タグ: ちあふゆ

【ちあふゆ】リトル・フィーリング【20201025】

 高校を卒業して劇団に所属し、劇団での活動の傍らで縁に恵まれたことをきっかけに芸能界でも多少活動するようになり、そうして何年か過ごしてみれば、いつの間にか自分の誕生日がそう特別な日ではなくなっていることに気付くのにそう時間は掛からなかった。
 それでも自分が生まれた日を毎年祝ってくれるような人、例えば家族から届くメッセージを見れば自分の誕生日は少し特別になる。SNSに届くファンからのメッセージや、劇団に届くプレゼント──それは年々増えている──を見れば、自分が生まれたことを祝ってくれる人はこんなにも沢山いるのだと実感して、胸が熱くなる。
 だがそれはそれとして、誕生日だからと自分から特別なことをするというつもりはなく、千秋はいつも通りに劇団の稽古や仕事に励む。むしろ外から言われるまで自分の誕生日というものを忘れていることすらある。
 今年の誕生日当日は、朝から夜まで地方での仕事。仕事では初めての一日がかりの地方遠征となるが、千秋はその前日も必要以上に気負うことなくいつも通りに過ごしていた。自分の誕生日前日という意識もなく。

 そう、いつも通りに、冬沢の家で料理をしていた。

「……貴史、お前今日の夜出発だろう」
「は? ああ……それがどうした」
「こんなところで油を売っていていいのか?」
「油っ……」
 思いがけない方面から飛んできた言葉の棘に、千秋はエリンギを薄切りにしていた手を止めて思わず顔を上げる。キッチンカウンター越しに腕を組んでこちらを見ている冬沢の顔は、心なしか疲れているように見えた。最近劇団以外の仕事が多くて疲れているのだろうか、と内心で気に留めながらも冬沢の質問に答える。
「……まあ、確かに俺は今日の夜に大阪行きの新幹線に乗る。だから今のうちにお前の飯を作りに来てる」
「まさか今日も作りに来るつもりでいたとは思わなかったけどね、俺は」
 冬沢は深々と溜息をついてから、横目でリビングに掛かっている時計を見る。時計以上にインテリアとしての意味合いが強いウォールクロックは二時半過ぎを示していた。
 冬沢の言う通り、千秋は今日の夜八時に新幹線に乗って大阪に行く。そしてホテルで一泊し、翌朝の地方ラジオ局への生出演を皮切りに夜まで大阪で仕事。東京に戻ってくるのはその日のうちだが、到着は夜十時過ぎだ。
「仕方ね―だろ、今のうちに作っとかねーと来週分作るタイミングねえし」
「いつも言っているだろう、毎週作りに来なくてもいいと……」
 劇団に入って少しした頃から、千秋は冬沢の家で毎週、三品程度の作り置きおかずを作るのが日常の一部となっていた。肉が食べられない偏食家でありながら不器用で料理下手な冬沢を見かねて半ば押し掛けるような形で始めたのだが、冬沢のリクエストに応えるのが思いの外楽しくて習慣化してしまった。
 毎週そこまでする必要はないと冬沢は毎度のように言うのだが、それでも時々リクエストはしてくれるし作った分は必ず完食してくれる。
「俺が作りたいから作ってんだよ、第一ここの台所使っていいって最初に言ったのはお前の方だぜ」
「それはそうだが話は別だ、お前は俺の面倒を見るより先に荷造りをするべきだろう」
「もうとっくに終わってるんだな、これが」
 千秋が肩を竦めると冬沢は眉間に皺を寄せてから呆れたように一つ溜息をついたが、それ以上は何も言わなかった。それを了承と受け取り、千秋はまたエリンギを切り始めた。
 いつも千秋が料理をしている時は、冬沢は手を出して来ない。自分が手を出しては邪魔になるだけだと思っているらしい。そしてその代わりに、キッチンカウンターの前に椅子を置いて千秋の手際をじっと見ている。料理を見て覚えようとするかの如く。初めこそ居心地の悪さを覚えた千秋だったが、いつの間にかすっかり慣れてしまった。
 ちなみに冬沢が千秋を見ることで実際に料理を覚えられたのかどうかは不明である。千秋が家に来ている間は台所に立たないのだから、確かめようがない。
 そうしていつも通りに千秋が料理を拵え、種類別にタッパーに詰めて冷蔵庫へ。今日は冬沢からのリクエストは特に無かったので、きのこのマリネと筑前煮、それからポテトサラダを作った。料理を終えてタッパーに詰めた頃には、時計は四時を指していた。
 千秋が調理器具の片付けまで終えると、冬沢はいつものように千秋をソファに座らせて、冷蔵庫から水出しの麦茶をグラスに入れて差し出してくれる。それを受け取ってグラスをあおると、ずっと火の近くにいたことで上昇していた体温に冷たい麦茶が心地よくしみた。
「そろそろ帰るぜ」
 グラスを置いて言うと、立ったままの冬沢は眉間に皺を寄せながら頷いた。
「ああ……今日もありがとう。だがそろそろ自分の都合を優先させることも覚えろ」
「だから好きでやってるしオレの都合も優先させた上で来てるんだって……」
 何故こんな時まで来たのか、と言いたげな冬沢に対して気が立たないこともない。だがそれにしても今日はやけに冬沢の機嫌が悪いように見えて、そちらの方が気になった。
 冬沢の機嫌が悪い時は、彼が精神的にか肉体的にかいずれにせよ疲れている時。例外もあれど基本的にはそうなのだ。すると、冬沢の顔に疲れの色が浮かんでいるように見えたのは気のせいではなかったということか。
「なんかあったのか? 疲れてるみたいだぜ」
「……何でもない」
 何でもないってことはないだろ、その顔色で。
 そうは思っても、こうして突っぱねてくる時の冬沢の頑なさも千秋はよく知っている。放っておくのは悪手だが、千秋に出来る事は少ない。
「……そうか。ま、しんどいようなら休める時に休めよ、劇団でオレに出来る根回しくらいなら、貸し一つでしてやる」
「っ……」
 冬沢の眉がぴくりと動く。ぐっと眉を寄せたかと思うと、溜息を一つ。そして笑うしか無いとでも言うかのように、苦笑を浮かべた。
「俺は大丈夫だ。お前はもう帰って少しでも休んでいろ」
「お、おう……」
 機嫌が悪いのかと思ったら珍しくこちらへの気遣いをはっきり言葉にしてくる冬沢に、どうにも調子が狂う。
 いつも持参しているエプロンを鞄に放り込んでソファから立ち上がり、玄関に向かう。
「……待て、貴史」
「なんだよ?」
 靴を履いたところで呼び止められる。振り返ると、眉根を寄せて何やら難しい顔をした──眉間の皺は先までよりは少ない──冬沢と目が合う。冬沢は口を開きかけて、躊躇うようにすぐ口を結んだ。だが千秋が冬沢の言葉を待っていると、やがてゆっくりとまた口を開いた。
「……難しいようであれば断れ」
「何を」
「明日」
「明日って」
 珍しく要領を得ず歯切れの悪い冬沢の物言いに戸惑う。
「明日がどうした?」
 続きを促すと、冬沢は意を決したような目で改めて千秋を真っ直ぐ見た。
「明日、東京に戻って来たらここまで来い。渡す物がある」
「は……?」
 思いがけない冬沢の言葉に、千秋はぽかんと口を開けた。
 明日の帰りが遅いのは冬沢には教えている。だが冬沢はそれを知った上で明日戻って来たらここまで来いと言っている。冬沢の家は東京駅からそう遠くないとは言え。その上渡す物がある? どういうつもりだ、と、困惑している千秋を見て、冬沢は呆れたように深々と溜息を吐いた。
「忘れたんじゃないだろうな、明日が何の日か」
「……あっ」
 冬沢に言われてようやく思い出す。そうだ、明日は自分の誕生日じゃないか。
「全くお前は毎回毎回自分の誕生日も忘れて……」
 呆れ果てている冬沢に「悪かったって」と笑う。
 だがそれを冬沢から指摘されるのは意外なことであった。
「渡す物があるってことは、プレゼントでもくれるのか?」
「さてどうだろうね。せいぜい楽しみにしていることだ」
 くすりと笑う冬沢の目の奥に悪戯な光がちらちらと踊る。冗談半分のつもりの問い掛けに思いがけず返って来たその光を見た時、どういう訳か心臓が強く跳ねた。それを誤魔化すように、無理矢理声を上げる。
「分かった。絶対来る」
 思わず少し大きな声になってしまった。冬沢は驚いたように目を見張ったが、すぐにいつものような涼しい笑顔を浮かべた。それに安心したような少し惜しいような奇妙な感慨を抱きながら、千秋は一時の別れを告げる。
「じゃあ、明日な」
「ああ。また、明日」
 ドアを開けてマンションの廊下に出ると、肌寒さを感じさせる秋の風がジャケットの裾を揺らした。ドアを閉め切る間際に、部屋の中で白い手がひらりと揺れるのが見えた。
 完全にドアが閉まると、鍵を閉める音が静かな廊下に響く。千秋は廊下を進み、エレベーターに乗り込んだ。
 たった一人きりのエレベーターで、急に頬が熱を持った。前髪をぐしゃぐしゃと掻いて、口元を押さえながら小さな声で呟く。

