カテゴリー: えむます

DRAGON LEAPER – OP

 多分、これは俺が頑張ってもどうしようもなかった事なんだ。
 手の内でキューブ状プラスチックの小さなおもちゃを撫でながら、龍は自分にそう言い聞かせた。
 子供っぽい、無邪気、可愛い、などと形容されることは数あれど、木村龍とて二十歳を迎えている。自分に何が出来て何が出来ないのかの分別くらいは付く。
 けれど、分別が付くからこそ、自分ではどうしようもない事態に大して彼は人一倍の悔しさと遣る瀬無さを覚えてしまうのが木村龍という人間であった。
 そう、例えば今日のような。
 二〇一七年六月二五日。
 龍が一年半ほどイメージキャラクターを務めたバトルホビー「ドラゴンキューブ」の売上不振に伴う展開終了による、事実上最後となる公式イベントの最後の登壇を控えた楽屋で、龍は衣装と小道具の最終チェックを行っていた。
 ドラゴンキューブ、通称「ドラQ」は小さなルービックキューブにも似たプラスチックの立方体を転がすとドラゴンに変形する、というコンセプトで二〇一五年十二月から日本で売り出されているバトルホビーである。カードバトルと組み合わせた戦略バトルホビーとして売り出され、二〇一六年四月からは一年間、テレビアニメも放送される。
 そして龍は、「熱血ドラQファイター・リュウ」として、ドラQのイメージキャラクターを務めていた。
「木村さん、まだ時間はあるけど次が最後の出番です、大丈夫ですか?」
「プロデューサーさん」
 挨拶回りと会場視察に出ていたプロデューサーが戻って来たので顔を上げる。
「いつ来ても凄い人ですね、新世代ユニバースホビーフェアは……」
「昨日のもふもふえんスーパーステージも凄い人だったって橘から聞いたよ、俺も見たかったなー」
「あはは。木村さんにも見て欲しかったです、ビークロドラマの発表もあったし……でも、龍は今の仕事をちゃんとやり切らないとですからね」
 龍は「リュウ」として、二日間で合計六回ステージに登壇する事になっていた。「新世代ユニバースホビーフェア」のドラQブースに設置された特設ステージで最後の大会MCや子供達との対戦を行い、ほぼ丸一日動き通しである。自身が関わる事になるコンテンツであっても他のブースやステージを見る余裕など到底無い。それでもドラQに本気で向き合う子供達の姿を見ていると胸が熱くなるし、これまでのステージで沢山のパワーを貰ったと龍は感じていた。
 それでも、今日がリュウとしての最後の仕事なのだった。
「……なあプロデューサー」
「うん?」
「俺、ドラQの仕事出来て良かった。リュウとしては今日この後のステージが最後になるけど……沢山のパワーを貰えたし、ずっと楽しかった!」
「……そうですね」
「俺がもっと頑張ってれば、って思った事もあるけどさ……でも、俺がドラQの仕事を通して皆にパワーをあげて、俺も貰って……たぶん、俺に出来る事はそれで充分なんだ」
 ドラQは、ドラQを作り出した北米の玩具企業と日本の玩具企業がライセンス契約を結ぶ事で日本で商品展開されてきた。だが強力な競合コンテンツ達やアニメ放送とホビー実機販売の足並みが揃わなかった事などの様々な要因が重なり、売上は低迷。北米企業はドラQの日本撤退を決定した。
 そこに、龍の頑張りでどうにかなるような余地は見えない。
 龍はそれを理解していたし、プロデューサーもまた、龍の聡さを少し切なく思いながらもこの仕事に全力で取り組む彼をサポートし続けた。
「今日も最後まで、いつも通り全力で頑張るからさ!見ててくれよ、プロデューサー!」
「勿論です!」
 あと一回のステージも頑張るぞ、と意気込む龍を見て、プロデューサーは密かに胸を撫で下ろす。少し落ち込んではいるかもしれないが、それでも子供達の笑顔の為に前を見ている。それでこそアイドル木村龍だ、と。
 その時、コンコンと。小さな楽屋にノックの音が響いた。
「こんにちは、準備中の所申し訳ありません、ジョイファクトリー・ドラQ担当営業の但馬です」
 ドア越しの声に、プロデューサーは「今開けます!」と声を上げ、すぐに楽屋のドアを開けた。
 立っていたのは、細身のグレーのスーツをかっちりと着こなした三十半ばに見える男。どこか気の弱そうな表情をしているが、関係各所を説き伏せて龍をドラQのイメージキャラクターに抜擢した張本人。
 大手おもちゃ会社・ジョイファクトリーでドラQの営業を担当している但馬である。
