆れつつ、同時に気恥ずかしさも覚えながら、通信アプリのとあるグループチャットを開いたのだった。

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ぴよりん、持ち運ぶ難易度やばいらしいですね。
(イートインでしか食べたことない)
続いた→続・竜弦が雨竜に名古屋土産でぴよりん買ってきた話

【0314】white bouquet【石田親子】

 疲れ切った顔で帰宅した父に花束を渡したら、どんな顔をするのだろうか。

 おかしな点はない、筈だ。
 今日は父の誕生日で、いつもより少しだけ豪勢な料理を作って、テーブルメイクも張り切って、プレゼントとちょっとしたケーキなんかも用意したりして、そこまでは昨年もやった。
 でも今年はそこに花束を追加した。追加してしまった。
 息子が父の誕生日に花束を送るというのが何かおかしいかと言えばおかしくはない、と思う。家族が家族に花を送るのはごく普通の事だ。少なくとも母さんが生きていた頃の僕の家はそうだった。他の家庭はどうだか知らないが。
 それに今年……いや昨年、今年度の僕の誕生日には成人を迎えたからと色々して貰った。その恩に報いる程の金銭的価値がこの花束にある訳ではない。第一、あの父と金銭面で釣り合おうなど到底無理な話だ。
 それでも、どうしても気持ちでは報いたいと。そうして辿り着いた結論が、花だった。
 白い花を中心に選んだらホワイトデー用ですか、と花屋の店員さんに聞かれたので違います、と慌てて否定して、父の誕生日に、とそれから続けた時の奇妙な気まずさを思い出すと顔が熱くなりそうだ。
 それにしても少し大きすぎただろうか……薔薇は本数で花言葉が変わると店員さんに教えて貰って、それで束ねたい花との兼ね合いとか色々相談していたらいつの間にかそれなりの花束になってしまって……ああ、もうすぐ帰ってくる。
 渡す時はきっと固い表情になってしまう。それでもこの花達に込めた何かが伝わればいい、伝わって欲しい。もう既に顔から火が出そうだけれど、心臓の鼓動もやたらうるさいけれど、緊張で喉も固いけれど、それでもきっと、ちゃんと渡せる。大丈夫。
 リビングを何周も歩き回って呼吸を落ち着かせながら、何度も何度も渡す瞬間をシミュレートする。それでも、受け取った時に竜弦がどんな顔をするのかだけは想像もつかない。
 ……喜んでくれれば、良いんだけど。
 僅かな杞憂を振り払い、大きく深呼吸をして腹を据える。
 竜弦の霊圧が、自宅のガレージに到達した。
 花束を手に、玄関へ。
 ドアが開くのを待ちながら、手の内にある花達にそっと願いを込める。
 
 どうか少しでも。
 この花が、父を優しく暖めてくれますように。

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≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡
この話と少しだけ繋がってます。
当サイトはこれからも不器用に少しずつ歩み寄ろうとする石田親子を応援していきます。

【石田親子】灯

 息子さえ生きていれば他には何もいらない。
 石田竜弦がそれを他人に話した事があるのは一度きりである。他人と言うには奇妙な縁が繋がれてしまっている男だが、では他の何なのかと問われても形容すべき言葉が見つからない。
 息子を生かすという自分の目的をその男が邪魔するようであれば迷わず排除するであろうという確信はあった。だが一方で、そんな事にはまずならないであろうと根拠も無く思わせる何かがその男にはあった。だから、その男が何かと近くに寄って来るのは放っておく事にした。
 実害はなく、ただし互いに利益もない。それでも共に居る分には何とは無しに己を偽る必要も無く落ち着いていられる。
 まさか傍から見れば友人同士に見えているのでは、と気が付いたのは、友達ならもう少し優しくすればいいだろ、と寄りによって息子から言われた時。
 幼い頃から家の外にいる他者とのプライベートな付き合いを避け続けていた為か、ほとんど完全な他人と傍から見れば友人に見えるような関係性を築いたのはほとんど始めての事と言えた。本当に友人なのかどうかは分からないが、関係性にラベルを貼る必要性は特に感じていなかったのでその疑問は放っておくことにした。
 だからこそ、あんな言葉を迷うこと無く、そしてなんでもない事のように告げるに至ったのだろう。この男にであれば、自分の行動原理を伝えても問題無かろうと。
 それは裏を返せば、息子を生かす為であれば理性を以て他の何もかもを見捨てる事すらやむ無しとする思考の表明でもあった。例えそれがその男の大切な物であろうと見捨てると。
 それでもその男は、「そうか」とだけ頷いた。
 万人を救う事も出来るであろう大きな力を、ただの個人の為だけに振るうという竜弦の選択を、その男は決して否定しなかった。
 そんなやり取りがあってもなお、男は変わらずに接して来たし、竜弦はそれを何も特別な事とは思わなくなり、いつしか日常の一部となっていた。
 そしてそこまで気を許すに至ったせいか、病院のベッドで意識を取り戻した時に最初に感知した霊圧が黒崎一心のそれであっても、竜弦は特に驚く事もなかった。
「大丈夫か?」
 瞼を上げると、蛍光灯の白がやけに目に刺さる。眼鏡を掛けていない視界はひどくぼやけているし見舞い人の顔もよく見えないものの、見慣れた天井の色でここがどこなのかは直ぐに把握出来た。
「……何があった?」
 やけに体が重く、喉から出る声は掠れている。意識が明瞭になるほど、自分の体全体を覆う異様な怠さとずきずき苛む頭痛が際立っていく。
「倒れたんだってよ、仕事中にな」
「……そうか」
 思い返してみると、午前の診療を終えて少し気を抜いた瞬間に体に力が入らなくなっていったような記憶がある。そんなに疲れていたのか、とどこか他人事のように思う。
「ったく……俺から連絡しといたが、あんま雨竜君に心配掛けんなよ」
「何故それをお前に言われる必要が……」
「お前、自分が今いつ死んでもおかしく無いくらいには不安定だって自覚ないだろ」
 いつ死んでもおかしく無い。自分が。
 全く心当たりはなく眉をひそめると、一心は深深と溜息を吐いた。
「さっき聞いた、最近のお前の働いてる時間の長さが異常だってな。ちょっとお前の霊圧も診てみたがガタガタじゃねえか。それも昨日今日の事じゃねえ、相当前から積み重なってたもんが今日一気に崩れたような状態だ」
 この男にしては随分真面目な声に、ようやく事の重大さを飲み込み始める。
 過労で倒れた患者を診た事は何度かあるが、自分が過労で倒れる側になったと。
「霊圧がガタガタなのを肉体で支えてたが肉体の方に無理が出た……いや逆か、無理をしていたから霊圧がガタガタになったんだな。なんでそんな無理した?」
 何故、と問われても。
「仕事以外にやるべき事はないから、仕事をしていただけだが」
「真顔ですげえ事言うなお前……つーかそれなら何で今になって……ああ待った、そういう事か……」
 なるほどなあ、とまた深深と溜息が聞こえる。
 天井の蛍光灯の明るさにようやく慣れてきた。病室の照明をもう少し暗いものにした方がいいかもしれない。
 二、三度瞬きをしてから体を起こす。だが手にも腹筋にも上手く力が入らず上半身を起こすだけでどっと疲れに襲われた。左腕で体を支えた時にチクリとした痛みを覚え、ようやく点滴のカテーテルが刺さっている事に気付く。
 病室を見渡しても視界に写る物の輪郭線は酷くぼやけており、ベッドの傍に立っている一心の霊圧をした人間の顔すら見えない。
「おい無理すんな」
「そうじゃない、眼鏡を寄越せ」
 裸眼の視力が0.1程度なせいで、眼鏡がないと自分の状況把握すらままならない。
 大きな手が伸びてきて、樹脂と金属がこめかみに当たる感触の後にレンズ越しの視界がクリアになる。
 指で眼鏡の位置を直して病室を見渡すと、ベッドサイドの丸椅子には呆れた顔をしている一心が座っていた。個室に入れられたようで、病室内には自分が今寝ていたベッドの他にはテレビ台と小さなソファしかない。腕に刺さっている点滴は一本。
 病人側としては初めて見る病室に少し新鮮味を覚えていると、あまりに覚えのある霊圧がこちらに向かっているのに気付いた。そしてソファをよく見れば、学生鞄が置いてある。
「黒崎、雨竜に連絡したのはいつだ」
「いや、それなんだけどな。実は倒れてすぐに俺に連絡が来たから俺から雨竜君に連絡して、それからすぐに来たんだよな、雨竜君。学校終わった直後だったみたいでよ、来たのがだいたい2、3時間くらい前だ」
「……そうか」
「で、一度帰った。お前の入院セット持って来る為にな」
「……そうか……」
 息子に入院セットを持って来させる羽目になってしまった、と僅かな反省の念を抱いた瞬間に静かに病室のドアが開いた。
 目を向けると、安堵のような表情を浮かべた息子と目が合った。その表情に虚を突かれて黙っているとすぐにその眉が吊り上がり、大きなボストンバッグを肩から下げたままつかつかと歩いて来た。そして開口一番、怒りと呆れがない混ぜになった顔でこう言い放った。
「なんで院長なのに過労で倒れてるんだあんた!?」
 一心が堪らずと言った様子で勢い良く噴き出した。