「明日うっかり告りそうで怖ぇな……」

星劇作品一覧へ戻る
作品一覧ページへ戻る

【ちあふゆ】不安一杯、飲み干して

※ナチュラルに同棲してる

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

「貴史、俺は今怒っている。とてもね。どうしてか分かるか?」
 帰宅してリビングに続くドアを開けるなり、腕を組んで仁王立ちになった亮がリビングでオレを待ち構えていた。
 亮は笑顔だ。今すぐにでもここにプロのカメラマンを読んで宣材写真を撮れそうな笑顔だ。しかしその笑顔と腕組み仁王立ちのギャップは凄まじい。
 これは間違いなく怒っている。どうしてかは分からないが、とにかく今の亮はオレに対して怒っている。だがその原因はオレには分からない。何か亮を怒らせるようなことをした心当たりもない。
「いいや、分からねえ。オレが何かお前を怒らせるようなことをしたって言うなら、それを教えてくれ」
 こういう時重要なのは、下手に出ることではない。毅然と、真正面から向かい合うことだ。亮みたいな自分中心に世界を回しているような人間の相手など、こちらも堂々としていなければ務まらない。
 亮はオレの言葉に笑みを深くすると──身に纏う空気の温度が5℃ほど下がった──ポケットから何か小さな物を取り出してオレの目の前に突き出した。
「冬物をクリーニングに出そうとしたら、お前のコートのポケットの中から見つかった。明らかにお前の物では無い。この指輪、誰の物だ?」 
 それは指輪だった。赤い大きなカラーストーンが付いた、女物の指輪。
「……あー……」
 その指輪はあまりも見覚えのあるもので、同時にその存在を今の今まで忘れていたオレは思わずうめき声を上げた。
 話は二ヶ月ほど前に遡る。
 オレは、単発もの恋愛ドラマに出演した。
 災害が起きたとある夜の複数のカップルを並行して描く……ざっくり言うとそんなドラマで、オレはその内の一組、誕生日に指輪を渡すという約束をしながらも最終的に恋人を失い、最後まで指輪を渡せずに終わる男を演じた。
 そしてその時に使用されたのが、この指輪だ。
 元はスタイリストの私物だったが買ってもほとんど使わずにいたためもしかしたらいつか仕事で使えるかもと会社の倉庫に入れていたというこの指輪、巡り巡って今回オレの役が持つことになったが担当のスタイリストがこの指輪を会社の倉庫に入れていた張本人で、正直この指輪コーデに合わせづらくて使える場面もう無いと思うのでどなたか貰ってくれませんかね、と撮影終了後に言い出したのを監督がじゃあ千秋君貰っていきなよ! と、まあ、そういう流れだ。
 今時そんなことあるのか……と思いながらもオレはその指輪をもらってしまった。下の妹にあげたら喜ぶかもしれないと。だがコートの内ポケットに入れたまま存在を忘却していた。そして今に至る。
「……つまりこれはあくまでドラマの撮影に使用した小道具で、断じて浮気などではないと」
「そうなる」
「今時珍しいな。小道具をそのまま貰えるとは」
「オレもちょっと心配になったけどさ」
「しかしお前が貰うのか。女優の方ではなく」
「それはオレも思ったけどクランクアップした時はオレだけでさ……」
「……もういい」
 亮は一つ溜息を吐き出した。そして口元に穏やかな微笑を浮かべる。
「そういうことならこれ以上何か言う必要はない。今後ポケットに物を入れたままにしないよう気を付けることだ」
 その口調からはすっかり怒気は抜けていて、オレは内心胸を撫でおろした。
「ああ、気を付ける。……悪かったな、不安にさせて」
 時として理不尽なことで怒りを見せる亮だが、今回のこれは明らかに不安の裏返しだ。恋人のコートのポケットからいきなり見知らぬ指輪が出てくれば不安になるのも当然だろう、亮はそういう性格をしているのだから。なのでここは謝っておくが吉だ。
 オレの謝罪を聞いた亮はわざとらしく溜息をついた。
「全くだ、必要以上にお前を疑って不安になるなど俺は御免なのだけどね」
「分かってる、本当にごめん」
「まあ、分かればよろしいということにしておこうか」
 くすりと笑う亮。どこまでも上から目線な言葉だが、オレは亮のこの笑顔に弱い。雪の中で咲く花に似ている、なんて言ったら惚気すぎだろうか。
「食事は外で済ませて来たんだろう。ちょうどさっきお湯が湧いたところでね、紅茶でも飲むかい? 現場でいいティーバッグを貰ってね、ソファにでも座っていろ」
 亮はオレの返答を待たずに、少し弾んだ足取りでキッチンに向かった。
 紅茶くらいオレが……なんて言っても絶対に聞かないのは目に見えている。ならばその言葉に少しだけ甘えさせてもらう事にして、オレはソファに身を沈めた。台所から聞こえてくるカチャカチャという食器のぶつかる音と、湯気を立てるお湯をとぽとぽ注ぐ音に手付きの危なっかしさを感じて微笑ましく思う反面、若干の緊張感を覚えてしまう。
 だがほどなくして亮は、熱い紅茶の入ったマグカップをオレに差し出してくれた。お茶に混じって桃のような香りが鼻先をくすぐる。オレがマグカップを受け取ると、亮も自分のマグカップを手に静かにオレの隣に腰を下ろした。
 カップに口を付けて、紅茶を一口。甘い香りだがくどくなく、爽やかな味の熱い紅茶が喉を通って体を芯から温めていく。横目で隣を見ると、亮は両手で包み込むようにしてマグカップを持ちながらゆっくりと紅茶を飲んでいた。
 無言の時間が流れる。
 互いにカップの中の紅茶を飲み終えるまで、黙ったまま。熱い紅茶は自然と体を温めてくれて、こうして寄り添っている優しい時間への愛おしさが自然と湧き上がる。
 カップを空にしてからも暖かく居心地のいい時間にしばし浸っていると、亮がソファ前のローテーブルに静かにマグカップを置き、オレに寄り掛かって来た。
「どうした?」
 苦笑しながらオレもマグカップをローテーブルに置いて、肩に凭れている亮の頭をそっと撫でる。さらさらした髪を指で梳いてやると、亮は気持ち良さそうに目を細めた。
「ん……」
 亮の手がオレの太ももに伸びる。長い指でつーっと太ももをなぞられ、明確な意図を持ったその仕草に思わず背を震わせた。
「……え、お前」
「なんだ、嫌なのか?」
「嫌ってわけじゃ……」
「ならいいだろう?」
 上目遣いの甘えたような目。こいつは明らかに俺が弱いと分かってやっている。ターコイズの目の奥にちらちらと見える火は、もう亮が完全にそのつもりであることを物語っていた。
 やっぱり、こいつの世界はどこまでも自分中心だ。そして俺は、いつまでもこいつに振り回され続けるのだ。だってもう俺もその気になりかけているのだから。
「……ああーもう! 分かった、分かったから! ほんっと切り替え早いなお前!」
「ああ、俺は準備は出来ているからね、お前はさっさとシャワーを浴びてこい」
「お前あの指輪のことであんなに怒ってただろ……オレに何する気だったんだよ……」
「さて、想像にお任せする」
 こうしてオレは亮によってさっさとソファから追い出された。さっきまでのあの穏やかな時間を返して欲しいと思わないでもない。
 シャワーを浴びに脱衣所に向かう前にソファの方を振り向くと、クッションに埋もれながら亮はくすくすと肩を揺らした。
「俺を不安にさせた埋め合わせ、たっぷりしてもらうからな」

作品一覧ページへ戻る
星劇作品一覧へ戻る

【ちあふゆ】0830エアブー新刊本文サンプル

0830エアブー超夏祭り合わせで新刊が出ます。
イベントHP

タイトル:千秋と冬沢のパロしかない本(仮)
仕様:B6、本文34ページ
値段:500円

コピー本なので薄いですがパロもの短編を4本収録しています。当サイトからの再録を2本含みます。
ちなみに表紙はまだ出来ていません。

当日になりましたら当方のBOOTHより受付を開始致します。
ひとまずはエアブー強化期間中に注文いただいた分は全て発送出来るように対応予定です。以後は既刊同様に在庫の残数を定めての販売とします。
BOOTH

→次ページより本文サンプル

【ちあふゆ】ストレンジ・ワンルーム_3「認識」

の続きです。
SS完結前に書き始めたので公式の二人の進路と齟齬があります。

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

 冬沢が千秋の部屋から姿を消してから凡そ二週間が経とうとしていた。
 
 いや、姿を消したと言えば語弊がある。
 冬沢は千秋の家での居候状態をやめて自宅に戻ったのだった。
 ことの発端となった例の舞台はは初日まで一週間を切り、一週間ぶりに覗いたSNS(千秋自身は日頃はマネージャーにアカウント管理を任せている)では稽古は順調に進んでいること、チケットはまだ若干数残っていることが、いかにも冬沢が好きそうなシンプルな文章で告知されていた。最後に<スタッフ>の単語付きで。
 そう、あるべき場所にあるべき在り方で収まっただけ。結局のところ千秋が住んでいる部屋は男二人で生活するには狭いワンルームでしかなく、冬沢は一人の時間が無いと死んでしまうような人間なのだ。そんな組み合わせだというのにどういうわけか数ヶ月一緒に暮らす事にはなったが、どうしたって不自然な生活だったのだ……

 などと。
 簡単に納得できるほど、千秋は物分りのいい性格でも諦めの早い性格でもなかった。

「……はあーっ……」
 午後十時。 
 千秋は自宅のソファに身を投げ出しながらショートメッセージアプリのトーク画面を開き、深々とため息を吐き出した。
 「亮」とのトークで毎日のようにこちらから送っている短いメッセージにはただ、既読のマークだけが付いている。それが約二十行強連なっている。いわゆる既読無視。
 冬沢からの既読無視など今に始まったことではない。当たり前の事ですらある。千秋としてはそれは別に責めるポイントではない。返事くらい寄越せよと一度だけ言ってみたことはあるが、
 ──既読マークが付くのだから読んだことは伝わる、それでいいだろう。
 などとすげなく返されるのみであった。
 冬沢の中ではそういう理屈で世界は回っているし、目上の人間や仕事上の付き合いならまだしも今になって千秋相手にわざわざ返信を寄越すような真似をするとは思えない。
 だが今回ばかりは千秋にも言い分はあった。
 ──いや、せめてさ。
 ──せめて質問には返信寄越せよ。
 午後十時。ソファの座面にスマホを落として、天井を仰ぐ。
 連日送信しているメッセージは、何かあったのか、とか、ちゃんと飯食ってんのかとか、そう言った質問が大多数であった。冬沢はそういった質問にも、既読マークを付けるのみであった。
 流石の冬沢も、千秋が質問を送れば返信くらいはする(質問に答えるかどうかは別問題である)。これまではそうだったのだ。だが、最近の冬沢はそれすらしなくなった。
 詰まるところ完全に黙殺されている。避けられている。
 千秋の部屋にあった冬沢の私物は全て綺麗に持って帰られ、冬沢がここにいた痕跡はと言えばあの時残してったメモと生活費、それらが入っていた封筒のみが残されていた。
 どうにかして冬沢を追い掛けて追及するべきか、とも考えた。だが、いなくなる前夜の冬沢の様子がどこかおかしかったことを思い出すと、それはなんだか躊躇われた。しかしどうしても冬沢に何かあったのではないかと気になってしまい、結果千秋は毎日のように冬沢に向けて短いメッセージを送り続けているのであった。
 こういうところが冬沢本人から面と向かってストーカーだの粘着質だの鬱陶しいだの言われるのだ。自覚はある。
 それでも今更冬沢に意識を向けることをやめられるようなら、初めから冬沢を家に上げてあまつさえ住まわせたりなどしなかった。あの首輪を冬沢に掛けることだってしなかった。冬沢も、千秋がそれを断れるような性分ではないことを完全に理解している。理解しているからあんな真似をしていた。そんなのお互い承知の上で、あの奇妙な同居生活は成り立っていた。
 オレ一人で考えても答えは出ないよなあ、と千秋は考えた。
 だが誰かに相談するには状況が特殊すぎる。
 それこそ、自分達二人がどういう関係なのか昔からよく知っていて、冬沢の難儀な性格を熟知していて、それらを全て客観視出来るような人間でもない限りとてもこんな話は……
「……一人、いる……」