「こんにちは但馬さん。本日もお疲れ様です」
「お疲れ様です!」
 龍も立ち上がり挨拶すると、但馬は「お疲れ様です」と頭を下げた。
「ああ、どうぞお座りになってください。お疲れでしょう」
「いいえ!まだまだ行けますよ!」
 胸を張ってみせると、但馬は嬉しそうに微笑んだ。
「さすが木村さんです。やはりあの時木村さんの起用を決めて良かったですよ。この手の仕事は本当に体力勝負なので」
「ありがとうございます、体力には自信ありますから!」
「ええ、本当に……このプロジェクトは、木村さんに支えていただいた所も大きいので。」
 しみじみと呟いてから、但馬ははっと顔を上げた。
「すみません、まだしんみりするのは良くないですね。次は大会の決勝です。決勝に進んだ2人とも、初期から大会に参加してくれた猛者ですから、是非木村さんの熱いMCで盛り上げていただければ」
「勿論です!任せてください!」
「ありがとうございます。……それでは、私はこれで。また大会の後にお会いしましょう」
「はい!」
 但馬は一礼すると部屋を出て行った。
 その背中にはどこか、疲れと哀愁に似たものが漂っている。
「……但馬さん、いつもより元気なかったなあ」
「そうですね……」
 やはり次で最後の大会という点が堪えているのかもしれない、とプロデューサーは思う。
 プロデューサーの目から見て、但馬はよく頑張っていた。それでも但馬の力ではどうにもならない事がドラQプロジェクトに多く降り掛かったのは事実である。それは但馬の実力不足やミスもあるし、但馬以外の関係者が原因でもあるし、外的要因もある。順風満帆に進むプロジェクトなど夢物語に等しいとは言え、ほとんど部外者であるプロデューサーが見てもドラQプロジェクトはあまりに多くの問題を抱えていた。それでも但馬はプロジェクトの責任者の一人として舵取りに奔走していた。ドラQを多くの子供達に届けようと、その熱意──事務所の社長であれば「パッション」と呼ぶであろうそれは十分に本物だったのだ。
 それだけに今のこの時間は辛いのかもしれない……プロデューサーがそう考える一方で、龍はぐっと拳を握った。
「よーし、次の決勝、絶対盛り上げて、皆を笑顔にしてみせるぞ……!来てくれる皆も、但馬さんも、ドラQに出会えて良かったって、思ってくれるように!」
「……ええ、頑張りましょう!私も応援してます!」
 自分が感傷に浸っている場合ではないのだ、とプロデューサーは気を引き締めた。
 きっとこの龍なら、そんな感傷も吹き飛ばすくらい皆を笑顔にしてくれる。
「では、私はまだご挨拶に伺う所があるので。ステージ直前には戻って来ます」
「ええっ、ステージまであと1時間もないよ?」
「先方もお忙しい方で、この時間でしかお会い出来ないんですよね……大丈夫です、楽屋エリア内でお会いする予定なので。木村さんは、英気を養っていてください」
「分かった!プロデューサーもお仕事頑張って!」
 プロデューサーが楽屋から去った後には、また龍が一人残された。
「……お前も今までありがとな。多分、皆の前でお前と遊ぶのはもう次が最後だな」
 龍は、ずっと手の内にいた己の愛機に声を掛けた。
 バーニング・ドラギオン[リュウカスタム]。「リュウ」の相棒である。ドラQプロジェクトの看板キャラでもある「バーニング・ドラギオン」の赤いボディを、リュウ仕様のオレンジに塗装した機体だ。
 ころん、とサイコロのように転がすと、キューブはカチャリと音を立てて翼を広げたドラゴンに変形した。
「やっぱりドラギオンはかっこいいな!」
 満面の笑顔を浮かべながら呟くと、ふと、肩が一気に軽くなったような感覚がした。
「……あれ?」
 それはまるで、アンコールが聞こえる中急いで衣装を脱いでライブTシャツを着た時に似た体の軽さで。
 思わず立ち上がる。テーブルの上から、ドラギオンの姿は消えていた。自分の腕を見る。リュウ衣装のリストバンドではなく、信玄がくれた防水で衝撃にも強い腕時計が巻かれていた。
「……なんで?!」
 自分がいる楽屋に変化はない。
 はっとして、大きな鏡を見る。鏡に映っていたのは、もうすぐ子供達の前に出る「リュウ」ではなく。Tシャツにジーンズの、私服姿の自分だった。
 テーブルの上にいつの間にか置いてあった250mlペットボトルの緑茶を手に取る。ペットボトルは開封済み。賞味期限を見ると、『2016.7.1』と書かれている。
「過去の日付……?!」
