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春の音(再録)(虎石と空閑)

虎石の誕生日ネタ。
二期が始まる前どころか二期発表前に書いた物なので諸々実際の設定と矛盾がありますが気にせず読んでください。

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 新学期が始まって数日が経過した。
 ミュージカル学科としての新しいクラス、ミュージカル学科としての新しいカリキュラム。まだ慣れてはいないし、新しい華桜会にもまだ慣れない。
 とは言え、これまで一年同じチームとして過ごした仲間や小学生の時から一緒の幼馴染みもいる。これから夢に向けてまた新しい生活が始まるのだ。
 ……などと言えば、聞こえはいいのだが。
「流石のオレも疲れたっつの…………」
 放課後、旧校舎の廊下を歩きながら虎石はぐったりと肩を落とした。
「ったく、先輩人使い荒すぎ……たまたま遭遇した学科生が俺だからって……」
 本日たまたま日直だった虎石和泉は、放課後が始まってすぐの時間に先生から頼まれた雑用を手伝っていた。それも終わってさて帰ろうと教室に戻ろうとしていたら、新しい華桜会の先輩に遭遇してしまった。そしてその先輩にちょうど良かったと華桜館へ連行され、またもや雑用を手伝わされた。ようやく全部の手伝いが終わって気が付いたら窓から差し込む光はわずかに橙を帯びている。
 先輩に連行される前に一緒に寮に帰ろうと思っていた幼馴染みにはメールを飛ばしたし、もうとっくに帰寮しているだろう。今日の放課後はバイトがないと言っていたから、中学ぶりに一緒に帰れるかと思ったのだが。
「そもそもなんで俺なんだよ……絶対サラブレッドの方が向いてるっつの。今度からそう言って断ってやろーかな」
 ぶつぶつ呟いてもどうにもならないし月皇にはとんだとばっちりなのだが、虎石は新校舎の教室に置いた鞄を取りに行くために少しだけ足を早めた。
 ふと、耳を優しい音が撫でた。
「……?」
 立ち止まって耳を済ますと、ピアノの音が聞いたことのないメロディに乗せて聞こえてくる。明るく弾むようなメロディを奏でる、優しくて温かなピアノの音。聞いたことのない曲だが、このピアノを奏でている男には心当たりがある。
 音楽室だろうと検討をつけ、虎石はそちらへと方向転換した。音楽室がいくつも並ぶ廊下を歩きながら、音の出所の音楽室を探す。果たしてそのメロディは、廊下の一番奥の音楽室から聞こえていた。
 そっと扉を開ければ、グランドピアノの前に座って鍵盤を叩く、虎石と同じ制服を着た男が一人。
 虎石は何も言わずに中に入ると部屋の隅に固めて置いてある椅子を一つ持ってピアノの前まで歩いていく。ピアノの横に椅子を置き、座り込んでピアノの奏者を見上げる。
 いつもの強面とはだいぶ違う、柔らかくて穏やかで優しい表情で、幼馴染の空閑愁がピアノを弾いていた。
 虎石は、空閑のピアノが好きだ。中学に上がるまで音楽なんてさっぱり分からなかったけれど、小学生の時、放課後に音楽室で空閑が弾くピアノを初めて聞いた時、その音色は特別だと感じたことは覚えている。それからずっと、どんなピアノの音を聞いても、虎石の中で空閑のピアノは一番の特別だった。
 空閑が今弾いているのは虎石が初めて聞く曲だ。明るくうきうき弾む、春風に舞う桜の花びらと満開の花畑のような、まさしく今の季節にぴったりの曲だと思いながら自然と虎石はリズムに合わせて体を揺らした。
 空閑は虎石に気付いているのかいないのか、ピアノから視線を上げようとしない。虎石も声を掛ける事はせず、黙ってピアノに聞き入る。視界の隅で、僅かに開いた窓から吹く温かな風でカーテンが揺れる。
 それからどれくらいの時間ピアノを聞いていただろうか。
 弾き終わり、ようやくピアノから顔を上げた空閑が虎石を見た。
「お疲れさん、虎石」
「どーいたしいまして」
「災難だったな、誕生日だってのに」
「全くだっつの」
「ほらよ」
 体を屈めて椅子の足元から空閑が拾い上げたのは、虎石の鞄だった。
「おっ持って来てくれたの?! サンキュー愁!」
「教室に置いとくわけにもいかねえだろ……さっさと帰るぞ」
 立ち上がってピアノの鍵盤にカバーをかけ、蓋をする空閑。虎石も立ち上がると、自分の椅子を片付けて開いている窓を閉める。片付けをそそくさと終えると、鞄を持って二人は音楽室を後にした。
「なあ愁、さっき弾いてた曲何?」
「あれか? 俺も詳しくは知らねえけど、アニメの曲だそうだ。うちのバイト先の常連のじいさんのお孫さんが好きな曲なんだそうだ。今度連れて来るから弾いてくれないかって頼まれた」
「へえー。元の曲知らねえけど良いアレンジだったぜ」
「それはどうも」
 廊下の窓から差し込む光はいつの間にか夕陽の色になっている。玄関まで降りてしまえば、寮まですぐだ。校舎を出ると同時に目に飛び込んできたオレンジ色の空に、虎石は思わず目を細めた。
「てか愁、わざわざ俺の事待っててくれたわけ?」
「まあな」
「可愛い事してくれんじゃ~ん」
 嬉しくなって思わず肩に手を回すと、「やめろ気持ち悪ぃ」と言いながらも振りほどきはしないのが愁の良い所だ、と虎石は思う。
「帰る前にどっか寄る?」
「いや、今日は直帰する」
「お?」
 空閑が虎石の顔を見た。その目は少し楽しそうに、そして悪戯な子供の様に光っている。
「だから寄り道はナシだ。勿論お前もな」
「……へえ」
 虎石は思わずにやりと笑みが浮かべた。胸が弾むように浮き立つのを感じる。ういや今日は終礼の後でやけに星谷や辰己達が帰るのが早かったなあ、昨年の今日はまだここじゃ愁以外俺の誕生日知らなくて愁にしか祝ってもらえなかったなあ、なんてことを思い出し。
「んじゃ、楽しみにしとこうかな」
 今日の夜はデート入れなくて正解だったかもな、と思わず笑みを深める虎石だった。

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Spring has come(再録)(空閑と虎石)

空閑の誕生日ネタ。
空閑父の多大な捏造をしています。

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April 2 -16 years ago-

 僕は手元のビデオカメラ越しに花瓶を映しながら、ピントを調節する。
「うーん……これで大丈夫かな」
 綺麗な紫をしたガラスの花瓶と、そこに生けられた白いアネモネが、画面にくっきりと映る。
 正直まだ扱い慣れていないけど、今日のために買った最新式のデジタルビデオカメラだ。
「……よし」
 少し緊張しているのか、出した声はちょっとだけ震えている。録画開始、赤い丸が描かれたボタンを押す。
「……2000年、4月2日、日曜日。午後9時25分」
 カメラを持ち替えて、レンズをアネモネから僕の顔に向ける。
「こんばんは! いや、こんにちは、かな? おはよう、かも。まあいいや。僕の名前は……」
 名前を名乗って、簡単な自己紹介をする。ちゃんと映っているのか心配だけど、僕はにっこり笑いながら、16年後にこのビデオを見ることになる男の子に向かって、喋り続ける。
「驚いた? 今日は、今の僕の家族を君に紹介したくて、このビデオを撮影しています。これを見ている君の知ってる家族と、少し違うかな。今の僕はまだまだ平社員だし、僕の奥さん……君のお母さんは君の面倒を見るので精一杯だしね。それじゃ早速だけど、僕の家族がいる部屋に行きまーす」
 ビデオカメラを元の持ち方に戻して、僕は奥さんと、僕達の宝物がいるであろう部屋に向かった。
 こんこん、とドアをノックすると、そっとドアが開いて僕の奥さんが顔を覗かせた。
「寝てる?」
「もう寝てる」
 奥さんは僕のビデオカメラを見てふふ、と楽しそうに笑った。
「これ、この前言ってたやつ?」
「もうカメラ回ってるよ」
「やだ、お化粧しておけばよかった」
「入るよ」 
「寝てるから静かにね」
 足音を立てないよう静かに部屋に入る。小さな明かりだけが灯った小さな部屋には、僕と奥さんが寝るそれぞれの布団が敷かれ、その横には小さなベビーベッドが置かれている。
 僕はベビーベッドまで歩いていき、その中をカメラで映す。
「はーいこちら、今日1歳になった愁君でーす」
 ベッドの中で小さな手足を丸めてすやすや眠っている男の子が、そこにいる。
「起こさないでね、さっきようやく寝てくれたんだから」
「分かってる」
 ベッドで眠っている愁に掛けられているのは、飛行機や車がいっぱいにちりばめられたタオルケット。枕元には、僕がオーストラリアからの出張でお土産に買ってきた大きいワニのぬいぐるみ。顔が怖いと奥さんには不評だったけど、愁はとても気に入ったらしくていつも一緒に寝ている。
 その横には、今日誕生日を迎えた愁へのプレゼントの、熊のぬいぐるみが置いてある。
「最近の愁は、掴まり立ちが出来るようになって、言葉もちょっとずつ喋るようになりました」
「ご飯の好き嫌いもないの、偉いでしょ」
 僕と奥さんで二人並んで、ベビーベッドの柵にそっともたれながら16年後の愁に向けて、今の愁のことを話す。
「愁が初めて話した言葉は『パパ』で、」
「何言ってるの、『ママ』でしょ」
 16年の僕達は、どんな家庭を築いているんだろう。そこに、今の3人家族は揃っているのだろうか。もしかしたら、増えているのかもしれない。減っている……なんてことは考えたくないけど、もしかしたら、なんてこともある。僕みたいに海外を飛び回る仕事だと、特に。
「……な、愁」
 そっと手を伸ばして、愁の頬に触れる。
「大きくなったなあ……」
 持ってようか? と聞かれたので、僕は奥さんにビデオカメラを渡す。そして、ベッドからそっと愁を抱き上げる。
 出張で家にいないことが多くて、出張してない時も帰りが遅くなりがちな僕が自然と身に付けてしまった、寝ている愁を起こさない抱っこ。
「……もっと君達の傍にいてあげたいんだけど、ごめんね。でもお父さんは、その……」
 ビデオカメラを持った奥さんがにこにこ笑いながら僕と愁を撮っている。ああ、流石にちょっと恥ずかしい。恥ずかしいけど、きっとこれを見る16年後の愁はもっと恥ずかしい。きっと16年後の僕も、めちゃめちゃ恥ずかしくなる。だったらどうせなら、思い切り恥ずかしいことを言ってやろう。
 恥ずかしいけど、今の僕にしか言えない言葉を。
「愁、君が生まれて、今日で一年が経ちました。僕もお母さんも初めての子育てで、大変です。僕は休みの日しか子育て出来なくて、お母さんにはとっても大変な思いをさせてしまっています。お仕事も大変だし、明後日からまたアメリカに出張です。また一週間、君達に会えなくなります。寂しいけど、君達の為だと思えばいくらでも元気が湧いてきます」
 ゆっくりと、ゆりかごのように体を揺らす。愁はすやすやと、気持ち良さそうに眠っている。
「……僕は、君と、君のお母さんに出会うために生まれてきたのかもしれないって、最近本気で思います。一年前に君が生まれた日、君はとっても小さかった。今よりずっと軽かった。それでもしっかりした重さがあって、僕はこの命の為に生まれてきたんだって……思った」
 胸の奥から愛おしさがいっぱいに溢れ出してくる。
 愁にそっと頬を寄せると、その温もりを頬で感じる。
「な……愁、君は、僕達の宝物だよ……」
 今の君に。そして、まだ見ぬ17の君に。
「……生まれてきてくれて、ありがとう……」