 ***

「……で、どうするのが正解なのかオレには分からない」
「なんで俺に聞くんですか?」
 やや価格帯高めの焼肉チェーン店。その個室席で、千秋は中学高校時代の後輩・南條聖と向かい合っていた。
 南條は若干濁った目つきのまま、トングでタンを引っ繰り返す。面倒くさい、という本音を隠そうともしない態度はいっそ清々しい。
「オレの知る限り亮と一番近い思考回路してるのがコウちゃんだからだよ」
「だからって俺的には先輩達の特殊性癖話に付き合わされる覚えはないっていうか」
「だから今日は全部オレが奢るって言ったんだよ」
「千秋さん、お人好しの善人が一周回って性格悪いとか言われたことありません?」
「は?」
「もういいです、肉に釣られた俺も警戒心が薄かったので。千秋さんに余分に貸しを作れるくらいには相談に乗ってあげます」
 これ見よがしに溜息をついてから、シーザーサラダを自分の取り皿に取り分ける南條。「オレも」と千秋が右手を出すとトングを渡された。
「いやあほんと、珍しく一緒の現場だなあとか思ってたらこんな案件で焼き肉奢られる羽目になるとは思いませんでしたけど」
 千秋としても、これは運のいい(南條からすれば不運以外の何でもない)偶然であった。少し前から決まっていたWeb用単発ドラマで、「自分達二人がどういう関係なのか昔からよく知っていて、冬沢の難儀な性格を熟知していて、それを全て客観視出来る」ほとんど唯一の人間である南條との共演が決まっていたのだ。
 撮影は1日丸ごとを使って無事に終了し、千秋は打ち上げの体で──勿論打ち上げの意味もあるのだが──南條を焼肉屋に連れて来ることに成功した。そうしてここ最近の己と冬沢の一切合財を、話せる範囲で打ち明けたのであった。話が進めば進むほどに南條の目は濁っていった。
「とりあえず俺の所感を言うとですけど。冬沢さんは多分、千秋さんから逃げたくなったんじゃないですかね」
「逃げ……」
 サラダを取り分ける手が止まる。
 確かに、冬沢はどこか逃げるようにしていなくなった、と思う。そして今も自分を避け続けているのは、自分から逃げているのだと言われれば腑に落ちる。
 だが。
「……なんで逃げるんだよ」
 その理由が千秋にはさっぱり分からなかった。
「さあ〜? 居たたまれなくなったとか、色々考えられるんじゃないですか」
「……あいつが今更オレの前で居たたまれなくなるとか、あるか……?」
 まあそうかもしれませんね、と南條は生暖かく笑いながら焼けた肉を自分の皿に乗せてまた生肉を網に並べていく。
 堂々と押し掛けてきて居候までして今更居たたまれないはないだろう。もっと前まで記憶を遡れば、高三の時のごたごたやら、冬沢が自分相手に感情を爆発させた事や理解不能な行動に出た事、成人してからは酒に酔った冬沢の面倒を千秋が見るのが当たり前になった事など、常人であればとうの昔に居たたまれなくなっているであろう状況は枚挙に暇がなかった。
 恐らくは甘えられているのだろうと千秋は思う。冬沢にその自覚があるのかどうかは知らないが。
「俺的には千秋さんのその謎の自信は割と尊敬に値すると思いますよ。ま、理由は一旦脇に置いておきましょう。大事なのは、じゃあ千秋さんの前から逃げた冬沢さんをどうするかって話になってくると思うので」
「はあ」
 南條はほどよく焼けたタンを自分の皿に移した。
 千秋は空になったサラダの器をテーブルの端に退けると、焼網の上にカルビを並べる。
「千秋さん的には、冬沢さんは放っておいて欲しいタイプか追い掛けて来て欲しいタイプか、どっちだと思います?」
「放っておいてくれって口では言うし追い掛けたら追い掛けたですげー不機嫌になるのにこっちから追い縋るくらい構わないともっと不機嫌になるタイプ」
「うわー、すごい理解度」
「……だから、メッセージだって送ってる」
「それが逆効果なんじゃないですかあ? 毎日は流石にしつこいでしょ」
「だからそのうちあいつの家に行ってみるつもりだ、それくらいしねえとオレの気が収まらねえ」
「そのうちっていつです?」
「あいつの次の舞台が終わったら」
「……ま、それくらいが妥当でしょうね」
 千秋とて、どういうつもりなのかと問い質したい気持ちはあるが冬沢の仕事を邪魔したいわけではない。舞台期間中の冬沢は常時集中状態とも言うべき張り詰めた空気を身に纏っている、プライベートな都合で下手にそれをつつくのは悪手でしかない。二週間の公演期間が終わるのを待つべきだろうと千秋は考えていた。ましてやそれが事の発端である舞台であるならば尚更。
「……千秋さん、一つ聞いてみたいことがあるんですけど」
「なに?」
「実は千秋さん、冬沢さんのこと束縛したいとか思ってたりしません?」
 南條からすれば何気ない質問だったのだろう。いかにも人畜無害そうな笑顔で、南條は空になりかけの烏龍茶のグラスを揺らしている。だが千秋は言葉を失った。電撃が走ったような心地であった。
 束縛。自分では思いもしなかった。だが言われてみれば、と過去約二ヶ月を振り返る。
 冬沢の首に首輪を掛けた時背筋に走ったぞくぞくとした感覚、食卓で一緒に手を合わせて同じ食事をしている時の充足感、白い首に巻き付いた黒い首輪を見る度に覚えていた支配欲は得も言われぬもので。冬沢が部屋からいなくなって、あの時は血の気が引いた思いがした。すぐに冬沢宛にメッセージを送った、何度も何度も。あまりに頑なに既読無視されるものだからむしろ元気であることが分かって安心はしたのだが。
 結局のところ自分は、本当の理由も言わずに押し掛けてきた冬沢を、理由なんて分からなくていいからあの小さな部屋に留めておきたかっただけなのかもしれない。自分の目と手の届く場所にいることが分かれば、必ず同じ部屋に帰ってくるのであれば、それで良かったのだ。そして恐らく、それを世間一般ではこう言う……独占欲、束縛願望と。
「……マジかよ。オレは亮を束縛したかったのか……⁉」
「うわー、聞かなきゃよかった」
 げんなりした顔をする南條をよそに、千秋は唖然としながら額に手を当てた。網の上のハラミは火の通りすぎですっかり固くなっていた。

 ***

 帰宅して軽くシャワーを浴びれば、髪にドライヤーを当てる頃には日付は変わっていた。冬沢が部屋にいた頃はなるべく早い帰宅を心掛けて食事を作るようにしていたが、冬沢がいなくなってからは外食で済ませることも増えてきた。一人暮らしを始めてから忘れていた、誰かと同じ食卓を囲んで手料理を食べるという感覚を冬沢が押し掛けてきたことで思い出した。だがそれをまた忘れかけている。おまけにそのせいでなんとなく料理をする気力も薄れている。これはよろしくない。事務所のプロフィールに「趣味:料理」と書いてしまっている、仕事のためにも料理を忘れるわけにはいかない。
 どっかの週末使って実家に帰ってみるか、なんて考えながら、風呂上がりの一杯でもと冷蔵庫を開ける。麦茶の入ったピッチャーを手に取り、グラスに麦茶を注ぐ。
 冷たい麦茶を体のうちに流し込んだことで火照った体が少しばかり落ち着き、千秋は一つ息を吐き出した。
 南條に話してみることで気が付いてしまった冬沢に対する束縛願望は、思いの外千秋に重く伸し掛かっていた。
 支配欲は確かにあった。あの首輪を見る度に背筋を走るぞくぞくした感覚がどういうものかも自覚していたのだ。なんなら、なんでこんな真似したのかはっきり言わずに出ていけると思うなよなんてことも考えていた。
 この部屋に縛り付けて、所有の証を身に付けて、いつまでもここにいればいいと。自分だけのものとしていつまでも。胸の奥底に灯ったその黒い炎はじりじりと千秋の心の奥底を舐め続けていた。その炎は有機物が炭に変わる工程のように、ゆっくりと時間をかけて千秋の心を変質させていく。そうして気が付いた時にはもう後戻り出来ないと悟る。
(そうか、オレはあいつをオレだけの物にしたかったんだ)
 気付いたところで何が出来る訳でもない。冬沢の心も体も全て、力づくでも自分の物にしたいと。その目に自分だけが映るようにしてしまいたいと。あの冬沢相手にそんなことは到底不可能だと自分が一番よく知っているくせに。
 それでも冬沢を自分だけの物にしたいという願望が消えてくれる訳ではなく、それは千秋の心の奥底に鎮座し続ける。
 本当に厄介で邪な願いを抱いてしまったものだ。自分の冬沢に対する執念深さが嫌になる。だが嫌になった程度でやめられるほど軽い思いでもない。
 どうすりゃいいんだ、と己の内面という現実から目を逸らしながら冷蔵庫の扉に貼っているホワイトボードに雑な手書きで記されている明日以降の予定を眺める。すっかり忘れていたが、明日はオフなのだった。
 掃除でもするか、と、やや乱雑になっている部屋を台所からちらりと見る。冬沢がいる間も勿論掃除はしていたが、ここのところは仕事が忙しくてあまり手を付けられていなかった。
 午前中は軽く部屋の掃除をして、午後は買い物にでも出かけよう。そうすれば少しの気分転換にはなる筈だ。
 そう己に言い聞かせ、千秋は眠りについた。ソファとベッドの間を隔てていたスクリーンが立っていない部屋はやけに広いな、なんて事を思いながら。
 翌日、千秋は就寝前に決めた通りに朝から部屋の掃除に取り掛かることにした。
 掃除に使う時間は半日程度のつもりなので、あまり大掛かりなことはしない。今日の天気は運良く快晴なものだから、クッションや布団のカバーなんかは洗濯してしまう。乱雑に散らばった物を元の場所に戻して、掃除機を掛けて。
 床に掃除機を掛けながら、部屋の隅に畳んだままのスクリーンを横目でちらりと見る。
 冬沢の出費で購入した物だが、部屋から出ていく時冬沢はこれを置いていった。高さは2メートル近い、これを持って出て行くには大きすぎるだろう。今となっては無用の長物だが、すっかり部屋に馴染んでしまったために処分するにもなんだか忍びないし、触れば部屋に居座っていた冬沢の姿を思い出すようで触るのもなんだか躊躇われた。
 それでも積もりかけた埃くらいは掃除機で吸ってしまおうと、一つ深呼吸してからスクリーンを開く。
 コトリ、と。物が落ちてフローリングに当たる音がした。
 足元を見ると、見慣れない物がそこにあった。
 それは畳まれた青いハンカチに見えた。畳まれたスクリーンの上に置いてあったか挟んであったかしたのだろう。不審に思いながら拾い上げると、ハンカチにしては重い。どうやら中に何か物を包んだ状態で畳まれているらしかった。
 恐る恐るハンカチを開くと、鈍い銀色の金属光沢が目に飛び込んできた。
 それは、鍵だった。紅色の革紐のストラップが付いた鍵はハンカチにくるまれ、まるでそこで千秋に見つけられるのを待っていたかのようだった。
 この部屋の鍵ではない、もちろんバイクの鍵でもない。
 千秋以外の誰かが置いていった鍵だ。生活スペースの奥深くに入り込んで、スクリーンを畳んでこの鍵をわざわざ置いていける人物など、ここ数ヶ月で一人しかいない。
 そして、それならこの鍵が何の鍵か、と考えれば思い浮かぶものは一つしかなかった。
「あいつ……」
 どくん、と一際強く心臓が大きく跳ねる。同時にどっと疲れがこみ上げてきて、思わずその場に座り込む。面倒くさいやつだとは思っていたが、ここまで回りくどいことをするか。回りくどいのに分かりやすい。ここに来い、ということだ。
 ここに行けば、冬沢が何をしたかったのか分かるのだろうか。求め続けていた答えがあるのだろうか。そして恐らく、冬沢が望んだ形での決着も。
「……分かった。乗ってやるよ」
 誘いに乗らない理由など、どこにもなかった。
 そっちがその気なら、こちらにも考えがある。
 千秋は、手の内の鍵を強く握り締めた。 