 相次ぐ連勤で曜日感覚すら失い掛けていたがどうも今日は土曜日らしく、雨竜は一頻り怒った後も制服のまま病室に残り続けた。
 体を起こしているだけで体力を消耗するので再度横になれば、すぐに重くじっとりした疲れが体を眠りの底へ引きずり込んでいった。
 何かの夢を見たような気がするが、酷く曖昧な靄を掴むような夢だったような気がする。
 そうして再度目を覚ました時には、病室の窓から橙の空が見えた。点滴はいつの間にか抜け、あの強烈な怠さは先に比べると鳴りを潜めていた。それでも漠然とした全身の不調は感じる。
「おじさんなら帰った」
 体を起こして眼鏡を掛けると、ソファに座っている雨竜が手元の本に視線を落としたまま言った。
 壁にかかった時計を見ると、六時前を指している。入院病棟の面会時間は八時までだが、そろそろ日が沈む。
「……お前は帰らないのか」
「僕の勝手だろ」
 雨竜は本を閉じて顔を上げた。まだ怒っているようで、眉間には皺が寄っている。
「……担当の先生から色々、聞いた。ここ最近あんたがどういう働き方してたのか」
「そうか」
 未成年と言えど患者の家族だ、それくらい聞くだろう。
 雨竜は膝の上で拳を握り締めた。
「ずっと、気付かなかった」
「私が勝手に体を壊した。お前が悔やむ事ではない」
「そういう事じゃない」
 僅かに声を荒らげると、雨竜は立ち上がりベッドサイドまで歩み寄って来た。
「……大前提としてだ。仮にあんたが僕の父親じゃなかったとしても、いらないって言ってるのに毎月生活費を振り込んできて僕が死にかけた時に真っ先に助けに来るような人間が倒れるまで働いてるのを見逃した事を悔やむ事も出来ない程、僕はあんたに対して冷たくなれない」
 丸椅子に腰掛けると、雨竜は少し眉を下げた。その顔は、幼い頃に必死で泣くのを堪えていた時の顔に似ていた。
「おじさんから聞いた。あんたの今の霊圧だと、いつ死んでもおかしくないって」
「そうらしいな」
「……僕はずっと思ってた。あんたはどこを見てるんだろうって」
 雨竜は一つ息を吸うと、胸の前で滅却師十字を握りしめた。
「あんたは僕の事なんてほとんど見てないと思ってたけど、それは違った。あんたが、僕と僕以外の全部を天秤に掛けて僕を選んでたって事は分かった。あんたが見ていたのはずっと、母さんの復讐と、僕を守る事だった。……それじゃあ、母さんの復讐の必要も無くなって、もう他の全てを見捨ててまで僕を守る必要もほとんど無くなった今、あんたは今どこを見てるんだ?」
 どこを見ているのか、と聞かれ、答えが出てこない事に気付く。
 ああそうだ、自分はまさに黒崎に向けて言ったでは無いか。
 仕事以外に、やるべき事が無いと。
 妻が倒れる前までは、仕事が終わって家に帰れば家族がいた。自分には一生涯掛けても手に入らないと思っていた、「ごく普通」の幸せと愛情に満たされた生活があった。ただそれだけあれば良いと思える程の、何よりも愛しい家庭が。
 けれど妻が倒れて逝ってからそれは過去の物となり。十年近い時間の中で自分は、刻一刻と迫るタイムリミットへの焦燥感と息の詰まる閉塞感と忍び寄る絶望感を紛らわす為に仕事をしていたような物だった。
 そして仕事以外の時間でずっと続けていた滅却師の道具のメンテナンスも、結界作成も、己自身の力の保持も、全てが終わった今、ほとんど必要が無くなった。
 ただ滅却師の能力を復讐と守護の手段としてしか利用していなかった自分には、今となってはいずれも必要のないものだった。
 雨竜はもう、自分で自分の身を守れる。
 自分のするべき事が、見るべき方向が分からなかった。故に、ただ一つ「職務」としてそこにあった仕事にのめり込んだ。
 「成すべき事」も無く「生きて」行く方法など、竜弦は知らなかった。
 答えに窮する竜弦に、雨竜は少し悲しそうな目をした。
「……僕は、あんたと普通の親子に戻りたいとは思ってない。そんなのは今更無理だと思う」
 雨竜の言葉は恐らく正しい。親子としてはとっくに機能不全に陥っている、「真っ当な親」に育てられていない自分が妻抜きで息子と上手くやるなど土台無理があったのだ、と竜弦は認める。
 息子の事は愛している、それでもまともな親として振る舞う事などもう出来はしない。
 増してや、自分の行く先を自分で決められなくなった父親など、子供にとって負担となるだけだ。
 竜弦の思いを知ってか知らずか、雨竜は迷うような素振りを見せながら、それでもはっきりと竜弦を見据える。
「ただ、たとえ今のあんたに生きる理由がないんだとしても、普通の親子になるのが無理だとしても、……生きているのが苦痛なのだとしても、僕はあんたに生きていて欲しい。僕のただの我儘だ。それでもあんたは僕のたった一人の父親だから」
「……何故」
 喉から出た声は、思いがけず震えていた。
 急に目の前の息子に、得体の知れない恐怖を覚えた。何故機能不全に陥っている父親に対してそこまで根拠の無い情を抱けるのか。
「何故お前はそこまで私を気にする事が出来る、生きて欲しいと望む事が出来る」
「何でって……」
 雨竜は困惑しながら、首を傾げた。
「父親だから……その答えで不満なのか?」
 少し考え込んでから、一つ溜息を吐く。
「じゃあこう言ってやろうか。今更死ぬなんて許さない。……僕の為に他の全てを見捨てようとしてたなら、僕の為にもう少し長く生きてくれないか。生きてくれるだけでいい、あんたの生きる理由がいつか僕で無くなるとしても構わないから」
 目尻を緩めたその表情に、胸を抉られる。
 笑っているのに泣いているかのようなその顔は、悲しい程妻によく似ていた。
 ──私は、きっと貴方と雨竜を置いて行ってしまうけれど
 ──どうか貴方は、まだあの子を独りにしないであげてください
 妻がそう言ったのはいつの事だったか。
 そう、確かこことよく似た病室で……
「……ようやく、またあんたと向き合える気がしてるんだ。だからあんたが嫌だと言っても僕はあんたに向き合ってやる、仮に死んだとしても尸魂界まで押し掛けて探し出してやるからな。……それに」
 妻の面影が過ぎったのは僅かな一瞬の事で、雨竜はどんどん居丈高な顔付きになっていき、最後にはニヤリと、けれど力強く笑ってみせた。
「もし生きるのが怖いなら、僕が助けてやらない事も無い。……僕はあんたが戦う理由だ、あんたの守りたい物だ。その僕があんたを守ろうとして、生きて欲しいと願って、何かおかしい事があるか?」
 ……ああ、全く。
 この子が私に似なくて良かった。
「な、何急に笑ってるんだ気味の悪い……」
「言うに事欠いて『気味の悪い』か……」
 思わず零れた笑みに対して「気味の悪い」など言われては立つ瀬がない。
 だが、息子の言葉には確かな覚悟と願いがあり。そしてそれはどこか、自分と妻が息子に捧げた祈りに似ていた。それは、ただ家族に生きて欲しいという、当たり前で、けれど親を信じられなかった竜弦からすれば奇跡のような祈り。
 何故息子がそんな祈りを抱けるのか、理解は出来ない。それでもその祈りを受け止めなければならないと、覚悟を決める他無かった。
 息子を、人間としてどこまでも不完全な父親が抱える生への恐怖と向き合わせているのは、他ならぬ父親の自分なのだから。
「……私が重荷になったらいつでも切り捨てろ」