翼の生えた少年に休息を(再録)(空閑と鳳)

 授業がいつもより早く終わり、同じクラスの月皇は教室の清掃当番ということで空閑は一人でteam鳳のレッスンルームに向かった。レッスンが始まる前に少しピアノに触っておこうと思ったのだが、まだ授業中の時間にも関わらず、レッスンルームには既に先客がいた。
「あれ? どうしたの空閑。授業は終わったのかい?」
 床に置いた椅子に座り、長い脚を持て余すかのように組んで手にした書類を読んでいるのは、team鳳の指導者である鳳樹だった。
「いつもより授業が早く終わったので。月皇は清掃当番です」
「ああなるほど。俺も今日は六限目の授業がなくってね……あ、ピアノ弾く?」
「はい」
 空閑はそそくさとジャージに着替え、舞台上のアップライトピアノの前に座った。
 いつものように軽く指を温めてから、弾き始める。ショパンのノクターン第20番。アルバイト先のカフェレストランで、弾いて欲しいと店長にリクエストされた曲だ。なんでも、空閑の演奏を気に入った常連がこの曲を弾いて欲しいとリクエストしてきたのだという。
 空閑にはそれほど難しい楽譜ではない。しかし少しでも加減を間違えると曲の持つ繊細さが損なわれてしまうので、打鍵の力がどうしても強くなりがちな空閑にとっては細心の注意を払って演奏する必要もある。そのため、最近ピアノを練習する時は専らこの曲だった。
 一回通して弾いてから、気になった箇所をもう一度弾き直す。それをなんどか繰り返していると、黙って空閑の演奏を聞いていた鳳が「あのさ」と空閑に声を掛けた。
「空閑、昨日何時間寝た?」
 突然の質問に戸惑い、ゆっくり瞬きをしながら、空閑は昨日のスケジュールを思い出しながら答える。
「四時間……だと思います」
「よく倒れないね……いや、皮肉じゃないよ。ちょっとこっち来てみて」
 鳳は椅子から立ち上がり、空閑を手招きする。空閑はピアノの前から立ち上がって舞台から降り、鳳の前に立つ。
 鳳は少し身を屈めて空閑の顔を覗き込んだ。
「うーん……顔色が少し良くないんじゃない? 隈も出来てるし」
「……そう、ですか」
 つい昨日、幼馴染からすれ違いざまに全く同じようなことを言われたことを思い出して少しどきりとする空閑。
 空閑の顔を覗き込むのをやめた鳳は顎に手を当てて少し黙り込み、「お前がバイトで忙しいのは分かってるし、止めようとは思わないけどね、」と前置きしてからこう言った。
「お前はもうちょっと休んだ方が良い。頑張るための休息を疎かにしてちゃ、頑張ることも出来ないよ」
 空閑が密かに気にしていたことを、ずばり言われる。体を壊さないように、無理するな、空閑の状況を知る周りの人間からはほとんど必ず言われる言葉だ。
 そんなこと空閑も分かっている。けれど頑張ることをやめるわけにはいかなかった。だから頑張り続けるしかない。心のどこかに確かにある、このままだと壊れるんじゃないか、本当にこのままで大丈夫なのかという不安と戦いながら。
「……どうして急に」
 鳳は肩をすくめた。
「ピアノを聞いてなんとなく思ったってだけ。でもお前は頑張るのをやめたくはないだろう? とりあえず今だけでもちょっと寝たらどうだい。星谷達が来そうな時間まであと三十分はある」
 いきなりすぎる鳳の言葉にきょとんとする空閑。鳳はウインクしながら空閑の頭を撫でた。
「いい年してって思うかもしれないけど、お昼寝はいいものだよ、ボーイ」
 鳳の優しい声と共にぽんぽんと頭を撫でられるうちに、無理に忘れようとしていた眠気が少しずつ空閑の意識の片隅で主張し始めた。
 無理するなと言ってくれる人がいるのだから、少しくらい甘えたって良い。いつもより少し早く終わった授業のお陰で出来た自主練の時間だ、体を休めるのもまた舞台人に必要になることだ。
 そう思っただけで、急に肩の力が抜けた。
「……それでは、遠慮なく寝かせてもらいます」
 欠伸を噛み殺しながら言うと、鳳は目を細めて笑った。
「タイミング見て起こすから、今はぐっすり寝なよ」
 空閑はレッスンルームの壁際へ移動するとジャージの上着を脱いで丸め、枕替わりにして床に寝転んだ。レッスンルームの床は当然固いが、そんなことも気にならない程に柔らかな眠気と安心感が空閑を包み込んでいた。
「……おやすみ、ボーイ」
 意識を手放す直前に聞こえた鳳の声が何故だか、ぼんやりとしか覚えてない筈の父親の声に聞こえた気がした。

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先輩にほんのり父性を感じる空閑とか良いと思います

Happy New Year!(再録)(和愁)

in虎石家など虎石家の情報が出る前に書いたものなので虎石パパのキャラが若干おかしいです注意。

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 愁が寝そうだ。
 実家のリビングのソファの上。すぐ隣に座っている幼馴染みの、今にも意識が飛びそうなぽやぽやした面を見て、俺は思わず今の時間を確認した。
 23:40。
「お~い愁、しっかりしろ~」
 手を伸ばして肩を掴んで軽く揺すると、愁は「ん……」と声を漏らし、目をごしごし擦った。
「愁君、もしかして相当疲れてる?」
 ローテーブル前に座ってアイドルのカウントダウンコンサートを見ていたお袋が俺達を見て言うと、「そうみたい」と愁のお袋さんが苦笑い。
「和泉くん、愁起こしてあげて。これで年越しの瞬間に起きてられなかったら、この子多分気にしちゃうから」
「了解っす」
 俺と愁の付き合いは長い。そして、俺のお袋と愁のお袋さんは仲が良い。だからこうやって季節のイベントを家族ぐるみで一緒に過ごすのは当たり前になっていた。
 年越しも、俺の家族と愁の家族の五人で過ごす。年越しそばを食べながら年末特番を見て、年が変わる瞬間に新年の挨拶をするのが昔からの定番だ。
「愁君、アルバイト大変なんだって?」
「そうなの、今日も朝バイトしてから帰って来たみたいで」
「うちのドラ息子とは大違いだなあ……」
 おううるせえぞ親父。
「愁~起きろ~」
 大人三人のお喋りを適当に聞き流しつつ、俺は愁の意識を繋ぎ止めるべくあの手この手で愁の気を引こうとしていた。軽く頬をつねってみたり、耳元で手を叩いてみたり。
 愁も頑張って起きていようとしているのだろう、目を何度もしばたかせたり擦ったりしている。
 だけど愁の眠気は相当強いみたいで、一度覚醒したと思ってもすぐ船を漕ぎ始める。
 ……俺なんかよりずっと苦労してるんだよな、こいつ。少し胸が苦しい。せめて正月休みくらいはゆっくり休んでほしいけど、新年を迎える瞬間までは頑張ろうな。あとちょっとだけだから。
 気が付けば新年を迎える5分前。
「おい愁! もうちょっとだから頑張れって!」
「ん~とらいし……」
「ど、どした?」
 むにゃむにゃという音が聞こえてきそうな愁の喋り方。気が抜けきっているのが一目瞭然だ。
 ごしごし目を擦る姿は、俺と同い年の高校生というよりは無理に夜更かししている子供みたいだ。
「……眠い」
「見れば分かる!」
「愁、頑張って~もうちょっとだから~」
 愁のお袋さんに応援され、愁はこくこく……というよりがくがく頷く。
 あと3分。
 ここまで来ると無理に起こす必要はない気がしてきた。でも毎年の恒例行事を逃したら多分こいつは少し凹む。それが分かっているので、俺は愁に話しかけ続ける。言ってる言葉の意味はこの際どうでもいい。
「愁~もうちょっとだなら頑張れよ~、今年も色々ありがとな~」
「……消しゴム返せ、あと現国のノート」
「お前実は起きてるだろ?!」
 愁の肩が揺れる。でもこれは眠いとかじゃない、笑ってるんだ。
 おもむろに、眠気で蕩けた愁の目が俺を見た。細められた菫の瞳が楽しそうに、幸せそうに揺れる。
「……俺こそ今年もありがとうな、和泉」
「は……」
 滅多に呼ばれない下の名前を呼ばれ。
 唖然としていると、テレビからカウントダウンの声が聞こえてきた。
『54、53、52……』
「あんた達、カウントダウン始まったよ」
 俺はお袋の声で我に返り、愁もまだ眠そうな目を擦りながら身を乗り出した。
「お、おう」
「ん……」
『40、39、38……』
 次第に場にいる全員で声を揃えてカウントダウンを始める。
 20、19、18、
 もうすぐ新たな年を迎える興奮で、胸が高鳴る。ちらりと隣の幼馴染みを見ると、(物凄く眠そうなのに変わりはないけど)いつもの大晦日より少し明るい顔でカウントダウンをしている。
 今年は別々にいる時間が長かったけど、お互いに今年も良い年だったよ。なっ、愁。
 10、9、8、
 すると愁も俺を見た。
 目が合う。どちらからともなく吹き出してしまい、俺達は笑い合いながらカウントダウンを続ける。
 5、4、3、2、1、
 テレビの中で「2016」の文字が踊る。
「あけましておめでとー!」
「あけましておめでとう」
「あけましておめでとうございます」
 俺達も口々に新年の挨拶を交わす。
「あけましておめでとっ」
 愁の肩目掛けて飛び付くと、愁はいつもと変わらない低い声で
「あけましておめでとう」
 と言い、俺に押し倒されてぼふっとソファに沈んだ。穏やかな笑みを湛えたその瞳が眼下でゆっくり閉じられ、僅かに開いた形の良い唇から呼気が漏れる。
「……すぅ……」
「えっ」
 俺は愁の目の前で手を振ってみるが、反応はない。愁の上からどいてみると、胸がゆっくり上下しているのが服の上からでも分かる。
「寝たの?!」
「あらあら、頑張ったわね愁」
「頑張ったねえ愁君」
 愁のお袋さんも俺の両親も流石に笑ってる。
「ごめんね、愁のこと朝まで泊めてもらってもいい? 朝ごはんの時間にはうちに帰しちゃっていいから」
「いいよー。和泉、部屋まで愁君運んでやんな」
「はいよ」
 とは言え俺とほぼ同じ体格の気持ち良さそうに寝ている男を、階段上ってリビングから部屋まで運ぶのは流石にきついので、俺はまた愁を起こす羽目になるのだった。
「愁ー! 起きろー! ベッドで寝んぞー!」