作品一覧ページへ戻る
星劇作品一覧へ戻る

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

4で完結します(予定)。

【ちあふゆ】神様と出会った日

※山奥の奇祭・怪しい宗教ものホラーパロ
※社会人の貴史(20代半ば)×山奥の村の神様の亮(見た目10歳前後)
※軽度のグロに言及有り
※モブがいっぱいでてくる
※つまり何でも許せる人向け

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

 きっかけは、会社で仲のいい先輩からの誘いであった。今度の連休に父方の地元の村で、珍しい祭りをやるから見に来ないか、と。
 その先輩には新人時代に世話になったことをきっかけに仲良くなり、プライベートでも良く一緒に飲みに行ったりする仲だった。そのため千秋は二つ返事で了承した。ちょっとした小旅行のようなものだと思った。
 その先輩の父方の地元とは、とある山間地帯の奥まった場所にある小さな村だった。週末の連休初日、千秋と先輩は、新幹線や電車を乗り継いで、レンタカーを借りて、早朝から合計で五時間掛けてその村に向かうことになった。
 とある駅の近くにあるレンタカーショップから村までを車で走る。初めは道路沿いに商店やパチンコ屋なんかが見えたのだがすぐに窓の外は畑と山林ばかりになり、やがて森の中にひっそりと敷いてある道路を車で無理やり進んでいくような形になった。
「本当にこの先に村があるんですか」
 がたがたと揺れる車に若干の恐怖を覚えながら千秋が尋ねると、先輩は大丈夫大丈夫と言って笑った。
 ──俺だって昔はこの道が怖かったものさ。
 車で走ること約二時間。千秋は、件の村に辿り着いた。
 宿泊先は先輩の従兄弟の家という、古い木造家屋だった。
 疲れただろう、祭りは明日からだからゆっくりしていきなさい、と、もう昼食には遅い時間だったが、村の近くで取れたという山菜の天ぷらや筍ご飯でもてなされた。それがどれもこれも美味しくて、車の中でコンビニを食べたというのに満腹になるまで食べてしまった。
 あまりに沢山食べてしまったものだから、村とその周辺の地図をもらって、色々とやることがあるという従兄弟を残して千秋は一人で村の散歩に出た。
 村を歩くと、家屋に祭りの飾りつけをしている住民達が千秋を見て微笑みながら会釈してきた。それが一人や二人ではなく、会う人会う人会釈してくるものだから、此の村の人達は余所者でも歓迎してくれているのだな、なんて事を思ったりした。
 歩くうちに、いつの間にか村の裏手の山にある広い林の中に足を踏み入れてしまったようだった。
 今日はブルゾンを羽織ったままでは少し暑いくらいの気温だというのに、林のなかはやけに薄ら寒い。
 ふと、頭上から声がした。
「君、このままこの村にいたら生贄にされて死ぬだけだよ。死にたくなかったら今すぐ山を降りて帰ったほうがいいよ」
 白皙の品良く整った、しかしあどけない顔立ちに色素の薄い髪と澄んだ湖を思わせる瞳の色がとても美しい子供であった。薄手の白い着物だけを身に纏ったその子供は、木の枝に腰掛けて着物の裾から白い素足をぶらぶらと揺らしながら笑って言った。
「僕は別にいらないんだけど、この村の人達は生贄を捧げるのをやめないから。祭りが始まる明日の朝には君は毒入りのお酒を飲まされて、生きたまま魚の開きみたいにされて僕の住んでる社に運び込まれる筈だ」
 子供は、その見た目に似つかわしくない、艶めかしくすら見える笑みを浮かべながら、ことんと首を傾げた。
「まあそうなったらそうなったで、この山の猪達にあげるんだけどね」
 村の子供が悪戯で怖がらせようとしているのか、と思った。だがそれにしてはこの子供が纏う雰囲気は異様であった。
 この世のものでないような、触れたら空気に溶けて消えてしまいそうな、その子供のいる場所だけ周りより空気が冷たいような、そんな雰囲気があったのだ。
「お前は誰だ?」
 尋ねると、子供はまた艶やかに笑った。
「この村の人達の、神様だよ」
「神様……あの神社に祀られているっていう?」
「そう。君には特別に、名前を呼ぶことを許してあげる。亮って呼んで」
「……亮」
「君の名前は?」
「……貴史。千秋貴史だ」
「たかふみ」
 甘い飴を舌の上で転がすようにその名前を呟いて、亮は肩を揺らした。
「いい名前だね、とっても」
 亮はひょいと木から飛び降りたが、重力を感じさせないゆっくりとした着地で、着地の音ひとつ立てなかった。
「ねえ、本当は君はここに来ちゃいけないんだよ。村の人にばれたら生贄になる前に殺されて池に投げ込まれてしまうかも。村の人に見付からないよう、僕が村まで戻してあげる」
 亮は白い手を千秋に伸ばした。子供らしい柔らかさを伴う手が千秋に触れ、白く細い指が千秋の大きな手に絡み付いた。その様がやけに背徳的に見えて、千秋は思わず亮から目を逸らした。
 そして、千秋は気が付いた。亮には、足元から地面へ伸びているはずの影が無かったのだ。
 千秋は亮に手を引かれ、深い森の中を進んでいった。元来た道とはまるで違う、けもの道とでも言うべき道を行き、やがて坂下五メートルほどに例の神社の裏手が見えてきた。
「僕が送ってあげられるのはここまで」
「なあ亮」
「なあに?」
「……お前、この神社に住んでるのか」
「ううん。ここは村の人達が僕を崇めるための施設だから。僕が住んでるのは、山の上」
「は!? 子供一人でかよ!?」
「……僕は神様だから、君よりはずっと長く生きてるし。この山そのものが僕の領域だから全然危なくなんてないよ?」
「ノーセンス! どっからどう見てもオレよりずっと年下のガキだろうが! つーかよく見たらすっげえ寒そうだなお前……そんな格好で外出歩くんじゃねえ! とりあえずこれ着とけ。無いよりゃましだろ」
 千秋が羽織っていた臙脂色のブルゾンを亮の肩に掛けると、亮はきょとんとして千秋を見上げる。
「……君、変な人って言われたことない?」
「は?」
「ううん、何でもない。ありがとう」
 亮はゆるゆると首を横に振って、にこりと笑った。
「僕に会ったことは、村の誰にも言わないでね」
「お、おう」
  その時、豪と強い風が吹いた。地面の落ち葉が勢いよく舞い上がり、千秋は思わず目を閉じた。
 再び目を開いた時、亮の姿はどこにもなかった。