「そっちこそ重荷にならないようにしろ。だいたいあんたなら、仮に僕に切り捨てられてもそのうちまたなんとか勝手にやれるようになるだろ」
「……そうか、お前に私はそう見えているか」
 こんな無様な姿を見せても尚己の強さへの信頼を向けられている事実を、不思議と重荷とは感じなかった。
「そうだな……せめて、あと二十年は生きねばな」
「あと二十年ってせいぜい定年までだろ。今のうちに趣味でも探しておけよ」
 そこまで呆れたように言ってから、雨竜は今度は笑みを湛えながらまた溜息を吐き出した。
「いや……定年退職なんてしないか、あんたは」
「分かってるじゃないか」
「別に仕事をする分にはいい、ただちゃんと休めよ。今なんて休むにはいい機会だろ」
 そこまで言ってから、雨竜は腕時計を見た。竜弦もつられて時計を見ると、既に六時半を過ぎていた。
「……じゃあ、僕はもう帰るから」
 その言葉が名残惜しげに聞こえたのは気の所為だろう。
 雨竜は立ち上がると、ソファの上に置いてあった学生鞄を手に取って肩にかけた。
「明日からも来れる時は来る」
「学生だろう、そう頻繁に来なくとも良い」
「大した手間じゃない。……それじゃ、明日」
 あっさりと、けれど穏やかな笑みを残して、雨竜は病室から出て行った。
 病室から遠ざかっていく霊圧を感じながら、竜弦はまた昔の事を思い出していた。
 ──あの子は、長く生きられますか
 死に向かうまでの三ヶ月を病床で過ごしながら、妻が呟いた言葉があった。あの時は、自分も焦燥感と恐怖に押し潰されそうになりながら、きっと長生き出来る、させてみせる、と肯定するしかなかったものの。
 ああ、長く生きられるとも。あの子自身がその道を掴み取ってみせたのだから。
 今は、何者にも急かされる事無くその影に怯える事も無く、そう首肯出来る。であれば、自分はあの子に万が一があった時の為にも、あの子の行く道を見届けられるよう生き続けなければならないのだろう。
 その思いは、長らく抱えていた生きる事に対する強迫観念と、それに付随する首元に触れる刃のような冷たい恐怖とはかけ離れており。冷たい部屋に差す窓枠の形をした陽光のような、優しい温もりに似ていた。
 翌日、雨竜が来るより早く一心が見舞いに来た。ベッドの上に体を起こしていた竜弦を見て一心はニヤリと笑った。
「随分顔色良くなったな?」
「そうらしいな」
「昨日と違って、今のお前の霊圧ならもう少し長くは生きられるんじゃないか。ま、体の方が全然治ってなさそうだけどなあ」
 それはその通りで、顔色こそ心理的要因で良くなってはいるが、まだ体の方は絶対安静を言いつけられている状態だった。
 まあ一度ガタが来た体がそう簡単に治る訳もない、と竜弦は医者としての冷静な頭で思う。
 一心は手にした書店のビニール袋をサイドボードにどさりと置いた。
「入院中暇だろ、適当に買ってきた」
「ああ……」
 学術誌や経済誌に文庫本が何冊か、袋の口から覗いている。自分にここまでするこの男にも、一度聞いておかねばならない事がある。
「黒崎」
「ん?」
「貴様、私が雨竜以外どうでもいいと知っていても何故私に付き纏ってきた?」
「付き纏っ……まあいいか……何でって」
 一心はベッドサイドの丸椅子に腰を下ろすと腕を組んだ。
「俺はこっちに来るまでは長い事死神やってたからかもしれないけどな。何となく分かるんだよ、やばそうな奴が」
「……やばそう?」
「こいついつか遠くない内に死ぬんじゃないか、って予感があんだよ。霊圧とかじゃねえ。お前はそれが最初に会った時からぼんやりとだがあった。で、お前の奥さんが倒れてから久し振りに会ってみたらそれは更に強くなってた。理由は他にもないこたないが、それが一番だろうな。流石にほっとけねーよ、そんなやつ」
「……死相が出ていたと?」
「そんなとこだ。その上息子以外何もいらないとか言い出すのは一番危ないパターンだろ、そういう奴に限って残される側の気持ちも考えずに自爆して死ぬからな。で、もうその心配もないと思ったら過労で倒れるしよ……ま、いつか死にそうオーラ出しといてまだちゃんと生きてんだから大したもんだぜお前も」
 つまりこの男は、自分が生きる事に対する漠然とした恐怖を抱え続けていた事など初めからお見通しだったと。その上で当たり前のように接して来たと。
 それが気に食わない訳では無いが。それでも己が抱え込み続けている物を共有は出来なくとも理解しているこの男の存在が、立ち続ける支えとなっていたのは事実なのかもしれなかった。
「……昨日、貴様が帰ってから雨竜に言われた。今更死ぬなど許さない、と」
「ほーう」
「正直なところ、何故あいつが私に拘るのかはまだ半分も理解出来ん。だから、私が重荷になったらいつでも切り捨てさせるつもりでいる。それでも……生きねばならないとは、思った」
「……そーかい。そう思えたなら大したもんだよ、お前は」
「仮に死んでも尸魂界まで押し掛けて探し出してやるとまで言われた」
「お前雨竜君の事相当怒らせてないか、それ……?」
 事実怒らせたので返す言葉もない。
 滅却師があくまで現世側に生きる存在である以上、例え尸魂界と行き来する権利と手段を得たとしても、死者に会う為に尸魂界に赴くというのは一種のタブーである。
 平時にあっては、尸魂界に魂魄を送られた死者と、魂はなお現世に留まっている生者は極力交わるべきではない。
 世界のいくつかの神話に見受けられる「冥界下り」の物語は、現世と尸魂界の距離がまだ近かった頃に実際に死者を彼岸より連れ戻そうとした者の末路を神や英雄に仮託して描いている……と竜弦は教えられた。無論、雨竜とてそれは理解している筈だ。無闇矢鱈と生者が死者を求めて彼岸へ渡るべきではない、と。
 詰まる所、息子をオルフェウスにしたくなければ大人しく生きろ、と己を人質に取った上で脅してきたようなものだ。雨竜がそれを自覚しているかは竜弦の及び知る所では無いのだが。無自覚ならばそれはそれでたちが悪い。
「……まーでも、良かったんじゃないか、オメーはそれで」
「それで、とは」
「お前の世界にはお前を必要としてる患者やこの病院で働く人達がいる。なんなら俺もいる。お前は世界から必要とされてるし、必要とされてなくたってお前が生きるのに別に理由はなくていい。ただそれでも、今のお前には生きる為の決定的な理由がどうしても必要で、そうなれるのは雨竜君だけだ。だから、いくら俺なんかがまだ死ぬんじゃねえって叱ってもお前には響かねえし雨竜君に言われでもしない限りその気にもなれないだろ、こればっかりはな」
「……それもそうだな」
 この男の自分の中の存在意義は理解している。それでも、生きろと言われたところで雨竜程は響かないのだろうというのは認めざるを得なかった。そして、自分は仕事にのめり込むたちでありながら仕事のために生きる事も出来ないだろうとも。
「だから、まあなんだ。気付けたならもう手放すなよ、お前の生きる理由」
「……ああ」
 自分によく似た、けれど今の自分のそれよりは芯の強い霊圧が少しずつ近付いて来るのを感じる。
 ああそうだ、まだ妻が元気だった頃。仕事の翌朝、休日の朝に幼い息子が自分を起こしに来るのを、その霊圧を感じながら待っていた事があった。
 それを思い出して、胸に小さな温もりが灯るような心地に竜弦は目を細めた。
 遠い過去の物になりかけていたそれが、今一度ゆっくり色を取り戻し始めていた。