「待ってるから」(再録)(和愁)

はじめに(注意)
・二人が二十一になった頃を想定した上で未来を捏造して書いています。和愁の二人以外にも何人か他キャラの描写があります。

・病室で眠るり続け空閑君とそれを見守る虎石君の話です。死ネタではありません。

・以上の事項を踏まえた上でお読みください。

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chapter:1

 いつものように病院の玄関をくぐり、入院病棟に脚を運ぶ。
 病院にいる人は皆、自分や自分の家族のことで頭がいっぱいだから、サングラスをかけた俺に目を止める人はほとんどいない。時々すれ違う医者や看護師が俺の顔を見て何かに気付いたような顔になるけど、すぐに何事もなかったかのようにお互い通りすぎる。
 病棟のナースステーションで、すっかり顔馴染みになった看護師さんが「こんにちは、虎石さん」と挨拶してくる。俺は仕事用の笑顔を浮かべ、「こんにちは」と返す。
 面会受付を済ませ、いつもの病室へ向かう。
 何度も何度も、毎日のように通った廊下。病棟の奥の個室に、俺が目指す病室はある。

「よっ、愁!」

 サングラスを外して、いつものように挨拶をしてから、病室に入る。けれど、挨拶が返ってくることはない。いつものように。
 個室に置かれた白いベッドに横たわり、体を白い毛布に覆われ、目を閉じて眠っているのは、俺の幼馴染み、空閑愁。
 ベッド脇のサイドボードに置かれた文鎮で押さえられたメモには愁のお袋さんの筆跡で、今日看護師さんから聞いた愁の容態について書かれていた。数字の上だと愁の容態は昨日までと大して変わりはないようだ。
 肩からかけていたバッグを床に置いてベッドのすぐ近くに置かれている面会用の椅子に座り、愁の顔を覗き込む。
 長い睫毛に縁取られている固く閉じられた瞳、あまりに血の気の薄い眠っているような顔。布団をそっとめくって見れば呼吸していることが辛うじて分かる、わずかに上下する胸がパジャマに覆われている。
 病院が用意しているパジャマに通してある腕は、俺が知るあの男らしくて逞しい幼馴染みの腕よりも細く、弱々しい。
 愁がこうなったのは、半年前。バイク便のバイト中、バイクに乗っていたところを乗用車に追突されて、道路に投げ出されるという大事故だった。打撲以外に目立った外傷はなかった。奇跡的に内臓も無事だったらしい。でも頭を強く打ったせいで脳にダメージを受け、愁は昏睡状態に陥った。
 最初に目を覚ましたのは事故から二ヶ月後。でもまたすぐに深い眠りに落ちてしまった。それから時々、愁は目を覚ますようになった。週に二・三回、初めは五分起きているかいないかくらいだったけど、最近は十分くらい起きてることもある。でも起きているだけでしんどいようで、喋ることはまだ出来ない。
 俺はベッドで眠る愁の左手を取り、両手で握る。その冷たさに、ぎゅうと心臓が締め付けられた。でも俺は笑う。
「聞いてくれよ愁、今朝マネージャーに生活リズムが乱れてるって怒られてさあ」
 そうして話すのは、とりとめのない、日常の些事。俺にとっては当たり前の、でも愁は知ることの出来ない、そんなことを思い付くままに話す。
「昨日の夜、星谷と飲んだんだ。鳳先輩、来週にでも帰国するってさ」
「申渡、連ドラのレギュラーやるらしいぜ。でも消灯時間より後に始まるから愁は見れねえな」
「カレーがすっげえ上手に出来たんだ、愁にも食わせてやりてえ」
 話題は決して無限じゃない。それでも、愁に向けて話しかけ続ける。
 そもそも今の愁に、俺が話していることが聞こえているのかなんて分からない。体は植物状態だけど外の世界は認識できている、なんて話はテレビで聞いたことあるけど。
 だけどそうしないと、俺が折れてしまいそうだから。愁を繋ぎ止めようと何かしていないと、愁が一生俺の手の届かないところへ行ってしまいそうで、怖くて怖くて堪らない。
「……愁、髪伸びたなあ」
 顔にかかる前髪をそっと退けてやる。一ヶ月くらい切っていない愁の髪は、もうすっかり長い。
 ここにいる間の愁の髪は、愁のお袋さんや看護師さんに手伝ってもらいながら時々俺が切っている。
「愁、長い髪も似合うよな。でも俺は男の髪はもっと短い方が好き。今度髪切ろうな」
 髭は週に二回は剃ってやれるけど、髪はなかなかそうもいかないんだ、ごめんな、と愁の額、そして頭をなでる。
 指先と同様に、その体温は低い。
「……愁」
 名前を呼んでも、やはり応える声はない。
 一度愁から手を離し、俺は床に置いたバッグに手を突っ込んだ。藍色のベルベット張りの小箱を取り出し、そっと開いた。
 中に収められているのは、指輪。
 ダイヤが主張しすぎない程度にあしらわれた、メンズのシルバーリング。
 愁に似合いそうだと思って。なんて、それだけじゃない。
 また、愁の左手を取る。
「……役者じゃない時の愁を、俺にください」
 このリングを渡しながら言うつもりだった言葉を呟きながら、すっかり細くなってしまった愁の左手薬指に、それを嵌める。
「……その代わり、役者でもモデルでもない俺を全部、愁にあげるから」
 今の愁の指にはぶかぶかのリング。
 今年の愁の誕生日にと、一大決心をして、どうにかこうにかして愁の指輪のサイズを調べ、片っ端からメンズジュエリーの店やホームページを回って愁のために選んで注文したリングだった。
 でもリングがもうすぐ届くという時に、愁が事故に遭って。リングはまだ、俺の手元にある。
 聞こえているか分からない愛の言葉を囁きながら、こうやって眠っている愁の指にこっそりリングを嵌めるのは、これで何度目になるんだろう。
 愁を繋ぎ止めておきたくて、何度も何度も同じ言葉を囁いた。本当は毎日、ずっと愁の傍にいたい。でも俺も生活していかないといけない。本業の俳優だけじゃなくて合間のモデル業もこなしていかないと、きっと愁が元気になった時に怒られる。仕事しろ、って。
 この事故がなければ、愁は今頃朝の特撮ドラマ出演が決まって、主人公ヒーローのちょっぴりダークな仲間をやってる筈だった。舞台を中心に活動してた愁が初めて受かったテレビ番組のオーディション。オーディションの結果が届いたのは、愁が事故に遭った数時間後で。そろそろ俳優だけで食っていけるようになりたい、っていうあいつの希望がもうすぐ叶うはずだったのに。
 毎朝こいつのかっこいい姿を見て目を輝かせる子供達がいて、メディアへの露出も増えて、すれ違う子供からはヒーローの名前で呼ばれて。そんな愁が、いたかもしれないのに。
「……なんで、いつもお前なんだろうな」
 俺をミュージカルの世界と出会わせてくれたのは、愁なのに。愁がいなきゃ、俺は役者になんてなろうとすら思わなかったのに。どうして愁だけが、いつも苦しい思いをするんだ。
 ぶかぶかのリングがはまった左薬指。骨と血管が浮いている手の甲。骨と皮とわずかな肉だけの細い腕。そこに刺さる点滴の針。こんなの愁に似合わない。役者としてじゃない、ただの空閑愁はもっと逞しくて、かっこいい。代われるものなら俺が全部代わりたい。そんなこと言ったらきっと愁に怒られるけど。
 鼻の奥がつんとして、目尻が熱くなり始めた。俺はそっと愁の指からリングを外し、ケースに収めるとバッグにしまいこんだ。
 また、その寝顔を眺める。
 眠っているような、今にもぱちりと目を開けて、眠そうな声でおはようと言ってくれそうな寝顔。もう半年、この形のいい唇から溢れる低くて甘いその声を聞いていない。
「……聞きてえな、愁の声」
 指で愁の唇をそっとなぞると、少しかさついている。俺はサイドボードの引き出しから、ハンドクリームの缶とリップクリームを出して、まずリップの蓋を開ける。
 リップクリームもハンドクリームも、愁は俺と違って匂いがするものをあまり好まない。だからリップクリームは無香料の薬用、 ハンドクリームは僅かにハーブの香りがするだけのやつを愛用している。香水の匂いもあんまり好きじゃないらしいので、高校の時に俺が愁のバイクにオンナノコ乗せてたせいかもな、なんて今更に思う。
 上唇、そして下唇と、唇に薄くリップクリームを塗る。少しだけ愁の唇が潤いを取り戻したように見えた。
 それからハンドクリーム。缶の蓋を開けて白いクリームを指で掬い、少しずつ愁の手に塗り込んでいく。手の甲から指先へ、少しずつ、薄く延ばしていく。少し力を込めただけで折れそうなくらい細い指は特に細心の注意を払う。左手を塗り終わったら立ち上がってベッドの反対側に回り込み、今度は右手。
 愁は将来有望なミュージカル俳優だから、こういう時もケアを欠かしちゃいけない。
 髪は定期的に切る。髭は週に二回剃る。爪は切った後もきちんと磨く。顔の保湿だって俺や愁のお袋さんが毎日やってる。だからここに眠っている愁はすごく綺麗だ。
 でも愁が一番魅力的に輝ける場所はこんな病室の中なんかじゃない。スポットライトが当たるステージの上だ。それを思うと、こうやって愁を綺麗にしてる間も、どうしても胸が苦しくなる。