 ***

 その夜千秋は、先輩の親戚が集まった宴会に招待された。
 いい体格をしているねえ、なにかスポーツでもやってたのかい、こんなにかっこいいんじゃさぞもてたろうなあ、なんて褒めそやされ、ご馳走や酒を勧められる。悪い気分はしなかったが、過剰とも思えるあまりの歓待にどこか居心地の悪さを覚えた。
 ──祭りが始まる明日の朝には君は毒入りのお酒を飲まされて、生きたまま魚の開きみたいにされて社に運び込まれる筈だ。
 亮の言葉がどうしても気になって、酒には口を付けなかった。
 その夜、与えられた寝室に布団を敷いて千秋は眠りについた。
 だがすぐ、千秋は自分の体に違和感を覚えた。
 体が動かない。
 意識ははっきりしている。心臓がばくばく鳴って、全身から汗が吹き出した。脳は身体中に動けと命令しているのに、指先すら動かない。舌先も弛緩したようになって、あー、とかうー、みたいな音だけが喉から零れる。
 まさか、気付かないうちに毒を盛られたのか。
 そう思い当たった時、カンカンカン、と部屋の外から、金属に固い木を打ち付けるような音がした。それから、ドンドンドンという太鼓の音。ヒョロロ、と甲高く不気味な笛の音。それらの音は少しずつ大きくなる。いや、まるでこの家を中心に、音が増えていくかのようで。
 殺される……!
 全身を貫く死の恐怖に、体が震え出しそうになる。だが体はびた動かず、ただ恐怖だけが体の中を暴れ回る。
 だがその恐怖が頂点に達しようとした時、千秋の耳に甘やかで涼やかな声が届いた。
「僕のこと、本当に誰にも言わなかったんだ。偉いね、貴史」
 辛うじてまだ動く眼球を、声の方に動かす。
 窓から差し込む白い月の光に、白い肌が浮かび上がる。碧の瞳が輝いて、形のいい唇が笑みを作った。
「助けてあげる」
「あ……?」
「毒ね、お酒だけじゃなくて君のお茶碗にも盛られてたみたい。君がお酒を飲まなかったから。僕の言うことちゃんと聞いてくれたんだね。結局毒は盛られちゃったけど。貴史は馬鹿だなあ、でも褒めてあげる」
 白い素足が、畳を踏んだ。やはりその足元から伸びる筈の影はなく。
「大丈夫、一緒にここを出よう」
 亮が枕元に膝を突いた。白い着物の上から臙脂色のブルゾンに袖を通した奇妙な出で立ちで。
 そして千秋の顔を覗き込むと、その唇にひとつ口付けた。柔らかな唇が触れた瞬間、
「あ、がっ……!」
 必死で動かそうとしていた手足が、糸が切れたかのように動き始めた。
 首を回して亮を見ると、亮は肩を揺らして笑う。千秋が恐る恐る体を起こして立ち上がると、亮が千秋の腕にぎゅうとしがみついてきた。
「えっと、りょ、亮……?」
「助けに来てあげたよ。ほら、荷物を持って」
 亮に促されるままに、千秋は枕元に置いていた荷物の入ったボストンバッグを引っ掴む。
 家の外からの音はどんどん大きくなっていく。千秋に恐怖しか与えない祭囃子が最高潮に達しようとした時、ふっとその音が消えた。
 いつの間にか二人が立っていたのは、亮と出会った時のあの林の中だった。ひどく冷え込んだ空気に、千秋は身震いした。
 亮はにこにこと笑いながら千秋の腕を引いた。
「さあ行こう。僕も村を出るよ」
「……お前あの村の神様なんだろ、いいのかよ」
「大丈夫だよ。生きていくためのインフラだって十分整備してあるし、この村がそうなるように何百年かけて僕は頑張った。本当はもう僕は必要ないんだよ。なのに信仰の形だけ歪みに歪んじゃって。このままじゃ僕が悪い神様になっちゃう。その前に外に出るよ。君の物も貰っちゃったし」
「……俺の?」
「うん」
 蕩けるような笑みを浮かべながら、亮はブルゾンの裾を引っ張った。
「君は僕の守っていた領域の外から来たでしょう? 外から来た人の物を貰うとね、僕の神様としての力が下がるんだ。だから、どっちにしろ僕はこれを貰った時点でこの村を出なきゃ」
 そして亮は、千秋の手を引いた。背伸びをして、千秋の耳元で囁く。
「僕を連れて行ってよ、外に」
 耳に掛かる吐息はひどく冷たかった。
 そこから先の記憶はない。
 気が付いたら千秋は町の病院にいた。なんでも、山のふもとの道端で倒れている所を近くの住民に発見されたのだという。
 病室のテレビを付けると、自分が地元の駅を出発した次の日の夕方であった。
 検査の結果体に異常は無いということで、病院で一泊だけして千秋は地元に帰った。
 先輩に連絡を取る気にはなれなかった。
 連休明け、僅かな緊張と共に出社したが、あの先輩の席は空になっていた。
 なんでも家庭の事情で急に会社を辞めることになったのだという。千秋はその後、二度とその先輩と会うことは無かった。
 そしてもう一つ奇妙なことに、千秋が連れて行かれた筈の村は、いくら調べても地図には載っていなかった。恐る恐るあの時レンタカーを借りたレンタカー会社の事業所に確認してみたが、個人情報の為回答できないとすげなく返されるのみであった。
 あれは何かの夢だったのではないか、そう思う程に、千秋があの村に行ったのだという証拠も確証も得られなかった。
 それでも、あの村に確かに行ったのだという確かな証拠が千秋の部屋には確かにいた。
「ただいま」
 部屋に帰ると、ソファを占拠して悠々と本を読んでいた少年が顔を上げた。
「おかえり、貴史」
 小さな体躯には明らかに大きすぎる千秋のワイシャツを堂々と羽織って。あの頃より少しだけ血色がさした頬で笑みを浮かべながら、亮は白い足をぶらぶらと揺らした。

星劇作品一覧へ戻る
作品一覧ページへ戻る

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

夏なので趣味に走りました。

【ちあふゆ】冬沢は猫である

※短い
※唐突な猫化

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

亮が猫になった。
嘘のようだが本当だ。
艷やかな毛並みとほっそりしたスタイルは、猫だっていうのにまあ悔しくなるくらい亮らしかった。
そして亮は今、オレの膝の上に座って尻尾をぱたぱたさせている。ここから退こうというつもりは全く無いようだ。いつだって世界は自分中心、猫になっても相変わらずだ。
可愛いなんて思っちゃいない、こいつのお陰で家事も出来ないのだ。喉の下を軽く掻いてやるとごろごろ喉を鳴らすせいで立ち上がる気力もなくなるし、時折じゃれついてくるのをいなしていたら時間も奪われるし、手を舐められるなんてたまったもんじゃない……ああくそ。お前が猫になったところで、結局オレの世界もお前中心じゃねえか。

作品一覧ページへ戻る
星劇作品一覧へ戻る

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

亮が猫になったらロシアンブルーだと思います。

【ちあふゆ】ストレンジ・ワンルーム_2「食卓」

1「居候」の続きです。

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

 冬沢が千秋の家に押し掛けてから一ヶ月半が経とうとしていた。
 相も変わらず冬沢側の真の動機は不明、だが家賃と生活費は折半しているから大した経済的な不便もなく、強いて言うなら少し部屋が狭くなっただけ、そんな奇妙な生活は依然として続いていた。
 冬沢が拉致犯に監禁される役をやるという舞台の稽古期間は既に始まっている。稽古が始まれば出て行くのかと思っていたが、そんな事は全く無かった。
 変化はと言えば、冬沢は時々自分の家に戻るようになった。荷物を取りに行ったり置きに行ったりしているらしい。最初の二週間ほどは一応仕事以外はほとんど部屋から出なかったと言うのに。それをとやかく言うつもりは毛頭ないが、だんだんと監禁だったか軟禁だったかの体すら成さなくなっている。それでも夜になれば冬沢は千秋の部屋に帰って来て、千秋の作った料理を食べて眠る。まさか飼う権利をやるとはこういう事か。お前は猫か。最早冬沢が何をしたいのか全く分からない。
 そして何よりも千秋の頭を悩ませるのは、飼う権利をやる、などという不穏極まりない言葉と共に着けさせられたチョーカーは、冬沢が千秋の部屋にいる時は相変わらずその首に巻き付いているという事実であった。