 楽屋に賞味期限切れペットボトルが置いてあるなど普通は有り得ない。そもそも自分が今日このブランドのペットボトル緑茶を飲んだ覚えすらない。
「今日飲んだのはスポドリと水……お弁当に付いてきたお茶は飲んだけどパックだったし……」
 ガチャ、と楽屋のドアが開くのが鏡越しに見えた。振り返るとプロデューサーが入って来た。
「お待たせしました、木村さん。今回のプロジェクトの担当営業の方がもうすぐ来ますのでしばらくお待ちを……」
「プロデューサーさん!」
「は、はい?」
 食いつく様に呼ばれて思わず肩を震わせるプロデューサー。
「ごっごめん、驚かせて……ねえ、今日って何月何日の何曜日?!」
「は、はい?ええと……二〇一五年の、六月二十八日、日曜日ですが」
「……にせん、じゅうごねん。本当に?」
「ええ……本当ですよ、どうかしましたか?」
 首を傾げるプロデューサー。とてもでは無いが嘘や冗談を言っている様には見えない。龍は首を横に振った。
「ううん、なんでもない。ごめん……」
「はあ……具合が悪いとかでしたら、すぐ言ってくださいね」
「うん、ありがとう」
 この時、龍の頭を一つの可能性が過ぎっていた。
 映画や漫画で見た事がある。もしかしたら自分は、タイムリープだとかタイムスリップだとか、とにかくそんな目に遭っているのではないか。
(でも不幸で時間を遡るとか、そんなことある……?!)
「木村さん、本当に大丈夫ですか?顔色が良くないようですが……」
「だっ大丈夫です!朝メシ食いすぎちゃって!」
「食べすぎは駄目ですよ、体調管理もアイドルの仕事のうちですから」
「気を付けますっ!」
 プロデューサーの言葉によれば、今は二〇一五年の初夏だという。龍はその頃の自分の仕事を思い出すうちに、ふと気が付いた。
(あれ?俺がドラQの仕事受けるのが決まったの、その頃じゃなかったっけ?)
 その頃はドラQは世間に発表すらされていなかった。龍とプロデューサーは「熱血ドラQファイター・リュウ」のキャラクター造形やデザインにも深く関わっていたのだが、この時期は確かドラQの仕事を受ける事を決めているか決めていないかの時期だ。
 そして、龍は今でもはっきり思い出せる。自分がドラQの仕事を受けようと思ったきっかけの出来事。それは……
「失礼します。木村龍さんとプロデューサーさんはいらっしゃいますか?」
「はい、少々お待ちください」
 プロデューサーが楽屋のドアを開ける。
 入って来たのは、スーツをかっちり着こなした三十歳程のビジネスマン。気弱そうな表情をしているが、ついさっき見た但馬と比べるとどことなく生気のある顔付きをしていた。
「木村さん、初めまして。私、現在計画進行中のホビープロジェクト『ドラゴンキューブ』の担当営業をしている、ジョイファクトリーの但馬と申します」
 名刺を受け取る。そこに記載されているのは間違いなく但馬本人の名前だ。
「木村龍、です!よろしくお願いします!」
 一礼すると、「勿論、存じ上げています」と嬉しそうな声。
「では早速ですが、本日の用件……の前に、新世代ユニバースホビーフェアの会場を一緒に見て回って頂きたいのです。恐らく、そうした方が簡単にお話が出来ると思いますので」
「は、はい!」
 但馬に先導され、楽屋エリアを抜け『新世代ユニバースホビーフェアの』本会場へ向かう。
(そうだ。俺がドラQの仕事を受けようと思ったきっかけは……)
 会場に近付くに連れ、ざわめきや音楽が壁越しに響き始める。そして但馬が本会場直結のスタッフ専用エリアへ続くドアを開けた瞬間、わっと音の洪水と子供達の歓声が耳に飛び込んできた。
 スタッフ専用エリアを抜けると、最初に飛び込んできたのは、展示場の高い天井まで上がったもふもふきんぐだむの人気キャラクター「アイツ」の巨大バルーン。
 広い会場内には色とりどりのいくつものブースが見える。玩具メーカーやゲーム企業の大きなロゴがブース壁面に掲示され、ブースにはたくさんの子供達とその親と思われる大人達。子供達の親ではなさそうな大人の姿もちらほらと見える。
「ようこそ、新世代ユニバースホビーフェアへ。こちらは、木村さんがオファーを受けていただいた場合、必ず登壇していただくことになるイベントです」
 その言葉に、龍は立ち尽くした。
 全く同じ言葉を、彼は体感時間で二年前に確かに聞いたのだ。
 そして、自分をドラQの仕事に誘ったのは、この後見る事になる、各ブースに集まる子供達の笑顔で。