(Singing) in the rain(再録)(和愁)

 今日は朝からずっと、雨が降っていた。
 レッスン上がりの放課後にいつものように女の子とデートをし、傘を差して雨が降りしきる夜道を歩く俺は、どこかぼんやりした意識の中で寮へと向かっていた。
 今日のデートも楽しかったな、とか、衣替えしたばっかなのに雨で制服濡れちまったな、とか、雨で濡れた腕が気持ち悪い、とか。そんなとりとめのないことを考える中、一際強く浮かぶのは、今よりも幼い幼馴染み……空閑愁の楽しそうな笑顔だった。
 雨の日になると、どうしても愁のことを思い出す。思い出すも何も、高校生になった今でも同じ学校に通っているし、クラスや所属するチームは違えどかなりの頻度で会っている。だけど雨の日になると、小学生の頃の愁を思い出さずにはいられなかった。
 雨の公園で、濡れるのも厭わず軽快に歌い踊る愁。口下手で無愛想で感情表現も下手なあいつが、英語の歌を楽しそうに歌いながら軽快なダンスを踊る姿は、ちょっとした衝撃だった。そんな姿、一度も見たことなかったから。
 けど、そんなあいつの姿はとても生き生きしていた。キラキラしていた。そのキラキラは、俺の目を捕らえて離さなかった。そう、あの時の自分は間違いなく愁に見惚れていたのだ。
 これ、お母さんに見せたくて。
 踊り終えてまた傘を差し、少し紅潮した頬ではにかむ幼馴染みに、自分は何と返したのだったか。
 だけど、自分の言葉に幼馴染みがいっそう嬉しそうに笑ったのはよく覚えている。
 それからすぐに、俺はあいつが見て真似した、あの昔のミュージカル映画を見た。
 愁が心奪われたあのダンスを見て、俺もその雨の中のダンスに見惚れ、そして子供心に少し悔しく思った。
 あいつをあんな風に笑わせることが出来るのは、俺じゃない。テレビの中の、昔のミュージカルスター。
 いつも一緒にいて、あいつのことなら何でも分かると思ってた。でも俺は、あいつがあんなにキラキラ笑いながら踊れるなんて、知らなかった。あいつからキラキラを引き出したのは、俺じゃなかった。
 それが悔しくて。ちょっとだけ、もうとっくに亡くなっていたそのミュージカルスターに嫉妬した。でもすぐに情けなくなって俺は野球のバットを持って家を飛び出し、その日は陽が沈むまで公園で素振りをしていた。
 お母さん、喜んでくれた。
 数日後に愁に学校でそう報告された時の俺は確か、良かったじゃん、と笑って言った。
 それから何度か、俺は愁のダンスの練習に付き合った。興味があることなら吸収が早いヤツだから、あいつのダンスも歌も、目に見えて上達していった。それに、歌って踊っている時のあいつは、本当にキラキラしてて。
 俺は、そんなあいつを見ているのが好きだった。あいつが新しいダンスを覚えようとする度に、今までに見たことの無いあいつの表情を見ることが出来て、嬉しかった。だけど、見てるだけじゃ我慢出来なくて。
 一緒にミュージカルやらないか、と聞かれた時。俺は迷わず、その手を掴んだ。
 それが、俺がミュージカルを始めたきっかけだった。
 愁がいなかったら俺はミュージカルをやろうだなんて思わなかっただろうし、ミュージカルをやろうと思ってなきゃここにはいない。
 小さい頃から、しっかりしてるのに妙に危なっかしいあいつの手をいつも引っ張ってるのは俺だったのに、いつの間にか引っ張られてた。しかも最近のあいつは、俺がいないteam鳳という場所に、自分の新しい居場所を見つけている。あいつには俺はもう必要ねえのかな、とすら時々思う。
 俺にはあいつが必要なのに。あいつはいつの間にか、どんどん新しい場所へ向かっていく。
「ったく……らしくねーぞ、虎石和泉」
 おセンチな気分を無理矢理振り払いたくて、自分で自分に言い聞かせる。
 さっさと寮へ帰ろうと少し歩く速度を速めるが、すぐに俺の足は止まることになった。
 寮のすぐ近くにある公園。
 街灯に照らされ、黒い傘を差して立っているのは、あろうことか愁だった。
「……え、」
 こんな雨の中寮にも帰らないで何やってんだあいつ、と呆れる俺と、不思議と納得してしまう俺。そう、今日は雨の日だ。
 あいつにだって、雨の日はきっと特別だ。多分、俺なんかよりずっと。
 俺は声をかけに行くこともせず、ただ少し離れたところから愁を見ていた。あいつがこれから何をするつもりか、見当は付いてる。
 果たして、愁の足が動き始めた。
 一見ただ歩いているようだけど、あいつの頭の中でもう曲は始まっている。
 愁の歌が聞きたくて、俺はどうにか歌声が聞こえるような位置へ移動する。あいつに気付かれないように。
「Singin’ in the rain……」
 愁は傘を閉じ、肩に担いで歌い始めた。
 雨音にかき消されそうなくらいに小さな、けれどよく通る歌声。
 聞き慣れている筈のその歌声は、体の芯まで染み入ってくるようで優しい。
 濡れるのも厭わず雨を全身に受けながら歌う愁は紛れもなく笑っていた。あの時みたいに。小さい頃から何度も繰り返してきた動きだろう街灯に掴まるジャンプは軽やかにスムーズ。
「And I’m ready for love……」
 恋への準備は出来ている。
 街灯に寄り添い、低く艶のある声で愁が歌うその一節に、ひどく胸が苦しくなる。
 愁が体を動かす度に弾き飛ばす雨粒が街頭の光を反射して硝子のように煌めく。指先まで神経が張り詰めているような、でも伸び伸びとしたそのダンス。そして記憶の中のそれよりいっそう鮮やかさを増したステップ。
 とにかく、この世の物とは思えないくらい綺麗で、鮮烈で。
その足が水溜まりを蹴る度に生まれる飛沫もあいつと一緒に踊っているようだ。
 何かに取り憑かれているかのように無心で踊る幼馴染の姿に、俺はただ見入ることしか出来なかった。
 しかし、激しく、けれど軽やかだった愁のダンスはやがて少しずつゆっくりになり。最後の一節をしっとりと歌い終えると共に、愁の動きが止まった。
 踊り終えたのだ。俺は声をかけようと口を開き、手を上げようとした。けれど、踊り終わった愁の、街灯に照らされているその表情を見た瞬間、全身が硬直してしまった。
 僅かに頬を上気させて目を閉じたその顔。恍惚として、全身を快楽に包まれたかのような、満ち足りた顔だ。そんな顔を、愁はしていた。
 ステージ終えた後のあいつが幸せそうな顔をするのは昔から知ってる。
 でも、なんだよ、あれ。
 愁のあんな顔、俺は知らねえ。知らなかった。
 愁に手を伸ばすのも声を掛けるのも躊躇われて、俺は黙ってその場に立ち尽くした。
 けど、愁はすぐに俺の方を見た。
 ばれてた。
「どうした、虎石?」
「……ばれてた、か」
 愁の方へ歩いていくと、愁はいつもの、俺が知ってる愁に戻っていた。それでも、菫色の目はまだ楽しそうに笑っている。
 今はもう傘を差しているが、愁の全身はずぶ濡れだ。髪は顔に貼り付き、最近衣替えしたばかりの夏制服も当然びしょびしょで肌が透けている。
 その無防備な姿に内から沸き上がってくる、愁を抱き締めたい、という衝動。
 俺はそれを押し込め、「自分」を演じて笑う。
「……ったく、風邪引くぞ」
 鞄の中からタオルを出して愁の頭から被せてやると、愁はタオルで水分を拭いながら何故か偉そうに言う。
「どっちにしろすぐ風呂入るし、ワイシャツも今日洗う予定だったから問題ねえ」
「ズボンはそうもいかねーだろ」
「……ん、ありがとな」
 タオルを返され、俺はそれを鞄にまた入れるわけにもいかないので手に持っておく。
「帰ろうぜ」
「ああ」
 愁と連れ立って、寮へ向かう。公園から寮までは歩いて五分もない。
「お前、昔より上手くなってた」
「当たり前だろ」
「やっぱ覚えてるもの?」
「まあな」
 どうと言うこと無い会話をしているだけで、もう寮に着いてしまう。
 玄関に上がって階段を上り、岐路に着いたところで、愁が「じゃあな」と手を振る。
「明日なっ」
 俺も笑って手を振る。廊下の曲がり角で見えなくなるまで、俺はその背中を見送った。
 愁の背中が見えなくなり、俺はもう一階分上がるために階段を上り始める。
 だがすぐ、自分ではどうしようもないくらいの寂しさに胸を締め付けられた。
「…………………はあ」
 踊り場で思わず壁に腕を突き、深い溜め息を吐き出す。
 どんどん愁が遠くなっていく。
 少し前から胸の内に渦巻いていたその不安が、大きくなり始めていた。
 不安が大きくなるほどに、自分が自分でいられなくなるのを感じる。
「……くそ、しっかりしろ」
 自分に言い聞かせ、俺はまた顔を上げた。階段を上りながら、「いつもの虎石和泉」になる。
 それでも思い出すのは、雨の中で新しい恋に胸を躍らせる歌を歌いながら踊る愁の姿。
 どうしてこんなに苦しくなるのか、その理由なんて分かってる。分かっているから、考えたくなんかなかった。
 手にした濡れタオルを思わず強く握り締めると、雨に濡れた腕がひどく冷たく感じた。

歌詞引用
Singin’ in the rain – Gene Kelly 映画『雨に唄えば』(1952年、米)より

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雨に唄えばを見て

夏色模様(再録)(空閑と虎石他)

合宿の合間のあれこれを空閑虎石中心で考えてました。
なゆかわいい。

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「お醤油が無くなりそう……」
 昼食を終えて片付けをしていると、冷蔵庫の中身をチェックしていた那雪が呟いた。
「ええっ、もう?早くない?」
 皿を洗っていた卯川が言うと、「毎食12人分作ってるしね……」と那雪は苦笑する。
「とりあえず、明日の朝までの分は必要かも」
「チーム柊は、今日は五時には練習を終えます。緊急で必要なら誰かに買いに行かせましょうか」
 卯川と並んで皿を洗っていた申渡が提案すると、那雪は少し考え、
「その時間にはうちのチームも練習終えてるから……うん、じゃあ誰かに買いに行ってもらおうか」