***

 その日は舞台の稽古がいつもよりも長く掛かりそうだった。今日は家で夕飯を食べられると冬沢は言っていた。こりゃ帰ってから飯作ったら遅い夕飯になっちまう、と千秋は休憩時間を使って稽古場から冬沢に宛てたショートメールを打つ。
『悪い、今日の夕飯作れない』
 返事はすぐに来た。
『なら俺が作る』
「……は?」
 思わず声が出た。慌てて口を噤んで画面上のキーボードに指を滑らせる。
『お前料理出来んの?』
 今頃あちらも画面を見ているのだろう、すぐに既読マークが付く。返ってきたのはあまりに簡潔な返事。
『料理くらい出来る』
 いやいや。お前の不器用さは十分知ってるから聞いてんだよこっちは。
 呆れながら、いやでも、と千秋は考える。帰宅したら食卓にもう料理が並んでいるという状況を考えれば、冬沢の提案は非常に魅力的である。冬沢に料理が出来るかどうか怪しいという一点を除けばであるが。
 だが冬沢は高校三年生になってから千秋の家に押し掛けてくるまでの約三年の期間は一人暮らしをしていた筈である。その間全く自炊をしなかったとは考え難い。もしかすれば少しくらい料理の腕を振るえる程度にはなっているのかもしれない。何しろ自分の記憶にある「料理が出来ない亮」の姿は中学二年生からアップデートされていないのだ、認識を改めるべきなのかもしれない。
 そう、少しばかり楽観的に構える事に決めた千秋は、休憩の終わりの合図を聞きながら急いで九字キーに指を滑らせた。
『それじゃ、頼む』
 そうして夕飯に一抹の不安と期待を抱きつつ、しかしそれらは稽古に打ち込むうちに頭の片隅に追いやられ、いつの間にか忘れられてしまったのだった。
 そして当然の如くと言うべきか、それらを思い出したのは、いつもの習慣で稽古終わりに今日の夕飯のレシピを頭の中で組み立てようとしていた時だった。
(任せはしたけど亮のやつ本当に大丈夫かあ……?)
 帰りの満員に近い電車に乗りながら、今冷蔵庫の中に残っている筈の野菜を思い返す。キャベツ、じゃがいも、にんじん、セロリ、トマト。そう言えばもやしをまだ使っていなかったはずだし冷凍のブロッコリーも残っている。きのこは何があったか? 確かしいたけとしめじ。
 買い物をしてからそう日が経っていないせいか、極端な事を言ってしまえば適当に切って炒めるだけでそれなりのおかずは作れるだろう。それくらいならきっと亮にも出来る。出来るはずだ。そう何度も己に言い聞かせ。
「ただいまー……」
 いつの間にか当たり前になった帰宅の合図と共に部屋のドアを開ける。ふわりと、炊けた米とスープの淡く香ばしい香りが鼻をくすぐった。もうすっかり出来上がっているようだ。
「おかえり」
 キッチンから涼しい声が聞こえてくる。珍しい程に穏やかで優しい声だった。
「もう出来ている」
 キッチンを覗き込むと、どこで調達したのやらエプロンを着けた冬沢が鍋を前にしながら千秋に向けて微笑んだ。
 その笑顔も、ここに押し掛けて来てからは初めて見るような穏やかなもので。
「っ……何作ってんだ?」
「ポトフだよ。丁度いい材料も揃っていたからね」
「へえ」
 なるほど、ポトフ。少し帰りが遅くなった今日みたいな日の胃には丁度良さそうだ。
「座って待っていろ、もうすぐ食べ頃になる」
「それじゃお言葉に甘えて」
 荷物を適当に片付けて、いつもの食卓の前に座って台所に立つ冬沢をそれとなく眺める。誰かが夕飯を作っているのを食卓で待つというのは、千秋にとってはなかなか珍しい事であった。何しろ実家では平日の夕飯と休日の家事手伝い全般担当、高校卒業後は一人暮らしの自炊生活。冬沢が押し掛けてきてからも基本的に食事は千秋の担当だったのだ。だから今日の、自分以外の誰かがキッチンに立って作ってくれる食事には自然と胸が踊ってしまう。
「……出来たよ」
 冬沢の言葉に顔を上げると、冬沢は千秋の前に料理を並べていく。陶器のボウルの中には、やや大きく切られたキャベツやじゃがいも、にんじんがごろごろと入っており、その隙間を黄金色のスープが満たしていた。そしてその隣にはいつもの茶碗に入った白いご飯。
「美味そうだな」
「当然だろう」
 冬沢は得意げに薄く笑みを浮かべた。
「いただきます」
 自然と声が揃い、食事が始まる。
 まずは芯ごと茹でられたキャベツから口に運ぶ。芯にはしっかり火が通っており、スプーンだけで一口大に切り分ける事が出来た。口に運んで軽く噛むだけでキャベツの柔らかな甘味が口一杯に広がる。
 キャベツの下にはやや分厚くスライスされているエリンギ。だがそれもなかなか良い歯ごたえで、スープの味もしっかり染み込んでいる。
「美味い」
 素直に口からそう零れる。すると冬沢の表情がふわりと明るくなった。
「……レシピを見ながら作っただけだ、褒められる程の事では無い」
 そう言いながらもやはり冬沢の浮かべた得意げな笑みはそのままだ。何事も涼しい顔でこなす、あるいはそう見られることを望む冬沢と言えど、料理を褒められれば嬉しいものなのだろう。
「お前、ここに来る前はどれくらい料理してたわけ?」
「週に一回程度ならしていたよ。お前が勝手に考えているように何も作れないほどではない」
 思考を読まれていたことに、思わず背筋が伸びる。全部お見通しだよ、と言わんばかりに冬沢の笑みが深くなった。
「そっ……それじゃ、これからはお前が飯作れる時は任せたいんだけど」
「ああ、構わないとも」
 随分嬉しそうだ。人の為に何かするのが好きというわけでもないだろうに。
 冬沢の中で、何かが変わりつつあるのだろうか。いや、ここに押し掛けてきた時点で何かが変わっているのだろうが、それは未だに分からないのだ。分からないままにこの奇妙で平穏な時間だけが静かに過ぎていく。不自然なほどに、波風も立たず。
 そろそろ、何かこちらから動くべきなのかもしれない。否、動きたい。それでも千秋は冬沢を待つ事を選んだ。
 だとしても、この時間のあり方を変える方法があるとするのならば。冬沢の中にあるそのスイッチは自分が切り替えたい。
「……なあ、亮」
「どうした?」
「お前、最近よく笑うようになった……よな」
「そうか?」
 そうだよ。今だって。
「本当にオレはお前のこと『飼ってる』のか、分からなくなるくらいにはな」
 冬沢の目が僅かに細められた。千秋はあえて気にせずに、言葉を重ねる。
「……最近の亮見てると、何となく昔を思い出す。それだけだ。ごちそうさま。美味かったぜ。ちょっとやらなきゃいけない作業あるからオレは先片付けるわ」
 早口にそれだけ言って立ち上がる。台所に食器を片付けに行き、食洗機に自分の分の食器をセットだけして部屋に戻る。冬沢はまだ食卓の前に座っていた。
「……亮?」
 様子がおかしいので顔を覗き込むと、びくりと冬沢の肩が震えた。そしてその表情を見た千秋は、言葉を失った。
 冬沢の見開かれた目が泳いでいる。ほんのり頬を紅潮させ、スプーンを持ったまま固まっていた。まるで、王ではなくただの人間らしく照れているかのように。……そしてその表情は、照れという単語が相応しいのかどうかも判断しかねる、長い付き合いの中で一度も見た事のない表情で。
「……え」
 お前、なんでそんな顔。
「っ……!」
 千秋に凝視されていることに気が付いたのか、冬沢がひくりと肩を揺らした。それからすぐに氷のような目で千秋を睨み付ける。
「じろじろ見るな、食事の邪魔だ」
「……悪い」
 こういう瞬間にも、『飼う権利』とは何なのか、とは思うのだが。
 仕事用のタブレットPCを立ち上げ、ソファに腰掛けてメールのアプリを開く。冬沢は淡々と食事を終えると、食器を手に立ち上がった。
「……ごちそうさま。後の片付けは俺がやっておく」
「……おう、頼む……」
 冬沢は固く口を引き結び、それから何も言わなかった。冬沢の纏う空気は頑なで、だが迂闊に声を掛ければ簡単に壊れてしまいそうで、千秋は何も言うことが出来なかった。
 そうして交わされる言葉のひどく少ないまま、お互い風呂に入り就寝の準備を始める。今日はもう何も話さず一日終わるのでは、と千秋が思い始めた時、夜の間だけソファを囲うスクリーンの中から冬沢の声がした。
「貴史」
「……何だ」
「一つ教えてやる。俺がお前に与えた『飼う権利』というのは、恐らくお前が思っているようなものではないよ」
「……」
「明日はお前が起きる前に仕事で出る。……おやすみ」
「おやすみ……」

 そして翌日。
 夕刻に稽古から帰宅した千秋の前には、置き手紙と一月分の生活費が入った封筒だけが残され。
 冬沢は、千秋の部屋から姿を消した。

星劇作品一覧へ戻る
作品一覧ページへ戻る

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

もう少し続きます。

【ちあふゆ】ストレンジ・ワンルーム_1「居候」

「飯出来たぞ」
 野菜中心のメニューを二人分、手早く食卓代わりのローテーブルに並べていく。
 ソファの隅に腰掛けて台本を読んでいた冬沢は立ち上がると、そのまま静かにローテーブルの前に敷いてあるクッションの上に腰を下ろした。
 皿や食器を並べ終えた千秋は、その向かいの床の上に胡座をかいた。
「いただきます」
「……いただきます」
 冬沢が手を合わせる。千秋も手を合わせ、静かな食事が始まった。
 冬沢が千秋の料理の感想を直接言う事はあまりない。ただその表情を見れば、千秋には冬沢のお気に召したかどうかが分かる。千秋の作る料理は概ね好評だし、仮にお気に召さなくとも冬沢は必ず完食する。そうして千秋は冬沢の味覚の傾向を細かく把握していき、どうせなら冬沢の好きな物をと料理を作るうちに、いつしか食卓には冬沢の好みそうな物ばかり並ぶようになってしまった。今日作った豆のカレーは前日の夜から少しばかり気合いを入れて仕込んでいたのもあって自信作だ。
 それでもやはり冬沢の反応が気になるもので。だからいつものように視線だけをちらりと上げると、淡々とスプーンを口に運ぶ冬沢の白い首に巻きついた黒いチョーカーが視界に映る。それがやけに目に毒で、千秋は慌てて食べかけのカレーに視線を戻した。
 だがその白と黒のコントラストは、嫌でも冬沢がこの家に押し掛けてきた日の事を思い出させた。
 ──貴史、俺をしばらくお前の家に軟禁しろ。
 それが、ドアを開けた時の冬沢の第一声だった。
 幻聴でも聞いたのかと思った。
 千秋はしばし、玄関に立つ幼馴染を唖然として見つめる。
 だが大きなキャリーケースを手に上がり込んできた幼馴染の顔で、どうも本気で言っているらしいという事が分かる。分かってしまう。
「……お前、何言ってんの?」
 念の為聞き返す。だが冬沢は眉をひそめたかと思うと、深々と溜息を吐き出した。
「一度聞いただけでは理解出来ないのか?」
「出来てたまるか。なんだお前、急に変な趣味にでも目覚めたのか?」
 そんな訳は無いのだろう。自分の言葉に冬沢が何も言わず顔をしかめたのを見て千秋はそう悟る。だとしたら何故、と余計に困惑が募る。潔癖気味な幼馴染がそういう趣味に目覚めていたのだとしたらそれはそれで困惑したのだろうが、であれば尚更冬沢が、趣味でも何でもないと言うのに軟禁しろと荷物まで持って自分の部屋まで押し掛けてきた意味が分からないのだった。
「……とりあえず理由だけは教えろ。軟禁しろって事はつまりあれか、オレの家に住み込む気だって事だろ。荷物まで持って」
「ああ、そうなる」
「なんでだよ」
 冬沢は肩から下げていたトートバッグから一冊の台本を取り出した。
「次の舞台の台本だ」
「はあ」
「俺はこの舞台で、拉致犯に監禁される役をやる」
「はあ……」
 話が何となく読めてきた、と同時に頭が痛くなってきた。
「稽古開始までまだ日はあるんだが、それまでに監禁される感覚を体感で掴んでみたい」
「それで監禁は流石に無理があるから軟禁しろと……」
「なんだ、話が早いじゃないか」
「オレはお前の練習台って事か?」
「そういう事とも言えるが少し違うな」
「何がだよ」
「貴史」
 そして冬沢は、またトートバッグに手を突っ込んだかと思うと黒い紐状の物体を取り出すと千秋の胸にぐいと押し付けた。
「お前に俺を飼う権利をやろう」 
 冬沢が差し出してきたそれは、首輪……ファッションアイテムとしてはチョーカーと呼ばれる物だった。
 そうしておよそ二週間前、千秋は己の手で冬沢の首にチョーカーを着けた。着けさせられた。
 冬沢の白い首に掛けられた黒いチョーカーは、千秋が手を離してもなおぴったりと首に巻き付いていた。その瞬間を思い出す度に目眩がする。
 まるで自分の手で清廉な彼を汚したかのような背徳感に似た高揚と確かに感じてしまった支配欲は、心の奥に秘めておこうと思いながらも、チョーカーを見る度に嫌でも千秋を支配する。
 皿をすすぎながら、リビングにいる冬沢をちらりと見る。今はローテーブルを布巾でせっせと拭いている冬沢は、あっという間に千秋の生活の中心に居座った。
 軟禁と言えど冬沢が自主的に仕事以外でほとんど千秋の家から出ないだけで、千秋は冬沢の好きにさせている。マンションのエントランスの暗証番号も教えたし、合鍵も持たせた。同居とかルームシェアと言えば聞こえはいいのかもしれないが、千秋の住む物件は広めのワンルーム。どちらかと言えば今の冬沢は居候だ。冬沢が押し掛けてきたその日のうちに間仕切り用のスクリーンを買う羽目になった(もっとも冬沢支払いなので千秋の懐は痛まないのだが)。
 飼う権利をやる、などとえらく不穏な事を言れもしたが、さてどうすればいいのやら。何をすれば冬沢のお気に召すのか普段は手に取るように分かってしまう千秋だが、今回に限っては冬沢が何をしたいのかまるで分からない。ご丁寧に首輪まで自前で持って来るなど、いったいどういうつもりなのか。
「貴史、拭き終わった」
「お、おう……ありがとな」
 いつの間にかここまで来ていた冬沢に布巾を渡されたので、受け取りついでに少し奥にずれてやる。冬沢は流しで丁寧に手を洗うと、冬沢が住み着いてから常備するようになったペーパータオルで手を拭きながらくるりと踵を返した。そしてまた食事前と同じように、ソファの隅に小さく縮まって台本を読み始めたのだった。
 千秋は布巾を洗いながら、水音に隠れて小さな溜息を吐き出した。
 幼馴染がどういうつもりでここにいるのか、皆目見当もつかない。毎日同じ事で悩んでも、答えは出ない。いつまでいるつもりなのかと聞いてもはぐらかされるだけだ。
 そういうの一番嫌うのはお前だろ、と思ってもそれを口に出すのはどことなく躊躇われた。冬沢の考えている事は分からなかったが、何かただ事ではない心の動きが冬沢の中で起きているのであろう事だけは察する事が出来た。
 それが例の舞台起因なのかそれ以外の何かなのかは分からない。対千秋となるとほとんど無意識に無防備に聞いてもいない事を喋り始める冬沢が黙っているという事は、余程知られたくない触れられたくない何かがあるのだ。故に千秋は、黙っている事にした。その気になれば自分はいくらでも冬沢の心に土足で踏み込める。だがそれは最終手段。その時は、まだ来ていない。
 食器を全て食洗機にセットして、スイッチを入れる。シンク周りを綺麗に拭いて、ようやく食後の後片付けは終わる。ひと仕事終えた千秋は大きく伸びをしながら、冬沢と反対側のソファの端に身を投げ出した。
 大して大きくもないソファの端と端が、いつしか互いの定位置となっていた。二人の間の距離、およそ二十センチ。互いに無言でも、息苦しさも緊張感も無い。
 異常で不自然なきっかけから自然に出来たこの距離を、千秋は密かに気に入っていた。スマホで明日の予定を確認しながら横目で冬沢の様子を窺うと、真剣だがリラックスした表情で台本を捲っていた。冬沢も少しはこの距離を気に入っているのだろう。そうであればいい。
 これは元々、妹弟達が遊びに来た時の為にと、一人暮らしを始めた時に奮発して買ったソファだ。それがいつの間にか冬沢のものになりかけている。だがそれでも構わないかと思ってしまう程度には、この状況は日常になりかけていた。
 無論、いつまでもこの時間が日常であり続けるとは思っていない。それはほとんど冬沢次第だ。
 千秋に出来るのは、冬沢の出方を待つ事だけ。どれだけこちらが冬沢の存在に心掻き乱されようと、それを気にしてくれるほど冬沢は優しくも甘くもない。むしろそれを楽しんでいる風ですらある。
 そしておまけに生憎、冬沢に心掻き乱されるのは今に始まったことではなく。今回だって何度も同じように悩んで、結局いつも同じ答えに行き着くのだ。
 好きにしろ、と。
 ああそうさ。ここにいたいなら、いればいいだろ。ここにいる本当の理由を言いたくないなら、言いたくなる時まで待ってやる。こっちは辛抱強さには自信があるんだ、どっかの誰かさんのせいでな。