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雨竜の存在はきっと竜弦にとって他の何とも比べられないくらいかけがえのないものだとおもうのです。

【雨竜と竜弦】Good sleep.

「……もう昼の十一時だぞ」
 年の瀬という事で実家に帰ってみれば、父はベッドの中にいた。
 優秀な医者でありワーカホリックの気があるとは言え、院長という立場故か年末年始はほぼ家にいる。そう聞いてはいたが、まさか自分が帰って来ても起きてないとは思わなかった。
 雨竜も朝は弱いという自覚はある。だが十一時まで寝ていた事は無い。そこまで寝るのは流石に寝ている時間が勿体無い。
 ……まあ、働いている身だからそういう事もあるだろうな。もしかしたら遅くまで働いていたのかもしれない。こういう時でもないとゆっくり眠れないだろうしな。
 雨竜はそう無理矢理納得しながら、ベッドでうつ伏せになって眠る父を眺める。呼吸で多少背中が上下しても良さそうなものだが身動ぎ一つしない。穏やかな霊圧を感じる事がなければあわや死んだかと思うかもしれない。
 はあ、と呆れながら雨竜は一つ溜息を吐き出し、淡い笑みを浮かべた。
「……おやすみ」
 雨竜は踵を返すと、静かに竜弦の部屋から出て行った。
 そして雨竜が出て行った後。枕に顔を突っ伏していた竜弦がのろのろと顔を上げた。
「……夢か……?」

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【チャドと雨竜】優しい拳

「いいっ……加減にしろ!」
 若干上擦った怒声と共に、肩をどつかれた。
 20cm以上眼下から俺を見上げる顔は、目を釣り上げ眉間に思い切り皺を寄せ頬を上気させ、詰まる所分かりやすく怒っている。
 ついさっきまで俺を取り囲んでいた十人強の不良全員を一人で叩きのめして追い払ったとは思えないほど細身の体躯の全身に怒りを漲らせながら、石田は腕を組んだ。
「茶渡君、君自分がどれだけ他校の不良達から目を付けられてるか分かってるだろ?なのにどうしてこういつもいつも囲まれても誘い出されても無抵抗に……大ごとになったらどうする気だ!」
「いや、お前が出てくる方が大ごとになる気がするのだが……」
 夏休み中とは言え石田の現在の肩書きが「空座第一高校生徒会長」である事を思うと、多分俺だけの方が余程穏便に事を片付ける事が出来る。生徒会長が不良相手とは言え暴力沙汰になるなどとんでもない話だ。……ついでに本人の前では口が裂けても言えないが、石田に何かあった場合こいつの親父さんが間違いなく出てくる。石田の親父さんは石田の事を大事にしている分若干──いやかなり──苛烈で手段を選ばない面がある上、大病院の院長という肩書き上この町の「偉い大人」に対しても相当な影響力を持っている。そうなると一番危ないのはどう考えても石田を相手にした不良達だ。
 今までの所大ごとになっていないのは、そこらの不良レベルでは石田に太刀打ち出来ず、あまりに簡単に打ち倒された不良達が石田を恐れて寄って来なくなったからに尽きる。
「……だが、いつもすまない」
 とは言えいつも心配させているのは事実なので謝ると、少しだけ石田の表情が緩んだ。
「……分かってるならいい。今度他校の不良に呼び出されたら僕を呼ぶように」
 そうすると大学受験を控えた石田にはあまり良くないから呼ばないのだが。多分それを言うとやはり怒られる。それでも俺が不良に絡まれたのを察知すればきっと石田は飛んでくるし、一護が不良に絡まれていても積極的に首を突っ込みに行く。井上がタチの悪いナンパに絡まれて近くに有沢がいなかった時に、通りすがりを装って助け舟を出しに来た事もあるという。
 石田によれば、霊圧の揺らぎで何となくは分かるらしい。常人に過ぎない不良やナンパに絡まれた時の霊圧の揺らぎなど微々たる物……というか、そうそう揺らがないと思うのだが。石田の霊圧感知能力の高さは俺達の中でも群を抜いているとは言え、ここ最近その精度が更に高まっている。
 きっかけがあったとすれば、初夏のあの大戦なのだろう。そこで石田に大きな変化が起きた。……いや、石田自身は何も変わっていない。変わったのは石田の持つ力の部分だ。石田としては複雑な経緯を辿った結果らしいが、石田の力は確かに大戦以前より更に強く、そして鋭くなっていた。
 それでもその力は専ら俺達を助ける為に使っているのだから、素直ではないがどこまでも真っ直ぐで友達思いなやつだ、と思う。
「……何を笑ってるのかな」
「ム、すまん」
 顔に出ていたらしい。
 石田は一つ溜息を吐き出すと、くるりと踵を返した。
「もういい、さっさとここを離れよう」
「ああ」
 俺も石田の後を追う。路地裏を出た石田は、人通りの多い商店街へ向かっていた。追ってきた不良がそう易々と手を出せないようにだろう。
「僕は帰るけど、茶渡君はバイトはいいのかい」
「今日は休みだ」
「そう、それじゃ気を付けて帰りなよ。最近物騒だから」
 昼下がりの、買い物をする人で賑わう商店街を歩く石田。一歩先を行くその背中が少し小さく見えたような気がして、思わず声を掛ける。
「……石田」
「何?」
「疲れてはいないか?」
 そう聞けば、石田は「別に」と緩く首を振りながら淡々と歩を進める。
「見て見ぬ振りをする方が疲れる」
「……そうか」
 神経質な石田に、俺達の霊圧の状態が常時必要以上に伝わっている今の状態は少し酷だと思うのだが。
 それでも石田は、何ということはないのだという言うように続ける。
「心配してくれてありがとう。でももう少しで、今の状態での霊圧知覚調整に慣れそうだから。気にしないでくれ」
「なら、いいんだが……」
 そうは言われても、石田が心配された時に強がるタイプなのをこちらはよく知っている。
 外見や性格から想定出来るより遥かに図太く強い心を持つ男だから、抱え込んでしまうのだ。
「そうだ石田」
「ん?」
「昼飯はまだか?美味いラーメン屋を見付けたんだが。お礼に奢る」
「行く」
 即答。やはり奢りには弱いらしい。
「どんなラーメン屋さんなんだい?」
「豚骨ラーメンが美味い」
「豚骨ラーメンか!うん、それはいい」
 ……豚骨ラーメンを好きな理由はまさか、スープが白いからだろうか。
 俺が考えている事など露知らず、石田の足取りが少しだけ弾み始める。その事に安堵しながら、俺は少しだけ歩く速度を上げた。

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ブレソル君でチャドの乱舞キャラが実装されたので育成のため鬼のように周回していたのですが、当方のアカウントで一番強くて周回しやすいのが雨竜だったために「このチャドの育成終わったら雨竜がチャドにキレ散らかす話を書こう」と血迷いました。
ブレソル君は周回しやすいところが好きです