***

「という訳で麓のコンビニかスーパーまで誰かに醤油を買いに行ってほしいので、じゃんけん大会をやりまーす!」
 夕方五時過ぎ。稽古部屋の舞台に上がった那雪は、マイクを握ってチーム鳳・チーム柊のメンバーにこう宣言した。
「鳳先輩とじゃんけんをして、最後まで勝ち残った人にはお金を渡すので、お醤油の一リットルボトルを一本買ってきて貰いまーす!」
「はいはい那雪、しつもーん!」
「何かな星谷君?」
「醤油買った人に何かご褒美ある?!」
「明日の夕飯、好きなメニューを僕に注文出来まーす!」
「おおー!」
 一斉に色めき立つ、那雪に胃袋を握られている男子高校生達。主に星谷と戌峰。
「それじゃさっさと買ってきて欲しいので、鳳先輩お願いします!」
 傍らに立つ鳳にマイクを渡し、舞台から下りた那雪は星谷の横に立つ。
 マイクを受け取った鳳は、壇の下の後輩達にウインクひとつ。
「オーケー那雪。それじゃボーイズ、行くよー。じゃーんけーん……」

 最後まで勝ち残ったのは、若干眠そうな顔をしている空閑だった。
「空閑いいなー!」
 星谷が心底羨ましそうに言うと、月皇が呆れたように「お前は小学生か……」と突っ込む。
「だって那雪に好きなご飯作って貰えるって最高だろ?」
「……まあ、それは悪くないよな」
 天花寺が思わず同意の呟きを漏らす。
「それじゃ空閑君、出掛ける準備してくれる?五時二十分に玄関ホール集合ね」
 那雪に言われ、空閑はこくりと頷いた。
 そしてそんな空閑を心配そうに見るチーム柊メンバーが一人。
「虎石、どうかしたのかい?」
 辰己に声をかけられ、虎石は「いや、別に……」と頭をかく。
「ただあいつ、方向音痴だからさ……大丈夫かなって。まあでも、流石にもう高校生なんだし大丈夫か……」
 すると辰己は「そうかな」と首を傾げた。
「あんまり大丈夫じゃないんじゃない?この辺り、熊出るみたいだよ」

「それじゃ空閑君、お願いね」
 練習着から外出用の私服に着替えた空閑は、玄関ホールで那雪と落ち合わせた。那雪からトートバッグと合宿時専用の財布を渡される。
「念のため、これも持っていってください。熊避けの鈴とこの辺りの地図です」
 続いて、那雪の隣に立つ柊から銀色の大きな鈴と折り畳まれた紙を渡される。
「……熊防止の柵も直しましたし、麓まで出ることは殆どありませんが、念のため鞄に付けておいてください。それにここから最寄りのコンビニやスーパーまではかなり歩きますし、人通りも多くはありません。くれぐれも舗装された道から外れないように」
 空閑が地図を広げると、インターネットから印刷したと思われるこの辺りの地図に、屋敷・最寄りのコンビニ・最寄りのスーパーにピンクの蛍光ペンで丸が付けてあった。
「ありがとうございます」
「それじゃ、一リットルボトルで一本、お願いね」
「分かった。それじゃ行ってくる」
 空閑はトートバッグの持ち手に熊避けの鈴を付け、地図を手に踵を反そうとした。すると、
「ちょーーーーーーっと待った!!」
 ドタドタと言うと足音と共に、声楽科でありミュージカル学科候補生故のよく通る声が玄関ホールまで届く。
「……」
 空閑はよく聞き知った声に少し眉をひそめ、思わず足を止めた。
「?」
 那雪は驚いて声のした方を見るが、柊は声のした方を見向きもせず呆れたように息を吐き出す。
「なんですか、騒がしいですよ虎石君」
「すんませんっ!」
 階段を駆け下りて来たのは、今頃は他のメンバーと一緒に入浴中な筈の虎石だった。
「愁、俺も行く!」
「え?虎石君も?」
 那雪が首を傾げると、虎石は勢いよく空閑を指差す。
「こいつ、方向音痴なんで!」
「え、そうなの空閑君?」
「……地図くらいなら読める」
「東と西を右と左で覚えてるようなやつが言っても説得力がねーし、だいたいそう言って昔何回道に迷ったよお前!そんで俺が何回探しに行ったと思ってんだ」
「お前が言うほど多くねえ」
「いや絶ッッッ対忘れてるだけだっつの」
 那雪はきょとんとしながらも空閑と虎石の間でしばし視線を往復させ、
「空閑君、ちょっと地理弱いなって思ってたけどそっか……そうなら早く言ってくれればいいのに」
 そしてにっこり笑い、虎石に向き直った。
「それじゃあ虎石君、空閑君と一緒に行ってくれる?」
「任せろ」
「そうですね、一人で行くよりは二人の方が安全です。頼みましたよ虎石君」
 柊の言葉に虎石はびしっと敬礼。
「了解っす」
「勝手に来といて何言ってんだお前」
「お前には言われたくねぇよこの方向音痴。それじゃ行ってきまーす!」
「……行ってくる」
「行ってらっしゃーい」
「気を付けるように」
 那雪は手を振って、柊は腕を組んで、玄関から外へ出ていく空閑と虎石を見送ったのだった。