 ……その代わり、理由も言わずにここを出て行けるとは思うなよ。

 体の奥底から仄暗い何かがじわりと滲むものだから、千秋は天井を仰いで静かに目を閉じたのだった。
 
星劇作品一覧へ戻る
作品一覧ページへ戻る

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

多分続きます。

【ちあふゆ】君を待つ

 この音を覚えてしまったのは、いつの頃だっただろうか。
 階下十メートルとヘッドホンから小さな音で流れる映画の劇伴を越えて窓の外から室内に届いたバイクのエンジン音に、ゆっくりと目を開ける。
 あいつの愛車のエンジン音だ。プレーヤーを止めてヘッドホンを外すと、世界の音が一つ無くなった。代わりにバイクのエンジン音に耳を傾ける。だがエンジン音はすぐに消えていった。
 さて動くべきか、とソファに深く身を預けたまま考える。先に寝てろよ、などとあいつが言い出して来るのはいつもの事で普段は──そちらの方が合理的だからと──その通りにしているのだが、今日は何となく先に寝室に行く気にならず。間接照明だけを頼りに壁に架かった時計を見ると、とうに日付は変わっていた。
 ……元よりあいつの言う事など大人しく聞いてやる義理はない。だが俺がここにいる事であいつの驚く顔を見る事が出来るなら、それは少し楽しみかもしれない。普段はしない事をしているのだ、それくらいの期待は当然だろう。
 よく耳をすませば、やがてあいつの足音が微かに聞こえて来る。恋人の帰りを眠らずに待ち侘びるだなんて、俺も随分殊勝になったものだ。誰のせいでこうなったのやら。
 静かなドアの解錠音。小さな小さな、ただいまの声。なるべく足音を立てまいとする、ゆっくりとしたすり足の音。真っ直ぐに、ここまでやって来る。
「お帰り」
 リビングのドアが開くと同時に言ってやれば、貴史はドアに手を掛けたまま動きを止めた。
 ……ああ、やっぱり。俺の期待通りの顔だ。

星劇作品一覧へ戻る
作品一覧ページへ戻る

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

貴史がバイク乗れるの、なんか……いいな……と思いました。

【通販開始しました】スタステ7延期によるちあふゆ小説本通販のお知らせ

本を出そうとしたらイベントが延期になりました。仕方ない。

一先ず新刊はこの通り完成しております。


144Pあるので、そこそこの厚さです。

直接頒布の場が無くなってしまいましたので、BOOTHによる通販を予定しています。
仕様:A6文庫版/144P/900円
受付開始は4月中旬(イベント予定日までにはなんとか間に合わせたいです)、発送は4月下旬を予定していますが、今後の状況によっては多少前後すると思われます。
受付開始しましたら当サイト・Twitter・pixivにてお知らせします。

(4/12追記)
BOOTHにて通販を開始しました!!
(リンク先BOOTH)
おまけとして注意書き付きSS栞(名刺サイズ)が付いてきます。紙がとても可愛い栞です。
ご縁がありましたらお手に取っていただけますと幸いです。

収録作品リストは次ページに掲載しています。
また、pixiv版サンプルはこちら
pixivリンク

【200111】transparent masquerade(ちあふゆ)