【1106】ただ一度の夜に

 11/05 23:27。
 携帯電話の液晶に表示されている数字を見て、雨竜は溜息を吐き出した。
 もう何度目になるか分からない極めて浅い眠りと覚醒を繰り返した挙句、雨竜は眠るのを諦めてベッドの上で大の字になった。
 そこまで寝付きが悪い自覚は無いが、どういう訳か今日は全く寝付く事が出来なかった。何か気が逸っているとか、興奮しているだとか、そういう事はなく。ただ、眠れないのだった。
 夕方に珍しく飲んだコーヒーのカフェインが変に強く効いてしまっているのかもしれない、と検討は付けてみるものの、それでどうにかなると言う訳では無い。
 カーテンの隙間から月明かりが薄く差し込む部屋の電気は付けずに、ぼんやりとベッドの上で天井を見詰める。
 ──明日の授業は何限からだったっけ。3限か。じゃあ多少遅くまで寝ても大丈夫か。
 ──他に予定は……ああそうだ、夜に竜弦に呼ばれてた。何でだっけ……。
 明日は何の日だったか、と少し考えた後。
 ──そうか。僕の誕生日か。
 どこか他人事のように思ってから、苦笑する。
 ──誕生日の前の夜に眠れないなんて、まるで子供じゃないか。
 あと30分もすれば、法律上「子供」ではなくなるというのに。あと1、2年もすれば18歳から成人として扱われるらしいが、そんな事は今はどうでもよく。
 ふと、少し散歩でもして体を動かそうか、と思い付く。そうすれば少しは眠れるかもしれない。それに、「子供」でいられる最後の時間を、夜の散歩をして過ごすのは奇妙に魅力的に思えて。
 夜に出歩く事自体は虚退治でよくあるし慣れているのだが、理由も無く夜の町を歩く事は滅多に無い。少しだけ悪い事をするような不可思議なスリルに心惹かれ、雨竜はベッドから体を起こした。
 パジャマから外を出歩ける程度の恰好に着替え、携帯電話と鍵だけを持つと雨竜はスニーカーを履いて静かにアパートの外へ出た。
 少し冷えた空気に包まれた静かな住宅街は虫の鳴き声以外の音は無く、虚の気配も無い。車くらいは走っているだろうと思っただけに、想像以上の静けさを意外に思いながら、雨竜は街灯の少ない道を歩く。
 パーカーでは少し寒かったか、と思いつつパーカーのファスナーを一番上まで上げた。吐く息は薄く白を帯びており、冬が近付いているのを感じる。
 11月、という月は秋から冬への過渡期だからか秋と言うには寒すぎて、けれど冬と言うには暖かい。暑いよりは寒い方が得意なので嫌いではないが、街路樹の葉が薄くなっていくのを見るといつも少しだけ物悲しくなる。もっとも、今住んでいる辺りの道には街路樹など植わっていないのだが。
 なんとなく、近所の公園まで足を運ぶ。ぼんやりと時計盤が光るモニュメントクロック、砂場、申し訳程度の遊具ととベンチくらいしか無い公園だが、日中であれば子供達が駆け回っている。しかし今は時たま居る不良グループの姿もなく、僅かな街灯にほのかに照らされるだけで静まり返っていた。
 みゃあ、と猫の鳴き声がしたので声の方向を振り向くと、闇に溶け込むようにして黒猫がベンチに座ってこちらを見ていた。銀色の双眸が夜の中に浮かび上がっている。
「夜一さん……ではないか」
 声が出かけるが、四楓院夜一の金色の目は黒猫に変化していても健在である事を思い出し、野良猫だろうとすぐに検討を付ける。
 近付いても猫は逃げる様子もなく、ふわりと大きく欠伸をするだけ。
 ──触ってもいいかな。
 普段であれば野良猫に触る事は無いのだが、夜の散歩に奇妙に高揚した心がそんな気を起こさせ、黒猫の隣に座る。
「ええと……撫でてみても?」
 一応聞いてみると、黒猫は尻尾をぱたぱたと動かした。承諾を得た、と思っていいのだろうか。雨竜は恐る恐る丸まった黒猫の背中を撫でてみる。黒猫は逃げることなく、目を閉じるのみ。
 ふわふわとした手触りと毛皮越しに感じる体温。自分が今撫でているのは生き物なのだという実感に、ふとむず痒くなるような熱くなるような感覚が胸の内に広がる。
「……君は逃げないんだね。人には慣れているのかな」
 ネコに餌をあげないでください、というあちこちの看板にもお構い無しで野良猫に餌をあげる人はいる。もしかしたら自分もその手合いだと思われているのかもしれない。
「ごめん、餌は持ってないんだ」
 謝りながら、猫の喜びそうな所を優しく撫でると、ごろごろ喉を鳴らした。可愛い。今度猫をデザインに取り入れた小物でも作ってみよう。
「……何をしている?」
「…………」
 この状況を一番見られたくない相手の声が聞こえて来た気がする。
 いや、多分気の所為だ……と思いたくとも、発達した霊圧知覚が気の所為では無い事を告げてくる。
 恐る恐る顔を上げる。気の所為では勿論なかった。夜の公園にぼんやり白く浮かび上がるように、ベンチから2mほど離れた所に男が1人立っている。今日はスーツの上から薄手のコートを羽織っているようだ。その名前が、引き攣った喉から辛うじて出て来た。
「……竜弦……」
「父親の名を呼び捨てにするなと……」
 はあ、と呆れたように溜息を吐き出してから竜弦は雨竜の顔と黒猫を交互に見た。
「質問を変えよう。こんな時間に、何をしている」
「……そんな事を言うために出て来たのか?」
「生憎、『まだ』お前は子供だ」
 竜弦が視線を公園の中心に立つ時計に向ける。時刻はアナログ盤で11時45分を指していた。
「子供が夜に1人で出歩くのを親が咎める事に何か問題でも?」
「だからってそれくらいで……いや、もういい」
 この父なら「それくらい」の事を言う為だけに出て来かねない。それはよく分かっている。
「……散歩だよ。眠れないんでね」
 黒猫から手を離すと、ぐいぐいと太股に顔を押し付けられた。懐かれてしまったようだ。竜弦はそれを見て眉を顰め、何か言いたそうにしたがそれは溜息となって表に出て来た。
「……眠れない、というのは?」
「別にどこか悪い訳じゃ無い。これで体か魂魄に異常を感じてたら散歩の前にあんたか浦原さんに電話してる。だいたいそういうのは僕よりあんたの方が気付きが早いくらいだろう」
 僕の霊圧は常時捕捉している癖に、と少しだけ言外に皮肉を込める。黒猫が膝に乗ってきたので、再度背中を撫でる。
「だいたい僕はもう子供じゃなくなるんだし自分の身は自分で守れる」
「どうだかな。少なくとも2度は守れていなかったと記憶しているが」
 すげなくそう返され、自分の身を守り切れずに竜弦に助けられた事が複数回ある雨竜はむっとしながら言葉を返す。
「あの時よりは強くなってる」
「さてどうだか──」
 竜弦が言葉を言い終える前に、ズドン、と砲撃にも似た重低音がと甲高い悲鳴夜の街に響いた。
 普通の人間には聞こえない音を聞いても尚、竜弦は涼しい顔をしている。その左手にはいつの間にか銀色の短い霊弓が握られ、その弓を真っ直ぐ真横へと向けており。雨竜もまた、右手に持った細弧雀を真っ直ぐ真横へ向けていた。
 音も無く2人に忍び寄った虚を、2人が一瞬の内に滅却させたのだ。
 雨竜の膝の上の黒猫は意に介せず微睡んでいる。
「……僕の方が早かった」
「馬鹿を言うな。射速は私の方が上だ」
「反応は僕の方が早い」
「青二才が私に張り合う気か?」
「そっちこそ体力が霊力について来なくなってるんじゃないか?」
「……言うようになったな」
「あんたから伝染ったんだろ」
 雨竜の言葉に竜弦は少しだけ苦い顔になった。自分の言葉が辛辣だという自覚があるなら僕相手の時くらいはやめればいいのに、と思いながら雨竜はまた猫を撫で始めた。
「……自分の身くらい自分で守れる」
 もう一度呟くように言うと、竜弦は渋々と言った様子で頷いた。
「……そのようだな」
 おや、と思って僅かに首を傾げると、竜弦が腕時計を見た。雨竜も釣られて公園の時計を見ると、2本の針は12を指そうとしていた。
 竜弦は何か意を決したように、雨竜に1歩近付いた。
「雨竜、一度しか言わないから聞け」
「何」
「……11年前の6月、私はお前が無事に成人を迎える事、あるいはそれを私自身が見届ける事は半ば絶望視していた」
 雨竜は目を見開いた。父が1人で重い物を背負い続けてきた事は知っている。だが、初めから始祖に対して確実に勝ちに行くつもりで自身の存在と切り札を隠し続けていたのだと思っていたばかりに、その告白は鈍器で頭を殴られたかのような衝撃だった。
「お前を死なせるくらいなら私が死ぬ、そのつもりでいた。誰が止めようとユーハバッハは刺し違えてでも殺す、と。……まさか、2人共が生き延びるとはな。どう転がるか分からんものだ」
「……そうだな」
 雨竜もまた、あの戦いで死を覚悟していた。それでも、自分を繋ぎ止めてくれたものが確かにあったからここに居る。そして父を繋ぎ止めようとした者も確かにいたのだろう、そう思って浮かんだのはあの日父の隣に立っていた死覇装だった。
 竜弦の言葉の重みを噛み締めていると、膝の上で黒猫が微睡みから目を覚ました。二、三度頭を撫でると、黒猫は雨竜の手の下をすり抜けてひらりとベンチから飛び降り、夜の静寂へと消えていった。
 竜弦はそれを目で追い掛け、どこかへ消えたのを見届けてから口を開いた。
「雨竜、お前が今生きているのは私が考えもしなかった時間だ。お前は私が何もしなくとも勝手に各所で縁を結び、勝手に強くなり、勝手に成長した。……それで良かったと、今は思う」
「……え……」
 自分は今、何か凄い事を、これまで1度も言われなかった事を父に言われている、言われようとしているのでは。そんな予感に、勝手に鼓動が早くなる。
 竜弦は雨竜の緊張など露知らず、ふっと表情を緩めた。
「お前が生まれて来た事、そして20年生きてくれた事。それだけで私には僥倖だ」
 何故だろう、父の声が少しだけ泣きそうに聞こえて来るのは。自分にとって圧倒的な強さと冷厳さの象徴である筈の父が、見た事も無い顔をして、聞いた事も無い事を語っている。
「……誕生日おめでとう、雨竜。生まれて来てくれて、生きてくれて、ありがとう」
 普段の父からは想像もつかない程穏やかな父の表情に、声にしばし呆気に取られたのち、雨竜ははっとして時計を見た。短針と長針は重なり合って天を向いていた。
 ──もしかしてこの人。
 ──本当は僕にこれを言うためにわざわざこんな時間に出て来たのでは……?
 照れと少しの嬉しさと困惑が綯い交ぜになり、顔がどんどん熱くなる。
 だが直ぐに、不思議なおかしさが込み上げて来た。なんて素直じゃないんだろう、と。
「……そんな事いちいちあんたに言われなくても、僕は今まで通り勝手に生きてやるよ」
 条件反射的に憎まれ口を叩いてしまうのが自分でも少しだけ口惜しい。
「でも……うん、ありがとう」
 それでも比較的素直に正直に感謝の言葉は言えるようになった。
「……ありがとう。僕の事を守ってくれて」
「私はお前を守る程の事はしていない」
「それでも僕を死なせない為に色々してきたんだろ。それを守ったって言うんだよ」
 やり方はどうかと思わなくもない点は数あるが。それでもこの不器用な父親は、息子である自分を守る為に戦っていたのだ。
 そのお陰もあるから、今ここにいる。
 竜弦小さく「そうか」と呟き、腕時計を見た。
「……そろそろ帰れ。明日も大学だろう」
「そうする」
「ああ、それと」
 ついでのように、竜弦はコートのポケットから小さな箱を取り出した。
「手を出せ」
「?」
 言われるままに手を出すと、布張りの箱が掌に置かれた。
「帰ってから開けろ」
「あ、ああ……ありがとう」
 誕生日プレゼントという事だろうか。何となく関係が改善してから毎年何かは貰っているのだが、流石に日付が変わった直後に渡されるのは初めてである。
「では、18時30分に病院前。忘れるな」
「分かってる。また後で」
 竜弦はくるりと踵を返し、瞬きをする間にどこかへ消えていった。飛簾脚でも使ったのだろう。
 僕も帰ろう、と雨竜はベンチから立ち上がると、元来た道を来た時のようにゆっくり戻って行った。