 さて、屋敷から一歩外に出た幼馴染み二人。空閑は合宿初日に歩いて来た道を下りながら、虎石を横目で睨んだ。
「……お前な」
「はいはい悪かったって」
「もうガキじゃねえんだぞ」
「それ中二の時にも聞いた」
 やたら細かいことを覚えている。普段甘えてきてばかりのくせに変にお節介な幼馴染みに、眉間に微かな皺を寄せる空閑。虎石はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「この辺熊も出るって話だし、二人で行くに越したことはねーだろ」
「お前のチームメイトのことか?」
「あいつは熊っつーか犬だから」
 軽口を叩き合いながら歩く山道は、強い夏の日差しのほとんどが木々を通して柔らかく、空気は清涼で、心地よく澄んでいる。時折吹く風は、練習を終えたばかりで少し汗ばんでいる体を心地よくクールダウンさせてくれる。
 虎石は深呼吸し、それから大きく伸びをした。
「しっかし山の空気ってうまいよなー」
「だな」
「やっぱすげーんだな、柊先輩の家。この辺すごい別荘地だし、この山全部柊家の物らしいぜ」
「山もなのか」
 一歩踏み出す度にトートバッグに下がった熊避けの鈴が大きな音を鳴らす。虎石はそれも気にせず喋り続け、空閑は適度に相槌を打つ。
 山を下りたところにあるコンビニまでは歩いて二十分かかる。二人は時々地図を確認しながら、装され道の脇に柵が立っている道を下って行った。
「そうだ愁、お前明日那雪に何作ってもらうか決めた?」
「決めてねえし決める気もねえ……あいつの作るもんならだいたいなんでも美味いし」
「こ、この贅沢者め……」
 料理下手な母親に育てられた虎石は思わず拳を握ってぷるぷる震える。
「お前も合宿中は毎日あいつの飯食えるだろ」
「お前ら毎日あのレベルの飯食ってんだろー?食べ物の味とかまっっっっったく気にしないくせに食事には恵まれてるよなお前……」
「あ、コンビニ」
 山をもうすぐ下り終えるところで、よく見慣れたコンビニチェーンの看板が木々越しに見えた。
「醤油、でかいボトルだろ?コンビニにあんのかな」
「見とくに越したことはないだろ」
「それもそうだな」
 山道を下りきり、空閑は熊避けの鈴をトートバッグから外して中にしまう。
 山道から出れば狭い道路と、道端に看板だけが立っている歩道が二人の前を横切るように延びている。人はほとんど歩いていないし、道路はたまにバスや車が通るくらいだ。
 空閑はきょろきょろ周囲を見渡し、コンビニの看板を探す。
「あそこ」
 虎石に肩を叩かれ、指差す方を見る。反対側の歩道の、ここから五分とかからないような場所にコンビニが見えた。
「行くか」
「おう」
 やたらと広い駐車場併設のコンビニは、別荘地という立地と夏休みという時期ゆえか食材や調味料の品揃えが充実していた。少なくとも、綾薙学園の近くにあるコンビニよりは。
 これなら醤油もあるのでは、と期待したものの。
「……ねえな。一リットルボトル」
「ねえな」
「ちっせー瓶ならあるのにな……」
 売り切れているのか元々置いていないのか、那雪から頼まれたサイズの醤油は見当たらなかった。
 二人はそそくさとコンビニから出ると、駐車場で一旦地図を広げた。
「スーパー行くっきゃないかー……」
「地図だと、そんなに遠くねえな」
「まだ歩くのかー」
「文句言うならついて来るな」
「冗談。お前が心配でついて来たのにお前置いて帰れるかよ」
「全く……」
 歯の浮くような台詞だが、本心で言っているのだから手に負えない。
 空閑はわざと溜め息を一つ吐き出した。
「さっさと帰って風呂入りてえし、行くぞ」
「おう」
 コンビニからスーパーまでは、歩いて十分程度で、醤油も無事に一リットルボトルを一本買うことができた。しかし練習上がりの二人には少々堪える距離を歩いてきたことになる。買い物を終えた二人は少し休憩とばかりに、スーパーの軒下のベンチに思わず座り込んだ。
「あー、流石に疲れたな……」
「だな」
「アイス食いてえ……」
「……」
 空閑はジーンズのポケットから小銭入れを出し、中身を確認した。513円。虎石も自分の財布を確認し、空閑の顔を見る。
「買うか、アイス」
 至って真面目な顔の虎石に言われ、空閑は頷いた。早く帰って風呂に入りたい、という先の言葉は本心だが、少し疲れが溜まって甘いものが食べたくなっているのも本当だった。
「食いながら帰ろう」
「じゃあ俺買ってくるわ、愁は何が良い」
「安いやつ。何でも良い」
「おっけー」
 とりあえず200円渡すと虎石は立ち上がり、またスーパーの店内へ向かって行った。
 レジも大して混んでなかったしすぐに戻ってくるだろうと思いながら、ベンチの背もたれに体重を預けて軒下からぼんやりと空を見上げる。空には淡いオレンジ色がかかり始めており、日が沈み初めていることを示していた。
「ただいまーっ」
 すぐに戻ってきた幼馴染みの声がしたので顔をそちらへ向けようとすると、
「ん……ッ?!」
 ぴた、と頬に冷たい物が当てられた。びくりと肩を震わせると、虎石がニヤリと笑う。
「ほら、買ってきたぜ。あとこれ、お釣りな」
 空閑は虎石を睨みながら、僅かに濡れている冷たい水色の四角い袋と小銭を受け取った。虎石は悪びれずに笑いながら、腕に引っ掛けた白いレジ袋から自分の分の袋を取り出して封を開け、水色のアイスキャンディを齧る。
「早いとこ帰ろうぜ、風呂入りたい」
 空閑は袋を開けてアイスキャンディーを取り出す。棒を右手で支えながら口にくわえ、醤油のボトルが入ったトートバッグを左肩にかけ立ち上がる。
 火照った体にアイスの冷たさと甘さが心地良い。虎石の提案に乗って正解だったと思わざるを得ない。
「袋捨てとくわ」
「頼む」
 虎石はレジ袋を綺麗に畳んでジーンズのポケットにしまい、二人分の空になったアイスの袋は近くのゴミ箱に捨てに行って、すぐに戻ってきた。
 二人はアイスを齧りながら、元来た道を戻って行く。
 暑さも少し緩み始め、アイスを食べながらということもあって二人の足取りは少し軽くなる。
「愁、その醤油重くねーの?」
 アイスを半分くらい食べ終えたところで虎石に聞かれ、空閑は「別に」と答える。
「米と大して変わんねえ」
「つっても練習上がりにそれ持って三十分歩くのはきつくね?」
「じゃあお前が持て」
「んー……じゃあ愁、バッグこっちに」
 虎石に言われたので、愁はバッグの持ち手を肩から下ろして左手に引っ掛け、虎石に差し出す。すると虎石は自分側の持ち手だけを握り込んだ。
「半分こ」
「小学生か……」
「へへっ」
 アイスを食べながら、一つのトートバッグを二人で持つ男子高校生。奇妙な光景だ、と思わざるを得ない。
 しかしこういう荷物の持ち方をするのは初めてではなく。小学生の時以来だろうか。
 そのままコンビニの前を通り過ぎ、また別荘がある山に戻ってきた。
「よーし!頑張って上るぞ愁!」
 やたら威勢良く言いながら、虎石はアイスの最後の一欠片を口の中へ。空閑もアイスを食べきる。
 トートバッグにまた熊避けの鈴を付けて山道を上り初めたところで、虎石が声をあげた。
「あっ、当たりだ」
「は?」
「ほら、当たり」
 虎石にアイスの棒を目の前に差し出されたので見れば、確かに棒の先に「当たり」の文字が書かれていた。愁はなんとなく自分のアイスの棒を見てそこに何も書かれていないことを確認する。
「良かったな」
「そんな無感動な『良かったな』は初めて聞いた、流石は愁」
「お前レジ袋持ってるだろ、貸せ。棒入れて帰ったらまとめて捨てる」
「はいはい……っと。その前に愁、ちょっといいか?」
 虎石が立ち止まったので、空閑も仕方なく立ち止まる。
 虎石がジーンズのポケットから取り出したのは、レジ袋ではなくスマートフォンだった。
 自身の右腕にトートバッグの持ち手を引っ掛けてアイスの棒を右手に持ち、左手で器用にスマートフォンを操作したかと思うと、
「はいっ愁、笑って」
「は?」
 パシャリ。
 ぐいと虎石がくっついて来たかと思ったら、いつの間にか虎石の自撮りに巻き込まれていた。
 左手でスマートフォンを高く掲げて上手いこと空閑も自撮りに収めることに成功した虎石は、スマートフォンを振りながら「当たり記念」と笑った。
「当たりの文字映ってるのか、それ」
「何言ってんだ。俺の自撮りテクを舐めんなよ?」
「分かったからさっさとレジ袋寄越せ」
 スマートフォンをまたジーンズのポケットにしまった虎石からスーパーのレジ袋を受け取り、その中に自分が食べた分のアイスの棒を放り込む。袋をトートバッグに入れるかどうか少し悩んだが、右手に持っておくことにした。
「お前のそれ、どうするんだ」
「んー、どーしよっかなー……」
 二人はまた歩き始める。空閑は空の色から、陽がじわじわ傾いてきているのを感じた。山の空気もなんだか先よりひんやりしているように感じる。
「明日にでもまた皆で買い出し行くよな?」
「明日の朝まで用だからな、この醤油」
「その時にまたあのスーパー行くよな……うーんでもなあ。アイスで当たり引くの初めてだしなー。取っとこっかなー」
「……蟻湧くぞ」
「洗っとけば大丈夫だろ……って思ったけど、やっぱ交換するべきか。当たりだしな……」
 空閑はぶつぶつ呟きながら考え込んでいる幼馴染みを横目で見ながら、小学生か、という喉まで出かかっている突っ込みを飲み込んだ。
 別荘が見えてきたところで、虎石が「よしっ」と心を決めた。
「取っとく。記念に」
「ちゃんと洗えよ」
「分かってるって」
 日中の屋敷には鍵がかかっていない。屋敷の玄関前に立った二人は、両開きの玄関扉に一緒に手をかけた。
「ただいまー!っと」
「……ただいま」
「おかえりなさぁ~~~~い♪」
 真っ先に返ってきたのは、戌峰のビブラートが効いた無駄によく通る声。そして玄関ホールの階段上まで戌峰が走ってきた。
「二人ともお帰りっ☆」
「戌峰ー、台所まで醤油持ってってくれー。あと財布は柊先輩のところな。お前元気だろ、頼むわ」
 虎石がトートバッグを上に掲げて言う。まだトートバッグを持ったままの持ったままの空閑の腕も一緒に上がる。戌峰は「了解っ!」と歌うように言いながら素早く階段を駆け下り、二人からトートバッグを受け取るとまた風のように玄関ホールから去って行った。
「……本当に犬みてーだな。あいつ」
「だろ。世話すんのも一苦労の大型犬って感じ。さて、とりあえず那雪に報告か?」
「そうなるな」
「あー疲れたー、さっさと風呂入りてえー」
 そうは言いながらも虎石はしっかりした足取りで、空閑も今となっては、まあいい運動になったかと思う程度の疲れしか感じていなかった。
「那雪と言えばお前、明日の夕飯に何作ってもらうか決めた?」
「そういや決めてねえな……お前何か食いたいものあるか」
「え、俺が決めていいの?!」
「俺は別に何でもいいからな」
「マジでー?やったー何にしよっかなー」
 余程那雪が作る食事が気に入ったのか、えらく上機嫌になった虎石。空閑はそんな幼馴染みを横目で見て、少しだけ唇の端を上げた。
 方向音痴の自分を心配してわざわざ付いてきた幼馴染みだ、これくらいはしてやっても良いだろう。
 そして同時に、自分はつくづくこいつに甘いな、とも思ってしまうのだった。

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近くて遠い、遠くて近い(再録)(和愁)