(……俺、本当にタイムリープしたんだ……?)

 その瞬間から、木村龍の長い長い旅が始まった。

えむます作品一覧へ戻る
作品一覧ページへ戻る

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

続く予定です。

イベント続編大作戦・グループAのぞミラ支援SSまとめ

はじめに

モバ版SideMの「パッション爆裂!イベント続編大作戦」のグループAのぞミラ続編支援として投票期間中ずっと書いてTwitterに載せていたSSのまとめです。

・主演(気弱な天才魔法使い):ピエール
・ライバル(凶悪な闇の魔法使い):アスラン
・新主人公をサポートする先代主人公:かのん

の三点の設定だけは不変ですが他は話によって色々ころころ設定が変わってます。
前作で主演だったかのんだけ「のぞみ」名義ですが、他のアイドル達はアイドルの名前そのまま抜き身で出てきます。

なお最後の1本だけ「AJののぞミラ2最終回記念&劇場版記念スペシャルステージレポ」という体になっています。(投稿日がアニメジャパン開催日だったもので……)

リトル・ヴァンパイア(かのんと英雄/吸血鬼パロ)

モバの2018年ハロウィンイベントが元ネタの吸血鬼パロです。

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

「ねーねーヒデオくん。カノンね、仲間にしたい男の子が出来たの」
「そうか。ちゃんと合意は取れよ」
「でもその子ね、まだ子供なの」
 どこか悲しげなカノンの声に、ヒデオは読んでいた本から、膝の上にもたれるカノンに視線を向けた。
 「子どもを吸血鬼にしてはならない」とされる吸血鬼の掟を破り、十に満たない年齢で吸血鬼となった少年は、はあ……と溜息を一つ。
「でも、ダメだよね」
「なんかあったのか?」
「うん……カノン、カワイイお姉ちゃんやカワイイお兄ちゃんの血を吸わせてもらうのも好きだけど、たまに思うの。カノンと同じくらいの子を仲間にできないかなあって」
「……そうか」
 カノンを吸血鬼にした吸血鬼は、掟を破った事で処刑された。カノンはわけも分からぬまま吸血鬼となり、その処刑の事も知らずに吸血鬼達の治安を担うヒデオ達の下へ引き取られた。それがおよそ五十年前の話。
 今のカノンは恐らく薄々察している。自分を吸血鬼にした吸血鬼がどうなったのか。
「ねえヒデオくん、ヒデオくんは同じくらいに見える仲間を増やしたくならないの?」
「……俺は、自分と同じくらいの歳に見えるかどうかなんて気にしたこと無かったしな。仲間は皆よくしてくれたし……」
 だがカノンは幼い子供の外見をしている。幼いまま吸血鬼になり、精神的にも殆どそこで止まってしまっている。ヒデオ達のような「同族」という意味ではなく、「歳の近い友達」としての仲間が欲しくなるのは当然と言えた。
 だがそれは吸血鬼の掟に触れる。
 そして、幼い子供を幼いままに吸血鬼にする行為は、まさしく今のかのんのような危うさを孕んでいるからこそ禁止されていた。己の力の行使を我慢出来なくなり、やがて理性を失ってしまう恐れがあるのだ。
 ヒデオは、眉を下げて唇をきゅっと結んだカノンの頭を撫でる。
「……カノン、お前は一人じゃない。俺達がいる」
「ヒデオくん達のことはもちろんだいすきだもん。でも……」
「そうか。でもな、」
 それでも、お前は我慢しなきゃいけないんだ。そう言いかけ、ヒデオは口を噤んだ。
 本来被害者である彼に今それを言うのはあまりに酷に思えたのだ。代わりになにか言える事は、と思考を巡らせて再度口を開く。
「……なあカノン、だったら今度、旅をしてみないか」
「旅?」
「ああ。この世界には、俺達吸血鬼の他にも悪魔や蜘蛛男蜘蛛女、魔女がいるって話だ。もしかしたらその中に、お前と友達になれるやつだっているかもしれないぞ?勿論、俺も一緒だし……ミチルやショウマさんやスザクも誘おう。みんなで世界を旅して回ろう」
「友達……」
 カノンの目がキラキラと輝き出す。
「行きたい!ねえいつ行く?!」
「すぐには無理だからな、まず皆に話してからだ」
 今すぐにでも飛び出して行きそうなカノンを制止しながら、ヒデオは使い魔の蝙蝠を呼び出し、羊皮紙と羽根ペンを持ってこさせる。
「カノン、どっか行ってみたいとこはあるか?」
「んーとね、温かくて……夜の海が綺麗なところ!」
「オーケー」
 ヒデオは仲間達宛の手紙に筆を走らせ始めた。
『招待状・カノンの友達探しの旅──』

作品一覧ページへ戻る
えむます作品一覧ページへ戻る

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

この後諸国漫遊の旅に出たカノンは南の国でアラクネのサキやデビル・ルイと仲良くなります。多分。

らばとなお

「わあ、お二人こうして並ぶと本当の兄弟みたいですね!」
 着替えやメイクを終え、スタイリストにそう言われた薫が同じく着替えやメイクを終えた直央を見ると、直央は顔を真っ赤にして薫から目を反らした。
 今日の仕事はドラマの撮影。315プロダクション所属・DRAMATIC STARSの桜庭薫ともふもふえんの岡村直央の二人で、兄弟役で一話限りのゲスト出演をすることになった。いずれ二人には一緒にお仕事して欲しいと思ってたんですよ、とプロデューサーには熱弁された。
 ーー桜庭と直央って、なんか似てるよな!
 そんなことを某馬鹿が言っていたな、と薫はふと思い出す。
 名家の長男と年の離れた弟、という設定のキャラクターに合わせた、同じブランドの仕立てのいい服を着て並ぶと、成る程確かに兄弟に見えるのかもしれなかった。
自分以外全員年下の未成年という選抜メンバーと共に仕事をしたことはあるし、直央を初めとするもふもふえんのメンバーとは事務所でよく会う。一緒に仕事をするのは初めてだった。
 「弟」である自分が「兄」の役を演るという不思議な違和感と、自分より年下の直央の方が演技経験は長いというギャップ。今日はむしろ学ばせてもらうくらいの姿勢でいよう、と姿見を見て改めて思う。
「今日はよろしく頼む」
 直央の方を見て言うと、直央は慌てたように、同時に少しだけ怯えたように、
「よっ、よろしくおねがいします!」
 と頭を下げたのだった。
 ーーいいですか薫さん、もふもふえんの子達はまだ僕達より小さいんですから、あんまり怖い顔しちゃダメですよ!
 そういえば柏木にそんなことを言われた、と思い出したのは、そのすぐ後のことだった。

[戻る] 

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

2016年5月頃に書いたもの。
当時はまだドラもふ共演イベがなく、事務所の寸劇で絡みが描写されていた程度で桜庭と直央の距離感もよくわからず、この二人兄弟みたいだけど絡み少ないなあと思って書いたものです。
執筆当時Privateerに掲載していたのですがあまりに短く単品で別所に公開するにも気が引けてどこにも出さないままだったのでここで公開出来て良かったです。
サッカーイベ最高だった……

青い恋の終わらせ方(再録)(モブ→桜庭)