***

「な……なん……?!」
 帰宅後。照明の下で竜弦から渡された箱を見た雨竜は絶句していた。
 箱には、誰でも知っているような海外の超高級腕時計ブランドのロゴマークが箔押しされていたのだ。
 ──嘘だろ。
 ──こんなどう見たって高い物、あんな無造作にポケットに入れて深夜の公園で渡してくる奴があるか……?!
 震える手で箱を開ける。そこには、銀色に輝く1本の腕時計が収められていた。保証書も収められており、無論、どこからどう見ても新品。
 ひどい目眩を覚え、雨竜はこめかみを押さえた。
 誕生日に高級腕時計をくれるのは、まだ良い。もっと渡し方と場所を考えろ、と叫び出したい気分だった。
 夜会った時に絶対文句を言ってやろう。……まあ、それはそれとして、会いに行く時に一応着けて行ってやらなくもない。持っている服の合計額よりこの腕時計1つの方が高そうだが。
 なんだかどっと疲れて、雨竜はなんとかパジャマに着替えてベッドに倒れ込んだ。
 確かに、眠れない夜の散歩の効果は絶大だった。まさか最終的にこんな形で疲れる羽目になるとは思いもしなかったが。
 もうここから先は起きてから考えよう。
 雨竜は目を閉じ、あっさりと意識を手放す事に成功したのだった。

 ……そして、それからおよそ18時間後。
 父によって高級テーラーに連れて行かれた雨竜は再度絶句する事になるのだが、それはまた別の話。

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今日(2018年11月6日)が完結から2年経ってからの誕生日なので、もうこれは成人ネタで書くしかない……と思いました。
彼には健やかに素敵な大人になってほしいです。
それにしても原作完結済なのに今年は石田周りがあまりに怒涛だった気がしなくもないです。

【石田親子】吸血鬼と狩人と一方通行【ハロウィンソサエティ設定】

ハロウィンソサエティ設定なので
雨竜→ドラキュラ
竜弦→モンスターをハントする人
です。

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

「……ここにいたか」
 がさがさと葉を踏む音の後、月の光が人の形をしたシルエットに遮られる。太い木の幹に凭れて座っていた雨竜は、自分の前に姿を現した人物の顔を見るなり露骨に舌打ちをした。竜弦はそれに顔を顰めると唇を歪める。
「相も変わらずドラキュラを名乗りながら血が飲めないなどという醜態を晒しているらしいな?」
「……あんたこそ、モンスターハンターを名乗っている割に全くモンスターを狩っていないらしいじゃないか」
「ふん、口だけは達者と来たか」
 雨竜は振らつきそうになるのを堪えながら立ち上がると「……何の用だ」と竜弦を睨んだ。吸血鬼のため夜目が効く雨竜は何もしなくとも月を背に立つ竜弦の顔がよく見える。それでなくとも白と鈍い銀を基調とした服は夜の中にぼんやり浮かんでよく見える。
(悔しいが服のセンスは認めざるを得ない……)
 ややずれた感想を抱きながら雨竜は手の内の滅却師十字を握り、
「させると思うか?」
「っ!」
 意識を十字に向けた一瞬の間に竜弦は雨竜の半歩圏内にまで間合いを詰め、細い鎖に飾られた右手首を掴み木の幹に押し付けた。覆い被さるようにして見下ろす温度のない視線に体の芯を射抜かれ、雨竜は身動きが取れなくなる。
 狩られる。
 生物としての本能と理性が同時にそう告げた。
「無様だな。お前は本来であれば生態系の頂点に立ち得る存在だが、ここで私が少し気紛れを起こせば簡単に私に捕食される側となる」
「自分の矜恃を捨ててまで生態系の頂点とやらに立つ気はない」
 竜弦の視線を撥ね付けるように睨みながらそう答えると、竜弦は大きくため息をついた。
「……だからお前は馬鹿だと言うんだ」
 竜弦は舌打ちをすると、雨竜の手を離す。突然解放され、右手首のじんじんとした痛みに顔を顰めながらも「どういうつもりだ」と声を上げると、竜弦は「ふん」と鼻を鳴らした。
「興が醒めた。お前を狩ったところで得る物など何も無い」
「な……!」
 命を見逃されたのと同時に真正面から馬鹿にされ、雨竜は半ば怒りに任せて手の内に顕現させた銀嶺弧雀を竜弦に向けて射る。しかし竜弦は軽く身を反らすだけで躱し、ひょいと懐から何かを放った。銀色の瓶が雨竜の足元に転がる。
「吸血鬼の吸血衝動を高める薬だ。私を倒したければそれでも飲んでから掛かってこい。返り討ちにしてやるがな」
「くっ……!」
 明確な挑発に、雨竜は歯を食いしばる。竜弦はそんな雨竜を冷たく一瞥した一瞬の後、雨竜の目にすら追えないスピードで何処かへ消えて行った。

***

「ああもう、本当に腹が立つ、竜弦の奴!僕が誇りを持って血を吸わない事にしていると言うのに馬鹿にして……!」
 そして雨竜は一通りを一護に話して肩を怒らせた。その手には件の薬と思われる瓶がぎゅっと握られ、日頃は白い肌が怒りで僅かに朱を帯びている。これは相当だな、と思いながら一護は「おーおー」と聞き流す。
「次会ったら神聖滅矢ごとこの瓶をあいつに叩き込んでやる……!」
「うーーーーん……」
 ──やり方めちゃめちゃ遠回りだけどさ。
 ──親父さん、もしかしてお前の貧血の事心配してんじゃねえの?
 ……などとは、口が裂けても言えないフランケン一護なのであった。

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ギャグ時空だから深刻にはならないけど息子がモンスターで父親がハンターって下手したら本編より業レベル高いのでは……?