借りた物は返しましょう」の続きです。

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 幼馴染みの私物を大量に借りパクしていた件について、謝るついでに今度食べ放題の店で奢るということにしてから早一ヶ月。幼馴染みのバイトも自分のデートもない日曜日が運良く訪れた。
 そんなわけで虎石和泉はヘルメットを小脇に抱え、寮の前の駐輪スペースで幼馴染みを待っていた。
 とは言え待ち合わせの時間をもう十分ほど過ぎている。寮の建物の方をちらちら見ながらスマホをいじっていると、着信音と共に、幼馴染みから「わるいいまおきた」という言葉がメッセージアプリで送られてきた。
 マジかよ。今昼の11時だぞ。
 休日は女の子とデートするのが基本であるが故に自然と早起きの癖が付いている和泉、思わず唖然。
 すぐにいく、と簡潔な言葉がまた送られてくる。幼馴染みにしては珍しく、漢字の変換もされていない。
 あいつ昨日何時までバイトしてたんだ……?と、流石に心配になる。バイク移動はやめた方がいいんじゃ、とちらりと幼馴染みのバイクを見る。
 駐輪スペースには、寮生個人の自転車やバイクが置いてある他に、寮生共有の少し古い自転車なんかも置かれている。そんな中、他のバイクに比べると型が少し古いながらよく手入れされているのが幼馴染みのバイクだ。
 幼馴染みのバイクであると同時に、彼にとっては父親の遺品でもあるバイクだ。これに乗ってる時あいつに何かあったらたまったもんじゃない。
 和泉は幼馴染みにこう返信した。
 お前まだ眠いだろ?バイクやめて歩きで行こうぜ。
 少し時間を置いてから既読が付き。着信音の後。
 そうふる。
 やっぱ寝起きで頭回ってねーなあいつ。打ち間違いを見てそう確信する和泉。
 一度寮の自室へヘルメットを置きに行き、また待ち合わせ場所へ戻る。
 幼馴染みが待ち合わせ場所に現れたのはそれから更に十分後だった。
「悪い、寝坊した」
 和泉の幼馴染みである空閑愁は、外を歩ける格好とは言え寝起きで急いで支度をしたのがよく分かる程度には雑な格好をしてやって来た。髪には寝癖も少し残っている。
「おいおい寝癖ついてるぞ……役者の卵なんだからもうちょっと身嗜みには気を付けろよ?」
 そう言って愁の髪を手櫛で整えてやると、愁は少し肩をすくめた。
「柊先輩の受け売りか?」
「そんなんじゃねーよ、せめて外出るときは寝癖くらい直せよな」
「今度から気を付ける」
「つかお前、月皇に起こしてもらったりはしなかったわけ?」
 ついでに幼馴染みが着ているシャツやジャケットを整えてやる。愁はされるがままだ。
「あいつは朝早くから出掛けてる。メモが置いてあった」
「目覚ましのアラームは」
「……。いつの間にか止まってた」
「んなわけあるか、お前のことだからどうせ止めてまた二度寝したんだろ……よし、これでいいだろ」
 幼馴染みの格好を整え、少し後ろに下がって頭の先から爪先まで見渡して満足する和泉。
「そんじゃ行こうぜ」
「ん」
 目的地のレストランまでは、寮からバイクで行けば十分とかからない。しかし歩くとなると優に倍以上の時間がかかる。
 しかしそこは二人とも体力の有り余る男子高校生、食前の運動にちょうど良いくらいだった。
「てかお前朝飯食ってねーだろ?いきなり肉食べて大丈夫か?」
「大丈夫だろ」
 目的地は国道沿いのファミリーレストラン。ステーキやハンバーグに、サラダバーやパンにライス、デザートの食べ放題が付いてくる、少々値段は張るがお腹を空かせた男子高校生の味方である。
 レストランに着くと、既に店内は満席のようだった。案内待ちの客がメニューを見ながら待っている。ウェイティングリストを見ると、自分達の前には三組ほど待っていた。和泉はリストに自分の名字と二人という旨を記す。
「ほらメニュー」
 店の入り口側のソファでちゃっかり二人分のスペースを確保していた愁にメニューブックを一冊渡し、自分もその隣に腰掛ける。
「何食おっかな~♪」
「……」
 肩越しにメニューブックを覗き込みながら横目で幼馴染みを見ると、真剣な顔つきでメニューをめくっていた。
「値段とかあんま気にすんなよ、俺の奢りなんだし」
「分かってる。……これにする」
 そう言って愁が指したのは、ミックスグリルだった。プレートの上にハンバーグやソーセージ、唐揚げが乗っているやつ。
「小学生かよ」
「別にいいだろ」
「悪くはねーけどさ。んー、俺はステーキにしよっかな」
 愁からメニューを受け取って眺めていると、「二名でお待ちの虎石様ー」と店員から声がかかった。
「はーい。行こうぜ」
 二人は立ち上がり、店員に案内されてテーブル席へ。
 その店員はアルバイトと思われるボブカットの女の子だった。可愛いな、と思うが今は愁と一緒なので黙っておく。
「お客様ご注文はお決まりでしょうか?」
「決まってまーす」
「ミックスグリル一つ」
「俺はログステーキ。あとドリンクバー二つで」
「かしこまりました。ご注文は以上でよろしいですか?」
「おっけーでーす」
「ご注文ありがとうございました」
 それから食べ放題やドリンクバーの説明をして、店員はテーブル前から去って行った。
「愁、お前先取りに行ってていいぜ」
「そうする」
 愁は立ち上がり、サラダバーの方へ向かった。
 愁には好き嫌いというものがない。それは嫌いな食べ物が無い一方で好きな食べ物も特に無いということだ。こういう時何を取ってくるのか、毎回興味が尽きなかったりする。
 少しわくわくしながら待っていると、サラダが盛られた皿とコーラの入ったグラスを持った愁がテーブルに帰って来た。しかしサラダの皿をよく見るとレタスの上に豆腐とひじきがどんと乗っている。
「すげー食い合わせだな……」
「食えりゃいいだろ」
「レストランでそういうこと言うなっての。俺も取ってくるわ」
 自分も席を立ってサラダを取り、ドリンクバーではアセロラジュースを入れる。
「愁、カレーもあるぞここ」
 サラダバーの横にカレーを発見したのでもう一度往復して持って行くと、「何でもあるな」と興味の薄そうな反応。
 しかしスプーンを二人分持って行ったお陰で愁もカレーをもぐもぐと口に運んでいる。
 専ら和泉がパンやスープを二人分テーブルに運んで二人で食べていると、二人が注文したミックスグリルとステーキが運ばれてきた。
 しばらく二人で無言での食事になった。
 自分もステーキをぱくつきながら幼馴染みの様子を伺うと、静かに、しかしぱくぱくとハンバーグやウィンナーをナイフで切っては口に運んでいた。
 食べ物の味には頓着しないくせに食べられる時には食べる。愁らしいな、と思う。
 一緒に食事をするのは久しぶりだが、そこは相変わらずのようだった。
「なんか久しぶりだよな、こうやって二人で飯食うの」
 デザートまで一通り食べ終え、コーヒーを飲んで一息つきながら言うと、「そうだな」と愁は頷いた。
「お前ちゃんと飯食ってるのか?昼飯は毎日カップ麺とかじゃないだろーな」
 前から少し心配に思っていたことを聞くと、「大丈夫だ」と返ってきた。
「飯はうちのチームの那雪が作ってくれてる」
「へ?」
「あいつ、俺たち全員分の弁当作ってくれてるから」
「それは……すげえな」
 和泉のチームにそこまでやるやつはいない、と言うよりそこまで出来るやつがいない。
 リーダーである辰己の料理センスは酷いらしいし、だいたいなんでもそつなくこなす申渡も朝早起きして五人分の弁当が作れるかと言ったら微妙だろうし、卯川や戌峰に料理が出来るとは思わないし、自分は食べる専門だ。
「あいつの作る飯、うまいぞ」
「そ、そっか」
 食べる物の味にあまり頓着しない愁のその言葉に、何故だか胸がざわめく。
「お前の方は最近どうなんだ」
 そう聞かれ、ばれないように小さく深呼吸する。
「別に普通。いつも通り、次のステージに向けてレベル上げてるってとこ」
「そうか。じゃあ俺達と一緒だな」
「……だな」
 新人お披露目公演を思い出す。チーム鳳の一員としてステージに立つ幼馴染みの姿は、とても生き生きとしていた。幼馴染みの自分が一度も見たことがないくらいに。
 同時に、やっぱりこいつすげえな、とも思ったのであって。
 少しだけ、愁と並んでステージに立てるチーム鳳のメンバーが羨ましくなった。
「まあでもうちのチーム、スター・オブ・スターなんて囃し立てられてるけど普段は結構うるさいしめんどくせーぞ?」
「でも真面目にやってるんだろ。見れば分かる」
「……そりゃ、な」
 チームが分かれたからと言って幼馴染みとの関係が変わることはないと思っていた。しかしチームが違うから、一緒にいる時間も格段に減った。
 チーム柊のメンバーといる時間は楽しいし、チーム柊で踏んだステージは最高だった。愁もきっとそうなんだろう、と思う。それにチーム鳳のメンバーになって以降の愁は、綾薙に入る前より少し明るくなった。ずっと傍にいた自分がそう思うのだから間違いない。
「お前も、チーム鳳で上手くやってるみたいじゃん」
「まあな」
 並んで歩いていたはずの幼馴染みとの関係はいつの間にか、見る側と見られる側になっていた。どちらも見る側であり、どちらも見られる側。でも同じ側に同時には立てない。その実感は日に日に大きくなり、自分を締め付けている気がした。
 本当は、同じ側にいたいのに。
「なあ愁、俺達……チーム柊もチーム鳳もミュージカル学科に受かったら、一緒の舞台に立てると思うか」
 口からは思ったより弱々しい声が漏れた。愁は怪訝そうな顔をしている。
「……どうかしたのか、虎石」
 周囲への関心が薄そうに見えて人の感情の機微に敏感な幼馴染みの目は、とても真っ直ぐだ。
「……別に。俺にもわかんねえ」
 その目に見据えられ、思わず目を反らす。
 分からない? そんなの嘘だ。本当はただ、愁と一緒にステージを踏めないことにまだ駄々を捏ねているだけだ。
「……俺は、いずれお前と同じステージに立ちたいと思ってるけどな」
「へ?」
 愁の言葉に、思わず間の抜けた声が出る。
 視線を戻すと、愁は歳の割に落ち着いた、けれど和泉にはよく見慣れた微笑みをたたえていた。
「俺達両方のチームが勝ち残れば、俺達はミュージカル学科に入れる。そうすれば一緒にステージを踏む機会は出来る。そうだろ」
 その言葉は、不思議な自信に満ちていた。まるで、それが出来ると確信しているかのような。
「……出来るのか?」
 思わず笑みがこぼれ、挑発するように聞いてみると、愁は不敵な笑みを浮かべた。
「やってやるさ。最後まであいつらと勝ち残ってやる」
 その言葉は、抱いていた全ての不安を吹き飛ばすほどに強力で。
「……はは」
 今自分がどんな顔をしているのかは分からない。でも多分、今目の前にいる幼馴染みの前でしかしない顔をしていると思う。
 ……やっぱ、こいつには敵わねえなあ。
「それもそうだな!」
 幼馴染みはどうやら、家族と自分の隣以外の居場所を見付けて少し大きくなったらしかった。
 それを悟り、少し寂しくなる。
 とは言え。
「そうだ愁、この後暇だよな? ちょっと足延ばしてあそこのショッピングモール行こうぜ」
「買う物がない」
「買う物なくても、ぶらぶらするだけで楽しいもんだぜ」
「……お前がそう言うなら付き合ってやる」
 席を立ち、和泉は伝票を掴んだ。
 自分でも、少し浮かれているのが分かる。多分愁にもそれは伝わっている。

 例えチームが別れて、今は同じステージに立てないとしても。
 今日くらいは幼馴染みを独り占めしたって、バチは当たらないはずだ。

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ポッ●ーの日(再録)(和愁)

和愁中学時代の捏造です。

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夜、スクール帰りにて

 その日は1日中冷え込んでおり、夜9時過ぎにスクールから出た瞬間に愁も和泉もぶるりと身体を震わせた。
「さっむ!」
「……寒いな」
「うー、さっさと駅行こうぜ」
 愁がこくりと頷き、2人は少し早歩きでスクールから駅まで向かった。とは言えスクールと駅は歩いて5分程度しか離れていないので、到着はあっという間だ。
 地元で一番大きなターミナル駅は、これから家に帰るのであろう人達でごった返している。
「腹減ったな~」
 改札口へ向かいながら和泉がぼやくと、愁は呆れたようにじっとりした目で和泉を見る。
「もう夕飯食っただろ」
「お前と違って俺は燃費がわりぃんだよ。売店寄っていい?」
「好きにしろ」
 2人は改札口前の近くにあるコンビニ型の売店に足を踏み入れる。
 店のレジ近くには「11月11日はポッキーの日!」というポップが踊り、プレッツェル系の菓子が積み上げられていた。
「おっ!そっか、今日ポッキーの日か!」
「ポッキーの日?」
「1がポッキーみたいに見えるだろ」
「なるほど」
 あまり感心しているようには見えない抑揚の薄い反応。
 和泉は積み上がっている箱菓子から、スタンダードなチョコレートのものを選んでレジに持って行った。
 売店を出て改札の中に入り、ホームへ降りる。電車が来るまでに
まだ10分はあった。2人並んでホームのベンチに腰掛け、和泉はチョコ菓子の箱を開ける。
「ほらよ」
 箱の中に2袋入っていた片方を躊躇いなく愁に差し出すと、「そんなにいらない」と言われた。
「食べねーの?」
「くれるなら食うけどそんなには食べない」
「じゃあ……ほら」
 袋を開けて差し出すと、愁は手を伸ばして袋からチョコがかかったプレッツェルを一本だけ引き抜いた。
「……ありがとな」
「どーいたしまして」
 和泉は2本一気に口にくわえてサクサクと咀嚼する。プレッツェルの程好い塩気とチョコレートの甘さが、レッスンを終えて疲れた身体に心地好い。
「んー、久々に食うとうまいな」
「ん」
 横目で幼馴染みを見ると、ポッキーの端を摘まんで少しずつ咀嚼しながら、口の中に押し込んでいた。むぐむぐ動いている頬と口元が、まるで小動物のようで。
 何故だか心臓がとくんと高鳴り、和泉は思わず目を反らした。
「? どうした?」
 愁が一旦プレッツェルを齧るのをやめてこちらを見てきた。その手には、プレッツェルがまだ半分くらい残っている。
「なっ、何でもねえ」
 心臓の鼓動が高まり、何故だか頬が熱くなる。ホームに漂う冷気が今ばかりはありがたかった。
 言える筈が無かった。
 その菓子を齧る幼馴染みを、一瞬でも可愛いと思ってしまった、などと。
 和泉はプレッツェルをもう2本袋から出して口にくわえ、一気に噛み砕いた。
 口の中で入り交じるプレッツェルの程好い塩気とチョコレートの甘さは、さっきと違って不思議とほろ苦く感じた。