某Webアンソロに寄稿した、桜庭に恋して失恋するとあるモブの男の子のお話です。

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

僕の初恋。それは、僕が高校一年生の頃。元々働いていたコンビニのブラックバイトを辞めて、地元のファミレスでバイトを初めて一週間経った頃の十二月に始まった。

ガシャン!
陶器の皿と金属のフォークやナイフがいくつもまとめて一気に床に落ちる騒々しい音は、ざわめく店内を一瞬で静まり返らせた。
「っ……! も、申し訳ありません!」
一瞬真っ白になった頭は、床に落ちたフォークに反射した照明が目に刺さることで現実に引き戻される。
体が芯から冷えていく感覚と共に、僕は床にしゃがみ込むと散らばった食器をかき集めた。ああ良かった、割れているお皿はない。
「おいおい大丈夫か?」
席に座っていた客──男性三人組の一人が腰を浮かして僕に声を掛けてきた。
「だっ大丈夫! 大丈夫ですので!」
なんとかしなきゃ、なんとかしなきゃ、それだけが頭の中をぐるぐる回る。
「申し訳ありませんお客様!」
バイトリーダーの声と、掛けてくる足音。それすらどこか遠くから聞こえてくるように感じる。
バイトリーダーが隣にしゃがんでトレーを差し出してくれたことは分かった。僕は必死で食器をトレーの上に重ねていく。
「待った」
無心で片付けをしていると、静かな声が僕の耳を打った。
「その店員、怪我をしているんじゃないのか」
「えっ? あ、本当だ……申し訳ありませんお客様」
その店員、というのが僕のことを言っているんだと気付いたのは、バイトリーダーが僕の肩を掴んで食器を集めるのを止めさせた時だった。
「ちょっとストップ」
「えっ」
「今休憩してる子いるから、一旦裏行って傷口洗って、救急箱出してもらって」
「えっ、でも、片付けなきゃ」
「怪我した手で食器を触る方が問題。ここは私が片付けるから」
手、と言われて自分の両手を見る。左手の親指と人差し指の間に一条、赤い線が走っていた。
「……あ」
急に手が痛みを訴え始める。小さな痛みだけれど、動かしたら傷口が広がるという恐怖心で左手が動かせない。すると急に背中にぶわっと冷たい汗が噴き出て、急に頭の天辺から爪先まで動かなくなる。
そんな僕の頭上で、誰かとバイトリーダーの会話が続いている。
「おい店員、裏に案内しろ。そこの怪我をした方の店員の手当てをする」
「ですがお客様、」
「軽い傷だが放置すれば治りが遅くなる。それに……」
ごそごそと何かを探るような音の後、その人は動けない僕と困惑するバイトリーダーに向かってこう言ったのだった。
「僕は医者だ。ここに医師免許もある」
糸に引き上げられるようにして、僕は顔を上げていた。
三人組のお客様のテーブルの奥に座っていたその人は腰を浮かし、顔写真入りのカードをバイトリーダーの方へ向けていた。その人は黒い髪に紺のワイシャツに白い肌が対照的で。眼鏡の奥には鋭い目が覗いている。食器を片付けていた時にも顔は見ていた筈なのに、そこで始めて気付く。
綺麗な人だなあ……。

「ま、待って、あの、お待ちください!」
そのお医者さんは、僕の怪我を手当するとさっさとホールに戻り店を出てしまった。
慌てて追い掛けると、お医者さんは一緒に来ていた男の人二人と一緒に店の手前の交差点の所で待っていてくれた……と言うより、両脇をがっしり固められているように見えた。
「おい……!」
「まあまあいいじゃねーか」
「そうですよ薫さん」
少し不機嫌そうなお医者さんを、臙脂のコートを着たお医者さんより少し背が低い男の人とカーキ色のコートを着た背が高い男の人が宥めている……ように見える。
追い掛けない方が良かっただろうか。
「あ、あの……」
「気にすんなって!」
「薫さ……この人に、言いたいことがあるんですよね?」
背が高い方の人にそう促される。暗くてよく見えなかったけど、通り過ぎた車のヘッドライトに照らされていても柔らかい笑顔が見えた。
「さっきは、ありがとうございました!」
お医者さんを真っ直ぐ見てから、頭を下げる。
「当然のことをしたまでだ」
淡々とそう返される。顔を上げると、お医者さんは無表情でこう続けた。
「処置を怠ると跡に残る。傷が開かないよう気を付けるように」
「は、はい!」
「……それと」
「は、はい」
お医者さんはすこし迷うように言葉を止めてから、溜め息と共にこう言った。
「飲食店で働いているんだろう、ナイフの扱いにはもっと慎重になるように」
溜め息混じりではあったけど、その言葉からは不思議と冷たさは感じなかった。
「ありがとうございます!気を付けます!それでは、僕はこれで……!あっ、えっと、またのご来店をお待ちしております!」
「……ああ」
「近くで仕事があったら来るぜ!」
「ご飯、とっても美味しかったです!」
信号が青に変わり、三人は横断歩道を渡って駅前の通りの方へ歩いて行った。夜でも明るい雑踏の方へ三人が消えていくのを見守りながら、僕はもう一度深々と礼をした。

それから、僕がバイト先であの人たちを見ることはなかった。
あの時一緒にいたバイトリーダーから聞いた話だと、あの人達はこの前が初めての来店で、それから見たことはないらしい。
それじゃああの時あの場にあのお医者さんがいたのは、運が良かったんだなあ。僕はそう思った。
そしてどうしたことか、あのお医者さんのことが忘れられなかった。傷が治って、傷跡がほとんど消えて、何ヶ月経っても、あの時僕を手当してくれたあのお医者さんが頭から離れなかった。
お医者さんという仕事柄、怪我をしていた僕を放っておけなかったのかもしれない。それでも、見ず知らずの僕の怪我の手当をしてくれるなんて凄い人だ、と思う。
もう一度あの人に会ってみたい。それでももう、余程タイミングが良くなければ会えることはない。
あの人にはもう会えないかもしれない。
そう思うと、胸が少し痛んだ。