【雨竜8歳と叶絵】黄昏の楽園

 昨日から降り続いていた雨がやんだその一瞬の時間。少しずつまばらになって行く雲の狭間から茜の光が差し込み始めた。
 雨竜はその様を、自宅近くの高台から見詰めていた。あっという間に夕陽に染め上げられて光り輝く世界はあまりにも美しく、幼い少年の目を奪うには十分であった。
 ──ギリシャ神話のエリュシオンは、こんな世界なのかもしれない。
 自分が教えられた「正しい」世界のシステムと異なる世界の有り様を語る外国の神話、その中で綴られる「死者達の楽園」を思う。
 ──尸魂界も、これくらい綺麗な世界だといいな。
 そして、自分にとっては生まれた時から身近な存在である死者達を思う。彼らはどんな世界へ旅立つのだろう。尸魂界とはどんな世界なのだろう。
 だが広がりかけた想像の翼は聞き慣れた呼び声によって遮られた。
「雨竜」
 声を掛けられてハッと振り向く。大好きな母親が、閉じた傘を手に立っていた。
「お母さん」
「すぐ近くまでは来ているのに遅いので心配したのよ、どうしたの?」
「えっと……綺麗だなって……」
 街の景色に見とれていた、と言うのが少し恥ずかしく、しどろもどろになって答えると、母親はくすりと笑って雨竜の隣に立った。
「……そうね。本当に綺麗。ずっと見ていたいくらい」
 その言葉に、雨竜はパッと顔を輝かせた。「でもね、」と母親は続ける。
「あまり見ていると帰りが遅くなるでしょう?それに夕焼け空になったということは、もうすぐ夜になるという事なの。だから、もう帰りましょう」
「……はい、お母さん」
 母親に優しく手を引かれ、後ろ髪を引かれながらも雨竜は町に背を向ける。空には少しずつ紺が滲み、茜の光を地平まで覆い隠そうとしていたけれど、雨竜はその空を見る事は無かった。
 ──それは、とある六月十六日。己を包む世界の全てが少年の目に優しく見えていた、最後の日の出来事。

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某地平線楽団の曲を聞いているうちにふと思い付いたので書きました。