借りた物は返しましょう(再録)(空閑と虎石)

「あ、これ愁の消しゴムだ」
 寮の机の上を片付けている時に出て来た消しゴムを見て、虎石は呟いた。幼馴染みが使っている消しゴムは、自分が普段使っている消しゴムとは違うメーカーのものなのですぐに分かる。とは言え、
「……これ借りたのいつだっけ」
 新品同様の消しゴムを目の前に掲げてみるが、分かる筈もない。
 そう言えば消しゴムの他にも色々借りていた気がする。そう気付いた虎石は自分の机周りやベッド周りを引っくり返した。引っくり返したところ、
「うわ……めっちゃある」
 学校指定の学生鞄がいっぱいになりそうな、いや、学生鞄が閉まらなくなりそうな量の借り物がごろごろと。ペンや消しゴムを初めとした文房具から生活用品、あげく英和辞書やら抱き枕まで。
 虎石は床に広げたそれを眺めて頭を抱えたが、すぐに決意した。
「返そう。よし、即刻返そう」
 虎石は私物のボストンバッグを引っ張り出すと、幼馴染みから借りた物を次々と放り込んでいった。ボストンバッグはあっという間に満杯になり、持てばその重みをずっしりと手から腕にかけて感じる。
「これで終わりだよな……?」
 借りた物は一応全部入れた筈だが、「何か忘れているのでは」という不安感が付きまとう。しかし今はこれを返しに行くのが先だ。そう自分に言い聞かせ、虎石は幼馴染みの寮室に向かうために部屋を出た。
 階段を下ろうとすると、ちょうど階段を上がってきたチームメイト兼クラスメイトの卯川に遭遇した。
「あれー、虎石君どこか出掛けんの?そんなデカい鞄持って」
 虎石の鞄を興味津々で見る卯川。虎石は肩をすくめた。
「ああ、ちょっと幼馴染みの部屋に借りたもんを返しにな」
「借りた物……え、鞄の中身?」
「そうだけど」
 卯川は虎石のボストンバッグに手を伸ばし、ぽんぽんとそれを叩いた。そして、
「うわ何これぱんぱんじゃん」
「思ったより色々借りててさー」
「借りててさー、じゃないでしょ?!こんなに沢山の物借りてて返してなかったの?借りパクでしょそれ!うわ引く!」
「だから今から返しに行くんだよ……じゃあな」
 長々と卯川の相手もしていられないので、虎石はひらひら手を振り卯川と別れた。
 幼馴染みは同じ寮の別の部屋に住んでいる。部屋の番号は知っているが、実際に訪問したことはまだない。住んでいる階が違う上に生活サイクルもかなり違うので、寮の中で会うこともあまりない。
(えーっと……ここで合ってるよな。空閑愁と月皇海斗……っと)
 幼馴染みの部屋のドアの前に立ち、ノックする。
 ガチャリと鍵が開く音の後、そっとドアが開いた。
「……空閑に何か用か」
 部屋から出てきたのは幼馴染みの方ではなく、月皇海斗だった。
「愁は?出掛けてる?」
「ああ」
「じゃあちょっとお願いしたいんだけどさ、これ愁に渡しといてくんね? 愁に借りてた物なんだけど」
「……?」
 ボストンバッグを差し出しながらそう言うと、不思議そう――と言うより不審そうな顔をしてきた月皇。やっぱ怪しむよな、と思いつつ虎石は弁解する。
「別に怪しい物じゃねーって、消しゴムとかシャンプーとか色々入ってるだけだから」
「ますます怪しいんだが……」
「大丈夫大丈夫、愁に渡せば分かってくれるから」
 すると月皇ははあ……と溜息を一つ吐き、
「……分かった。ひとまず空閑が帰って来るまで預かっておく」
「頼む。重いから気を付けろよ」
「ああ」
 ボストンバッグを月皇に手渡す。月皇がボストンバッグをしっかり持ったのを確認して手を離すと、持ち手がしっかり月皇の手に握られたままどさっと音を立ててボストンバッグが床に落下した。
「?!」
 月皇は身を屈めた状態でバッグの持ち手を持ったまま、予想外の重さに唖然としている。
「だから言っただろ……大丈夫か?」
「いくらなんでも重すぎるだろう?! いったい何が入っているんだ」
「だから色々だよ、色々……とりあえず愁に渡しといてくれよ、頼むぜ」
「……分かった」
 月皇はなんだか釈然としていない風だったが、虎石は「それじゃ」と部屋の前から立ち去ったのだった。

「さっき虎石がお前に荷物を届けに来た。ベッドの前に置いてある」
「虎石が……?」
 バイト先から帰宅するなり、勉強机に向かっていた月皇にそう言われた。空閑は不思議がりつつも二段ベッドの前を見た。なるほど、見覚えのあるボストンバッグが置かれていた。やたらと膨らんでおり、どうにかして口を閉めているといった風だ。
「借りた物を返しに来た、と言っていた」
「……ああ、成る程な」
 これまで虎石に貸しては返ってこなかった物の数々を思って納得しながら、空閑はボストンバッグを開けた。興味を隠せないのか、月皇が勉強机からこちらを窺っている。
「……何が入っているんだ?」
「どれも大したものじゃない……これ、受け取っといてくれたのか」
「ああ」
「悪いな、重かっただろ」
「重すぎて呆れたよ」
 ボストンバッグに入っていた一通り取り出し、床に広げる。
 大きいものは抱き枕から、小さいものは消しゴムまで。シャンプーのような生活用品や携帯電話の充電器、どうして貸したのかもよく覚えていない小型のドライバーセットもある。
 月皇が呆れたというのも納得の量の返却物をずらりと並べるとなかなか壮観だった。
 空閑はポケットからスマートフォンを取り出すと虎石から返って来た物を真上から撮影し、その写真をそのままLINEで虎石に送り付けた。それからまたスマートフォンをしまい、返って来た物をあるべき場所に戻して行く。するとやたらすっきりしていた自分のスペーズがどんどん雑然としていく。
 どうせまたすっきりしていくんだろうけどな、と心の内で呟き。
「これ、返してくる」
 すっかり空になったボストンバッグを月皇に見せながら言うと、月皇は一つ頷き、また勉強机に向き直った。
 虎石の部屋へ向かって階段を上っていると、階段を下りて来たチーム柊の申渡とすれ違った。
「よう」
 挨拶すると、申渡は「どうも」と頭を下げながら返してきた。それから空閑が持っているバッグを一瞥。
「もしや、虎石君に何か用ですか?」
「まあな」
「……成る程。大方、虎石君がそのバッグに入れて君に大量に物を返しに来て君がその虎石君の物であるバッグを返しに行くところでしょうか」
「よく分かったな」
「忘れ物が多い上に明らかに虎石君の私物ではない物を多く所持していましたからね、彼は。忘れ物に気付くとすぐそちらのクラスへ行っていたようですし」
「慣れてる」
「そうですか……いえ、そちらが良いのなら構わないのですが。では、また」
 申渡は律儀にまた一礼し、階段を下って行った。空閑は階段を上り切り、廊下を歩いて虎石の部屋へ向かおうとする。しかしあまり広くない筈のフロアで虎石の部屋がどこにあるのか分からず――部屋の番号は知っているのだが――、体感で一フロアを三周ほど。バイト上がり直後の脚に少々堪えると思い始めたところでようやく虎石の部屋を見付けた。
 ドアをノックすると、「あいよー」という虎石の声での返事の後にドアが開いた。
「おっ愁!」
「返しに来た」
 空のバッグを差し出すと、虎石は「ありがとな」と言いながら受け取る。
「お前忘れ物多過ぎ。少しは遠慮しろ。無理ならさっさと借りたもん返せ」
「いやほんといつもありがとな愁。今度何か奢るわ」
 人好きのする笑顔を浮かべる幼馴染の悪びれない様子に、こりゃまた明日にでも同じことをするな、と密かに確信する空閑。
「そうだ愁、お前肉食いたくねえ?国道沿いにあるファミレスが食べ放題やってるらしいんだけど、今度そこ行こうぜ」
 国道沿い。ファミレス。食べ放題。しばし記憶を辿り、あそこの茶色い看板の店か、と検討を付ける。信号のすぐ目の前にある店なので、店の前ののぼりや広告なんかも思い出せる。ステーキとハンバーグに、スープやサラダ、パンやライスが食べ放題と謳っていた。
「……悪くないな」
「だろ?お前のバイトも俺のデートもない日に行こうぜ」
 そんな日はなかなかない気がするのだが、悪くない提案なので空閑は頷いた。
「そうしよう」
「決まりだなっ!」
「ところで虎石、お前LINE見たか」
「LINE?」
 空閑の質問にきょとんとした顔をする虎石だったが、すぐにズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。そしてしばしスマートフォンを操作し、呻く。
「……愁、マジでごめんな……」
「気にするな」
「ドリンクバーも奢ってやる」
「よし」
 小さい頃からこの手のやり取りは何度もやってきたとは言えあまりいじるのも可哀想なので満足げに頷くと、虎石はほっとしたような顔になった。そして頭を掻き、
「そうだ愁……こんな時に何だけどよ」
「どうした」
「明日バイク貸してほしいんだけど、お前明日バイト入ってる?」
「……鍵は明後日で良い」
 幼馴染の借り癖は、高校生になってもまだまだ治りそうになかった。

終わり……?

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最初に書いた空閑と虎石です。
2015年11月には書いてました。
抱き枕借りパクの意味は未だによくわかりません。