***

二月のとある金曜日のことだった。
バイトから帰ってきたところをアイドルオタクの兄貴から急に、明日は暇かと聞かれた。
なんでも明日のライブに一緒に行く予定だった人が急病で行けなくなったらしい。それで、急遽僕に一緒に来てほしいということだった。チケ代は奢るから、と。
どうせ明日は暇だし、行ったことがない所に行ってみるのも悪くない。
だから了承すると、兄貴はニヤリと笑って、ぜってー良いライブになるから楽しみにしとけよ、と言った。
アイドルのライブ、映像は見たことあるけど行ったことないから楽しみだなあ。そう呑気に考えながら、僕は自分の部屋に向かったのだった。
僕の分岐点が、そのライブで待ち受けているとも知らずに。

兄貴に連れられてやって来たライブ会場は海沿いということもあって、海風が突き刺さるように寒かった。
なんでも今日のライブは兄貴が好きなアイドルの所属事務所全体で開催される大規模なものらしく、今日だけで九グループのユニットが出演するらしかった。
兄貴と一緒に昼食を取ったファミレスの中にはこれから同じライブに参加するのであろう女性客が多く、少し落ち着かない。
それでも兄貴は、男のファンも結構多いから心配すんな、と笑っていた。
実際、入場してみると広いホールの中には男も結構たくさんいた。周りの人達はライブTシャツやタオル、ペンライトを手にざわめいており、やはり落ち着かない。自分が場違いなような気もする。
兄貴が慣れた顔で大量のペンライトをベルトで体に巻き付けている間──洋画に出てくる傭兵とか軍人っぽい──、僕はただきょろきょろとステージや客席を見ていた。
ライブが始まると、満員の客席が一斉にざわめき立つ。
いや、もっとすごかった。
床が揺れている、と感じるほどの割れんばかりの歓声、悲鳴、それよりもっと大きく力強い声で歌い出すステージ上のたくさんのアイドル達。
波のようにうねる色とりどりのペンライトの光、アイドルの歌に合わせて起こるコール。激しいダンスを踊りながらも客席をしっかり見て笑いながら歌うアイドル達。
ステージと客席が一体となってこの1つの空間を作っているようにすら思えて、何もかもから目が離せない。こんな光景、初めて見た。いや、こんな空間、初めてだ。自然と体が熱くなって、いつの間にか笑顔が零れて、気付けば僕も必死で兄貴に借りたペンライトを振っていた。
付いていくのに必死で、でもめちゃめちゃに楽しくて。一曲目が終わる頃には、もうすっかり息が上がってしまっていた。
「すげえ……」
思わずそう呟くと、それに気付いた兄貴は僕を見てニヤリと笑い、「だろ?」とだけ言った。
一曲目が終わり、今日の出演者の自己紹介が始まる。
そこで僕は初めて、ステージの脇にある大型モニターで出演者の人たちの顔を落ち着いて見ることが出来た。さっきは付いていくのに必死だった。
そしてその中。いや、真ん中に立っている三人のユニット。最初に挨拶を始めたそのユニットを見て、僕はあっと声を上げた。
──あの人達は、僕がバイト先で怪我をした時にあの場にいたお客さんたちじゃないか?
そして、中心に立つ赤い服を着たあの人に続き、あのお医者さんは──青い衣装を身にまとい、マイクを手にステージに立っているあの人は。微笑を湛えて一歩、客席側に踏み出した。
「DRAMATIC STARS、桜庭薫。今日は最高の時間を皆に届けてみせよう」
さくらばかおる。
それが、三ヶ月経って初めて知った、あの人の名前だった。

ライブが終わった時、僕は呆然と席に座り込んでいた。
心臓はバクバクと鳴り続けている。体は熱く、外に出れば真冬だというのに熱くてたまらない。ひどい高揚感が全身に満ちて、体の震えが止まらない。
あの人の艶のある良く通る歌声が、全身を震わせる歌声がまだ耳に残り続けている。温度は低いのに魂の全てを燃やしているかのような声が僕を捉えて離さない。
兄貴に声を掛けられて慌てて立ち上がったが足元はもつれ、歩くのがやっとだった。
「……兄貴」
会場を出て、僕は思わず呟いていた。
「ちょっと、CD買って良い……?」

***

それから、寝ても覚めても僕はあの人のことしか考えられなくなった。
公式ホームページ、SNS、色々と見た。ラジオも聞き始めた。CDも全部買ったし、出演作品も見れるだけ見た。
バイト先でもついあの人を目で探してしまう。会えることは、なかったけど。
あの時ステージの上で歌っていたあの人の姿を忘れられない。考えるとそれだけで胸が苦しくなる。
どうも僕は、あの人に恋してしまったらしかった。
アイドル。それは僕のような一般人に比べると遠い世界に生きる人達だ。
兄貴が時々言っていた。アイドルっていうのは、根本的に俺達一般人とは違う場所にいる人たちなんだ、と。
よく分からなかったけど、今なら分かる。
桜庭さんのことを知れば知るほどに、僕は桜庭さんと自分のいる世界の違いを痛感した。
人としての違いが……差が、ありすぎる。
綺麗な容姿に綺麗な声。外科医からアイドルに華麗に転身し、アイドルとしては完璧なパフォーマンスを追求する姿勢。漫画の登場人物みたいだ。
僕はと言えば、普通の高校生。一応大学には行くけど、正直自分が何をしたいのかも分からない。あまりに眩しすぎて、桜庭さんを遠くから見ているのが精一杯だ。いや、見ずにはいられない。桜庭さんを見ていると、心が軽くなるから。光を貰えるような気がするから。
何も持ってない僕だけど、そんな僕でもこんな風に誰かの心を救えるような人になれたら、と思わずにはいられないほどの輝きが、桜庭さんにはある。
だから桜庭さんのことはずっと応援していたい。だけど時々、桜庭さんが僕だけを見てくれれば、と思うことをどうしても止められない。
そう、あの時、怪我をした僕の手に包帯を巻いてくれたみたいに。またあんな偶然が起こってくれたら、なんて期待するだけ無駄なのに。
こんな思いをするのは辛いだけだから、断ち切ってしまいたい。いくらそう思っても、桜庭さんのことを思うのを止められない。
ライブに行って、出演番組を見て、遠くから見ているだけで幸せな筈なのに、ひどく苦しい。こんなんじゃ、純粋な気持ちで桜庭さんを応援なんて出来ない。
僕に光をくれるあの人を、もっと純粋な気持ちで応援したい。こんな苦しい思いで応援したくない。