石田さん家の今日のご飯「サンマの蒲焼」

大戦終結から数年後、雨竜が大学三回生か四回生くらいのイメージです。
この話と微妙にですが繋がっています。

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 今年は去年よりサンマが安い。
 スーパーマーケットの鮮魚コーナーで、大学帰りの雨竜はポップに書かれた数字を見て足を止めた。
今日のようにまだ残暑の厳しい日はあれど、スーパーマーケットに並ぶ食材は着実に秋の訪れを告げていた。
 サンマは三枚に下ろして塩を振って焼くだけでも無論美味しいが、さてどうしたものか。台風一過の今日は汗ばむ程の陽気だったから、あまり秋らしいメニューにするのは何か違う気がする。
 とはいえサンマは食べたい。
 雨竜はしばし考え込む。最近父・竜弦は疲れ気味のようだし、食欲が無くても食べやすいメニューや食欲が湧きやすい味付けのメニューを考えた方がいいだろう。
 サンマ、味付け……となると。蒲焼か。
 サンマを甘辛く焼いて野菜の小鉢を二品ほど作り、主食は……ただの白米、というのは少し味気ないか。食欲がなくても食べやすいように出汁茶漬けにしよう。料理に掛けられる時間が今日は少ないからシンプルなメニューだが、疲れている時でも食べやすいと思う。
 よし、と雨竜はサンマを二尾ビニール袋に入れた。
 それから一通りの買い物を終えると、自宅ではなく実家へと向かう。
 初めは月に一度二度だった実家に帰宅して食事を作るイベントは、四年も経つと週一度以上の習慣となっていた。
 最初こそはろくな食生活を送っていない父の寿命をそんなどうしようもない理由で縮めてなるものかという使命感だったのだが、自分以外の誰かの為に食事を作るという行為が思いの外楽しく、昔はあんなに避けていた父との食事が楽しみになってしまっていた。
 実家は町の高級住宅街の一角を占める豪邸であるため内装も当然広々としており、台所も広い。おまけにここで食べる分に限っては材料費・光熱費・水道代は全て父持ちなのだ。そのため、料理のしやすさについては文句の付けようがない。
 台所と呼べる設備は二箇所ある。一つは日頃使っているダイニングに併設のカウンターキッチン。もう一つは、厨房と言った方がしっくりくる部屋の中。カウンターキッチンは自分が生まれると分かった頃に増設したもので、「厨房」の方は、自分が生まれる前に使用人が何人もいた頃の名残だという。今では全く使われておらず、少し勿体無いとは思うが基本的な料理をする程度であればカウンターキッチンで全て事足りてしまうのだった。
 帰宅したらカバンとジャケットはダイニングに置いてあるコートハンガーに掛けておく。
食材と調理器具を一通り調理台の上に並べたら自宅から持参したエプロンを着用し、袖をまくって手をよく洗い調理を始める。
 まずは米を二合、父の帰宅予定時間に合わせて炊く。
 おかずの用意は野菜の小鉢から。
 ほうれん草を色鮮やかになるまで茹でて、すぐに冷水でしめる。水を絞ったら五センチ程度の長さに切り揃え、タッパーの中に入れる。更にタッパーの中に作り置きしてあるだし汁に醤油を少し混ぜた調味液を浸る程度まで注ぎ、タッパーは蓋をして冷蔵庫の中へ。一時間ほどすればほうれん草のおひたしが完成する。これは食べる直前にすりごまと混ぜて簡単なごま和えにする。
 続いてきゅうりとキャベツを一口大に、人参を細切りにしてジップ付きの袋へ。塩、細切りにした昆布、香り付けの柚子の皮を入れ、中の空気を抜きながらジップを閉じる。袋をバットに入れて、その上に重石替わりにバットを上から重ねてこれも冷蔵庫の中。
それから今のうちにお茶漬け用に薬味を用意する。生姜と軽く火で炙った海苔を細切りにして、薬味皿の中に。ほうれん草と混ぜ合わせるごまもしっかりと力を入れて磨る。
 続いて肉・魚用のまな板と包丁を出して本日のメイン、サンマの用意に移る。
 サンマは三枚におろしてから、蒲焼にした時食べやすいよう半分に切る。それからペーパータオルで水気を取り、塩を振って臭み抜き。
 臭み抜きをしている間に蒲焼のタレを作る。醤油と砂糖とみりんを混ぜ合わせるだけなのでそう時間は掛からない。
 父の霊圧の方を伺ってみると、とうに退勤予定時刻は過ぎているはずなのだがまだ病院にいた。霊圧の揺らぎ方を見るに相当疲れているようだ。こういった日は初めてではないが、あの体力精神力が化け物じみている父がここまで疲れる病院勤務とは一体、と思わなくもない。父には多少ワーカホリックの気があるとは言え。
 炊飯器からはとっくに炊きたてのご飯のいい匂いがしている。
 この待っている時間も勿体無いからもう一品足そうか、でも多分そうしてしまうと向こうには量が多い、と悩み始めた所で父の霊圧が病院から移動を始めた。
 雨竜はすかさず冷蔵庫を開けて、ほうれん草と浅漬けを出す。ほうれん草は食べる分だけボウルに入れてから、さっとすりごまと和える。
 ほうれん草のごま和えを小鉢に入れて、そちらはもう食卓に並べておく。残った分は別のタッパーに詰め替えていつでも食べられるよう冷蔵庫の中へ。
 続いて鍋で出汁茶漬け用の出汁を温めるのと並行してサンマの蒲焼を焼き始める。
 表面に軽く小麦粉をはたいたサンマを、油を敷いたフライパンで焼き、ある程度火が通ったら蒲焼のタレをまずは半分、皮に照りが付いたらもう半分絡めていく。
 サンマをひっくり返すとじゅわ、という音と共にサンマの皮がタレと共に焼ける香ばしい匂いが台所に満ちた。これは間違いなく上手くいった、と雨竜は思わず笑みを浮かべる。
 出汁は沸騰する寸前まで温めたら火を止め、後は余熱に任せる。
 父の霊圧が自宅の駐車場に到着した。それとほぼ同時にサンマが焼き上がり雨竜はフライパンの火を止める。
 エプロンを着たまま小走りで玄関へ。ちょうど、玄関のドアが開いた。
「……ただいま」
「お帰り」
 いつの間にか当たり前になっていた挨拶を交わしながら、霊圧の揺らぎの割に父の足取りはしっかりしていることを確認して内心で胸を撫で下ろす。
「ご飯出来てるけど、食べられそうか?」
「ああ、食べる」
 帰宅に合わせて食事を用意すればだいたい竜弦は断らない。
 父が一度自室に向かうのを見届けてから、雨竜は台所に戻って急いで最後の仕上げ──盛り付けにかかる。
 少し大きめの茶碗にほかほかの白いご飯をよそい、熱い出汁をたっぷりとかけた。サンマは浅漬けと一緒に皿に乗せる。
 配膳を終えた頃に、ジャケットを脱ぎネクタイを外した父がダイニングに姿を見せた。
「随分疲れてるみたいだな、大きい手術でもあったのか」
「そんな所だ」
 コップに麦茶を注いで渡すと、竜弦は一息に飲み干す。
「今日が術日だった」
「そう……お疲れ様」
 雨竜がエプロンを脱いで食卓につくと、竜弦は手を合わせた。
「……いただきます」
「いただきます」
 雨竜はまずサンマの蒲焼に手を付けた。一口噛めば、程よくパリッと焼けた表面と甘辛いタレが柔らかい身と口の中でよく絡む。これはこれで美味しいが、胡椒か山椒を合わせてもきっと美味しくなる。蒲焼の味付けが濃いめなので、合わせている浅漬けの柚子の香りが爽やかで丁度いい。
 出汁茶漬けはまずご飯を生姜と共に一口。出汁汁を吸って柔らかくなったご飯と薄めにしてある出汁で体が芯から温まる中で生姜の食感とピリリとした風味が良いアクセントとなっている。続いてほうれん草の胡麻和えを乗せて食べてみても、胡麻とほうれん草の風味が出汁とよく馴染む。
 さて竜弦の反応は、と父の様子を見ると、頬が僅かに緩んでいた。ゆっくりだが止まらない箸も、感想を雄弁に語っている。よかった、と雨竜はひと安心する。
「ほうれん草と浅漬けは、冷蔵庫にまだ残ってるから。適当に食べてくれ」
「ああ、そうする」
 食べ終わるのは、いつも雨竜の方が少しだけ早い。
「ごちそうさま」
 だが雨竜は食卓を立たず、座ったまま食後の麦茶を飲む。
 家を出る前は食べるペースは同じくらいだったような気がする。母が亡くなって父を避けるようになって以降、食事を共にする回数は激減したし、母が元気だった頃も父の仕事が忙しくて共に食事をする機会は少なかったのだが。
 友人達と食事をした時に食べるペースの遅さを言われた事はあるが、その友人達と過ごす内に彼らと近いペースで食事をするようになって行ったのだろう、と雨竜は思う。
 竜弦が浅漬けの最後の一口を飲み込み、手を合わせた。
「ごちそうさまでした。美味かった」
「それはどうも」
 雨竜は立ち上がると二人分の食器を片付け始める。ここの家には食洗機があるので片付けが楽なのがいい。フライパンや鍋以外は軽く水で濯いで食洗機に入れて、洗剤をセットするだけでいいので大変に楽である。やや年代物なのでたまに変な音がするが。買い替えた方がいいのではないだろうか。
「今日は泊まっていかないのか」
「ああ、家でやる事があるから」
「そうか。勉強は進んでいるか」
「当たり前だろ」
 正直、勉強とアルバイトを併行しているとやらなければなら無い事が多すぎて忙殺されかけてはいるのだが。竜弦が雨竜の父親になったのは、確か今の雨竜と同じくらいの年頃の筈だ。昔母が言っていたところによると育児はかなり積極的に手伝ってくれていたらしい。学生だから育休なんてないだろうにいったいどういうタイムスケジュールで生活していたんだ、と雨竜は密かに若い頃の父親を尊敬せざるを得無くなっていた。
 鍋とフライパンを洗って水切りかごに置き、コンロ周りを水拭きすれば片付けは終わる。
 帰る前に少し一息、と立ったまま麦茶を飲んでいると竜弦がふと思い出したように口を開いた。
「そうだ雨竜、一つ聞きたいのだが」
「なに」
「お前、恋人だとかはいるのかいないのか」
「……?!」
 麦茶が若干気道に入って派手に噎せる。シンクにかがんで盛大に咳き込む雨竜を見て竜弦は首をかしげた。
「大丈夫か。で、いるのかいないのか」
「……っ、いない! なんで人がお茶飲んでる時に急にそんなこと聞いてくるんだあんた!」
 喋れるようになってから思い切り睨むと涼しい顔で「すまん」と返ってくる。
「いや、そろそろ誰かしらいてもおかしくないと思っただけだ」
 父の問の意図を考え、雨竜は一つため息をついた。自分が生まれた時の父の歳と自分の今の歳が近い事に思う所があるのは自分だけではない。
「……そんなに心配か?」
「ユーハバッハは死んだ。それでも奴に刻み付けられた『A』の刻印はお前の中に残っている。お前が滅却師として今後も生きる事を選ぶ以上、人間としての人生にも恐らく影響は出る」
 そんな刻印剥がせるものなら今すぐにでも剥がしたい、とその顔にははっきり書いてある。
「人間の恋人が出来たとして、相手にどこまで伝えるべきなのかは考える必要があるのだろうと思っているのだが……まだ気が早いか」
「……心配してくれてるのは分かるけど。僕は自分にそういった相手が出来るかどうかはまだ考えられない。一生独り身で生きる可能性もあると思ってるくらいだし」
「そうか。……それもまた選択肢だろうな」
「……孫の顔が見たいとか、あんたにもあるのか?」
「いや、特にない」
 竜弦はきっぱりと言って、麦茶のグラスを傾ける。
「お前の好きに生きるといい」
「……そうする」
 生まれてから人生の半分以上の期間において自由が許されず、ようやく手にした平穏な幸せは唐突に奪われ、復讐の為に生き続けてからようやく人間らしい人生を獲得した父の言葉は、ひどく堪えた。
 そしてその父に、自分が家庭を築く姿を見せられないかもしれないというのは少しだけ後ろめたかった。一生独り身で生きる可能性もある、というのは本心である。きっと父はそんな事気にしないし、ただ生きているだけで僥倖、と口には出さずとも思ってくれているのだろうが。
「……竜弦、来週は何が食べたい」
「ロールキャベツ」
「分かった、ロールキャベツだな」
 ロールキャベツは母がよく作っていた料理だ。忘れないようにと携帯電話のメモ帳に「来週 ロールキャベツ」と記しておく。
 仮に自分が家庭を持つ事が無かったとしても、今ある家庭を自分なりに大切にしたいと思えている。今はきっとそれで十分なはずだ。
「それじゃ、帰るから」
 上着を羽織ってカバンを肩に掛けると、竜弦が立ち上がった。雨竜が帰る時は、竜弦は門扉を閉めるためにと門まで送りに来る。門扉の鍵は雨竜も持っているのだが。
「あ、聞くの忘れてた。来週何曜日なら都合がいい?」
「月水木が日勤だ。月曜日は手術があるので遅くなる」
「分かった、じゃあ月曜か木曜に来る。決まったら連絡する」
 玄関を出て玄関ポーチを降り、前庭を抜ける。門扉を開けて振り向くと、門灯に照らされた父は僅かな笑みを浮かべていた。
「せいぜい帰りに虚に襲われないようにな」
「あんたもせいぜい不摂生で死なないようにな」
 憎まれ口の挨拶を交わして、門を出る。
「……それじゃ、また来週」
「……ああ、また」
 自分の住む地区に比べれば街灯の多い通りを歩く。
週に一、二度実家に帰って、父と自分二人分の夕食を作って食卓を共にする。傍から見れば奇妙に映るかもしれないが、互いに互いを避け続けていた数年前までと比べればだいぶましになったと思う。まだ父に対する何となくの苦手意識はあるから週に一、二度しか帰れていないのだが。
 それでもこれは、十年近い時間を掛けなければ手に入れる、否、取り戻す事が出来なかった時間であって。
 ──あの時間を愛おしいと思うから、僕はきっと来週もこの道を歩くのだろう。
 雨竜は微かに星が光る空を見上げて、笑みを零した。
 その笑顔は、見る者が見ればきっとこう言っただろう──笑った顔が親子でそっくりだ、と。

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衛〇さん家の今日のご飯の一挙放送を見ていたら無性に親子のこう言う話が書きたくなったので書きました。
シリアスな親子も書きたいですがこういう幸せな親子を書いている方が落ち着きます。

ちなみに〇宮ご飯はちらし寿司回とハンバーグ回が好きです