 信号が青に切り替わる。
 駅前のスクランブル交差点に人が一斉にわっと溢れかえるので、隣に立つ冬沢の手を引いて千秋も歩き出す。おい、と抗議の声が聞こえたような気がしたが、人混みに掻き消されて気付かなかったということにさせてもらう。
 だが人の群れを掻き分けて交差点の反対側に辿り着くと、睨まれながら手を解かれてしまった。
「やめろ、人前で」
「別にいーだろ、どうせ誰も見ちゃいねえよ」
「そういう問題ではない」
 そんな事を言う冬沢の耳が少し赤いのがなんだか愛しい。寒いだけと言われたらそうなのかもしれないが。
 冬沢はすたすたと先に行ってしまう。千秋は苦笑しながらその後を追いかけた。
 明日の朝から買い物に付き合って欲しい、と昨日の放課後に急に言われ、承諾した所本当に今日こうして買い物に付き合わされる事になった。明日お前の誕生日だよな、とは何となく聞くに聞けなかった。
 だが事実、今日は冬沢の誕生日なのだ。あちらはそれに気付いているのかいないのか、そんな素振りは見せない。鞄の中に入っているプレゼントを渡すのは最後でいいかなんて思いながら、千秋は冬沢について歩くのだった。それに誕生日デートみたいだよな、などと言えば、何を言っているんだお前は、という顔をされているのが目に見えている。
「つーか買い物なら初売りのタイミングで来ればいいだろ」
「年始は人が多すぎるんでね」
 初売りの壮絶な混雑の店の中を歩くのはどうにもこの神経質な潔癖症には耐えられないらしい。繁華街の人混みを歩くのも好きではない筈だが、今日の冬沢は随分機嫌がいいように見受けられる。
 千秋一人を連れて町中を歩く冬沢の姿はどこか、お忍びで町に飛び出した王女のように見えなくもない。
 アイツがヘプバーンに見えてるのはちょっと惚れた弱みが過ぎるか、と、いけ好かない幼馴染をいつの間にやらそんな可愛らしい人としても見るようになっていた自分に苦笑いしてしまう。
「どこ行くんだ?」
「いいから着いて来い」
 ……とは言え、行先も告げられず連れ回されているような状態なので、もしかしたら荷物持ち扱いなのではという疑惑はなかなか消えないのであった。
 まあ、荷物持ち扱いでも数ヶ月前と比べれば大した進歩だ。
「お前、何買いたいとかちゃんとあんのかよ」
「買いたいものくらいはあるさ、そうでなければ買い物なんてしない」
「よく着るようなもんならちゃんとお前でも洗濯機で洗える物にしとけよ、洗濯機でニット洗って駄目にした事のある冬沢亮君」
「その話をいちいち蒸し返すな」
 口ではそう言いながらもその表情は随分と穏やかだ。千秋が冬沢の半歩後ろを歩くうちに到着したのは、最近オープンしたばかりの百貨店だった。
 エスカレーターに乗るための列が出来ているような混雑ぶりに千秋は思わずたじろぐ。冬沢も一瞬だけ顔を顰めたが、すぐに人混みを掻き分けるように進み始めた。
 その姿を見失わないように気を付けながら慌ててその後を追う。お互い身長が高い方とはいえ、人が多いとはぐれてしまいかねない。
 エスカレーターに乗り、メンズファッションのフロアに到着すると、少しばかり人混みは緩和される。エスカレーターから降りて数歩歩いた所で冬沢が立ち止まった。きょろきょろとフロアを見渡してから、また歩き出す。
 冬沢はカジュアル系ながら品のいい店構えのショップに足を踏み入れる。店頭のマネキンの服を見ながら、あいつ私服の傾向は昔から大して変わってねえよな、などと千秋は思う。とは言えお互い小中高と通して制服で、児童劇団でもレッスン用のTシャツとジャージが多かったものだったから、私服の記憶はそれほど多くない。
「……貴史、これどう思う」
 冬沢が手に取っているのは、ワインレッドのジャケットだった。ハンガーに吊るしたまま、自分の体の前に当てている。
「お前そういう色選ぶんだな……」
 冬沢は私服にしろ小物にしろ、寒色を好みがちだ。それは昔から変わらずなので、少し意外に思う。だが彩度を抑えた赤は自分が好きな色なので、冬沢が自分の色に染まっているような錯覚を覚えてくらりと視界が揺れる。だがそんな下心はどうにか隠して、素直な感想を述べる。
「いいんじゃね?でも襟の形がな……お前が着るならもう少し襟が細い方が……大きすぎない方が似合うんじゃねえの」
「なるほど……」
 冬沢はジャケットをひとしきり眺めた後、売り場に戻す。
「よし、次だ」
「は?もういいのかよ」
「俺が次と言ったら次だ」
 冬沢がすたすたと店を出て行くので、千秋は慌てて追い掛ける。
 亮の奴、ジャケットが欲しいのか……?ジャケットの出番にはまだちょっと早くねえか。千秋はそう思いながら冬沢を追い掛ける。
 次に入った店も、いわゆるキレイめカジュアル系。冬沢は店内を歩き回り、やがてニットのコーナーに目を止めた。畳んで置いてあるニットを手に取り、眺めている。
 千秋はそのニットの色を眺める。臙脂色。
「……なあ、亮」
「どうした?」
「赤い服が欲しいのか?」
「その通りだが。何か問題でも?」
「いや、別に……」
 自意識過剰と言われればそれまでだが。赤い服を求めてのショッピングに自分を連れ回すとはどういうつもりなのか。
「で、これはどうだと思う?」
「……悪くねえけど。袖の白いラインが微妙。お前にはもっとシンプルな方が似合う」
「そうか……」
 冬沢はしばしニットを眺め、また畳んで売り場に戻そうとする。オレがやるから、と千秋は冬沢からニットを受け取って綺麗に畳んで売り場に戻してやった。
 その後も冬沢は何着か赤い服を手に取り、何軒か店を覗いた。そしてその度に千秋に意見を求めて来る。ジャケット、ニット、マフラー、スウェット、パンツ、コート。赤ならなんでも良いのかと思ってしまう。冬沢が手に取るのはいずれも鮮やかすぎない落ち着いた赤だが、赤は赤だ。
 やがて、百貨店内の全てのメンズファッションのショップを見終えた冬沢はこう呟いたのだった。
「……ここにはないな」
「そうか……」
 ここまで来て冬沢はまだ何も買っていなかった。
 約二時間、広いフロアを歩き回り、エスカレーターで上へ下へ移動して。千秋としてはそろそろ休憩したい所であった。
「なあ亮、もしかして別のとこ行く?」
 千秋が尋ねると、冬沢はこくりと頷いた。
「そのつもりだ」
 案の定。これは冬沢が納得するまでショッピングが終わらないだろう。
「じゃあどっかで休憩しようぜ……そろそろ昼飯の時間だろ」
 言われた冬沢は腕時計をみる。そしてようやく現時刻に気付いたようだった。
「……ああ。そうだな。何を食べたい?」
 その言葉に千秋は面食らう。この偏食の、食べられない物の方が多いような幼馴染から店の希望を聞かれるなど。
「おいおい、食えないもん多いお前に合わせた方がいいに決まってんだろ」
「俺がお前に求めているのはそのような意見ではない。お前が何を食べたいか、あるいはどの店に入りたいのかを聞いている」
 冬沢の言葉に、千秋はあんぐりと口を開けそうになった。
 あの亮が。オレに譲っている。言い方はだいぶ居丈高だが、間違いなく譲っているのだ。空から槍でも降るのか。
「……じゃあ。イタリアンとか……?」
「それならこの近くに美味しい店がある」
「あ、ああ……そこでいいぜ」
 冬沢が知っている店ならば冬沢が食べられる料理が出てくるという事だろう。今日の冬沢にはどうにも調子を狂わされているものだから、冬沢から店の提案があった事に密かに安堵する千秋であった。
 百貨店を出て五分ほど歩いた所に、冬沢の言うイタリア料理店はあった。表通りからやや外れた場所にある為か、土曜日の昼時だというのに店内に人は少ない。
 自然光が柔らかく照らす店内は白を基調とし、クラシックが流れている。なるほど冬沢の好きそうな上品な雰囲気の店である。
 冬沢はジェノベーゼ、千秋はミートソースのパスタのランチセットを注文して料理が出てくるのをしばし待つ。
 聞くなら今だろうか、と少し迷ってから千秋は口を開いた。
「……どうしたんだよ、今日は」
「何がだ?」
 セットのドリンクとグリーンサラダが運ばれてきた。冬沢はアイスティー、千秋はジンジャーエール。
「急にオレを買い物に誘った事だよ。しかも目当ての物は赤い服だけらしいと来た、荷物持ちでもないならなんでオレを連れてくんだよ」
「……なんだ、そんな事か」
 そんな事って。オレには結構一大事だぞ。
 自分と冬沢の間の気持ちの温度差を思い知らされたような気がして黙り込む千秋を見て、冬沢はくすりと笑う。毒と砂糖をスプーン一杯ずつ混ぜたかのような、最近の冬沢がよく見せる笑顔。
「俺はお前の見る目を買っているんだけどね」
「は?」
「お前はいつでも俺を見ているつもりなんだろう?それなら俺に似合う服くらい分かるはずだ。自分では意外と分からないものだからね」
「……」
 何だそりゃ。唖然とする千秋を見て、冬沢は笑いながらストローを咥えてアイスティーを一口吸う。ストローから口を離した時の僅かに開いた唇がやけに艶やかに見えた。
「俺が着る服を選ぶのなら、俺の事を一番よく見ている人間を連れて行った方が俺に似合う服が分かる。合理的じゃないか。それに……自分が選んだ服を着た俺を見て慌てふためく貴史を見たいんだよ、俺は」
 その言葉は、その笑顔は、いとも簡単に千秋を捕らえる。捕らえて、甘い毒針を突き刺してくる。その毒はあっという間に全身を巡り、たった一つの事実を千秋に突き付ける。
 敵わない。
「……じゃあ、亮」
「うん?」
「オレがお前の為に選んだのがどんな変な服でも着るのかよ、お前は」
「お前が俺に似合うと判断する服が碌でもない物な訳が無いだろう」
 悪足掻きのつもりで放った石は追い討ちの毒針であっさり砕かれた。
 冬沢の目は遠回しにこう言っていた。そんな事お前に出来る訳がない、と。
 侮りとも信頼とも区別の付かない冬沢のそれは、間違いなく「甘え」と呼ばれる物で。
「……ノーセンス……」
 どっと体から力が抜ける。思わず呻くと、冬沢は笑みを深めた。
「ノーセンスで結構」
 お互いサラダにほとんど手を付けないままに、パスタが運ばれて来る。冬沢はカトラリーに手を伸ばした。
「次行くつもりの所は店の数も多い。今の内にしっかり休んでおく事だな」
「それはお前もだろ……今日見付からなかったらどうする気だ?」
「そうなったら来週、別の場所だな。貴重な三連休だ、明日明後日は家族と過ごしたいだろう?」
「来週もオレを連れ回す事前提かよ……」
 千秋の事情をまるで斟酌するつもりのない冬沢に呆れてしまうが、悪い気はしないので自分も手遅れと言うよりほか無い、と千秋は深く溜息をついた。
「嫌なら適当に切り上げてもいいんだけどね?お前には出来ないだろう」
「ああそうだよ出来ねえよ、手が掛かる自覚があるみたいで安心したぜ」
 仕方が無いと腹を括りながら、千秋もカトラリーに手を伸ばした。
 こうなったらお前に一番似合う服を何がなんでも見つけてやる。そっちがそれをお望みならオレもそうさせてもらうからな。
 自分の選んだ赤い服を見に纏った幼馴染の姿を見た時どんな心地がするのだろう、とサラダを口に運びながら千秋は考える。
 最初の店で赤いジャケットを体の前に当てている冬沢を見ただけで立ちくらみを起こすかと思った程度には、その後の店でも込み上げるものを必死で抑えていた程度には、千秋は赤い服を着た冬沢に弱い。それはもうこの二時間程で思い知っていた。そして、冬沢が千秋が赤い服を着た己に弱いだろうと考えて千秋を連れ回す事にしたのではないかとも、薄々考え始めていた。
 千秋の好意に気付いたら気付いたでそれを手玉に取ってくるのがこの冬沢亮という男だ。小悪魔なんて可愛い物じゃない、それこそ悪魔のような笑顔を浮かべながら、試すようにくるくると千秋を弄ぶ。
 尤も、それで大人しく遊ばれ続けてやるほど千秋も受け身な訳ではなく、スクランブル交差点で手を引いた時のように、僅かな反撃のチャンスは常に窺っているのだが。互いに対する負けず嫌いはそう簡単に変わるものでは無い。
「……なんでそんなに赤い服欲しいんだよお前。それも俺を連れ回してまで絶対に自分に合うやつが欲しいとか」
 お互いのパスタが残り半分程になった頃に千秋が呟くと、冬沢は「そんなの」と笑う。
「自分の誕生日くらい、ずっと欲しかった物を手に入れても罰は当たらないだろう?」
「……それ答えになってなくねえか?」
「いいや、これが俺の答えだ」
「……ずっと欲しかったのか?赤い服が?」
「そういう事にしておいてやる」
 相変わらず掌の上で弄ばれているような気がして、冬沢の優等生らしいどこか得意気な笑みが面白くない。
 だがその代わり、今日の終わりに鞄の中のプレゼントを渡した時どんな顔をするのかもまた楽しみになってくるもので。この優等生の仮面が剥がれ落ちた時の幼馴染の無防備な表情がどれほど愛しいか、千秋は既に知っている。その仮面は滅多に剥がれないからこそ、剥がれる数少ない瞬間は自分の手による物であって欲しい。そんなささやかな強欲はなかなか消えるものでは無い。
 今日のプレゼントで仮面を剥せるかどうかは、五分五分といったところだが。赤い物にしなくて良かった、とは密かに思っている。
「……まあ、オレからのプレゼントなら用意してあるから。今日の最後に渡す」
「へえ、それは楽しみだな」
 冬沢は変わらず笑顔を浮かべている。その目が一瞬だけ輝いたのはどうか気の所為であって欲しくない。そう思いながら千秋は笑う。
「おう、楽しみにしとけ」

 互いに少しずれた思いを抱えたまま、そのずれがどこに行き着くのかは分からぬまま、二人は本心を隠して笑い合う。それでもこの穏やかな時間と、どこか優しい駆け引きの僅かな緊張感はなかなかどうして心地好く。
 今日が終わる頃には目の前の笑顔はどう変化しているのか。それを少しだけ楽しみにしているのはお互い様で。そして願わくば、その笑顔は心からのものであって欲しい。決して言葉に出さないその思いだけは、同じなのだった。
 それを言葉にして伝えられるようになるのは、もう少し先の話。

星劇作品一覧へ戻る
作品一覧ページへ戻る

≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡

付き合っているんだかいないんだかよく分からない距離感っていいなあと思いました。