だから、桜庭さんを好きになってから1年が経った頃。
僕は、自分でこの「恋」を終わらせることにした。

***

ドラスタのニューシングル発売記念のトークショー&握手会イベント。仲の良さも売りであるドラスタにしては珍しい、メンバー毎で別会場別日程のリリイベだった。
意を決して初めて応募した接触イベント、まさか本当に当選するとは思わなかった。バージョン違い一枚ずつで系三枚買って全部のシリアルで応募したりはしたけど。
トークショーの間、桜庭さんの言葉は一字一句聞き漏らすまいとしながら緊張で気が気ではなかった。
握手会の列に並びながら僕は何度も深呼吸して、何度も何度も、今日桜庭さんに向けて用意した言葉を反芻した。大丈夫、言える、きっと言える。
お次の方どうぞ、と、スタッフさんに誘導され。僕はカーテンの仕切の中に足を踏み入れた。
「今日は来てくれてありがとう」
「あっ……!えっと、新曲、凄くよかったです!」
言葉が喉につかえて、上手く出て来ない。冷たくてすべすべしているようで、でも少し温かい桜庭さんの手の感触に、頭の中はぐちゃぐちゃになる。
それでもなんとか、桜庭さんの目を見て、勇気を奮い立たせ、必死で言葉を絞り出す。
「僕……その、医者を、目指すことにしたんです。桜庭さんに僕、救われて……歌にいつも助けてもらってて、だから、僕も誰かを助けたいって……だから……!」
桜庭さんの眼鏡の向こうの目が僅かに見開かれた。そして、口元には優しい笑みが浮かんだ。
「……そうか、ありがとう。それでは」
少しだけ、桜庭さんの手に力がこもった。気がした。
「僕達の曲が、君の背中を押せるよう……祈っている」
「っ……!はい、ありがとうございました!」
背中にそっと手が添えられる。手が解け、僕は桜庭さんに一礼してからブースを後にした。

***

高二の冬になっていきなり志望を医大にする、と言ったら流石に担任も引っ繰り返るくらい驚いていたし、浪人させてほしいと頭を下げたら両親も唖然とした。
でも、これが僕が選んだ失恋の方法だった。
恋を終わらせたかった。でも、この恋を無駄になんてしたくなかった。僕のこの桜庭さんに抱いた憧れだけは、恋を終わらせても大切にしたかった。

──何故医者からアイドルに転向したのか、とは良く聞かれます。理由は様々なのですが、一つ、医者とアイドルの目指すところは近いのではないかと、僕は思っています。

ソロ曲発表に合わせて発売された雑誌に掲載された桜庭さんのグラビア&ロングインタビュー。清潔感のある白い部屋の中、白い服を着こなす桜庭さんはクールな佇まいの中に微笑を覗かせていた。

──医者は、人の体を、また心も救います。アイドルは、人の心を救う存在です。心が救われることで、体が救われることもあります。苦しむ誰かを救いたい、寄り添いたい、苦しみと戦う力になりたい……医者であれアイドルであれ、僕が目指す所は同じです。

僕は何も持っていない。
ただ、桜庭さんのように誰かを救える人になりたい。
思えば僕は、桜庭さんに助けられたから桜庭さんに恋をしたのだ。桜庭さんに助けられて、桜庭さんの凄さを知ったから恋をしてしまった。
この恋を自分から終わらせようと思ったら、恋よりも大きな思いや行動で上書きするしかない。
それでも僕は、この恋を無駄にしたくなかった。だから、医者を目指すことに決めた。桜庭さんのように、苦しむ誰かを救える人になりたかったから。
他の人から見れば動機は些細かもしれないけど、僕にとっては大事な大事な思いだ。それに、桜庭さんのお陰で自分がやりたいことを見付けられた。それだけは絶対に、手放したくなかった。

「ただ今より入場を開始しまーす」

ライブスタッフが、会場の外にいるファン達にそう声を掛け始めた。
今僕は、広いと感じたあの時のライブ会場よりずっと大きな会場のすぐ外にいる。あの時よりたくさんのファン達。あの時より僕の背も少しだけ伸びた。
プレゼントボックスに匿名の手紙を入れ、僕はチケットを握り入場口へ向かう。

『桜庭薫さんへ。いつも応援しています。昔、僕は握手会であなたに向かって、医者を目指している、と宣言したことがあります。もう覚えていらっしゃらないかと思います』

昨日の深夜まで、悩みに悩んだ手紙の中身。手紙を書くことすら悩んだ程だった。
それでもこれだけは伝えたかった。あなたのお陰で人生が変わった人間がいると、それだけ伝えられれば、良いと思った。

『先日、医師国家試験に合格しました。あなたのお陰で、あなたの歌の力を借りて、僕はここまで来ることが出来ました。本当に、ありがとうございました』

遠い憧れの人に恋をする日々はこれでようやく終わり。
僕はこれから、憧れの人とは違う場所で、誰かを救う人になる。

[戻る]

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

315プロモブドル失恋Webアンソロに参加させていただけた際の作品です。
反省点は多いのですが桜庭のファンになるような男を不幸にしたくないという一心で書きました。とても楽しかったです

ふかきそこから(※クトゥルフ神話パロ)(レジェ)

レジェのクトゥルフ神話パロ?です

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

北村想楽はその日、クリスと事務所の待機スペースで向かい合わせに座りながら次の仕事までの時間をどうということない雑談で潰していた。

「深きものども、ですか」
「うん。クリスさん、深きものどもとかダゴンとか、クトゥルフ神話は知ってるのかなーって」
「無論です。海を題材とした神話は数ありますが、海がキーファクターとなる創作神話の中でクトゥルフ神話は最も広く人口に膾炙したものですから」
「ふーん」
この人は海についてなら本当になんでもありだなー、と思いつつ想楽は賢が淹れた番茶をすすった。
「ですが何故突然クトゥルフ神話の話など?」
「この前、バイトしてた雑貨屋にちょっと用があって行ったら、店頭で特集しててねー。TRPGのルールブックとか置いてあって」
「なるほど。そう言えばクトゥルフ神話は、ラヴクラフトやダーレスの作品だけでなくテーブルトークRPGが日本では主流なのでしたね。Call of Cthulhuと言いましたか」
クリスは頷くと、目を輝かせながら身を乗り出す。
「深き海の底に眠るかつて地球を支配した神、その神を信奉し我々の中に紛れて暮らす海を故郷とする者達……大いなる海の神秘を感じませんか?」
「うーん、いつものクリスさんだなー」
苦笑しながらお茶請けのどら焼きをかじる。恐らくこういう話は雨彦の方が相手にするのが得意なのだが、雨彦は到着がもう少し遅れるという。
「クリスさん的にはクトゥルフ神話もアリなんだねー」
「ええ。クトゥルフ神話は、海に纏わる神秘らその可能性の宝庫です……そう、海には大いなる神秘が隠されているのです」
「え?」
クリスの声色がいつもと違う気がして、想楽は思わず長い髪の陰になったクリスの顔を見つめた。
ふと、ぞわりと急に背筋に冷水が流れたような感覚がした。
目の前にいるクリスが何故だか自分がよく知るクリスのようには思えなかった。その長い髪の隙間から覗く目は陰って深い紺色をしているように見え、その目を見ていると想楽は全身に震えが走るような気がした。
決して感じる筈のない嫌悪感のようなものが、今目の前にいる男に対して何故だか体の内から湧き上がって来るように感じてしまう。想楽は寒気を感じながら恐る恐る口を開いた。
「……クリスさん?」
「おっとお二人さん、遅れてすまないな」
聞き慣れた声と共に、ぱきん、と頭の隅で薄氷が割れたような音がした。
「おや、遅かったですね雨彦」
そう言ってクリスが顔を上げる。想楽も釣られて顔を上げると、いつの間に事務所に到着していたのか、雨彦が立っていた。現れた雨彦を見上げるその笑顔はいつものクリスで、嫌悪感のようなものも全く感じられず、想楽は内心で胸を撫で下ろした。
「そうだ古論、プロデューサーが呼んでたぜ」
「おや、ありがとうございます雨彦。では私は少し席を外します、想楽」
クリスは立ち上がり、にこりと笑って立ち去って行った。
ああ、いつものクリスさんだ。改めてそう思い安堵から息を吐き出すと雨彦が立ったままひょいと身を屈めて想楽の耳元で囁いた。
「……北村、『見た』な?」
「っ!」
先の悪寒が蘇り思わず後ずさると、雨彦は「やっぱりな」と苦笑する。
「古論はたまにああなるみたいだな。いつもの海の話くらいならどうってことはないが……ま、その海の神様周りの話は避けることだ」
雨彦はそう言って笑うと、クリスが座っていた位置は空けつつ想楽の向かいのソファに座る。長い足を持て余すようにして組むと、ひょいと菓子盆に盛られたお茶請けのどら焼きに手を伸ばした。
「……雨彦さんは、クリスさんがああなる理由、何か知ってるのかな?」
「いいや、詳しくは知らないさ。古論も自覚はないようだな」
雨彦はどら焼きの封を開けてぱくりと一口、しばし咀嚼し喉仏を上下させてからまた口を開いた。
「俺に出来るのは、ああなったら適度につついて元に戻すことくらいだ」
「……そっかー」
こんな言い方をされれば、この食えない男にどう食い下がっても無駄だろうということは経験上分かっている。そして、本当に雨彦もクリスのあの状態についてはよく分かっていないのであろうことも、経験で分かる。
「……もっとも、どっちが『元』なのかは俺には分からないがね」
「……」
雨彦の言葉が何時になく重く聞こえ、想楽は不安を誤魔化すかのように湯呑に手を伸ばす。番茶はいつの間にか冷め切っていて、冷水が喉を通るような心地がした。
ふと、その温度に想楽は思い出した。

──あの時のクリスさんの目、夜の海に似ていたな。

[戻る]